[映画]  ノー・マンズ・ランド No Man’s Land (2001年)

ノー・マンズ・ランド (無人地帯)とは、戦時に敵味方両軍が対峙して膠着状態にある地域のことで、そこは原則として無人地帯として保たれていなくてはならない。この映画の舞台は1992年から1995年まで続いたボスニア戦争のいつか、敵対するセルビア軍とボスニア軍の間に位置するノー・マンズ・ランドの塹壕に迷い込んでセルビア軍に銃撃された二人のボスニア兵士、それを斥候に行った一人のセルビア兵士、重傷を負ったこの三人を助けようとする国連軍のフランス人軍曹マルシャン、その軍曹を助ける爆弾専門の国連軍のドイツ人軍人、現場をスクープしようとする英国人の女性レポーター、リヴィングストンの半日を描いている。

新米のセルビア兵士ニノは上官から、もう一人の老兵と共に無人地帯に侵入したらしいボスニア兵士たちの様子を見に行けという危険な業務を任されるが、その上官は安全な場所にこもったままだ。老兵は無人地帯に倒れているボスニア兵士のツェラが死んでいると思い、彼の体の下に地雷をくっつける。もし仲間のボスニア兵士が彼の体を持ち上げると地雷が爆発するようになっている。しかし老兵は、負傷しながらも密かに隠れていたもう一人のボスニア兵チキに殺されてしまう。地雷のために動けないツェラ、負傷したチキとニノの三人は塹壕の中で生存のための彼らなりの戦いを開始せざるを得なくなる。

チキとニノは戦争では敵同士ではあるが、同じ言葉を話し、平和時は同じ町に住み、なんと共通の知人までいることがわかる。その共通の知人の女性のことを話す時の二人は思わず顔をほころばせる。何とか相手をやっつけて塹壕から逃げ出そうとする二人だが、相手が困っている時は思わず優しい思いやりをみせてしまったりするのだ。

この映画はボスニア戦争の背景を描こうとしているのではなく、具体的で典型的な個人たちを描くことにより、ボスニア戦争だけではなく、戦争とはどういうものかという本質を抽象的に描こうとしている。塹壕で最初は、チキはセルビア側が、ニノはボスニア側がこの戦争を始めたと思い、相手を責めているが、段々二人とも一体何のために自分たちがここにいて、誰がこの戦争を始め、何のために自分が命令に従わなければならないのかという疑問を持ち始める。マルシャン軍曹は、国連軍の中立を守るという立場は何もしないことではなく、負傷兵を可能な限り助けなくてはならないという使命に燃えているが、遠隔で安全な地から命令を下している上官は面倒に巻き込まれたくないと人ごとのようである。リヴィングストン記者は、何が戦場で起こっているかを世界に知らせるのが自分の報道人としての使命だと思うと共に、誰もがスクープしない現状をスクープしてやるんだという野心に燃えて、危険を覚悟で塹壕に近づいて行く。彼女の映像を英国で受け取っているテレビ局の同僚達は「もっとおいしい映像を送ってくれ。」と彼女に注文するのだが、実際の塹壕での生死を賭けたチキとニノの戦いの映像を見ると、凍り付いてしまうのだった。リヴィングストンたちの映像が世界の聴衆の目に公になると、国連軍もそのダメージコントロールをせざるを得なくなる。やはりそのポリティックスの犠牲になるのは現場の兵士たちだ。自分の上官が嘘をついて去っていくのを、マルシャン軍曹は悲しく見つめる。

この映画は立場の違うチキ、ニノ、ツェラ、マルシャン軍曹とリヴィングストン記者を同じ距離で、誰に対しても聴衆が共感を描けるように描いている。ボスニアとセルビアのどちらが悪者なのかなどは問題ではない。敵対する陣営の兵士が、そして中立の国連軍とジャーナリストがお互いに理解しようという一瞬が次々に現れては消えていく。それは映画を見ている人間に「戦いをやめて、皆無事に家に帰って!!!」と祈らせるのに十分だ。そういう聴衆の祈りに対して、この映画の結論はあまりにも残酷であり悲しい。しかし、ボスニア戦争の現実は安易なハッピーエンドは許さない。安易なハッピーエンドは却って戦争に従事した兵士、死んだ人々を弔うことにはならないだろう。この悲しい結末を見ることにより、聴衆はもっと平和を深く願うことになるに違いない。この映画にはそれだけの力があるのだ。

English→

One thought on “[映画]  ノー・マンズ・ランド No Man’s Land (2001年)

  1. Pingback: [映画]  血と蜂蜜の国で In the land of blood and honey (2011年) 日本未公開 | 人と映画のタペストリー

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *