[映画] 武器よさらば A Farewell to Arms (1957年) 

ヘミングウェーイが、第一次世界大戦の1917年に赤十字のボランティアとして、イタリアに赴いた若き日の自分の経験を基にして1929年に出版した小説を、ハリウッドが2度映画化している。最初は1932年にゲイリー・クーパー主演で、そして戦後のハリウッドの隆盛の中での華々しいリメークは1957年ロック・ハドソンが主役を演じている。

イタリアは第二次世界大戦ではドイツと組んだが、第一次世界大戦では連合国側の一員としてフランス、英国、ロシア、米国と組んで、オーストリア、ドイツ、トルコの枢機国側と戦った。ヘミングウェーイを投影する主人公ヘンリーはイタリア軍の負傷者を戦場から病院へ運搬する救急車の運転手を務めるアメリカ軍兵士である。ドイツとオーストリア軍は軍事的には優位でありイタリアは常に枢機国軍からの脅威にさらされるが、それは「ドイツがひたすら軍備増強をはかっていた間にイタリアは民主主義の建設に専心していたから」であり、共和制と民主主義を誇りを持って守ろうとするイタリア人をヘミングウェーイは、この『武器よさらば』の中で好意的に描いている。しかし時間の経過と共に、第二次世界大戦前夜にドイツと組んでファシスト国家への道を走り続けたイタリア。イタリアをずっと見守っていたヘミングウェーイに取って、「あのイタリアはどこへ行ってしまったのだろう?」という思いが後に湧いてきたのではないか?ムッソリーニが大変人気があった第一次世界大戦後でも、ヘミングウェーイはムッソリーニを警戒していたという。イタリア警察軍が、スパイ容疑をかけられた同胞のイタリア人を緊急尋問し、弁護も許さず次々と容疑者を射殺していく。主人公は命からがらそこから脱出し脱走兵になるのだが、その尋問のシーンはイタリアが後どのような道を辿って第二次世界大戦に突入したかを象徴している。

1957年のリメークの映画に話を戻そう。ロック・ハドソンはなんとなくロンドン・オリンピックの金メダル水泳選手のライアン・ロクテに似ていて「プリティー・フェイス」という感じだが、ヘミングウェーイの知性とか荒削りのたくましさは出せていない。負傷した彼を看護して恋に落ちる看護婦を演じるジェニファー・ジョーンズはエリザベス・テーラーとオードリー・ヘップバーンを足して2で割って間延びをさせたような顔つきだが、エリザベス・テーラーのような鋭い目の力もないし、オードリー・ヘップバーンのような可憐な初々しさもない。ジェニファー・ジョーンズはこのキャラクターを演じるのに、よく言えば色っぽすぎるというか、正直いって清潔感がない。またオンスクリーンでは「狂ったように恋をする」はずの二人だが全く二人の間にはスクリーンでのスパークがないので、二人の戦場での恋にもドキドキという感動は湧いてこない。

傷病兵が山積みになるはずの病院の大部屋には、いつまでたっても主人公ひとりががらんとした大部屋に横たわっているだけで、「他の傷病兵はどうしたの?」と聞きたくなるし、たくさんの病人の世話で忙しいはずの看護婦も一日中イタリアの町を駆け回って主人公が好きなアメリカ食を探し回るというていたらく。主人公は誰も邪魔しない専用(に見える!!!)病室でひたすら「♪ふ~たり~のために~、せ~かいはあるの~♪」というが如く愛を育て、それに気づいた婦長に「そんなことができるくらい元気なら戦場に戻りなさい!!!」と命令される始末である。この婦長は二人の愛を妨げる超悪役なはずなのだが、彼女がまともな人間に見えるほど、二人はだらしない。戦争がどうなっているかは全くお構いなく、世界が都合よく自分の周りを回っているという感じで映画は終わってしまう。

ヘミングウェーイは自分の映画がハリウッドで映画化されるたびに、自分の小説の中の政治的なテーマは骨抜きにされ、単なる恋愛物語にされてしまうことに失望していたと伝えられているが、彼の怒りは全くもっともだと思わされるような映画であった。ハリウッドの聴衆者たちも馬鹿ではない。驚くほどの予算をかけて現地のロケもいれて作成した豪華絢爛なリメークであるが、興行的には失敗で、多数のアカデミー賞部門にノミネートされた1932年の映画に比べて評価も全く低かったという。この映画は当時大女優だったジェニファー・ジョーンズが恋人のチャールズ・ヴィダー監督に「あ~たしも、武器よさらば、やってみたい。」とお願いして自分主演で作らせた映画だそうだ。ヘミングウェーイがこの映画を見たかどうか、見てもどう思ったのかわからないが、何となく彼が気の毒になるような映画であった。

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