[映画]  ミッシング Missing (1982年)

この映画は1973年、チリの軍事クーデター直後の混乱の中で失踪したアメリカ人ジャーナリスト チャールズ・ホーマンの行方を追う父と妻が、チャールズはクーデターの背後にあったCIAの係わりを知ったために処刑されたのではないかという結論に至るまでの数日間の首都サンチエゴでの捜索を描いている。

チャールズ・ホーマンは実在の人物で、1942年生まれなので、1946年生まれのクリントン大統領やブッシュ大統領(息子)とほぼ同世代である。この世代はアメリカの団塊の世代として、ベトナム反戦運動やヒッピー運動に深く影響を受けた世代である。映画では、チャールズ・ホーマンは好奇心は強いがちょっと軽はずみな児童文学作家として描かれているが、実際のチャールズ・ホーマンはハーバード大学を卒業後、しっかりとジャーナリズムの訓練を受けたライターであった。この映画はトム・ホーサーがチャールズ・ホーマンの死を調査して1978年に出版した本を基にしている。

米ソ対立による世界的冷戦の中、チリでは長い間、伝統的保守層や軍部の右翼と人民戦線系の左翼が対立を続け、社会不安が続いていた。軍部の中でもチリ陸軍司令官のレネ・シュナイダーは進歩派であり議会制度による民主主義を掲げていたが、1970年にそのシュナイダーは反シュナイダー派の軍部により暗殺された。彼の暗殺によって国民の軍部に対する怒りが爆発し、左翼と右翼の間で浮動票となっていた人々が左翼に投票することを選んだので、人民戦線系サルバドール・アジェンデが大統領に当選し、チリ史上初の自由選挙による社会党政権が成立した。

アメリカはこの社会党政権に大きな脅威を抱き、CIAもアジェンデ政権を打倒する姿勢を見せ、合衆国などの西側諸国は経済封鎖を発動、彼らはチリ国内の反共的である富裕層の反政府ストライキも援助した。またアジェンデ政権の急激な農地改革や国営化政策により、インフレが進行し、物資が困窮し、社会は混乱した。しかしアジェンデ政権はこれらの混乱は反対派の陰謀であると説き国民の団結を図ることに成功し、1973年の総選挙で、人民連合は更に得票率を伸ばした。

1973年9月11日に、アウグスト・ピノチェト将軍が陸海空軍と警察軍を率いて大統領官邸を襲撃した。アジェンデ大統領はクーデター軍と大統領警備隊の間で砲弾が飛び交う中、最後のラジオ演説を行なった後、自殺した。これがチリ・クーデターである。チリ・クーデターの結果、クーデターの首謀者であったピノチェト将軍が大統領に就任し、チリはピノチェト大統領による軍事独裁下に置かれることになった。その後16年の長きに亘る軍事政権下で、数千人から数万人の反体制派の市民が投獄・処刑された。

1973年 クーデターが起こった時、チャールズ・ホーマンはたまたま美しい保養地のビニャ・デル・マールに滞在していたが、そこでは実は密かにクーデターの計画がなされていた。ビニャ・デル・マールでチャールズ・ホーマンが誰とコンタクトをし、何を知ったのかは不明だが、9月17日、彼は突然クーデター派のチリ軍部に逮捕され、首都サンチアゴの国立競技場に拉致された。クーデター後、競技場は臨時の刑務所として使用されていたのだ。彼はそこで拷問を受け、処刑されたと伝えられる。アメリカ人なのに彼が反クーデターの犯罪者として処刑されるには、CIAの隠れた同意があったはずだというのが、この映画の主張である。彼の死体を競技場の壁に埋めたと主張するチリ当局に対して、ホーマンの家族は死体引渡しを求めた。実際に死体が米国の妻のもとに届けられたのは6ヶ月後で、その時は死体の腐敗が激しく、本人と判断するのが不可能だったいう。ホーマンの妻は後にDNA鑑定を依頼し、その死体がホーマンのものではなかったことを知った。

ホワイトハウスは、社会主義の脅威から南米を守る砦としてピノチェト将軍を支持していたが、1989年の ベルリンの壁の崩壊冷戦が終わった時点で、反人権的独裁国家を支持する理由がもうないと判断し、最終的には米国は1990年にピノチェトの軍政を切り捨てる方向に移った。

チャールズ・ホーマンの誘拐と処刑はニクソンが大統領であった時に起こっている。その後ホワイトハウスは一貫して、CIAのチリクーデター介入を否定してきたが、クリントン政権は隠された秘密公文書を調査し、1999年に初めてCIAがチリのクーデタに参与していたことを認め、証拠文書を公開した。チャールズ・ホーマンの死についてもクリントン下の政府関係者は「非常に残念なことだ」と述べ、駐チリアメリカ大使館がクーデター後の大混乱の中、アメリカ市民を守ろうと全力を尽くしたのは事実だが、ホーマンに関してはその必死の努力が及ばなかった可能性があることを示唆している。

チャールズ・ホーマンの未亡人、ジョイス・ホーマンは2001年にチリの法廷にアウグスト・ピノチェトに対して夫の殺人の罪で訴訟を起こした。その裁判の調査過程で、チャールズ・ホーマンはチリの民主制を追及し、軍部の反対派に暗殺された進歩派軍人レネ・シュナイダーの生涯を調査していたことがわかり、レネ・シュナイダーを暗殺したアウグスト・ピノチェト派にそれを嫌われ殺害された可能性が示唆された。2011年にチリ政府は退役海軍軍人レイ・デイビスをチャールズ・ホーマンに対する殺人罪の判決を下した。

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