[映画] アジャミ Ajami (2009年)

アジャミは、イスラエル一の大都市テル・アビブの南に隣接する町で、ここにはアラブ人が多数居住しており、ドラッグや暴力を含めた犯罪率の高い地域でもある。この映画は、アジャミのレストランで働く3人の若いイスラム教徒のアラブ人の従業員と、キリスト教アラブ人のコミュニティー実力者、1人のイスラエル人の警察官を中心に、彼が織り成す事件をそれぞれの観点から描いている。だから、同じ出来事を描いても、一人一人の見方でその事件が違って見える。

19歳のオマーは、叔父がベドウィンギャングと抗争したため、そのギャングから報復を誓われ弟のナスリと共に命を狙われることになる。勤めているレストランのボスの友人で、アジャミの町の有力者アブ・エリアスに依頼してベドウィンの法廷に抗争の調停を依頼するが、高額な調停金(日本円で500~1000万円くらい)を請求されてしまい、それが払えなければ殺されてしまうという怖れにおののく。

16歳のマレックはイスラエルに隣接するパレスチナ自治区西岸の人間だが、国境を越え不法労働者として密かにそのレストランで働き、そこで寝泊りしている。母の癌治療のために700万円ほどの経費が必要となった。アブ・エリアスは彼を可愛がっており、その一部は喜んで出費すると言ってくれたが、残りの費用をどうして探そうかと悩んでいる。

20代のビジは面倒見がよく明るいコックだが、弟がユダヤ人の市民を殺害して逃亡した後、非合法のドラッグを残していったので、その処理に頭を悩ませている。警察の家宅捜査を何とか切り抜けた後、ビジは殆どのドラッグを捨て、ドラッグの入っていた袋に小麦粉を入れてドラッグに見せかけた。しかし彼は僅かに残ったドラッグを吸引した結果、オーバードースのために死亡してしまう。

イスラエル人警察官ダンドは行方不明になっていた弟が死体で発見され、弟はアラブ人に殺害されたのだと疑っている。

アブ・エリアスはアラブ人の中でも少数派のクリスチャンである。彼は、自分が窮地を救ってあげたオマーが自分の娘と恋仲になったのに怒りを感じている。宗教の違う男女の恋愛は許されないからだ。

マレックとオマーはビジのアパートで見つけた白い粉がドラッグだと思いドラッグ・ディーラーに売りに行くが、実はこのドラッグ・ディーラーはイスラエルの警察のおとり捜査官であり、ダンドも背後で現場を見張っていた。彼はマレックが弟の遺品らしき高級懐中時計を持っているのに気づき逆上する。

その後に何が起こったのかはそれぞれの見方によって全く違ってくる。また、マレックとオマーは、なぜビジは死んで、誰に殺されたのかというのも、事実と相異することを信じており、それが悲劇に繋がって行く。

この映画はパレスチナ人とその社会の苦悩を描いているが、彼らはイスラエルの領域の中でその市民として生きているので、西岸地区のパレスチナ自治区に住むパレスチナ人とは異なる問題がある。その点をこの映画はユニークに描いていると思う。

私は人間として幸せに生きていくのに必要なことが三つあると思う。一つは家族の愛、もう一つは友人(社会的なサポート)そして第三は仕事(経済力)である。

この映画に登場してくる家族は皆それなりに愛情に満ちている。完璧ではないが、それぞれの親は何があっても子供を守ろうとしているし、子供も親を大切にすることが最大の価値だと思っている。その感情愛情は人間に普遍のものであろうが、アラブ人にとっては『家』がそれこそ一つの単位になっている。一家の中で1人犯罪や過ちを犯すとそれは家族全体の罪になる。また母親は家の中では強く愛情深いが、社会の主流となっている男社会で何が起こっているかがわからないので、大事が起こっても処理ができず、すべての難しい決断はティーンエージャーの男であるマレックやオマーに『家長』として押しかかってくるのである。

社会的サポートとは友情、コミュニティーのサポート、ひいては国家権力の保護という問題になる。西岸地区のようなパレスチナ自治領に住んでいるパレスチナ人は、パレスチナ人の同胞に囲まれ、政情不安定であっても一応自分たちを守ってくれるパレスチナという国家が背後にある。しかし、アジャミに住むパレスチナ人は自分たちが住んでいるイスラエル国家を頼ることができない。しかし、同じアラブ人同士といっても、自分たちの命をねらうギャングたちもいる。イスラエルの警察はそんなアラブ人同士の争いには干渉しないので、コミュニティーの中での解決を自分で捜さねばならぬが、それは容易なことではない。そんな彼らにとって、親戚や友人がいなければ、パレスチナの西岸地区に逃げて行くというのは選択肢ではないだろう。パレスチナ人だというだけで他に何の共通点のない人間は、友人にはなれない。アジャミで暮らすパレスチナ人にとっては、自分たちの親戚とそこで築き上げてきた友人たちだけが本当のサポート組織なのだ。

家族と友人に恵まれていても、それだけでは生きられない。生きていくためには食べて行くために何らかの職業が必要だ。アラブ人であっても、イスラエルにいる限りは高等教育を受けることも、職を得ることも十分可能だ。極端に言えばこの映画の二人の監督の1人、キリスト教パレスチナ系イスラエル市民のスカンダー・コプティのように高等教育を受け映画監督になるのも可能なのだ。

この映画がアカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされた時、スカンダー・コプティ監督は「この映画はイスラエルを代弁している。私はイスラエルの市民だが、イスラエルを代弁はしていない。私は自分を代弁しない国を代弁することはできないからだ。私はイスラエル代表チームメンバーではない。」と述べて波紋を巻き起こした。

イスラエルの文化スポーツ大臣のリモー・リブナトはこれを受けて「イスラエル人の出資なしに彼はこの映画を作ることはできなかっただろうし、ましてやアカデミー授賞式のレッドカーペットを歩くことすらできなかっただろう。映画の作成に参加した他の人々は皆自分をイスラエルの市民だと思っているのに。」と発言。またイスラエルリーガルフォーラムは「コプティ監督が発言を撤回しなければこのノミネーションは撤回されるべきだ。少なくとも、コプティ監督はイスラエルから金を受け取る前にもう少し慎重に考慮すべきだった。」と主張。共同監督を務めたイスラエル人のメナヘム・ゴラン監督も「コプティ監督には、出資者に対して、もっと尊敬の気持ちを持ってほしい。少なくとも、一緒に働いた私に対しての思いやりを持ってほしい。」と述べている。

コプティ監督はイスラエルの中での少数民族としての自分のアイデンティティーを失いたくないし、ここでイスラエル人と『仲良く』してアラブ人が置かれた問題を安易に解決したくないという思いがあるのだろう。しかしコプティ監督には、映画界の新しいスーパースターとして、イスラエルにいるパレスチナ人の立場を改善する機会を与えられているということを忘れないでほしいと思う。「イスラエル人が嫌いなら金をもらうな」「この国を憎むなら、出て行け」という言葉に左右されず、「どんどん金を貰って、どんどんいい作品を作って、アラブ人の状況を改善する映画を作って、歴史を変えてやる」という芸術家としての意気込みをこれからの彼に見たいと思うのである。少なくとも、彼はそうできる才能と機会に恵まれているのではないだろうか?

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