[映画] 火の馬 Shadows of Forgotten Ancestors (1964年)

嘗て、名作と謳われ欧米で数々の賞を受賞したこの映画が、すでに忘れられDVDの入手も困難になっている。嘗て国際的な巨匠と言われたこの映画の監督セルゲイ・パラジャーノフも忘れられかけている感がある。この映画は作成当時は、親友のアンドレイ・タルコフスキー監督(『僕の村は戦場だった』)と並ぶ斬新な手法で観る者を驚かせた。しかしその斬新な手法が各国の後輩監督に学習・模倣されて多用されたので、今日から見るとその新しさの価値がわかりにくいこと、ソ連でのこの映画の評判が悪かったこと、またセルゲイ・パラジャーノフがソ連の政権下での政治的抑圧で葬られた犠牲者の一人であったこともその原因であろう。

セルゲイ・パラジャーノフはジョージア(日本ではロシア風にルジアと呼ばれることが多いが、ジョージア政府は英語風にジョージアと呼ばれることを国際的に要求している)に1924年に生まれ、モスクワの国立映画大学で映画製作を学んだ。彼は人種的にはアルメニア人である。

ジョージアは黒海とカスピ海を繋いで走るコーカサス山脈の南麓にあり、北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来より数多くの民族が行き交う交通の要所であり、ロシアの南下政策の要点として重要視され、1783年のギオルギエフスク条約により、ジョージア東部はロシア帝国の保護領となった。ジョージアは敬虔なギリシャ正教の国で、ロシアの南下を恐れるトルコやペルシャなどのイスラム国がジョージアに侵攻してくるのを防ぐためにロシアの援助が必要であった。つまり、ロシアに頼るのは、ムスリムの勢力と共存するコーカサス地方において、ムスリムを推す南部のペルシアやトルコの脅威から身を守るために必要な決断でもあったのだ。1801年には内戦をきっかけにジョージアはロシアに併合された。その後1832年にジョージアの貴族がロシアの支配を覆す企みを起こしたがロシア側に鎮圧された。ロシア革命の勃発に際して、ジョージアはロシアからの独立を宣言するが、ソ連により鎮圧され、ジョージアはソ連の一共和国となった。スターリンがジョージア出身ということもあり、ジョージアは1991年に独立宣言をするまでは、ソ連中枢部に対して比較的従順な態度を取り、ソ連の問題児とはみなされていなかった。

セルゲイ・パラジャーノフはウクライナ人の女性と結婚しウクライナを中心に芸術活動を続けるが、次第にその前衛的な作風が反体制的とみなされ、ソ連社会主義政権からの弾圧を受けるようになった。ソ連では、社会主義リアリズムの手法を取り、なおかつ社会主義を礼賛する映画のみが許されており、セルゲイ・パラジャーノフのような前衛的でシュールレアリスムな映画は退廃的で何かを隠している危険な映画だと見なされたのである。この『火の馬』は世界的な絶賛を浴びたが、ソ連内では不評であった。セルゲイ・パラジャーノフは次第に政府当局から弾圧され、1974年には同性愛の罪で投獄されるに至った。彼の投獄に対して、フェデリコ・フェリーニ、ロベルト・ロッセリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールといったヨーロッパ中の映画人が抗議運動を展開して、彼は3年後には釈放されたが、その後もソ連当局の執拗な弾圧を受け、映画を作製することも不可能になった。こういった過酷な状況の中、彼はその後、アルメニアに移住することになった。

『火の馬』の原作はムィハーイロ・コツュブィーンシクィイによる『忘れられた祖先の影』である。ムィハーイロ・コツュブィーンシクィイは、1864年、当時ロシア支配下であったウクライナに生まれたウクライナ人であり、ロシア帝国の下でウクライナ文化が厳しく弾圧された時代にウクライナの伝統文化に基づいた文学運動を行った。当時西ウクライナはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあり、そこではロシアよりもウクライナ文化活動が許されていたので、彼は西ウクライナを中心に本を出版した。セルゲイ・パラジャーノフ監督はウクライナ人ではなかったが、ウクライナ文学復興運動に身を奉げたムィハーイロ・コツュブィーンシクィイと自分との間に何か共通するものを感じたのであろう。

『火の馬』は西ウクライナの山岳民族の少年が自分の親を殺したライバルの家の娘と恋に陥る、ウクライナ版『ロメオとジュリエット』的物語である。当時のソ連では厳禁されていたギリシャ宗教の信仰を生き生きとした色彩で描き、宗教が人々の生活の規範であり、人々は精霊のような超自然的現象を恐れて生きていることを示唆している。これだけでも、いかなる宗教をも禁止した(しかしマルクス主義という思想に固執した)社会主義当局の神経を逆撫でするに十分であっただろう。ましてや、コサック兵の反抗などで常にロシアを脅かして来、ソ連の成立に伴い独立を企てた憎たらしいウクライナ民族を描く映画など、もってのほかであっただろう。

現在のウクライナがある地域にはキエフ大公国があったが、それは13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた。その後この地域は北方のリトアニア大公国や西方のポーランド王国に属していたが、次第にコサックと呼ばれる軍人共同体が発展し、外国勢力の支配に抵抗するようになった。しかし1667年のアンドルソヴォ条約により、西ウクライナはポーランド、後にオーストリア・ハンガリー帝国の支配下に、東ウクライナはロシアの支配下に置かれ、ウクライナは分割された。第一次世界大戦でロシア帝国とオーストリア・ハンガリー帝国が倒れたのに乗じて、西ウクライナに住んでいたウクライナ人は西ウクライナ人民共和国の独立を宣言し、それに反対するポーランドとの間でウクライナ・ポーランド戦争が始まった。ポーランド側はフランス・イギリス・ルーマニア・ハンガリーの支持があった。それに対して西ウクライナは東のウクライナ人民共和国に援助を求めた。しかし、ウクライナ人民共和国の政府はソビエトの赤軍と戦っていたので援軍を派遣することができず、結局西ウクライナはポーランドに占領され、西ウクライナ人民共和国は滅亡した。

東のウクライナ人民共和国はソ連の支配下に置かれたが、レーニン、スターリンに率いられたソ連はウクライナを敵視する政策を取った。その理由の一つはウクライナが豊かな農業国であり、工場労働者を基盤とする社会主義の政策が適用できない経済機構であったことだ。ウクライナの現実に合わない社会主義農業政策を強行に応用されたことによりウクライナの農業は壊滅的打撃を受け、莫大な人数の餓死者が出た。スターリンの大粛清もウクライナから始まったのであった。

第二次世界大戦においてウクライナはドイツに近いという地理的な状況から、莫大な損害を蒙り、ソ連の中でも最大の大戦の被害者となった。ウクライナ人の間では5人に1人が戦死したといわれている。この地域の人々の戦争に対する立場も複雑で、ソ連側に加担した人間もいるし、ドイツ側に加わった人間もいた。また、反ソ反独のウクライナ蜂起軍に入隊し、ウクライナ独立のために戦った者もいたのである。ウクライナ1991は年、ソ連崩壊に伴って新たな独立国家となったが、やはり色々な面でウクライナはロシアとの関係が深い。政権も反ロシア派と親ロシア派の間で揺れ動いているのである。

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