[映画]  マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙  The Iron Lady (2011年)

この映画を一言で言えば、サッチャーを演ずるメリル・ストリープの熱演以外は見る価値のない映画であるということにつきる。

サッチャーの夫デニス・サッチャー を演じたジム・ブロードベント はこう語っている。

「アメリカ女優がサッチャーを演ずると聞いて、まず、えっ?大丈夫かな?と思いました。あまり期待できなかったのです。しかし、撮影が始まってメリルと夕食を共にした時、彼女がさりげなく会話にブリティッシュアクセントを混ぜた時、もしかしたら彼女はサッチャーを演じることができるのではないかという希望を感じました。」

別に彼は意地悪でこう言っているのではないだろう。多くの優れた演技派英国女優と共演し、過去にオスカーやゴールデングローブなどを受賞した名優の誉れ高きブロードベント は、たとえメリルがハリウッドで「世界一の女優」と持ち上げられてても、それを盲目的に信じるのではなく、「まあ、お手並み拝見」といった感じで見ていたのであろう。

もちろんメリルも馬鹿ではない。彼女はサッチャーを演ずる心意気を次のように語っている

「ええ、サッチャーを演じるのは俳優としてとても怖い経験でした。でも英国俳優の中にただ一人の米国の俳優として放り投げられた自分をみて、自分と、当時の政界に女たった一人で孤軍奮闘しているサッチャーとの共通性があるとわかり、それから彼女を演じる勇気が湧いてきたのです。」

映画の予告編はサッチャーに酷似したメリルが演説するシーンが散りばめられており、「さて、製作者は賛否両論だが、英国病を立て直したサッチャーの偉業の解釈と彼女の真髄をどのように見せてくれるのだろうか?」と期待して見たところ、なんと!!!政治家のサッチャーは予告編で見せたシーンくらいで、後は引退後認知症を患う彼女を描くことに終始しているのだ。

だからこの映画は、「鉄の女」と言うよりも、「茶碗を洗う女」というべきだろう。若かりし頃に「私は一生お茶碗を洗うだけの女になりたくないわ!!!」と啖呵をきったサッチャーが老境の今、誰もいない台所でひっそりと茶碗を洗うシーンで映画が終わるのだから。かつては英国で一番知られた顔の女性だったサッチャーが買い物にいっても、誰も彼女だと気がつく者もいない。要するにこの映画が言いたいのは、「エラそうなことを言ったのに、この結末か?ハハハ」「家庭も顧みず、家族も放置してあなたが得たものは、結局は茶碗を洗う毎日だったのか?」という意地悪な目なのではないかと思っている。どうして英国に貢献した職業婦人のサッチャーがこのように裁かれなければいけないのか?女性の自立をサポートする(はず)の左翼はどうしているのか?とつい思ってしまうのだが、サッチャー陣営に言わせると、この映画は左翼陣営の陰謀なのだそうである。なるほど。

賢いメリル・ストリープはこう語っている。

「年を取るということは素晴らしいことだと思います。今までわからなかったこと、見過ごしてきたことにも、ある日突然新しい意味合いを発見するのです。たとえば、茶碗を洗うとう行為一つにしても、その中に人生への愛おしさを感じるのは年輪を重ねたものにしかわからないものではないのかしら。」

確かに、メリルは年を重ねる毎にますますいい作品に出ている。ハリウッドは若くてきれいでグラマラスな女優しかいい役をあたえていないという批判があるが、メリルはまさにハリウッドの映画人がハリウッドはそんなに心が狭くないよと宣伝する広告塔みたいだ。彼女にどんどんいい役がいくので、同世代の女優たち、ダイアン・キートン、サリー・フィールド、グレン・クロースなど、特に、雰囲気も演技の領域も似ているグレン・クロスなどは役を奪われている感じがして気の毒である。しかし、メリルは節制と同僚に対する礼節と人並みはずれた努力でハリウッドでの不動の地位を築いているのだから、まあ許してあげよう。

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