[映画] 愛の勝利を - ムッソリーニを愛した女 Vincere (2009年)

ベニート・ムッソリーニについては、イタリアの独裁者であり、1945年にパルチザンに殺害されて,今までパルチザンを逆さり等の形で虐殺してきた彼への報復のために、死後公共の場に逆さづりにされたということくらいしか知らなかったが、この映画は、実はムッソリーニは重婚者であったという彼の知られざる一面を描いている。実在の女性イーダ ・ダルセルは、若き日の野心満々のムッソリーニと恋に落ち、駆け出しのジャーナリストである彼を財政的にも支えた最初の『妻』として息子を生みながら、その存在はムッソリーニの率いる政府によって完璧に隠蔽消却され、結局彼女は精神病院に送られそこで死亡し、息子も精神病院に送られ26歳で死亡した。彼女がムッソリーニと正式結婚していたかの証明はないというクレジットで映画は終り、イーダが本当にムッソリーニと結婚していたのか、或いは単に彼女が精神を病んでムッソリーニの妻であるという幻影を持ったにすぎなかったのかは曖昧にされている。

2005年にジャーナリストのマルコ・ゼーニが自分の調査に基づいて『La moglie di Mussolini』と『L’ultimo filò』の二冊の本を出版してイーダ ・ダルセルの存在を明らかにし、それを基にしたテレビドキュメントも放映されたことによってイーダの存在が明らかにされ、イタリア国民の間に大きな衝撃を与えた。2009年には彼女の人生はイタリア映画の巨匠マルコ・ベロッキオ監督によって映画化され、その映画は全世界に大きな反響を呼んだ。インタビューに答えてマルコ・ベロッキオは何故イーダについての映画を撮ろうとしたのか?という質問に次のように答えている。

「それは、イーダのことが全く知られていなかったからです。私自身も偶然知ったほどです。ドキュメンタリーを見たり、新聞を読んだりしているうちに偶然知り得たわけですが、彼女の本当にプライベートの部分は歴史家たちにも全く知られていなかったことで、最近になってようやく浮上してきたのです。私は自分でファシズムについてよく知っているつもりでいたのに、『えっ、こんなことがあったのか!』というほど興味を掻き立てられ、こうして映画を作るまでになったのです。」

博識のイタリア人である彼が知らなかったことを私が知らなかったのは当然であろう。マルコ・ベロッキオ監督はムッソリーニをファシストと描くこと事態には興味が無く、彼の映画作成の情熱はイーダという権力に屈さぬ強い女性が真の『勝利』を勝ち取ろうとしたことに焦点をあてているようだ。彼は次のようにも語っている。

「私がこの女性を映画を作りたかった理由はごくシンプルだ。イーダ・ダルセルはヒーローだからだ。私はファシスト政権の悪にハイライトを当てたり、それを暴露することには興味はなかったんだ。だが、イーダという女性は、どんな妥協もしようとしなかった。そのことにとても胸を打たれた。何年もの間、彼女は完全に独りぼっちだった。統帥に対してだけでなく、おそらく自分では気づかないで、あるいは不本意ながらも、イタリア国民のほとんど全員を敵に回したのだ。彼女はまだ無名だったその若き日のムッソリーニに心底ほれ込んだ。他の誰からも相手にされなかった彼を、彼女は愛した。無一文になり、非難され、侮辱された彼を彼女は庇ったのだ。その後、立場は逆転する。統帥となった彼を誰もが愛するようになると、彼女は締め出され、誰もが彼女に背を向けた。だが、まだ無謀な恋から抜け出せず、誰が有利かに気づけなかった彼女は、イタリア全体を敵に回した。」

「当時のイタリアはファシスト主義を掲げ、ムッソリーニの天下だった。統帥に立ち向かった勇気と、妥協を拒絶し、最後まで反逆者であったイーダという女性の人生を考えると、ギリシャ神話に登場するアンティゴネーのような悲劇のヒロインたちを連想させると共に、アイーダのようなイタリアのメロドラマのヒロインを彷彿とさせるんだ。その意味では、この映画もまた、一人の無名のイタリア人女性の精神的な強さを描いたメロドラマでもある。彼女はどんな権力にも屈せず、ある意味では、実際に勝ったのは彼女だ。彼女には、世間に向かって訴えるだけの強さと勇気と、ある意味の愚かさがあった。それゆえに、私にとって彼女のストーリーには歴史的な価値がある。」

「現代の私たちから見ると、ファシズムは馬鹿馬鹿しく、不条理で笑ってしまうようなものだが、彼女の人生を知ることにより、ファシズムは笑い話ではなく、残酷な独裁政治だということを思い出さざるをえない。その狂気の策略を実行するためなら、その邪魔になる者は誰でも迷わず踏みつぶし、無数の罪なき人々の命を犠牲にした体制なのだということを。」

マルコ・ベロッキオ監督の意図はシンプルであるが、彼の意図はこの映画によって観客に正しく伝わるであろうか?映画では彼女が本当にムッソリーニの妻であったかどうかは曖昧にされ、観客には、彼女が狂気と幻想の中で死んのだかも知れないとも思わせる。もしそうなら2時間もかけて延々と『確実さ』のない映像を見続けた観衆は、一体何のために自分はこの狂気とつきあっているのかとも思ってしまう。もし監督がイーダの勝利を描きたいのであれば、この曖昧な描き方は目的を果たすためのベストの手法でないのかもしれないと私は思う。もし、現代のイタリアが人が、『ファシズムは馬鹿馬鹿しく、不条理で笑ってしまう』という位言動の自由が許されているとしたら、なぜもっと権力によって消滅され、暗殺されたかもしれない母と子の生涯を史実に基づいて明示しないのだろうか。確かにこの映画の映像は魅惑的で、無声映画と現実の繋がりなど映画の芸術性を狙う意欲は見られるが、真の無名の英雄に献辞を贈るのならもっと効果的な別の映画が作れたのではないかという気がするのである。この映画を見終わったあと、事実を誰にでもシンプルに伝わるような素直な映画を作ることが、野に捨てられた無名の英雄に対する最大の敬意ではないのだろうかと思わずにはいられなかった。

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