[映画] 善き人のためのソナタ Das Leben der Anderen The Lives of Others (2006年)

レーニンは嘗て「ベートーベンのソナタを聴いてしまったら、革命を続けるのが困難になるだろう。」と述べたそうだが、これはそのソナタを聴いてしまった男の物語である。

1984年の東ベルリン。国家保安省(シュタージ)のヴィースラー大尉は有能な手腕で知られる諜報局員。彼は、反体制の疑いのある劇作家ドライマンとその恋人の舞台女優クリスタを監視するよう命じられる。盗聴器を彼らが住むアパートにしかけたが、その盗聴の活動の過程で実はその盗聴はクリスタを自分のものにしようとする芸術大臣がその目的を果たすために始めたものだとわかる。ドライマンの弾くソナタに心を揺さぶられるヴィースラー。慎重に反体制派から一歩自分を離していたドライマンだが、親友で政府から弾圧されていた作家が『善き人のためのソナタ』という題の草稿を残して自殺したあと、東ベルリンの実態を明らかにする記事を西側で出版しようとする。また芸術大臣から疎まれ窮地に陥ったクリスタはドライマンの秘密を当局に告げるスパイに変身する。二人に盗聴を通じて共感を覚え始めたヴィースラーは、自分の知った情報を基にドライマンとクリスタを助けようとするが、クリスタは自殺してしまい、自分も疑いをかけられて閑職に追いやられてしまう。

ベルリンの壁が崩壊してしばらく立ち、ドライマンは自分が実は当局に盗聴されていたことを発見し、その盗聴の記録からクリスタが自分のスパイであったことを知る。しかしコードネームでしかわからない諜報の責任者は、自分が西側で出版された体制の暴露記事の作者であることを示す証拠をを何一つ当局に報告していなかった。ドライマンは始めてその無名の諜報員が自分を守ってくれたことを知るのだ。更に何年か後、今はてひっそりと暮らすヴィースラーはドライマンが最近『善き人のためのソナタ』と題する本を出版したことを知る。本屋でその本の扉を開いたヴィースラーは「感謝をこめてこの本を奉げます」という献辞が自分に向けられたものであることがわかることで映画は終わる。

ヴィースラーを演じるウルリッヒ・ミューエは最初は制服に身を包んだ剃刀のような男として登場するが、盗聴をしているうちに、次第に冴えないズボン姿の剥げの普通の叔父さんに変身している所が見事。素晴らしい主題、演技力、映像、音声、サスペンスが「完璧な映画」を作り上げているが、もしこの映画に対する批判があるとすれば次のようなものであろう。

映画の中の歴史的な不正確さが非難の対象になるかもしれない。国家保安省(シュタージ)には、ヴィースラー大尉のような人間味のある人物を生み出す素地はなかっただろう。諜報員の中でもお互いの監視と責任の分担が行われ、一人の諜報員が誰かを助けるなどということは不可能であっただろう。たとえヴィースラーのような人間味のある諜報員がいたとしても、それがばれたらその罰則は「退屈な仕事をして20年暮らす」などという生易しいものではなかったということは容易に推測される。脚本と監督を担当したフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクはインタビューでこう語っている。「国家保安省(シュタージ)のことを調べれば調べるほど、実態を正直に書くのはあまりにも残酷であるということがわかり、敢えて残酷なシーンを作らないということに徹底したのです。」確かに、このシーンで残酷なのは、クリスタの死だけであるが、それも事故死なのか、自殺なのかはっきりしない描き方である。この映画は事実を残酷なまでに描くのと、その残酷さを抽象的にとどめるのと、どちらが聴衆に対してインパクトが強く、そのテーマがより長く人の心に残るのかという、決して結論のでない芸術のあり方に対する議論を含むものであろう。

ヴィースラーを演じるウルリッヒ・ミューエは東ドイツでも評価されていた舞台俳優だが、反政府デモや体制批判の劇にも従事した。最初の妻舞台演出家アンネグレット・ハーンとの間に二児を設けたが、のちに彼女と離婚して女優のイェニー・グレルマンと1984年に結婚した。しかし、後に彼は自分の同僚の演劇人4人と妻のイェニー・グレルマンが当局のスパイとして自分の情報を当局に流していたことを知り1990年に妻と離婚する。その後1997年に女優のズザンネ・ロータと再婚する。

『善き人のためのソナタ』は2007年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したが、その直後にミューエは急遽ドイツに戻り胃癌の手術を受けたなければならなかった。『善き人のためのソナタ』により数々の賞を受けたがその名声のさなか、彼は54歳の若さでこの世を去った。

2006年、『善き人のためのソナタ』の関連本に収録されたインタビューの中で、ミューエは映画のストーリーと同様に、旧東ドイツ時代に元妻のグレルマンが国家保安省(シュタージ)の非公式協力者で「HA II/13」というコードネームのシュタージ職員と接触しており、自分は妻に監視されていたと告白した。これに対して元妻のグレルマンは、自分が気付かないうちに非公式協力者としてミューエの情報源にされており、結果的にシュタージに協力した形になっただけだったと反論、この本の出版差し止めをベルリン地方裁判所に申し立てた。裁判所はこの申し立てを認めて本の出版を差し止めるとともに、ミューエの控訴を退け、ミューエに対して今後彼女をシュタージの元非公式協力員呼ばわりすることを禁止した。直後にグレルマンは病死、一年後にミューエも亡くなった。また三度めの妻ロータは2012年に51歳で死亡している。三人とも本当に若死になのである。

English→

One thought on “[映画] 善き人のためのソナタ Das Leben der Anderen The Lives of Others (2006年)

  1. Pingback: [映画]  バーダー・マインホフ 理想の果てに The Baader Meinhof Complex Der Baader Meinhof Komplex (2008年) | 人と映画のタペストリー

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *