[映画] マネーボール Moneyball (2011年)

マネーボールはマイケル・ルイスによるノンフィクション『マネー・ボール 奇跡のチームをつくった男』を基に映画化されたものである。映画会社からこの本の映画化権の購入を打診された時のマイケル・ルイスの率直な反応は「それは構わないけど、こんな統計学を書いた本を映画化して面白い映画ができるのかね~」というものだった。しかし、実際に完成した映画を見たあとで、彼は自分の著作が非常に面白くしかも自分が主張したいことをすべて正確に表現しているのに、ただ感嘆したという。

ブラッド・ピットはこの映画によりアカデミー賞主演男優賞にノミネートされたが、それが賞を取るだろうと予想されていたレオナルド・ディカプリオを抑えてのノミネーションだったので、「何故?」という声がファンから上がった。FBIのJ.エドガー・フーバー長官の40年に渡る肖像を見事に演じきったレオナルドの演技力に比べて、『マネーボール』の中のブラッドはあのいつものチャーミングな『ブラビ顔』のままで、全く地のままである。いったい彼は演技をしているの?ちょっと不公平なんじゃない?レオがかわいそう!という感じである。しかし、この映画を面白くしているのは、間違いなくブラッド・ピットに負うことが多いし、この映画は現代のアメリカというものについていろいろ考えさせてくれる映画なのである。今日の生き方に関連しているという点では、『J.エドガー』よりも遥かに大きいと思う。

舞台は2001年、カリフォルニア州オークランドに本拠を置くアスレチックスは貧乏チームである。本人の意思で自由に動けるフリーエージェントでスター選手でもあるジョニー・デイモン、ジェイソン・ジアンビ、ジェイソン・イズリングハウゼンはさっさとアスレチックスを抜け出し、もっと高額の俸給をオファーしたチームに移ってしまった。ジェネラル・マネージャーのビリー・ビーンは乏しい予算の中で勝つ方法を模索していた。

ある日、トレード交渉のため、クリーブランド・インディアンズのオフィスを訪れたビーンは、イエール大学卒業のスタッフ、ピーター・ブランドに出会う。ブランドは各種統計から選手を客観的に評価するセイバーメトリクスを用いて、他のスカウトとは違う尺度で選手を評価していた。ビーン早速ピーター・ブランドを自分のチームにリクルートして、周囲の反対を押し切り、セイバーメトリクスを基に低予算で勝つという戦略を考案する。

ビーンの作戦を一言で言えば、当時普通であった、『スター性』のような主観的な基準に合致した選手に膨大な俸給をオファーしてリクルートするのではなく、出塁率、長打率、選球眼、慎重性など統計学的に得点に貢献する確率が高い要素を持っている選手を選抜し、その中で従来の主観的な評価では無視されていた選手を安価でリクルートすることである。若い選手を『将来性』という主観的な基準でリクルートするのではなく、選手生命の盛りを過ぎた選手でも何か貢献度の高い要素があればチャンスを与える。こうすることによってビーンが率いるオークランド・アスレチックスは毎年のようにプレーオフ進出を続け、2002年には年俸総額が1位のニューヨーク・ヤンキースの1/3程度だったにもかかわらず、全球団で最高の勝率を記録した。映画では2002年に突如アスレチックスが強くなったように描かれていたが、実はアスレチックスはワールドリーグでは勝てないが、プレイオフでは常に勝ち続けており、他球団はアスレチックスの強さはどこから来ているのか不思議がっていたという。アスレチックスの戦略は統計学に則っていたので、数回で勝負するワールドリーグと違い長期戦のプレイオフで勝っていたということは、ビーンの戦略の結果であることを示唆している。

この映画は単なる野球映画ではなく、いろいろな意味で現代のアメリカにとって重要なことを描いていると思うが、その中で私が強調したいことは次の三点である。

まず最初は、この映画は良くも悪くも、アメリカの会社のマネージメントの特質をよく描いているということである。野球業界のストラクチャーを説明すると、オーナー、ジェネラルマネージャー、そして監督である。金を出すのはオーナー、選手をリクルートしたり、チームの構想を作るのはジェネラルマネージャー、実戦の指揮を取るのは監督である。監督が一戦一戦の技術的な戦力に終始するのに対し、ジェネラルマネージャー、はもっと長期的な展望を構想し、さまざまな会見で積極的にメディアに登場する球団の顔でもあり、球団を統率するカリスマ性、経営感覚、契約更改やトレードにおける交渉力、選手の能力を見極める眼力など総合的な能力が求められる。ジェネラル・マネージャーは会社のCEOに相当する。トップダウンの経営方針のもと、ビーンは容赦なく解雇やトレードを行い、その権力たるや大したものである。しかし一方ではビーンは統計学という客観的な基準を設定し、選手にそれに沿った努力をするように求めた。だから高給を取っている選手を解雇する時でもその理由をはっきり説明できたし、主観的な『人気』という基準に外れて不遇な立場に置かれていた地味な選手に活躍する機会を与えてやる気を起こさせたのである。CEOが独裁的な権力を持ち、その手腕が会社の経営の良し悪しに直接影響するというのはいかにもアメリカ的である。

第二にこの映画はアメリカに蔓延している、富の配分の不公平に対する批判でもある。プロ野球でもそうだが、映画の世界でも俳優に対する報酬は非常に不公平である。1980年後半から、トム・クルーズやジュリア・ロバーツのような人気俳優が莫大な出演料を請求するようになり、他の俳優たちも彼らに右へ倣えをし始めた。今日でも、例えばクリスティン・スチュワートはまだ21歳だが、一本の映画で20億円相当の出演料を要求するという。これは他の50人から100人くらいの実力のある俳優の給料の総額に相当するだろう。つまり、ハリウッドはちょっと人気のある若い女優に一つ仕事を与える代わりに他の有能な100人の俳優の仕事を奪っているのである。この不均衡は最近ではハリウッドでも見直されつつあり、給料の割りに出演作の興行収入が高い俳優なども具体的に統計学的に割り出されているという。その『安上がりな実力俳優』の例として、マット・デーモンとかナオミ・ワッツとかが挙げられている。ブラッド・ピットでさえ、「看板俳優が法外な金額を吹っかける時代は終わった。」と明言している。彼も、ちょっと人気が出ると出演料を吹っかける風潮を抑えないと、映画界が衰退して行くと憂慮しているのだろう。

もう一つは個人の幸福とは何かという問題である。ビーンは、かつて超高校級選手としてニューヨーク・メッツから1巡目指名を受けたスター候補生だった。スカウトの言葉を信じ、高給に魅了され、名門スタンフォード大学の奨学生の権利を蹴ってまでプロの道を選んだビーンだったが結局成功せず、スカウトに転進し、第二の野球人生を歩み始めた男である。アスレチックスでの成功の後ボストンのレッド・ソックスから12.5億円相当という歴史上最高額の俸給でリクルートされるが、自分は金で人生の選択をしないと決めているので、そのオファーを断った。彼はカリフルニアに住む娘と離れたくなかったし、オークランド・アスレチックスを愛していたからである。オークランドは全米で最も洗練された街サン・フランシスコと学問の中心地バークレーに挟まれた街である。独自の文化をもち、全米でもっとも政治的にリベラルな街であるが、その大きな部分は貧しい黒人の居住地で、黒人のティーンネージャーが警察に射殺されるという事件も稀ながら起こる。オークランド・アスレチックスは地元の誇りであり、気軽な娯楽であり、若者の心を高め目標になる存在である。ビーンはそのチームを金のために見捨てることはできなかったのである。同時に自分のセイバーメトリクスは既に注目されて第二第三のビーンが出現しつつあった。自分の勝手知ったアスレチックスを去って、また新しい競争人生を始める理由はなかった。

映画の中でビーンの娘が父がクビになるのではないかと心配するシーンがでてくるが、その心配はない。その後もビーンの成功は続き、彼の契約は2019年まで更新されているからだ。ビリーはスポーツイラストレーター誌が選んだ2000年代のトップスポーツマネージャにも選ばれ、野球界でのトップマネージャーとしても認められたのである。

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