[映画]  冬の街 Uzak Distant (2002年)  うつろいの季節(とき)İklimler Climates(2006年) 共に日本未公開

『冬の街』 と『うつろいの季節(とき)』はトルコの映画監督ヌリ・ビルゲ・ジェイランの製作、脚本、監督による映画である。ジェイランの名声は国際的に非常に高い。『冬の街』ではカンヌ映画祭 グランプリを、『うつろいの季節(とき)』(Climates) (2006年) ではカンヌ国際映画祭 国際批評家連盟賞、Üç Maymun  (Three Monkeys)(2008年)ではカンヌ映画祭映画祭監督賞及び米国アカデミー賞外国語最優秀映画賞のショートリストに、Bir Zamanlar Anadolu’da (Once Upon a Time in Anatolia)(2011年)では再びカンヌ映画祭 グランプリを受賞している。その他にも『カサバ – 町』(Kasaba  Small Town )ではベルリン映画祭カリガリ賞と東京映画祭シルバー賞を、『うつろいの季節(とき)』はSKIPシティ国際シネマ映画祭も受賞している。つまり彼の作品の殆どすべてが著名な国際賞を軒並み獲得しているということで、大変な確率である。しかし彼の作品は一つも日本で公開されていないというのが興味深い。

ジェイランの映画の特徴を一言で言えば、恐ろしいまでに美しいシネマトグラフィーである。映画の一瞬一瞬のすべてが絵画になり得るほど、計算されつくした画像。一瞬の狂いもなく完璧な位置に鳥が飛び、ハエが舞い、ネコが飛び出てきて、人が登場する。雲の色、山の翳り、海の波の動き、建物と路上の色合い、鏡の効果的な使用、外装が剥げかかった電車、廃船の赤い支柱と雪の色のコントラストなど、全く見事である。ライティングにも細心の注意が払われている。音声も繊細で、雑音のような音が効果的に挿入されている。

ジェイランの映像や音声に対するこだわりは、彼の略歴を見れば納得がいくだろう。彼は大学で電気工学を勉強し、またアルバイトで写真を撮り生活の足しにしていた。映画人として成功する前は、写真家というキャリアも持っていた。彼は自分の映画の製作、脚本、監督をやるが、同時に撮影や音響の監督やフィルムの編集までやる。非常にテクニカルな人なのである。

彼は演技に対しても非常にこだわりのある人である。何気ない『男が車から降りて来て声をかける』というだけのシーンでも、数人の役者にそれぞれ10回くらい演技をさせる。そういった50回くらいの取り直しでも、気に入らなければ最終の編集で容赦なく切り捨ててしまう。『冬の街』でも『うつろいの季節(とき)』でも雪のシーンが大きな部分を占めている。イスタンブールでは雪など滅多に降らないのだから、たまたま運がよかったのか。それとも雪が降るまでじっと待っていたのか?

演出でも、彼はかなりマイクロ・マネージメント(細かいところまで、口うるさく指導するタイプ)である。女優がドアを開けて自分の部屋に入って来るという7秒位のシーンでも、1秒の動きに関しても首の傾げ方、唇の上げ方など微に入り細を穿つという感じで口を出す。彼自身の中にはクリアーなイメージがあり、俳優に自分のイメージと同一のものを作り出すことを要求している。俳優によってはかなり厳しい、或いは一緒に働くのはちょっとしんどいと思う人もいるのではないか。

彼の映画の主題は『inner world-心の内面』である。彼は決して政治的な芸術家ではない。少なくとも彼の作品を見る限りそうである。しかし全世界的に激動の70年代に青春を過ごした彼にとって、政治的な動乱は自分と無縁のものではなかった。彼は1976年にイスタンブール工業大学に入学したが、その時期はトルコが政治的に不穏な時期で大学は十分機能しておらず、1977年にはタスキム広場の虐殺が起こった。この事件の真実はあまり公表されていないが、その日は労働者の祝日であり、社会主義者や非合法の共産主義者たちが集まっての集会が予定されていたという。イスタンブール工業大学は学生運動の中心地で勉強ができる環境ではなく、ジェイランはその後再受験してボガジック大学に転校した。兵役を終え、あちこち旅行していた彼が本格的に映画人になろうと決心したのは30代半ばであった。

初期の作品、『冬の街』や『うつろいの季節(とき)』をみていると、これは彼の内面の自伝なのではないかと思わされる。その中で描かれているのは、自己中心的で女性や自分自身にもコミットメントできない孤独な男である。どちらの映画でも主人公の男は外見のいい、知的な職業を持った男である。そんな男に惹かれて寄って来る女性はいるのだが、男は本気で添い遂げようとはしない。女性に自分のすべてを奉げるよりもっと面白いことが人生にありそうな気がして女性を拒絶してしまう。しかし男は結局自分を満足させてくれるものをみつけることができないのだ。別れた女には未練がある。しかしだからと言って誠心誠意で女性を取り戻そうという気力もわかないのである。

主人公の孤独はイスタンブールという都会に住む人間の孤独でもある。イスタンブールに住んでいる住民の多数は田舎から職を求めて移住してきた人々である。彼らは田舎で助け合っていた共同体というものを、イスタンブールという大都会で失っている。しかし彼らは根っからの都会人ではないのである。主人公はふらふらと都会を彷徨う根無し草である。

主人公の孤独はまたトルコという国の孤独さを象徴しているかのようでもある。

オスマン朝は、15世紀にビザンチン帝国を滅ぼして、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てた。しかし19世紀になると、帝国は衰退を示し始め、帝国支配化の各地では、諸民族が次々と独立して行った。第一次世界大戦の敗北により英仏伊、ギリシャなどの占領下で、トルコは完全に解体された。この国家の危機に対して憂国のトルコ人たちは国家の独立を訴えて武装抵抗運動を起こした。卓越した指導者ムスタファ・ケマル(アタテュルク)の下でトルコは1922年にトルコ共和国を立て直すことに成功し、民族断絶の危機を乗り越えた。

トルコは宗教と政治を分離する世俗主義を取り、近代化を図った。トルコはソ連に南接するという立地条件と歴史的にロシアと対抗して来たという過去の経緯から、第二次世界大戦後の冷戦では反共の防波堤として西側から重用された。また冷戦終結後アメリカとイスラム原理主義国家との対立が深まった現代では、イスラム国と西側諸国との間の緩衝地帯としても重用されている。トルコもヨーロッパの仲間入りをしたいという切望はあるだろう。しかし、ヨーロッパではまだ反トルコ感情は残っているし、イスラムの仲間として反イスラムの目で見られることもある。しかしイスラムの国から見ると、トルコはイスラムを切り捨てた国なのである。

トルコ国内での混乱もある。宗教と政治を切り離す立場を取る国民が多数派なのだが、イスラムの復活を望む人も多い。社会主義者もいるし軍部の影響も強い。国際的には慎重に問題を起こさぬよう努める紳士の国ではあるが、国内のバランスはかなり微妙なのである。

ジェイランは、『冬の街』や『うつろいの季節(とき)』で共演した自分より遥かに若い女優のエブル・ジェイランと結婚し子供も生まれて落ち着いた家庭人になっているようだ。『うつろいの季節(とき)』は自分の子供に奉げる作品だとしているが、心の平安を得るに至るまでの孤独の日もあったのだろう。これらの映画を観たあといつまでも波打つのはそのどうしようもない孤独感である。

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2 thoughts on “[映画]  冬の街 Uzak Distant (2002年)  うつろいの季節(とき)İklimler Climates(2006年) 共に日本未公開

  1. 『未公開映画を観る』(http://planeta-cinema.at.webry.info/)という非常に面白いブログの著者の方から直接E-メールでコメントをいただいたので、ここに引用させていただきます。どういうわけか、日本からコメントしようとすると、サーバーエラーメッセージがでるようですね。『未公開映画を観る』では日本未公開だが面白い映画がとても詳しく紹介されていて、必見のブログです。では以下いただいたコメントです。この方の『映画の監督は加齢な割りには幼稚』というコメントにはぞくっとしました。気がつかなかったのですが、この監督の本質をずばり突いていると思いました。

    ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の記事ということで、コメントさせてもらいました。
    好きな監督さんなのですが、細かい経歴は調べたことがなかったので勉強になりました。
    なかなか難しい時代に青春を送った人だったんですね。

    彼の作品の主題が内面的だというのは同じ意見です。
    どの作品の根底にも「人間とは何か」という問いがあるように感じています(漠然としていますが)。
    監督はチェーホフを中心に文学に言及することがありますが、この意味でモチーフはきわめて文学的だなぁと思ったりもします。
    また、現時点でこの点に対する洞察がもっとも深められているのが新作『昔々、アナトリアで』だというのが個人的見解です。

    とはいいながらも、実は自分はいまいち初期の作品のテーマが掴みきれていませんでした。
    ですから、『冬の街』『うつろいの季節』が男の内面の自伝だという解釈はとても面白いと思います。
    どちらの作品に出てくる男も年齢の割に幼稚だと感じさせられるのですが、それも自伝的というか、内面の反省の産物なのかもしれません。
    そして、おっしゃる通り『冬の街』に関してはそれが都会の物語であるということは外せないと思います。
    『冬の街』は、田舎の生活を描く『五月の雲』とペアになる作品だと言えますが、両者のなかで描かれる人々の違い、
    あるいは色調の違いがとても印象に残っています。
    ただし、前者で示される都会の孤独がすぐにトルコの孤独につながるかは自分には判断できません。
    あの孤独さ、寂しさ、むなしさがイスタンブールに特有のものなのか、それともおよそあらゆる「都会」にあてはまるものなのか、
    そのあたりは考えてみたいところです。

    • 「ぷらねた」のinaです、コメントを引用していただいてありがとうございます。丁寧に拙ブログの紹介までしていただいて恐縮です。

      このコメントの上記の部分をいいと思ってもらったんですね。自分で言っておいてなんですが、今回のやりとりでまた違った視点からジェイラン作品を見直せる気がしています。

      それでは。

      追伸ですが、コメントに失敗したのは単にEmail欄を埋めていなかったからのようです。お恥ずかしい。

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