[映画]  存在の耐えられない軽さ The Unbearable Lightness of Being (1988年)

『存在の耐えられない軽さ』は、1968年に起きたソ連軍のチェコ自由運動の弾圧(プラハの春事件)の後フランスに亡命した作家ミラン・クンデラによる同名の小説・・・チェコスロバキアのプラハの春を背後に、激動の中で異なった運命を辿る四人の男女の運命を描く・・・の映画化である。

トマシュはプラハに住む若くてハンサムで優秀な外科医である。女性を愛し、女性に愛され、複数の女性と気軽に交際する男であるが、トマシュが自分を理解してくれる女性として認めて交際しているのは画家のサビーナだけであった。ある日、執刀のために小さな温泉のある村に行ったトマシュは、そこでテレサという娘に出会う。テレサはトルストイを愛読する文学少女であるが、その心を理解してくれる友人はだれもその村にはいないと思っていた。自分を待つトマシュがたくさんあるベンチの中で自分がいつも座っているベンチに座り自分を待っていてくれたこと、そしてトマシュにプラハの文化を感じ取ってトマシュに夢中になり、彼を追ってプラハに来てしまいう。独身主義であるかに見えたトマシュもテレサに惹かれて二人は結婚してしまう。

テレサはサビーナの影響を受け、写真家になろうとするが、時を同じくして、チェコに育ちつつある自由への渇望を弾圧するためにソ連軍が侵攻して、多くの人間が殺害される。サビーナ、トマシュとテレサはジュネーブに亡命する。テレサは、危険を冒して自分が撮影したソ連軍の弾圧の写真をスイスの雑誌社に見せるが、スイスでは人々はもうプラハの春事件には飽きており、もっと面白い写真を持って来いと言われてしまう。サビーナは真面目で良心的な大学教授ハンスと出会う。テレサは自分はサビーナやトマシュのように他国で強く生きていける人間でないと思い、チェコに戻ってしまう。そこでトマシュはサビーナのいる自由の国スイスに留まるか、抑圧があるがテレサが住む自分の故国チェコに帰るかの決断に迫られることになる。トマシュはチェコに戻ることを選ぶが、再入国の際にパスポートを取り上げられてしまい、それは再び自由圏に戻ることの許されない片道行路であったのだ。

トマシュがスイスにいる間にソ連軍の弾圧が成功して、プラハは全く違う街になってしまっていた。トマシュは反共産党分子であるとして外科医の仕事を剥奪され、清掃夫として生計を立てるようになる。テレサはプラハの変貌を嘆いて落ち込んでしまい、自殺まで考えてしまう。ふたりは田舎へ移住し、そこでの暮らしに馴染み、つつましいながら本当の幸福を探し当てるのだが、その瞬間に悲劇が起こる。

この映画の魅力は、トマシュとテレサそしてサビーナとハンスの人間性と関係が非常に精巧に美しく、説得力に満ちて描かれていることだろう。

トマシュとサビーナが会う時は必ず鏡が使われる。これはトマシュとテレサそしてサビーナとハンスの関係をうまく象徴している。四人の関係を私なりの絵で描けば、トマシュとテレサがベッドで寝ていて、その隣に大きな鏡がある。トマシュがその鏡を覗くとそこにはトマシュではなくサビーナが映っている。そしてサビーナの隣にはハンスが横たわっている。トマシュが鏡に近づくとサビーナも近づく。トマシュが鏡から遠ざかるとサビーナも遠ざかる。しかしトマシュは鏡を打ち破ってサビーナの元に行く必要はない。トマシュとサビーナは、魂で結びついた男と女のシャム双生児なのである。彼らは離れていようが、お互い他の人と一緒にいようが、心では永遠に結びついているのである。

しかし、トマシュが本当に愛しているのはテレサだけである。テレサはすべてを明るく照らす太陽のようで、彼女がいる限りは世界も他の女性も美しく見えるのであるが、彼女がいなくなると、世界が暗黒になり、他の女性はトマシュの視界には全く入って来なくなってしまう。トマシュは限りなく軽いが、ぶれない男である。プラハの春の前、浮き浮きと政治を語っていた友人に彼は「自分は全く政治には関心がない」と述べる男であった。しかしソ連の弾圧の中で、急に保身を図り、密告をし、自分が何を感じ叫んでいたかを隠す人々の中で自分を全く変えようとしないトマシュは反体制派として弾圧されてしまうのである。しかし、自分が愛していた仕事を奪われた後でも彼は相変わらずふわふわと軽く、しかしぶれずに生きていくのである。

テレサは都会で軽く生きている(ように見える)トマシュやサビーナに影響されて、自分もそうなろうと努力し、いろいろと実験してみるが、それで幸せにはなれず、結局自分は大地に根付いて生きて行く人間だとわかる。しかし、彼女は何気ない瞬間に、自分で意識せず非常に性的な魅力を体現する女性で、トマシュはそこに心底惹かれていく。

サビーナはトマシュに瓜二つの心を持っているのだが、トマシュが手術の刀を持っているのに対し、絵筆で世を渡っていく女性である。女なので、男よりももっと流浪に対して、肝がすわっている。自分がこの広い地球のどこで死んでしまうのかわからないが、野垂れ死にする直前まで絵筆を持って全力で生きまくってやる、という態度である。良心的で道徳的なハンスは、自分と全く違うサビーナにどうしようもなく惹き付けられてしまう。

私はたまたまこの『存在の耐えられない軽さ』と村上春樹の小節を基にした『ノルウェイの森』を同じ時期に見たのだが、この二つの映画が全く同じ時期(1960年後半)を背景に、非常に似たテーマを描いているのに、その描写と解決が根本的に違うのが面白いと思った。

『ノルウェイの森』では平和で、戦争に駆り出される怖れもなく、自由と身の安全と暮らして行けるお金を保証されている日本の社会で、何故か閉塞感を感じている若者たちが、社会主義こそが世を救う希望の光だと信じて学生運動に熱中している。もちろん村上春樹の投影である主人公はそんな同世代の若者の動きには共感できないのだが、彼の周りではやたらと友人たちが自殺して行く。その自殺する若者たちは、親の愛情もあるし、恵まれた環境に育っているのだが、まるでストッキングの穴がじわじわと広がって行くのを毎日ジクジクと見ているように、何かに拘って重く生きて行く。そして自殺してしまうのだ。主人公もそれに影響されてしまうが、放浪しまくって、泣きまくって、鼻水を出しまくって、大げさな人生の探求の果てに「僕は生きるんだ」と決意する。

『存在の耐えられない軽さ』では、言論の自由を奪われ経済的にも不公平な社会で生きる若者にとって、社会主義は悪であり、若者はチェコが自由主義の国になることを渇望している。トマシュはジクジクと拘る人間ではない。だから軽いのだが、彼は体制や他人を批判はしても非難することはない。そして、まるで白鳥が波立つ湖の上で、波浪にも影響されず静かに浮いているように生きていく。そして静かに自分の幸せを見つけるのである。ジュネーブでサビーナと二人きりで会った時、サビーナは更に西側に移住することを、トマシュはチェコに戻ることを決めているが、二人はそれは口に出さない。突然サビーナが「これが私たちが会える最後の時間になるかもしれない」と呟くと、トマシュは表情を1ミリ変えただけで「そうかもしれない」と頷く。それが永遠の別れである。しかし『存在の耐えられない軽さ』では誰も自殺しない。それぞれが全力を尽くして難しい時代を生きていくのである。

どちらの映画でもビートルズの曲が非常に重要な役割を帯びて流される。しかしビートルズの曲が若者に示すものが、二つの映画では全く違う。『存在の耐えられない軽さ』ではビートルズの曲は自由への憧れと渇望を象徴するものであるが、『ノルウェーの森』では正体のわからないメランコリーの象徴なのである。

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