[映画] ブリキの太鼓 The Tin Drum(1979年)

『ブリキの太鼓』は、ドイツの作家ギュンター・グラスが1959年に発表した長篇小説を基にして、フォルカー・シュレンドルフ監督により1979年に映画化されたものである。映画は原作の後半を省いているが、前半はかなり原作を忠実に再現しているという。ギュンター・グラスはこの本を含めて作家としての業績で1999年にノーベル賞文学賞を受賞しているし、この映画自体はカンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞、そしてアカデミー外国語映画賞を受賞している。私は原作を読んでいないので、この映画のみについて書いてみたい。

この映画はガラス板を爪で引っ掻く音を聞かされるような不愉快な映画である。映画の主人公は何らかの理由で体の成長が止まって幼年のままであるが、頭脳や感情は立派な大人である。「この映画は戦争に反対するために成長を止めた主人公の戦争反対の思いである」などというキャッチフレーズはとんでもない。一言で言えば、体が小さいから安心させて好き勝手をして、結構いい目をみて、自分が責任をとらなくてはならない時は子供だからと、のうのうと責任逃れをしている主人公の物語である。主人公はその特異性ゆえに、大人の自分に対する甘さ、自分を利用する大人の狡さを敏感に感じ取ってしまうのだろう。また、主人公は作者ギュンター・グラスの一部を投影しているような気がする。

ギュンター・グラスは小人ではないが、この映画・小説の主人公のオスカルのように、ポーランドとドイツの拮抗の狭間にあった自由都市ダンツィヒで、やはりオスカルのように、ドイツ人でナチス党員の父と少数民族として差別されていたカシューブ人の母の間で生まれていた。オスカルは、仲間の小人たちと小人サーカスに参加してナチスの高官たちを慰問し、結構いい思いをするのだが、実際にギュンター・グラスも若いころはナチスの活動を一生懸命やっていた。それは彼自身もあまり公表したくない過去だったのかもしれないが、彼がそれを告白した時は、ノーベル賞作家で平和支持者のように行動していたギュンター・グラスを理想化していた世界の読者はかなりショックを受けたそうだ。

成功した作家だから即完璧な人間であるわけはないから、それを期待するのは読者の身勝手なのではないだろうか。また真面目に人生を考えて醜い世界を変えようと思い共産主義に染まる若者が嘗て多かったから、理想主義でこの世の中をもっといいものにしようという情熱でナチスに走った純粋な人間もたくさんいただろう。単に過去の真摯な決心を今日的な観点から判断はできないのではないか。この映画は小説の途中で突然終わっているので、聴衆は「不愉快な思いで引きずり回されて、これで終わりなのか?」と思わされてしまう。しかし、原作はその後も続き、相変わらず現実を逃避している主人公がそれなりの成長を遂げ、過去を振り返るところで終わっているそうだ。現実逃避の真っ最中に終わる映画に比べて、その自分勝手な未熟さをもう一つ別の観点で振り返る原作は映画にない深さがあるのではないかと推測する。

この映画が作られた1970年代というのは世界的に迷いの時代であった。冷戦が深刻化しつつも、もはや社会主義が世界を変える唯一の救いだというのが幻想であると大多数の人間が気づき始めたときである。自由主義と社会主義の対立の他に、キリスト教国家とイスラム原理主義国家という新しい対立も芽生えてきた。米英ソがレーガン大統領、サッチャー首相、ゴルバチョフ書記長という現実的な指導者を選び、現実的な解決を探し始めた1980年とは全く違う、「途方に暮れた時代」なのである。甘いハッピーエンドを必ず選んでいたハリウッドでさえ、解決策も救いもなく、絶望的に聴衆を突き放す映画を作り始め、聴衆もそういうタイプの映画が深くて真実だと思い込んでいた時代に、この映画は作られている。40年経った今この映画を見る聴衆はどう思うだろうか。現在の聴衆はもっと心を癒す映画、徹底的に娯楽的な映画、或いは情報があり生き方に肯定的な影響を与えてくれる映画を望んでいるのではないか。この映画がリリースされた時の熱狂的な反応を理解するのはもう難しくなっているのではないかと思われる。

ダンツィヒは、バルト海に接する港湾都市で、ドイツの北東部端を分断しているポーランド回廊にある。この回廊は古来ドイツとポーランドの間で利権を巡り争われた地域であるが、第一次世界大戦でのドイツ敗戦を踏まえて、ドイツから分離されて国際連盟の管轄下に移された。ダンツィヒはベルサイユ条約でポーランド関税領域に組み込まれ、実質的には地続きではないがポーランドと強い関係が結ばれるようになった。ポーランドへ接続されている自由都市の鉄道線はポーランドにより管理されていたし、ポーランドの軍港もあったし、2つの郵便局が存在し,1つは都市の郵便局で、もう1つはポーランドの郵便局であった。この地域の住人は、ポーランド人とドイツ人が大半をしめ、カシューブ人やユダヤ人のような少数民族もいた。

最初はポーランド人の利益を守り、ポーランド国の勢力を伸ばすことが目的で建設されたダンツィヒであるが、次第にドイツ人やナチスの影響が強まり、1933年にナチスが選挙で勝利した後は反ユダヤ、反カトリック(ポーランド人やカシューブ人が対象)の法律が成立することになった。1939年、ダンツィヒのナチス党政府は、ダンツィヒのポーランド人の迫害を本格的に行うようになった。そして1939年9月1日、ダンツィヒにあるグダニスク湾に停泊していたドイツ戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタイン号が何の布告もなくダンツィヒのポーランド軍駐屯地に激しい艦砲射撃を開始して、第二次世界大戦が始まったのである。

ポーランド軍はポーランドの郵便局を要塞として抵抗した。ポーランドの郵便局はダンツィヒ市域ではなくポーランド領と見なされており、ポーランドへの直通電話の回線が引かれていた。従業員は大戦以前から武装し、また銃撃の訓練を受けていたといわれる。またここはポーランドの対独秘密情報組織が密かに活動していたという説もある。しかし彼らの必死の防戦もドイツ軍の攻撃には歯が立たず、結局郵便局のポーランド民軍は降伏した。

第二次世界大戦は、ダンツィヒでは非ユダヤ系ポーランド人住民の大半がドイツ民兵である自衛団等により虐殺され、ユダヤ系住民はホロコーストの対象となり強制収容所へと送られた。1945年3月、ダンツィヒはソ連赤軍により解放された。映画でオスカルの母がカシューブ人でドイツ人の夫とポーランド人の愛人の間を行ったり来たりするのは、そのダンツィヒの人種闘争を象徴しているのだろう。オスカルの実際の父はポーランド人の男である可能性が強いが、戸籍上では彼はドイツ人の子供なので、戦後オスカルは命からがらドイツに逃げ出すが、彼の祖母はダンツィヒに残り、オスカルと生き別れになる。祖母はカシューブ人なので、ドイツに受け入れてもらえなかったからである。

現代のダンツィヒはポーランド領でありグダニスクと呼ばれている。第二次世界大戦で殆ど廃墟になったが、現在は市民の努力にようり歴史的町並みが再現され、美しい街であり観光でも栄えているという。

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