[映画]  レ・ミゼラブル Les Misérables (2012年) 

ヴィクトル・ユーゴーの原作を基にしたヒットミュージカルの映画化『レ・ミゼラブル』はなかなかの出来である。映画ならではのコンピュータ;グラフィックによる当時のパリの町並みの再現、汚い歯並びや汚れた服を強調した登場人物のクローズ・アップ、斬新なアングルの美しい絵画的なシネマトグラフィー。そして演技派俳優による心のこもった歌唱。ラッセル・クローやアン・ハサウェーなどの俳優たちは勿論歌も立派に歌えるのだが、俳優ならではの陰翳のある歌い方をしていて、これが単なるミュージカルの二番煎じではないことを証明している。『レ・ミゼラブル 』はナポレオン1世が敗北した1815年に出獄したジャン・ヴァルジャンが、1830年に起こったブルジョワによる七月革命の後の1832年の六月暴動とそれが鎮圧されて王政復古が起こるのを目撃し、年老いて1833年に死亡するまでの18年間を描く。

ジャン・ヴァルジャンの養女コゼットの夫になるマリウスが作者ヴィクトル・ユーゴーの投影であるということはよく言われるが、このマリウスという男がよくわからない。裕福な祖父に反抗して六月暴動に参加したはずだが、同志が全員死亡してもジャン・ヴァルジャンに救出され祖父の援助でコゼットと豪華な結婚式をあげ、めでたしめでたしとなる。マリウスのモデルになったと言われるヴィクトル・ユーゴーはどういう人物だったのだろうか。彼のどの部分がマリウスに投影しているのだろうか。

ブルボン王朝及び貴族・聖職者による圧制に反発したブルジョワジーに率いられた民衆が1789年7月14日にバスティーユ牢獄を襲撃したことにより始まったフランス革命は、1792年にルイ16世を処刑したあたりから次第に過激化し、第一次共和制の恐怖政治に発展して行った。この混乱の中で人民の心をつかんだのはナポレオン・ボナパルトであり、1799年のブリュメールのクーデターによりナポレオンは執政政府を樹立し独裁権を掌握した。1804年に彼は帝政を樹立した(第一帝政)。

ヴィクトル・ユーゴーは1802年に共和派でナポレオン軍の軍人である父と、熱烈な王党派である母の間に生まれた。両親は当然ながら大変不和であり、それが彼の青年時代に暗い影を投げることになる。ヴィクトル・ユーゴーは別居が続いた両親の関係上、その幼少時代の大半を母と過ごすことになる。1814年のナポレオン1世の没落で父はスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に降格されてしまう。

ナポレオン1世の失脚後、ウィーン会議で、フランス革命を否定して、すべての体勢をフランス革命以前の状態を復活させ、大国の勢力均衡を保つことが図られた。英・独(オーストリアとドイツ)仏・伊(及びバチカン)・ロシアの五大国でヨーロッパの体勢を決めるというこのウィーン会議の精神は結局 第二次世界大戦まで続いたのである。フランスではルイ16世の弟であるルイ18世がフランス国王に即位した。ルイ18世はフランス革命の最中に兄を捨てドイツに亡命し、その後も諸国を転々としてフランス共和制への攻撃を主張していた。彼は1815年にナポレオンが一旦エルバ島を脱出して復権するとまた亡命するが、ナポレオンの最終的失脚にともなって復位した。ルイ18世の死後、弟のシャルル10世(彼もフランス革命勃発と共に兄のルイ16世を捨ててロンドンに亡命していた)が即位し、亡命貴族への補償を行うなどさらに反動政治を推し進めた。

この王政復古の時期はヴィクトル・ユーゴーにとっては家族に集中する時であった。母の死後1821年に幼馴染のアデール・フシェ(彼女はコゼットのモデルであるといわれる)と結婚し、1823年には長男、1824年には長女が生まれ、1825年にはレジオン・ドヌール勲章という最高勲章を受け、準貴族待遇を受けるようになる。また少年時代は疎遠であった父との仲も親密になっていき、それまで嫌っていたナポレオン1世に対しても理解を深めるようになり、ナポレオン1世を次第に尊敬するようになる。1826年には次男、1828年には三男が、1830年には次女が生まれる。彼はルイ18世から年金をもらっていたので、生活はかなり裕福であったが、作家としての成功も既に始まっていた。

シャルル10世は反動的な政治を行い、言論の自由を認めず、ブルジョワジーの大部分に選挙権も与えないなど中産階級の利益を守らなかったので中産階級、知識人そして貧しい労働者が不満を持ち始めた。また後にフランスの汚辱であり将来に渡り政治的負債となるアルジェリア侵略まで始めてしまった。こういった愚策の繰り返しが1830年のブルジョワジーに主導された七月革命勃発の原因となった。ヴィクトル・ユーゴーは保守的な貴族ではあったが、一方では尊敬されている知識人であり、自分の親友の文学者たちが七月革命の中心人物なので自分の立場は安全だとわかっていたし、シャルル10世は愚王だと思っていたので、七月革命にも反対の立場は取っていなかった。七月革命では、革命軍を鎮圧しなければならないはずの政府軍にすら鎮圧軍の意欲はなく、シャルル10世は慌てて外国から傭兵を雇わなければならないほどであった。このフランス七月革命は、1830年7月27日から29日までのわずか三日間の革命であった。この革命はシャルル10世が亡命し、開明的で自由主義に理解があるという名声のあったブルボン家の遠縁にあたるルイ・フィリップ1世を王位につけ、立憲君主国を樹立する(七月王政)ということで収拾された。ルイ・フィリップ1世は1797年から1799年までアメリカ合衆国に住み、アメリカ独立運動を助けたという経験もあり、人民からの期待も高かった。

ルイ・フィリップ1世はブルジョワジーに大変人気のある王であった。ヴィクトル・ユーゴーもルイ・フィリップ1世を「万事に優れている完璧な王である」と絶賛しており、1845年にはついに彼はルイ・フィリップ1世から子爵の位を授けられた。彼は永久貴族になったことで政治活動にも興味を示すようになった。彼にとっては理解のあるルイ・フィリップ1世のような英君を理性的な知識人がサポートする七月王政が理想の体制であったようだ。

しかし、ヴィクトル・ユーゴーとマリウスには決定的な相異がある。マリウスは共和派の秘密結社ABC(ア・ベ・セー)の友に所属する貧乏な弁護士という設定になっている。ブルジョワ出身の彼は幼い頃に母を亡くし、母方の祖父に育てられたが、17歳のとき、ナポレオン1世のもとで働いていた父の死がきっかけでボナパルティズムに傾倒し、王政復古賛成派の祖父と対立して家出していた。マリユスが『レ・ミゼラブル』で参加したのは、七月革命ではなく、その2年後に起こった六月の暴動である。六月暴動(1832年)はより過激な学生と労働者による蜂起であったが、僅か二日間で鎮圧されてしまった。

フランスでは政治の体制は次第にブルジョワジー対労働者という図式に移行していた。1948年の労働者や農民主導の二月革命により、ルイ・フィリップ1世は退位しイギリスに亡命し、七月王制は終わりを告げる。フランスでは、王制は撤廃され、1848年憲法の制定とともに共和制(第二共和政)に移行した。この年の6月にやはり六月蜂起と呼ばれる労働者の反乱が起こっているので、上述した1832年の六月暴動と混乱してしまいそうになる。結局11月に大統領選挙が行われ、ナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルトが大統領に選出された。その後、ルイ・ナポレオン・ボナパルトは、自身を皇帝にして(ナポレオン3世)1852年にフランス第二帝政を開始するのである。

ルイ・フィリップ1世がイギリスへ亡命した後ですら、ヴィクトル・ユーゴーはあくまで、ルイ・フィリップの嫡孫である幼いパリ伯を即位させるべきだと主張したほどである。第二共和制で次第に独裁化していくナポレオン大統領には常に強力な反対者であったユーゴーは、1851年のナポレオンのクーデターの後にナポレオンに弾圧されるようになり、命の危険を感じたユーゴーはベルギーへと亡命することになり、ベルギーの首都ブリュッセルからナポレオンへの批判を開始することになった。しかしベルギーにも弾圧の手が伸び、彼はさらにイギリスの辺境の島に身をひそめることになる。この時期に六月暴動の挫折を記録した『レ・ミゼラブル』を執筆し、それが全世界的なベストセラーとなった。

1870年に勃発した普仏戦争はフランスの大敗北に終わり、セダンの戦いでプロイセン王国の捕虜となったナポレオン3世は失脚した。これによってユーゴーは帰国を決意し、19年ぶりに祖国の土を踏むこととなったが、彼を待っていたのは、彼を世界的文豪或いは国民的英雄として熱狂的に歓迎するフランスの国民であった。

普仏戦争を収拾するために臨時政府が成立したが、この政府がビスマルク率いるドイツ政府に対して屈辱的な講和予備条約を結んだ。それに激怒した民衆が蜂起して、社会主義政権を標榜するパリ・コミューンの成立が宣言された。このコミューンの政策には労働条件の改善など社会政策的な要素が含まれており、世界初の社会主義政権と言われたが、パリ・コミューンの指導者は内部対立を収拾することもできず、すぐに政府軍によって鎮圧された。コミューン参加者の多くが射殺ないしは軍事法廷によって処刑された。パリ・コミューンの鎮圧は、多くのフランス国民にとっては政治的安定をもたらすものとして受け入れられた。

19世紀のヨーロッパ諸国では、王党派、ブルジョアを中心とする共和派、軍部政権、マルクス主義の影響を受けた労働者・プロレタリアートの武力闘革命による階級闘争主義が思想的な争いを繰り返したが、ユーゴーの目指したものは王制と共和制の中間、開明的な国王を賢いブルジョアが理性的な憲法と普通選挙で支持するものであっただろう。これは隣国の英国が追求したものと同じであり、七月革命の犠牲を経て誕生した七月王制が彼にとっては理想の政権であっただろう。しかし、その後の亡命生活を経て、ユーゴーの政治観も深まったのであろう。貧困にあえいでいるレ・ミゼラブル(貧しき人々)を救わずして理想国家は作りえないということを心から感じたのだろう。だから。七月革命をただのばら色の栄光と描かず、六月暴動の陰翳を『レ・ミゼラブル』に入れたところにこの物語の深さがあるのだろう。

ユーゴーは1885年5月22日、パリにて84歳で逝去した。国民の英雄、文豪としてパンテオンへ敬意を持って埋葬されたのである。

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