[映画] 屋根の上のバイオリン弾き Fiddler on the Roof (1971年)

当時帝政ロシア領であったウクライナに生まれたユダヤ人作家ショーレム・アレイヘム(1859年生まれ)が1894年に書いた短編小説『牛乳屋テヴィエ』が、1961年にブロードウェーで『屋根の上のバイオリン弾き』というミュージカルとして上演され、大ヒットになった。このミュージカルはノーマン・ジュイソンの監督とプロデュース、ミュージカルの脚本も担当したジョセフ・スタインの脚本で、1971年に映画化されたのである。村の牛乳屋のテヴィエとその5人の娘のうちの上の3人の結婚と、帝政ロシアの迫害により一家が故郷を追われてアメリカに移住するまでを描く。

この映画の大きなテーマは二つある。一つは、原作の小説にあるように、伝統を守ってその共同体で平和に暮らすユダヤ人の家族が、娘の結婚相手の選択で新しい時代に対応せざるを得ないという時の流れである。監督のノーマン・ジュイソンは後にインタビューで映画に対する聴衆の反応を聞かれて、(インタビューアーはニューヨークでの反応を念頭においてこのような質問をしたのだろうが)彼は自分の日本での経験を語っている。彼は日本で繰り返し「顔と洋服を取り去ってみれば、この映画で描かれているのは、今日の日本そのままだ」という聴衆の反応を受け、「日本人の聴衆は本当に理解力のある素晴らしい人たちであり、この映画が心から彼らに受け入れてもらったと思う」と語っている。1971年に来日して、その後20年たってもまだ日本の聴衆の反応が監督にとって印象に残っているのであり、その好印象を問わず語りに語っているのである。

たしかに60年70年代の日本はこの映画が描いている世代断絶が大きな問題になっていたのではないか。その当時は世界的に政治的変革の時ではあった。しかし日本では、「仲人によって身近な人とお見合いで結婚する」というそれまで絶対的な結婚の原則が崩れかけてきたのがこの70年代だったのである。それまで家柄の釣り合いだけで考慮していた結婚相手も、高度経済成長の中で、「経済力」という新しい要素も加わったし、女性も自分が好きな人と結婚したいと望むようになった。要するに、親も「家柄」「経済力」「愛情」という三つの矛盾するかもしれない条件の中で迷い、「経済力」とも関連する「学歴」と「職業」という考慮も入ってくるし、「愛情」に関する「外見」や「人柄」への考慮も入ってくる。親はその中で何が一番大切なのかを選ぶ確固たる基準がなかった。「高学歴だが低収入」と「すごい学歴ではないがそこそこの金持ち」のどちらを選ぶかとか、「家柄の低い成金」と「衰退した良家の子弟」のどちらが価値があるのかとか、その場その場であちらを選び、こちらを選びという感じで、全くこの映画の父テヴィエと同じである。結局長女は、仲人が押し付けようとした「金持ちだが卑しい職業とみなされていた肉屋の年老いた男」より、自分が好きな貧しい若い男と結婚する。次女は村で一番身分が高い聖職者の息子に憧れるが、結局教育を受けた自分の家庭教師である青年に心ひかれ、彼が革命運動の罪でシベリアに流刑になると彼と行動を共にして、シベリアに流れて行く。三女はユダヤ人ではない男と駆け落ちをして、ギリシャ正教の教会で式を挙げてしまう。長女次女の行動はそれなりの理由をつけて許したテヴィエも、三女の結婚だけは許すことができないのである。日本では混乱した結婚相手の条件も現在では「三高」(高身長、高学歴、高収入)に簡便化しているようだが、50年前の社会的過渡期ではそれほど単純ではなかったのである。また現在では、「お見合い結婚制度」などもう死んでおり、それがあったということも知らない世代がいるのではないだろうか。

もう一つのテーマは、ミュージカル・映画化で加えられた、帝政ロシア末期におけるユダヤ人への迫害である。ユダヤ人への迫害はロシア語でポグロムといわれる。これは誰が行ったと特定されるものでなく、その時その時で不満を持った人々が一揆や反乱を起こした際にユダヤ人が巻き添えで襲撃されたこともあるし、1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、ロシアで反ユダヤ主義のポグロムが起こったりもした。『戦艦ポチョムキン』でも当時の根強い反ユダヤ人主義が見てとれる。このポグロムは、帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したので助長されることになり、1903年から1906年にかけて激化し、ユダヤ人の海外逃亡が続いた。この映画の原作者ショーレム・アレイヘムも1905年にアメリカに亡命している。映画監督の スティーブン・スピルバーグの一族もウクライナのユダヤ人であったが、第一次世界大戦が始まる前にアメリカに移住している。たぶん、ショーレム・アレイヘムもスティーブン・スピルバーグの祖先も同じ時期に同じ理由でアメリカに移住してきたのだろう。

『牛乳屋テヴィエ』がミュージカル化で『屋根の上のバイオリン弾き』という魅力的な題名に変わっているのは、ユダヤ人の画家シャガールの絵に触発されたと言われている。ローマ帝政期にローマ皇帝ネロによるユダヤ人の大虐殺があった時、逃げまどう群衆の中で、ひとり屋根の上でバイオリンを弾く男がいたという故事を描いたシャガールの絵にちなんでこの題名が付けられたという。マルク・シャガールは1887年、ロシア帝国領であったベラルーシ(ウクライナの北隣)に生まれた。彼は1922年にフランスに移るが、1941年にはナチスの迫害を避けてアメリカに移住した。結局彼は第二次世界大戦後フランスに戻り、その地でフランス人として暮らし、その一生を終えるのだが。『牛乳屋テヴィエ』が『屋根の上のバイオリン弾き』と変わったとき、この原作にもっと社会的な要素が加えられた。

Fiddler_chagallこの映画の魅力はもちろん、その美しい音楽(「サンライズサンセット」などの名曲)やロシアの当時のユダヤ人の共同体の生活を見事に再現したシネマトグラフィーであろう。ノーマン・ジュイソンは映画会社から予算の関係上アメリカでロケをしてほしいと依頼されたが、厳しい予算にも拘わらず当時の雰囲気を残すユーゴスラビアでロケをすることを選んだと言う。しかし最大の魅力は世界情勢につれて移って行く価値観の違いにも拘わらず、それを受け入れつつもなお変わらず伝統の価値を保っていくテヴィエの生き方であろう。それは、コミュニティーで助け合い、同時に何が起こっても父として、家長として家族を守るという決意である。何百年も宗教の違いを超えて地域のコミュニティーの中で平和に生きてきた人々、助け合いの伝統はそんな安心感を基盤にして育ち、受け継がれて来たのである。テヴィエが生きたのは、不幸にもそんな伝統が覆されるような政治的変革の時代であった。善き人の心にある豊かな伝統が時代に踏みにじられるのが哀しいのである。

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[映画] ジャッカルの日 The Day of the Jackal (1973年)

これは、とにかく面白い映画である。系統としては、007・ジェームズ・ボンドシリーズ 或いはジェイソン・ボーン三部作、ドラゴンタトゥーの女と似ているのだが、その面白さが桁外れである。現代の映画産業界は、コンピューター・グラフィックや派手なアクションや爆破シーンを取り入れまくっても、40年たってもまだこの映画を超えられていないような気がする。『ジャッカルの日』は「黒澤明が選んだ映画100本」の中にも入っている。黒澤はこんな映画が作りたかったんだろうな、と思わせるような完璧な映画である。彼の技術力では、もちろんこのレベルの映画を作ることは可能だったとは思うが、残念ながら黒澤はフレデリック・フォーサイスによって書かれた原作のような優れた「原石」を見つけることができなかったのだろう。この映画の監督は、『山河遥かなり』『真昼の決闘』『地上より永遠に』 『尼僧物語』『 わが命つきるとも』『ジュリア』などで何度もアカデミー賞にノミネートされ、結局生涯に四つのアカデミー賞を獲得したフレッド・ジンネマンである。

この映画は、ジャッカルというコードネームの殺し屋が、フランスのドゴール大統領を暗殺を企むというものである。歴史を知っている聴衆は、当然ながらそんなことが現実に起こらなかったということを知っている。しかし、聴衆は最後の最後まで手に汗を握り、この映画に振り回されてしまうのである。実在の著名なプロフェッショナルな暗殺者たちが愛読し実際に参考にしたという話まで報道された原作を基にしたこの映画は、1960年代のフランスを巡る世界情勢を非常によく描いている。また、この映画の前半に描かれているドゴール大統領の暗殺未遂事件は史実である。史実とフィクションを巧みに組み合わせて行くこの映画には不思議な説得力がある。最初はジャッカルの視点で描かれるので、聴衆はジャッカルが何をしているのかがわかるし、ジャッカルのクールな魅力につかまれてしまう。しかし、後半からジャッカルを追う刑事の視点に移って行き、ジャッカルがどこに隠れて何を考えているのがわからなくなってしまい、映画の中の不安度が増して行く。まったくお見事である。褒めても褒めたりない映画に出会った思いである。

第二次世界大戦では、フランス北部はドイツに占領され、南部のヴィシー政権はドイツの傀儡政権とみなされていた。にもかかわらずフランスが第二次世界大戦の敗戦国ではなく戦勝国に分類されたのは、イギリスに亡命したシャルル・ド・ゴール率いる自由フランスが連合国に参加し、反ドイツ、反ヴィシーとして戦ったからである。しかし第二次世界大戦の疲弊でフランスは列強国としての地位は崩れかけており、戦前の植民地体制を維持するのが困難となってきた。アルジェリアの情勢が危機に陥った1954年に、フランスはベトナムから撤退して、そのフォーカスをアルジェリアに向けようとした。

アルジェリアでは19世紀よりフランスの植民地化が進んでおり、そうしたアルジェリアの植民者はピエ・ノワールと呼ばれた。第二次世界大戦では、アルジェリアはヴィシー政府を支持したが、1942年の連合国軍のトーチ作戦が発動し、アメリカ合衆国軍とイギリス軍が上陸すると、アルジェリア提督はシャルル・ド・ゴールの自由フランスを支持し連合国に加わり、パリ解放までアルジェに自由フランスの本部が置かれた。このようにアルジェリアはフランスにとって非常に大切な土地となった。多くのアルジェリアの現地人が愛国心に燃えて、フランス軍にフランス志願兵として参加したのである。

第二次世界大戦後、1954年にアルジェリア独立を求めてアルジェリア戦争が起こったが、これは非常に泥沼の、フランス世論を真っ二つに割る戦争となった。った。フランス人入植者ピエ・ノワールの末裔はアルジェリアの独立に反対し、フランスの栄光を願う右派世論を味方に付けた。また当時は過激な暴力行為をとるアルジェリア民族解放戦線(FLN)に対する恐れや反感もフランス人の中に根強かった。しかし度重なる戦争の結果厭戦世論も強く、アルジェリアの独立を認めたほうが結局はフランスのためだという意見も強かった。現地のアルジェリア人の間でも、親仏派と独立派との厳しい対立があった。この政治不安の中で第二次世界大戦後に樹立された第四共和制が倒され、シャルル・ド・ゴールが大統領に就任したことにより第五共和政が開始された。

シャルル・ド・ゴールは強い栄光のフランスを象徴する人物であり、アルジェリアの軍人や植民者たちは、ドゴールが自分たちの味方になってくれると期待したが、ドゴールは逆にアルジェリアの民族自決の支持を発表した。1961年の国民投票の過半数もそれを支持し、1962年に戦争は終結してしまった。現地軍人や植民者らは大混乱のうちにフランスに引き揚げ、逃亡することができなかったアラブ人の親仏派の多数は虐殺された。アルジェリアの独立に反対する勢力は戦争中に秘密軍事組織OASを結成してアルジェリアでテロ活動を続けており、またフランスでも政府転覆を狙って対ドゴールのテロ活動を行った。軍人ジャン=マリー・バスチャン=チリーによるドゴール暗殺計画が失敗し、彼が銃殺刑されることから、この映画は始まる。その後ドゴール政権はOASをあらゆる手を用いて追い詰めていくのである。

しかし、ドゴールにも新しい敵が生まれていた。学生や労働者を中心とした左翼運動であり、彼らが起こした1968年の五月革命を抑えるために、軍部の力が必要となり、ここで彼は逮捕・逃亡していたOASの主要メンバーたちへの恩赦を行うのである。

完璧で、褒めても褒めたりない映画と前述したが、この映画には一つ欠点がある。この映画はアメリカ映画であり、登場人物がフランス人を含めて皆英語を話すのである。この映画はオーストリア、スイス、イギリス、イタリア、フランス、デンマークなどヨーロッパの多くの国を移動するのだが、すべての主要登場人物が英語を話すので一体今どこの国にいるのかわからなくなってしまう。私はアメリカの映画が英語に固執する理由が今もってわからないのである。

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[映画] ブリキの太鼓 The Tin Drum(1979年)

『ブリキの太鼓』は、ドイツの作家ギュンター・グラスが1959年に発表した長篇小説を基にして、フォルカー・シュレンドルフ監督により1979年に映画化されたものである。映画は原作の後半を省いているが、前半はかなり原作を忠実に再現しているという。ギュンター・グラスはこの本を含めて作家としての業績で1999年にノーベル賞文学賞を受賞しているし、この映画自体はカンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞、そしてアカデミー外国語映画賞を受賞している。私は原作を読んでいないので、この映画のみについて書いてみたい。

この映画はガラス板を爪で引っ掻く音を聞かされるような不愉快な映画である。映画の主人公は何らかの理由で体の成長が止まって幼年のままであるが、頭脳や感情は立派な大人である。「この映画は戦争に反対するために成長を止めた主人公の戦争反対の思いである」などというキャッチフレーズはとんでもない。一言で言えば、体が小さいから安心させて好き勝手をして、結構いい目をみて、自分が責任をとらなくてはならない時は子供だからと、のうのうと責任逃れをしている主人公の物語である。主人公はその特異性ゆえに、大人の自分に対する甘さ、自分を利用する大人の狡さを敏感に感じ取ってしまうのだろう。また、主人公は作者ギュンター・グラスの一部を投影しているような気がする。

ギュンター・グラスは小人ではないが、この映画・小説の主人公のオスカルのように、ポーランドとドイツの拮抗の狭間にあった自由都市ダンツィヒで、やはりオスカルのように、ドイツ人でナチス党員の父と少数民族として差別されていたカシューブ人の母の間で生まれていた。オスカルは、仲間の小人たちと小人サーカスに参加してナチスの高官たちを慰問し、結構いい思いをするのだが、実際にギュンター・グラスも若いころはナチスの活動を一生懸命やっていた。それは彼自身もあまり公表したくない過去だったのかもしれないが、彼がそれを告白した時は、ノーベル賞作家で平和支持者のように行動していたギュンター・グラスを理想化していた世界の読者はかなりショックを受けたそうだ。

成功した作家だから即完璧な人間であるわけはないから、それを期待するのは読者の身勝手なのではないだろうか。また真面目に人生を考えて醜い世界を変えようと思い共産主義に染まる若者が嘗て多かったから、理想主義でこの世の中をもっといいものにしようという情熱でナチスに走った純粋な人間もたくさんいただろう。単に過去の真摯な決心を今日的な観点から判断はできないのではないか。この映画は小説の途中で突然終わっているので、聴衆は「不愉快な思いで引きずり回されて、これで終わりなのか?」と思わされてしまう。しかし、原作はその後も続き、相変わらず現実を逃避している主人公がそれなりの成長を遂げ、過去を振り返るところで終わっているそうだ。現実逃避の真っ最中に終わる映画に比べて、その自分勝手な未熟さをもう一つ別の観点で振り返る原作は映画にない深さがあるのではないかと推測する。

この映画が作られた1970年代というのは世界的に迷いの時代であった。冷戦が深刻化しつつも、もはや社会主義が世界を変える唯一の救いだというのが幻想であると大多数の人間が気づき始めたときである。自由主義と社会主義の対立の他に、キリスト教国家とイスラム原理主義国家という新しい対立も芽生えてきた。米英ソがレーガン大統領、サッチャー首相、ゴルバチョフ書記長という現実的な指導者を選び、現実的な解決を探し始めた1980年とは全く違う、「途方に暮れた時代」なのである。甘いハッピーエンドを必ず選んでいたハリウッドでさえ、解決策も救いもなく、絶望的に聴衆を突き放す映画を作り始め、聴衆もそういうタイプの映画が深くて真実だと思い込んでいた時代に、この映画は作られている。40年経った今この映画を見る聴衆はどう思うだろうか。現在の聴衆はもっと心を癒す映画、徹底的に娯楽的な映画、或いは情報があり生き方に肯定的な影響を与えてくれる映画を望んでいるのではないか。この映画がリリースされた時の熱狂的な反応を理解するのはもう難しくなっているのではないかと思われる。

ダンツィヒは、バルト海に接する港湾都市で、ドイツの北東部端を分断しているポーランド回廊にある。この回廊は古来ドイツとポーランドの間で利権を巡り争われた地域であるが、第一次世界大戦でのドイツ敗戦を踏まえて、ドイツから分離されて国際連盟の管轄下に移された。ダンツィヒはベルサイユ条約でポーランド関税領域に組み込まれ、実質的には地続きではないがポーランドと強い関係が結ばれるようになった。ポーランドへ接続されている自由都市の鉄道線はポーランドにより管理されていたし、ポーランドの軍港もあったし、2つの郵便局が存在し,1つは都市の郵便局で、もう1つはポーランドの郵便局であった。この地域の住人は、ポーランド人とドイツ人が大半をしめ、カシューブ人やユダヤ人のような少数民族もいた。

最初はポーランド人の利益を守り、ポーランド国の勢力を伸ばすことが目的で建設されたダンツィヒであるが、次第にドイツ人やナチスの影響が強まり、1933年にナチスが選挙で勝利した後は反ユダヤ、反カトリック(ポーランド人やカシューブ人が対象)の法律が成立することになった。1939年、ダンツィヒのナチス党政府は、ダンツィヒのポーランド人の迫害を本格的に行うようになった。そして1939年9月1日、ダンツィヒにあるグダニスク湾に停泊していたドイツ戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタイン号が何の布告もなくダンツィヒのポーランド軍駐屯地に激しい艦砲射撃を開始して、第二次世界大戦が始まったのである。

ポーランド軍はポーランドの郵便局を要塞として抵抗した。ポーランドの郵便局はダンツィヒ市域ではなくポーランド領と見なされており、ポーランドへの直通電話の回線が引かれていた。従業員は大戦以前から武装し、また銃撃の訓練を受けていたといわれる。またここはポーランドの対独秘密情報組織が密かに活動していたという説もある。しかし彼らの必死の防戦もドイツ軍の攻撃には歯が立たず、結局郵便局のポーランド民軍は降伏した。

第二次世界大戦は、ダンツィヒでは非ユダヤ系ポーランド人住民の大半がドイツ民兵である自衛団等により虐殺され、ユダヤ系住民はホロコーストの対象となり強制収容所へと送られた。1945年3月、ダンツィヒはソ連赤軍により解放された。映画でオスカルの母がカシューブ人でドイツ人の夫とポーランド人の愛人の間を行ったり来たりするのは、そのダンツィヒの人種闘争を象徴しているのだろう。オスカルの実際の父はポーランド人の男である可能性が強いが、戸籍上では彼はドイツ人の子供なので、戦後オスカルは命からがらドイツに逃げ出すが、彼の祖母はダンツィヒに残り、オスカルと生き別れになる。祖母はカシューブ人なので、ドイツに受け入れてもらえなかったからである。

現代のダンツィヒはポーランド領でありグダニスクと呼ばれている。第二次世界大戦で殆ど廃墟になったが、現在は市民の努力にようり歴史的町並みが再現され、美しい街であり観光でも栄えているという。

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[映画] ミツバチのささやき El espíritu de la colmena The Spirit of the Beehive (1973年)

この映画の舞台は、激しいスペイン内戦の末、総選挙で選ばれた左派人民戦線政府を覆して、フランコ総統が実権を握った1939年の直後である。その後、フランコが死亡する1975年までスペイン内で恐怖政治が続き、人々は報復の恐怖から沈黙する日々が続いた。この映画が製作された1973年には、独裁政権の厳しさも当初ほどではなくなっていたが、映画は当局の厳しい検閲を受けなければならなかった。現代でもスペインの映画に比喩と抽象化が多いのは、この40年間の文化的弾圧に対する文化人の態度が一つの文化伝統になってしまったからかもしれない。事実この映画には何一つドラマチックな出来事はない。見終わったあとで、一体何が言いたいのかと狐につつまれるような映画だ。

ただ一つ、映画の中で逃亡した解放戦士が射殺されるのを暗示するシーンがあり、検閲官もこれには目をつけたが、「こんな退屈な映画は誰も見ないだろう」と判断して、ノーカットで上映が許可されたという経緯がある。政治的アジェンダを抽象化する映画人とそれの裏を読もうとする当局のイタチごっこだったのである。しかし、やっと上映されたこの作品は人々の心を打ち、傑作という評判を確立する。映画の美しい映像が人の心を打ったのか、それともスペインの聴衆は比喩の中に何かを発見する術を学んでしまっていたのか?

この映画はあまりにも抽象的なので、見る人にあらゆる解釈を許してくれる。政治的な暗喩として極端な解釈の例を言うと、どうでもよさそうな蜜蜂の研究に明け暮れる父親は自分を殺して生きている知識階級の象徴。彼が嫌悪する蜜蜂の社会は、統率がとれているが創造力が欠如したフランコ統制化の社会の隠喩。解放派でどこかに逃避した昔の恋人(これは私の想像だが映画ではそうとしか思えない描き方をされている)に手紙を書くことで一日を過ごす母は自由への憧れと過去に対するセンチメントの暗喩。同年代だがずっと大人びて見える姉のイザベラは、フランコ政権に批判なく順応している若い世代を表し、世界を怯えた目で見る妹のアナは1940年当時のスペイン共和国の純粋な若い世代を象徴している。主人公アナの家庭が感情的に分裂している様子は、スペイン内戦によるスペインの分裂を象徴し,廃墟の周りの荒涼とした風景はフランコ政権成立当初のスペインの孤立感を示している。ラスト近くで子供を無視して自分の世界にこもっていた母の気持ちが和らぎ、家族の繋がりが強くなっていくが、これはスペインの将来に対する希望とも解釈できる。

それと極端な解釈は、政治には関係なく、この物語はアナという少女が現実と空想の世界が混沌とする幼い心から、成長していくというものである。

というわけで、映像の美しさは誰でもが感じることだが、これをどう解釈するのかというのは議論が分かれるだろう。当時のスペインは誰もが背中の後ろから監視されているような生活を送っていたから、この監督が全く政治的なスタンスがないとはいえないだろう。誰もが心の中で恐怖政治に向かい合わなくてはならなかったのだから。しかし、すべてが反政府への抗議の象徴だとも思えない。この映画が、そんな理知的なゲームを作るような感覚で作られた映画とは思えないのだ。

この映画は幼い誰もが感じる未知の世界への恐怖感を描いている。フランケンシュタイン、闇、夜、廃墟、毒キノコ、精霊、深い井戸、森、池に映る映像、鉄道、子供にとってはすべてが恐怖だ。しかし、アナにとって、その子供の自然な恐怖心に対して「怖がらなくても大丈夫だよ。」と包み込んでくれなくてはいけない親がここでは奇妙に欠如している。親も政治に対する恐怖を感じているからだ。アナはフランケンシュタインを捜して行く過程で逃走兵と知り合う。その逃走兵が射殺されることにより、アナは自分の心の中で作り上げた恐怖よりももっと怖いものが現実にあるということをおぼろげながら知る。それがこの映画に隠れた政治批判ではないのだろうか?

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[映画]モスクワは涙を信じない Москва Слезам Не Верит Moscow Does Not Believe In Tears (1979年)

題名の「モスクワは涙を信じない」とは「泣いたところで誰も助けてはくれない」という意味を持つロシア語の格言であるそうだ。1980年のアカデミー外国語作品賞も受賞したということで、1980年代から始まった「建て直し」の直前に感じるソ連に対する諸国の明るい期待をになっての受賞となった。確かに悪い映画ではないし、ロシア人の生活もリアリスティックに描いているので、ロシア人にもその他の国の聴衆からも暖かく迎えられた作品というのも納得がいく。

粗筋を簡単に述べると、1950年代後半から1970年代後半にかけてのモスクワを舞台に、田舎から夢と仕事と結婚相手を求めてモスクワに出てきた3人の労働者階級の女性の20代から40代への成長を描いている。エカテリーナは学問により出世をしようとする。その途中でテレビ局のカメラマンのルドルフとの間の子供ができてしまうが、認知してくれぬ男に頼らず、大学に行き、20年後には大工場のディレクターに出世する。エカテリーナの一人の友人アントニアは労働者の夫と結婚して堅実な生活を築いている。もう一人の友人リュドミラは玉の輿を狙い、それが成功したかに見えたが結局その結婚は失敗してしまう。エカテリーナは労働者ゴーシャと出会い真剣な交際を望むが、ゴーシャはエカテリーナが自分よりも給料が高いことを知り、離れていく。悲しむエカテリーナに昔の友人たちが集まりなんとかこれを解決。ロシア人と一緒に仕事をした人は、ロシア人が情にもろく友情に溢れたに人々だとわかることが多いだろう。この映画はキャリアの話、女性の自立、ソビエトの市民の日常の話であると同時に友情の話でもある。ただ一つこの映画にないもの、それは体制に対する批判である。

30年後の2012年。ロシア大統領選はプーチン首相が約64%の得票で当選したが、その勝利演説でプーチンは涙を流した。中流層の反プーチン運動の高揚で追い詰められた選挙戦だったがやはりプーチンは強かった。プーチン氏は演説で、「われわれは開かれた公正な戦いに勝ったのだ」と絶叫した。ステージに上がる前から涙が頬を伝わっていたようで、演説中はぬぐおうともしなかった。その後、「あの涙は何だったのか」との問いに、プーチン氏は「風が目にしみたのだ」と答えたそうだ。

翌日の反政府デモ隊は「モスクワは涙を信じない」と書いたプラカードを掲げて不正選挙に抗議した。ロシア人はこの映画があってよかった。しかしプーチン率いるロシアはこれからどうなっていくのだろうか。いろいろ不穏な現代情勢の中、ロシアが強くて健康な民主国家に育っていくのは、ロシア国民だけではなく、誰もが願うことだと思うのだが。

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