[映画]  The Way I Spent the End of the World、 Cum mi-am petrecut sfârşitul lumii(2006年)日本未公開

この映画は、ルーマニアの首都ブカレストに住む17歳のエバの1989年の人生のスケッチである。1989年はルーマニアでは共産党書記長のニコラエ・チャウシェスクが処刑され、共産主義独裁政権が倒された年であるが、この映画は、反抗的で無表情で無愛想で、なげやりでいい加減にみえる(しかし外見は可愛らしくて、ボーイフレンドと話す時だけはちょっと笑顔をみせる)エバが、社会主義政権の有力者の息子アレクサンドラと付き合いつつも、ニコラエ・チャウシェスク暗殺未遂の容疑で両親が行方不明になっているアンドレーにも興味を示し、二人でドナウ川を渡ってユーゴスラビアへの亡命を企む。結局エバは「や~めた」と言って川を横断するのを中断し、一人でブカレストに帰って来て、怒った両親から、一家の立場を安全にするためにアレクサンドラともっと仲良くしてほしいと頼まれる。エバはアレクサンドラが最近購入したぼろアパート(しかしルーマニアの水準では高級アポートかもしれない)に目を奪われる。結局二人は何となく男と女の関係になってしまい、帰宅したエバは得意満面で「私たち婚約したわ!!」と宣言するのだが、その直後に流血革命が起こり、それまで鬱屈として体制の言いなりになっていたかに見える大人たちが、突然嬉々として破壊活動を始める。この映画は流血革命のあと上流階級から滑り落ちたアレクサンドラの一家、無事ユーゴスラビア経由でイタリアに辿りついたアンドレー、得意満面に国際路線の客船搭乗員としてキャリアを追求するエバを短く描いて終わる。

エバは最初から最後まで無表情で傲慢で、彼女の内面は全く描かれていない。政権の中枢を象徴するアレクサンドラと反体制の象徴のアレックスを行き来し、双方のハンサムな若者をそれなりに好きなのだから、ティーンネージャーの愛とはこういうものだろうと思わせる。ソ連の衛星国の中でも後進国のルーマニアの荒涼とした様子、首都ブカレストでさえ荒れ果てており、両親が何をしているのかわからないが、いつも暗鬱な顔をして疲れていて、子供に対する関心もない。暮らし向きは悪くないはずだが、家の中も荒れ果てている感じだし、食事もスープとパンだけという粗末さだ。政治議論は全くなく、政治に係わることも恐れている大人たちだが、その荒廃した日常生活の描写が、行き着く所まで行き着いたルーマニアの独裁社会主義政権の停滞の実態を表し、説明の言葉も必要ない。

ルーマニアの映画界は1980年後半から新しい活動の兆しをみせ、2000年代にはカンヌ映画祭を中心に注目を浴びるようになった。そのテーマは社会主義国から自由経済国家体制への移行や、チャウシェスク体制の批判が中心であるが、編集未完成のようなドキュメンタリー風のミニマリストの作品が多いようだ。これを「新鮮」というか、「アマチュアリズム」というかは議論の分かれるところであるが、洗練された映画技巧を誇るポーランドやチェコやハンガリーの映画を観たあとでは、ルーマニアの映画はまだこれからだという感じがする。カンヌでルーマニア映画が一時もてはやされ、この映画でエバを演じたドロティア・パトレは主演女優賞までもらっているが、これはルーマニアに対する応援という西欧諸国の気持ちもあるのだろう。この映画もストーリが唐突であり、冬と夏が何回も繰り返されるので何年かにわたってのお話だと思っていたら、たった一年である。そのへんの正確さに期すという態度はない。またエバを演じるドロティア・パトレが老け顔で30歳くらいに見え、母親を演じる若作りの女優と全く似ていないし、二人は姉妹か友達という感じに見える。確かに両女優とも結構美人なのだが、これでいいのだろうかと思ってしまう。何となく気分のままに、細かいことに拘らず作った映画という感じで、世界には凝りに凝って作る監督が多い中で、さてルーマニアの映画はこれからどういう方向に行くのだろうかと思わされる。

1989年というのは、中国で天安門事件が起こり共産主義の徹底が強化された年であるが、東欧では比較的平和的に共産主義独裁国家が倒された年でもある。1978年にポーランド出身のヨハネ・パウロ2世がローマ教皇に就任した時は、誰もこれが冷戦の終結に繋がる一歩だとは思わなかっただろうが、実際にヨハネ・パウロ2世が冷戦の終結になした貢献は偉大なものなのではないか。ポーランド人は何か心の中で信じるもの、精神的な希望を感じたのである。同時に現実的でカリスマのある労働運動の指導者レフ・ヴァウェンサ(日本ではワレサと呼ばれた)議長の登場である。彼が『連帯』という言葉で風向きを変えようとした時、東欧を見つめる世界の大半の人間は「ああ、またハンガリー動乱やプラハの春が今度はポーランドで繰り返されるのか」と思っただろう。しかし、ヴァウェンサの態度は異なっていた。彼は非常に二枚腰で柔軟であり、モスクワの反応を用心深く確認しながら一進一退で、非暴力を主張し穏健に辛抱強くポーランドの民主化を進めて行ったのだ。

ハンガリーも同じ「大人の国」であった。もとから、ハンガリーは自国はオーストリアのような精神の先進国であるという自負があった。1985年年にソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ政権が始めた「ペレストロイカ」でソビエト連邦が持っていた東側諸国の共産党国家に対する統制、いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」が撤廃されると、ハンガリーは巧みにこの動きを利用して、1989年5月にハンガリーとオーストリア間の国境を開放した。6月にはポーランドで選挙によって非共産党政権が、そして10月にはハンガリーでも非共産党政権が樹立された。

ハンガリー・オーストリア国境を東ドイツ市民が大挙して集団越境し、オーストリア経由で西ドイツに亡命することが可能になった今、ベルリンの壁の存在意義は喪失した。11月10日にベルリンの壁は破壊されたのである。それはチェコスロバキアやルーマニアにおいて、民主化を要求する市民たちを大いに励ました。チェコスロバキアでは11月17日にビロード革命と呼ばれる無血革命が起こった。しかしルーマニアでは独裁者ニコラエ・チャウシェスクの処刑という血生臭い結果となった。

ニコラエ・チャウシェスクは1967年から1989年までの22年間ルーマニアの独裁者であった。最初はプラハの春の鎮圧に反対してソ連支援の軍隊を出すことを拒絶したり、 ユーゴスラビアと共に親西側の態度を表明し、IMF やGATTに加入し西側経済にも同調し、イスラエルをソ連衛星国の中で唯一承認して外交関係を立ち上げ、東側諸国が軒並みボイコットした1984年のロサンゼルスオリンピックにおいても、ルーマニアは唯一ボイコットをせず参加した。ニコラエ・チャウシェスクは西側諸国では非常な好印象を持たれていたし、国民の支持も高かったのである。しかし残念ながら、権力の座に長くいすぎたようである。彼は次第にルーマニアの国家体制を北朝鮮の朝鮮労働党や中国共産党の方向に向けようとし始めた。

ニコラエ・チャウシェスクの不人気を決定的にしたのは、彼の経済政策の失敗である。西側諸国から人気のあったルーマニアであるから、西側からの資金援助を得ることは容易であったが、これは両刃の刃であった。ルーマニアはその多額の融資の返還に苦しみ、国内経済を犠牲にしルーマニア人の生活が大変貧窮したのである。国内では食糧の配給制が実施され、無理な輸出が優先されたのでルーマニア国民は日々の食糧や冬の暖房用の燃料にも事欠くようになり、停電が頻繁になった。この辺はこの映画でも描かれている。

2012年の「中東の春」ではTwitterによる交信がリアル・タイムで機能し、革命を推進したが、1989年の「東欧革命」ではテレビが大きな役割をしめている。ルーマニアの国民はテレビを通じてハンガリーで、ポーランドで、チェコスロバキアで、東ドイツで何が起こっているかを知ることができた。この様子もこの映画で詳しくうかがうことができる。

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[映画]  英国王給仕人に乾杯! I served the king of England (2006年)

この映画は英国映画ではなく、チェコ映画である。英国王はもとより、英国も全く登場しない。エチオピアの皇帝がちょっと顔を出すだけである。だから『英国王のスピーチ』のような映画を期待してこれを観ると???と言う感じになるのではないか。

この映画は美しくグロテスクな映像の風刺喜劇である。しかし、主人公の人生やその時代から、この映画はある意味でチェコの近現代史ともいえる。この映画は第一次世界大戦の敗戦でオーストリア=ハンガリー帝国が解体され、チェコ・スロヴァキア共和国が誕生した1918年から、ヒトラーがズデーデン地方を併合し、その後チェコがドイツの保護領とされてしまった1939年をへて、ソ連の後押しを受けた共産党政権が成立した「二月事件」の起こった1948年を描き、1968年あたりで映画は終わる。チェコ共産党の支配下で発言の自由を奪われていたボフミル・フラバルがこっそり1970年ころ書いた小説をもとに、やはり共産党政権下で製作の自由を奪われていた監督イジー・メンツェルが、共産政権崩壊後2006年に映画化したものである。イジー・メンツェルは1967年に、同じボフミル・フラバル原作の映画化『厳重に監視された列車』がアカデミー外国語映画賞を受賞しているが、その後、1989年に共産主義政権が崩壊するまで長いキャリアのブランクがある。

チェコの映画といえば、最初はドイツに痛めつけられて、次はソ連に支配されて、苦しい迫害の20世紀だった・・・というトーンになるのかと思えば、この映画は違った角度から20世紀のチェコの歴史を描いている。この映画で何回ともなく語られているのがチェコのズデーテン地方である。

チェコの歴史は複雑である。チェコの中心はボヘミア地方であるが、ここは11世紀からドイツ人の植民によりドイツ化が進み、また北のポーランド王国、南のハンガリー王国とに支配されるという複雑な支配闘争が続いた。結局1618年から始まった三十年戦争にでチェコ人貴族が敗れたので、ボヘミアに置けるドイツ人の支配権が確立されたが、歴史的にボヘミア地方ではドイツ人とチェコ人の間には対立関係が強かった。チェコは伝統的に反ドイツ汎スラブでロシアに対する親近感が強かったのだが、この地域は結局オーストリア・ハンガリー帝国の一部となった。ボヘミアには炭田が多く、その豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、ボヘミア地方は中央ヨーロッパ有数の工業地帯となった。

ズデーテン地方は、ボヘミアの西の外縁部でドイツ国境の地域であり、古来よりドイツ人が多く居住していた区域であり、ドイツ人とチェコ人の対立が最も激しい地域であった。ドイツ人住民はチェコ人の多数派の支配の下で、職業の選択などの差別に甘んじていた。1918年の第一次世界大戦でのドイツ・オーストリアの敗戦の結果、オーストリア・ハンガリー帝国が解体し、チェコはスロヴァキアと合体してチェコ・スロヴァキアが独立国家を形成した。チェコは反独が主流であったが、ロシアに近いスロヴァキアでは逆に反ロシア親ドイツの気が強かった。チェコはズデーテン地方に侵略し、この地をドイツから奪い取った。この映画でもチェコ人がドイツ人を苛めているシーンがたくさん出てくる。その苛めはユーモアたっぷりに描かれているのだが、注意深く見ると残酷である。チャップリンの映画のような軽快さと巧みな動きで聴衆を見事にひきつけるのだが、裏に毒があり、またいろいろと考えさせられるものがある。

1938年3月にオーストリア併合を達成したヒトラーにとって次の領土的野心はチェコスロバキアであり、ヒトラーはズデーテン地方に居住するドイツ人が迫害されているという口実を使って、ズデーテン地方の支配権を得ようとした。当時チェコは領域を巡って、隣国のポーランドやハンガリーとも紛争中であった。この状況を利用して、ドイツはズデーテン地方の主権を得、その勢いに乗ってチェコを併合してしまったのである。

この映画では鏡が効果的に使われている。鏡は何かを反射するものである。この映画はチェコのメインストリームでない主人公が風刺たっぷりに映し出すチェコの素顔である。主人公は誰にも注目されない地味な小柄なチェコ人には珍しいブロンドの男である。チェコが独立して好景気に沸いていた時は貧しい男である。他のチェコ人がドイツ人を苛めている時、唯一ドイツ人を助けてあげる男であり、ドイツ人の女性と結婚までしてしまう。ナチスの支配が始まり他のチェコ人が弾圧され始めると、妻のおかげで高給ホテルや高給レストランでいい仕事につける。高給ホテルは一見優雅の極みではあるのだが、そこに来る金持ちや高給軍人や政治家たちはそこで本性を曝け出す。ホテル従業員は「すべてを見た上で、何も見なかった振りをする」ということに徹底しているので、そこに来る金持ち連中はホテルの従業員などの目を全く気にしない。主人公を描くことで鏡のようにその時代時代の人間を描いていくのである。第二次世界大戦でドイツが敗北し共産革命が成立した時主人公は大富豪だったのでその罪により15年間刑務所に入れられるという人生を送る。釈放された後、主人公はズデーテン地方に送られ重労働に課せられる。

主人公が到着した時はズデーテン地方は廃墟となっていた。第二次大戦後すべてのドイツ人は強制的に国外追放になったのだ。追放されたというのが一番いい待遇で、もっと恐ろしいこと、たとえば略奪や虐殺のようなものが起こっただろうということが示唆されている。主人公がこの廃墟のような山の中で静かに人生を振り返るというところで映画が終わる。主人公の若い時と老年期を演じた役者は別人で二人は似ていない。主人公の人間性が変わったというために二人の役者を使ったのだろう。この映画は主人公の青年期から初老にかけての35年くらいを描く。普通なら一人の役者が十分演じることができる年数ではあるのだが。

この映画はチェコ近代史にとって汚点のような、あまり触れられたくないズデーテン問題をチェコ人として取り上げている。画像美しき喜劇にはしているが、ズデーテン問題を主題にするのはかなり勇気のいることである。特に原作の著者ボフミル・フラバルはズデーテン問題が公的に解決される遥か以前の1970年代にこの作品を書いているという、その作家としての良心には感嘆する。それを思うとこの軽快なコメディは、自分を含めたチェコ人に「ナチスの被害者となる状況は、自分から作り出したのではないか?隣人とのちょっとした人種の違いで憎しみを持ち続けた自分たちは、心の狭い人間ではなかったのか?」という恐ろしい問題提起をしているのではないだろうか。

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[映画]  冬の街 Uzak Distant (2002年)  うつろいの季節(とき)İklimler Climates(2006年) 共に日本未公開

『冬の街』 と『うつろいの季節(とき)』はトルコの映画監督ヌリ・ビルゲ・ジェイランの製作、脚本、監督による映画である。ジェイランの名声は国際的に非常に高い。『冬の街』ではカンヌ映画祭 グランプリを、『うつろいの季節(とき)』(Climates) (2006年) ではカンヌ国際映画祭 国際批評家連盟賞、Üç Maymun  (Three Monkeys)(2008年)ではカンヌ映画祭映画祭監督賞及び米国アカデミー賞外国語最優秀映画賞のショートリストに、Bir Zamanlar Anadolu’da (Once Upon a Time in Anatolia)(2011年)では再びカンヌ映画祭 グランプリを受賞している。その他にも『カサバ – 町』(Kasaba  Small Town )ではベルリン映画祭カリガリ賞と東京映画祭シルバー賞を、『うつろいの季節(とき)』はSKIPシティ国際シネマ映画祭も受賞している。つまり彼の作品の殆どすべてが著名な国際賞を軒並み獲得しているということで、大変な確率である。しかし彼の作品は一つも日本で公開されていないというのが興味深い。

ジェイランの映画の特徴を一言で言えば、恐ろしいまでに美しいシネマトグラフィーである。映画の一瞬一瞬のすべてが絵画になり得るほど、計算されつくした画像。一瞬の狂いもなく完璧な位置に鳥が飛び、ハエが舞い、ネコが飛び出てきて、人が登場する。雲の色、山の翳り、海の波の動き、建物と路上の色合い、鏡の効果的な使用、外装が剥げかかった電車、廃船の赤い支柱と雪の色のコントラストなど、全く見事である。ライティングにも細心の注意が払われている。音声も繊細で、雑音のような音が効果的に挿入されている。

ジェイランの映像や音声に対するこだわりは、彼の略歴を見れば納得がいくだろう。彼は大学で電気工学を勉強し、またアルバイトで写真を撮り生活の足しにしていた。映画人として成功する前は、写真家というキャリアも持っていた。彼は自分の映画の製作、脚本、監督をやるが、同時に撮影や音響の監督やフィルムの編集までやる。非常にテクニカルな人なのである。

彼は演技に対しても非常にこだわりのある人である。何気ない『男が車から降りて来て声をかける』というだけのシーンでも、数人の役者にそれぞれ10回くらい演技をさせる。そういった50回くらいの取り直しでも、気に入らなければ最終の編集で容赦なく切り捨ててしまう。『冬の街』でも『うつろいの季節(とき)』でも雪のシーンが大きな部分を占めている。イスタンブールでは雪など滅多に降らないのだから、たまたま運がよかったのか。それとも雪が降るまでじっと待っていたのか?

演出でも、彼はかなりマイクロ・マネージメント(細かいところまで、口うるさく指導するタイプ)である。女優がドアを開けて自分の部屋に入って来るという7秒位のシーンでも、1秒の動きに関しても首の傾げ方、唇の上げ方など微に入り細を穿つという感じで口を出す。彼自身の中にはクリアーなイメージがあり、俳優に自分のイメージと同一のものを作り出すことを要求している。俳優によってはかなり厳しい、或いは一緒に働くのはちょっとしんどいと思う人もいるのではないか。

彼の映画の主題は『inner world-心の内面』である。彼は決して政治的な芸術家ではない。少なくとも彼の作品を見る限りそうである。しかし全世界的に激動の70年代に青春を過ごした彼にとって、政治的な動乱は自分と無縁のものではなかった。彼は1976年にイスタンブール工業大学に入学したが、その時期はトルコが政治的に不穏な時期で大学は十分機能しておらず、1977年にはタスキム広場の虐殺が起こった。この事件の真実はあまり公表されていないが、その日は労働者の祝日であり、社会主義者や非合法の共産主義者たちが集まっての集会が予定されていたという。イスタンブール工業大学は学生運動の中心地で勉強ができる環境ではなく、ジェイランはその後再受験してボガジック大学に転校した。兵役を終え、あちこち旅行していた彼が本格的に映画人になろうと決心したのは30代半ばであった。

初期の作品、『冬の街』や『うつろいの季節(とき)』をみていると、これは彼の内面の自伝なのではないかと思わされる。その中で描かれているのは、自己中心的で女性や自分自身にもコミットメントできない孤独な男である。どちらの映画でも主人公の男は外見のいい、知的な職業を持った男である。そんな男に惹かれて寄って来る女性はいるのだが、男は本気で添い遂げようとはしない。女性に自分のすべてを奉げるよりもっと面白いことが人生にありそうな気がして女性を拒絶してしまう。しかし男は結局自分を満足させてくれるものをみつけることができないのだ。別れた女には未練がある。しかしだからと言って誠心誠意で女性を取り戻そうという気力もわかないのである。

主人公の孤独はイスタンブールという都会に住む人間の孤独でもある。イスタンブールに住んでいる住民の多数は田舎から職を求めて移住してきた人々である。彼らは田舎で助け合っていた共同体というものを、イスタンブールという大都会で失っている。しかし彼らは根っからの都会人ではないのである。主人公はふらふらと都会を彷徨う根無し草である。

主人公の孤独はまたトルコという国の孤独さを象徴しているかのようでもある。

オスマン朝は、15世紀にビザンチン帝国を滅ぼして、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てた。しかし19世紀になると、帝国は衰退を示し始め、帝国支配化の各地では、諸民族が次々と独立して行った。第一次世界大戦の敗北により英仏伊、ギリシャなどの占領下で、トルコは完全に解体された。この国家の危機に対して憂国のトルコ人たちは国家の独立を訴えて武装抵抗運動を起こした。卓越した指導者ムスタファ・ケマル(アタテュルク)の下でトルコは1922年にトルコ共和国を立て直すことに成功し、民族断絶の危機を乗り越えた。

トルコは宗教と政治を分離する世俗主義を取り、近代化を図った。トルコはソ連に南接するという立地条件と歴史的にロシアと対抗して来たという過去の経緯から、第二次世界大戦後の冷戦では反共の防波堤として西側から重用された。また冷戦終結後アメリカとイスラム原理主義国家との対立が深まった現代では、イスラム国と西側諸国との間の緩衝地帯としても重用されている。トルコもヨーロッパの仲間入りをしたいという切望はあるだろう。しかし、ヨーロッパではまだ反トルコ感情は残っているし、イスラムの仲間として反イスラムの目で見られることもある。しかしイスラムの国から見ると、トルコはイスラムを切り捨てた国なのである。

トルコ国内での混乱もある。宗教と政治を切り離す立場を取る国民が多数派なのだが、イスラムの復活を望む人も多い。社会主義者もいるし軍部の影響も強い。国際的には慎重に問題を起こさぬよう努める紳士の国ではあるが、国内のバランスはかなり微妙なのである。

ジェイランは、『冬の街』や『うつろいの季節(とき)』で共演した自分より遥かに若い女優のエブル・ジェイランと結婚し子供も生まれて落ち着いた家庭人になっているようだ。『うつろいの季節(とき)』は自分の子供に奉げる作品だとしているが、心の平安を得るに至るまでの孤独の日もあったのだろう。これらの映画を観たあといつまでも波打つのはそのどうしようもない孤独感である。

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[映画] デイズ・オブ・グローリー Indigènes Days of Glory(2006年)

戦争映画は数多くあるが、この映画は他の映画にないユニークな観点を提供している。第二次世界大戦のナチ占領下のフランスの抵抗と勝利が表であるが、これは単に「行った、殺した、勝った」というフランスの勝利ではなく、その中にすでに対戦中に芽生えているフランス植民地の独立の動きと独立後の不正義を暗に描こうとしている。

原題のIndigènesとは原住民という意味である。その地にもともと住んでいたが、よそから侵攻して来た他民族の支配下に押されて少数民族となり、社会の底辺層に置かれている民族を総称する。アメリカ・インディアンやオーストラリアの原住民、日本のアイヌ民族もその例である。民族移動の激しいアフリカのサハラ以北には数多くの原住民がいるが、最も有名なのはベルベル族であろう。ベルベル族は放牧民族であり、アフリカの社会では底辺層に入れられることが多かった。しかし、忠義心に厚く勇敢であり、移動することも厭わなかったので、優秀な傭兵として支配階級に利用されることが多かった。北アフリカでアラブ人に抑圧されていたアルジェリアやモロッコのベルベル人の多数は、殖民国フランスがアラブ人とベルベル人を公平に扱うと感じ、自分はフランス人であり、フランスが母国であると信じ、フランスに熱烈な愛国心を感じていた。フランスは対独の劣勢を覆すために北アフリカの志願兵を基にした自由フランス軍を組織した。自由フランス軍はセネガルの徴集兵、フランス外人部隊、モロッコ人、アルジェリア人、タヒチ人などから成っていた。この物語は自由フランス軍に志願し、死も恐れず勇敢に戦ったベルベル人の兵士たちの物語である。

アブデルカダはインテリで、兵役試験でトップを取りベルベル人部隊の兵士長に任命される。彼は将来は勲功を立て、勉強を重ねフランス軍で昇級したいという野心を持っている。公平な立場で部下のいさかいを仲裁し、アラブ人としての団結も説くが、彼の努力は全く無視され、フランス系のアルジェリア人が彼を差し置いて昇進される。屈辱を感じながらも彼はフランス軍への忠誠を失わない。

マーチネス軍曹は、フランス系のアルジェリア人であるという理由だけで、昇進されアルジェリアのアラブ軍を率いているが、知的に軍を統率するのは苦手で、怒るとすぐに暴力にでてしまう。彼自身もアブデルカダの方が自分よりすぐれたリーダーであることを内心認めている。彼は一応フランス系ということになっているが、実は母はアラブ人であり、そのことを人に知られたくないと思っている。

サイードはベルベル人の中でも最も貧困な地域の出身である。母は息子が出兵して報奨金や恩給をもらうより飢え死にした方がましだと彼の志願を止めるが、彼は純粋な愛国心でフランスを守るために戦争に行くのだと、母を振り切って志願する。野心のない素朴で忠実な人間性をマーチネス軍曹に認められて彼に取り立てられる。

ヤッシールは弟の婚姻費用を稼ぐために、弟をつれて入隊する。弟思いで、人間は常に正しく行動し正直でなければいけないと説く男である。

メサウードは天才的な射撃の名人で、マーチネス軍曹からスナイパーの特務を与えられる。その優れた戦場での功績によりヒーローとなり、彼の名声にあこがれるフランス人の女性と恋に落ち、戦争が終わったら彼女と結婚してフランスで落ち着こうと夢見る。

彼らの最初の任務は南フランスプロヴァンス地方のドイツの砦を落とすことであった。ベルベル人の部隊は先行隊として敵に丸見えの山道を歩かされる。ドイツ軍が彼らを射撃し始めると戦線の後ろに隠れているフランス兵はどこにドイツ兵が隠れているのかがわかり、そのドイツ兵を攻撃し始める。この戦闘はフランス軍の圧倒的勝利に終わるが、これがベルベル人の兵士が自分たちが一番危険な任務に最初に回されることを知る最初であった。。

戦線は膠着し、フランス軍は故郷に帰還せよという命令がくだり、ベルベル人の兵士は喜ぶがこの帰還はフランス人のみに適用され、自由フランス軍の兵士は帰ることを許されず、部隊には厭世の気分が漂い始めた。

自由フランス軍に与えられた最難の命令は、ナチ占領下にあるアルザス地方のコルマールを陥落するために、フランス本土軍とアメリカ軍がやって来るまでに、そこのドイツ軍にできるだけの打撃を与えることであった。マーチネス軍曹も他の小部隊の隊長と共にその危険な任務を任され、彼の配下のアブデルカダ、サイード、ヤッシールとその弟、メサウードも名誉と褒章を求めて参加する。しかしドイツ占領地に入る所に置かれていた爆弾で部隊の殆どは死亡しマーチネス軍曹も重傷を負う。弟を失ったヤッシールがこれ以上戦線にいる意味がないと嘆く中で、アブデルカダは生き残ったサイード、ヤッシール、メサウードをまとめ、アルザスの村に進行し村民から歓迎される。しかしドイツ軍との死闘の中で、サイードは重傷のマーチネス軍曹を守って共にドイツ軍に殺害され、ヤッシールとメサウードも戦死する。

この戦線はコルマールの戦いと言われる。当時コルマールを含むアルザス=ロレーヌ地方はドイツ領であり、ライン川に架かる橋を守る重要拠点であった。激しい戦いの末、フランスとアメリカ軍団はドイツ軍団を敗走させることに成功した。連合軍は21000人、ドイツ軍は38000人の死傷者を出した。これにより連合軍はライン川を渡ることに成功し、ドイツ領への本格侵攻を開始することに成功した。

一人生き延びたアブデルカダはコルマールでフランス軍と合流するが、自分の存在も死んだ戦友のことも全く無視される。後からやってきたフランス人部隊のみが勝利を賞賛される中で、死んだベルベル人の兵士がいたということさえ考えるものはいなかったのだ。

戦争に従軍した兵士は生涯恩給を受け取ることが保障されており、それが志願の動機ともなっていた。しかし、フランス政府はアルジェリアの独立紛争が過激化した1959年にフランス植民地出身で、フランス軍に参戦した兵士にはもう恩給を払わないことを決定した。フランス軍はアルジェリアはいずれフランスから独立するだろうし、別の国となったアルジェリア人にお金を払う必要性がないと判断したからだ。この映画はアブデルカダがアルザスの攻防後60年経って、その地に立つ戦死した兵士たちの墓に墓参するところで終わる。

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[映画]  アフター・ウェディング Efter brylluppet After the Wedding (2006年)

『アフター・ウェディング』を見始めて、「あ、これは 『未来を生きる君たちへ』に似ている!」と思ったが、やはり両方ともデンマークの女流監督スサンネ・ビアの作品であった。テーマは違いこそすれ、彼女の映画の作り方には何か共通性がある。まず抽象的な観念が先に来て、それにさまざまなストーリを木に竹を接ぐように足していくのである。

デンマーク人ヤコブはインドで孤児院を運営しているが、破産寸前の状態に陥ってしまう。そんな時、母国デンマークのある会社から寄付の申し出がある。しかしそれにはヤコブがコペンハーゲンを訪れてCEOと面会するという条件がついていた。ヤコブはコペンハーゲンでその会社のCEOのヨルゲンに会うが、ヨルゲンに彼の娘アナが週末に結婚するので、式に来るようにと招待される。結婚式に出席したヤコブはそこで、20年振りに元恋人のヘレンに再会するが、ヘレンはヨルゲンの妻となっていた。そしてヤコブは、アナが自分の実の娘であるということを知って衝撃を受ける。この出会いは、癌で余命いくばくもないヨルゲンが自分の死後の家族のことをヤコブに任せるために仕組んだことであり、孤児院への彼の莫大な寄付はヤコブがデンマークに住むということを条件にしたものであった。そこで、ヤコブは血の通った自分の娘を選ぶか、自分が愛するインドの孤児たちを選ぶかという決断に迫られるのであった。

この映画はアナの結婚式の週末前後のほんの短い時間を描いているが、数々のコンセプトが所狭しと詰められている。インドの貧しさを忘れてはいけないというプロパガンダ、生みの親か育ての親か、母国は自分が生まれた国なのか選んだ国なのか、激情的な愛と穏やかな愛とどちらが深い愛か、真の優しさは悲しい事実を知らせることなのか知らせないことなのか、青臭い理想主義者で生きるか、問題解決ができる現実主義者として生きるか、人としての家族に対する責任感とは何か、とにかく色々な概念や理屈が所狭しと押し詰まっている。結婚したアナの婿がさっそく浮気をし、それがアナに見つかるというおまけもあるが、これは挙式後まもなく起こっているという慌しさである。

あまりにもたくさんの概念を2時間の映画に詰め込むので、ストーリーには色々破綻或いは非現実的な所がでてきている。ヘレンはヤコブと別れた直後にアナを身ごもっていることに気がつくが、彼女はヤコブを捜そうという努力もしていないかのようだ。「あなたがデンマークに帰って来てくれるのを待っていたのに、結局あなたは帰って来なかった」というロマンチックな言葉でその状況をぼかすのみである。20年後にまだ愛のほとぼりがあるくらいの二人なら、なぜもっと相手を取り戻そうという努力をしなかったのか?ヨルゲンにしても、一代で身をなした大富豪で多くの友人に囲まれており、死後自分の家族を助けてくれる人もいるはずだし、弁護士に依頼して子供のための遺産管理もできるはずなのに、なぜ見も知らず、人間的にどれだけ信用できるかどうかわからないヤコブに死後の自分のヘレンとの間にできた幼い双子を含めた自分の家族の世話を頼むのか?またヨルゲンは、ヤコブに自分の死後はヘレンと一緒になってほしいと示唆するのだが、20年も離れていて、違う方向に歩いて来た二人がなぜ突然一緒にならないといけないのだろうか。まだ美しく経済力もあり自立心の強いヘレンは未亡人になっても伴侶は必要なく、もし必要となったら自分で自分の事位決められそうなものであるが、なぜ20年前の恋人なのか。

しかし何よりも、ヨルゲンがどうしてそういとも簡単にインドにいるヤコブを見つけたのかという疑問が残る。ずっとヤコブのことを知っていて彼の動きを観察していたのなら何とも言えず不気味であるが、映画では、癌で余命いくばくもないことを知ったヨルゲンが(運よく)ヤコブを捜し出してコンタクトしたように描かれている。これが不自然なのだ。自分が癌で長く生きられないと知った人間がまずすることは、ヨルゲンがやったように財政の整理をして、残った人間が困らないようにすることだろう。しかし、その次に考えることは、残り少ない時間を自分にとって一番大切な家族との一分一秒を大切に過ごすことだろう。死を初めて身の回りに感じた時、今まで自分が当たり前と思っていたすべてのことが全く違って見え、人生に対する見方が根本的に変わってしまうだろうが、自分の知らない人間に対して突然に思いを寄せるというのは、あまりにも不自然である。

スサンネ・ビアは作品の中にアフガニスタンやスーダンなど第三国を絡ませるが、彼女自身は撮影が始まるまで、その国に実際行ったことはないという。彼女は、自分が得た情報で、何らかの良心が目覚めるタイプの人間だとしか言いようがない。この映画は感動的なメロドラマを狙っているようだし、アナとヤコブが親子としての感情を築いていくシーンなどはかなり美しいのだが、この映画は都合よく美しいストーリーを回そうとして、細部は無理をして辻褄を合わせている部分が多過ぎて、いったんそれが鼻につき始めるとどうも感情移入ができにくくなり、製作者の美しい意図はわかるが、感動が今ひとつ湧かない映画なのが残念だった。

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[映画] ぜんぶ、フィデルのせい La Faute à Fidel Blame it on Fidel (2006年)

BlameitonFidel1960年代から70年代と言う時代は、全世界で社会が大きく激動した時代である。キューバでは1961年にカストロが社会主義宣言をし、インドシナ半島ではベトナム戦争が泥沼化し、中国では文化大革命が続行していた。チリでは、世界初の民主的な総選挙により、社会主義政権が確立する。西側諸国でもパリでは五月革命があり、ギリシャでは軍事政権に対するデモが続発する。アメリカでも反戦運動が高まり、日本では赤軍派や極左派による事件が相次いだ。スペインではスペイン内戦によってフランコによる独裁政治が続いていた。要するに第二次世界大戦後に解決できなかった問題が表面化して来た時だったのだ。

1970年。弁護士の父フェルナンドと、女性月刊誌『マリ・クレール』編集者の母マリーを持つ9歳のアンナは、パリで庭付きの広壮な邸宅に住みカトリックの名門ミッションスクールに通学している。バカンスはボルドーで過ごし、身の回りはフィデル・カストロが社会主義体制を確立したキューバから亡命してきた家政婦に面倒を見てもらう生活を送っていた。ある日、フランコ独裁政権に反対する、スペインに住む伯父が処刑され、スペインを逃れてきた伯母の家族がアンナの家にやってきて同居することになり、それをきっかけに父の態度が変わり始める。今まで祖国に対して何もしてこなかったことに負い目を感じていたフェルナンドは社会的良心に目覚め、マリーと共に突然チリに旅立ってしまう。そして戻ってきた二人はすっかり共産主義の洗礼を受けていて、ヒッピーのような風貌になってしまい、アンナは自分を取り巻くそんなすべての変化が気に入らない。キューバ人の家政婦は「ぜんぶ、フィデルのせいよ。」とアンナに言うが、その家政婦もクビになってしまう。フェルナンドは弁護士を辞め、チリの社会主義者アジェンデ政権設立のために働くことを、母は中絶運動を起こし女権の拡大することを決意する。両親の変化により、アンナの生活も以前とは180度変わってしまう。大好きだった宗教学の授業は受けられなくなり、大きな家から小さなアパートに引っ越すことになり、ベトナム人のベビーシッターが家にやってくるようになった。世界で初の民主的選挙によってアジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生したのもつかの間、アジェンデ大統領は暗殺されてしまう。深く悲しむ父を見て、自分の家族のルーツを訪ねたアンナは、自分の家はスペインの大貴族の家柄で、反王党派を残酷に弾圧していた家族で、フランコ政権下では親フランコ派であったとわかる。映画はカトリックの学校をやめて、公立学校に通学することを選んだアンナがその公立学校に初めて通学した日のショットで映画は終わる。

この映画の印象を一言で言えば、『headstrong』だなあという感じ。Headstrongというのは日本語では『理屈っぽい』とか『頑固』とか『頭でっかち』に近いのかもしれないが、回りに対して虚心坦懐に心を開いて何が起こっているかを素直に吸収し受け止めるというより、自分の主義主張でフォーカスしたレンズで、周囲を判断しまくるという態度である。たった一年の出来事を2時間弱の映画にしているのだが、その中に全世界の問題を都合よく全部マッピングしてやろうという大変忙しい映画なのである。

冒頭はフェルナンドの義兄の死と、妹の結婚式が同時進行する。自然死ではなく政治的な死であるから、家族のショックは大変かと思うとそうでもなく、結婚式は幸せに行われ、注意していないと伯父が処刑されたということもわからないくらいだ。家政婦は、キューバ人、亡命したギリシャ人、そしてベトナム人と次々と変わる。伯父の死でショックを受けて、今まで無視して来た自分の政治的信念に目覚めるのは結構なことなのだが、なぜその改革の相手が自分のルーツのスペインではなく、遠く離れたチリなのか?これは、この映画の監督のジュリー・ガヴラスの父コスタ=ガヴラス監督は、左翼系の思想を持ち、チリにおけるアメリカ政府の陰謀を描いた『ミッシング』で世界的な名声を得たが、娘はそれを都合よく利用していると思わずにはいられない。フェルナンドとマリーがチリに滞在したのは、2週間くらいの感じであるが、その後二人はこちこちの共産主義となって帰って来る。共産主義に洗脳するのがこんなに簡単なら、レーニンもスターリンもそんなに苦労しなくてもよかったのに、とつい思ってしまう。2,3ヶ月前に結婚して幸せ一杯のはずのフェルナンドの妹が突然中絶をしたいといいだし、マリーがフェミニストとして活躍し始める。えっ、もう赤ちゃんができたの?結婚したばかりなのに、もう結婚生活が不幸になったの、と思わずこちらも算数の引き算をしてしまう。もう一つおまけとして、マリーの書いた中絶解禁を求める「343人の宣言」記事が評判になり、彼女が自分より有名になったことに嫉妬するフェルナンドが「家政婦に子供の面倒を見させるより、もっと家庭に専念していい母親になれ」と怒り、社会主義者の家でも真の女性解放はないのだという嘆きまで描かれる。

ジュリー・ガヴラス監督が言いたいのは

「ごめんね、ママとパパは自分の問題で手一杯で、あなたを犠牲にしているかもしれないわ。でも、ママとパパは自分たちが正しいと思うことを精一杯必死で追求しているの。きっと大人になったらあなたはパパとママの気持ちがわかってくれるわ。」

「いいえ、パパやママが連帯とか団結なんて声を上げて言わなくっても、なんにも言わなくっても、手を差し出せば、人と人がつながっていく。そんなことがわかったわ。」

ということでないかとも思うのだが、それにしても、これを表現するために全世界の問題を背負い込む忙しい映画を作るのが一番最良の方法だったのかという疑問が残る映画であった。

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[映画] サラエボの花 Grbavica Land of My Dreams(2006年)

戦った兵士、死んだ人々、苦闘の末の勝利を描くのが多い戦争映画の中で、この映画はボスニア戦争を生き延びた人々とその戦争の中で生まれた人間を描いている。

ボスニア戦争の過程で、1995年に起きたスレプレニッツアの虐殺のように、セルビア軍による戦略的な「民族浄化」が行われ、ボスニアのムスリム人男性は殺戮され、女性は強姦されその結果できた子供を産まされた。「サラエボの花」の原題であるGrbavicaとは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボの中で、この民族浄化の舞台となった地区の名称である。

シングルマザーであるエスマは12歳の一人娘サラとこの地区に生きている。サラの学年は修学旅行に行くことになるが、父を戦争で失った者は旅行代が無料、負傷した父を持つものは減額になると告げる教師に、そのような父を持った子供は目を輝かせる。サラは父が名誉の戦死をしたと母に聞かされているので、無料で旅行に行くために父の死亡証明書を求めるが、エスマはあれやこれやとはぐらかして死亡証明書を見せてくれない。エスマは生活補償金と裁縫で何とか暮らしているが、それに加えてサラの旅行代を稼ぐためにナイトクラブのウェートレスの夜勤を始める。

そのナイトクラブで用心棒兼運転手をしている男が、自分が戦死者の遺体収容所で父親を探している時そこで見かけたエスマを覚えていた。エスマもずっと遺体収容所で父の遺体を捜していたのだ。男はエスマに好意を抱き始める。渋々デートの誘いに応じたエスマではあるが、その男は大学で経済学を専攻したインテリで、まだ学問に対する未練が残っているのを発見する。しかし男は情熱と規律のない生活をしている今の自分は大学の厳しい生活にはもう耐えられないだろうし、たとえ大学を卒業してもこんな世の中ではまともな仕事はないだろうと呟く。しかしサラも戦争が始まる前は、医学生であり、医者になるために頑張っている女性だった。戦争さえなければ、医者と政府の役人のようなエリート同士で知り合い、幸せな家庭を築いていたかもしれない二人なのだ。

サラは反抗期の真っ最中で、父親のことを知らせない母に残酷に反抗する。「お母さんはいつかは私を捨てる」と言ったかと思うと、「お母さん、絶対に再婚しちゃだめ」とも言う。しかしやはり普通の女の子で、友達と遊ぶのが喜びで、同じく父親のいない少年と親しくなり、自分以上に虚無的に生きているその少年に優しく接するのである。エスマが苦労して借金したお金で修学旅行の代金を払ったあとでも、サラは父の死亡証明書はどこにあるのかと問い詰める。

ある日、男がエスマの元を訪ねてくる。彼は許可が降りたので、オーストリアに移住することになったのだ。その時のエスマの反応は、「私を置いて行くの?」でもなく「幸せになってね」でもなく、「え!じゃあ誰がこれから、お父さんの死体を捜すの?」という言葉であった。エスマと男の悲しげな別れを見ていたサラは、少年から預かっていた拳銃をエスマに突きつけ、「お父さんのことを教えて!」と脅迫する。男との別れ、サラとの難しい関係、生活苦、そして忘れようとしても忘れられない過去などすべてのことが瞬間的に爆発して、エスマはサラに彼女は敵兵の強姦によって生まれた子だと告げる。

数え切れないほどの残酷なことが起こったであろうボスニア戦争。それをどのように世界に、そして次の世代に伝えていくのか。残酷な事実をこれでもかと述べ続けるのならドキュメンタリーであろう。誰が悪者で誰が犠牲者で、この後始末をどうすべきかを述べるならプロパガンダであろう。しかし、それを踏まえた上で映画という芸術を作るなら、その中に希望がなければいけない。過去は変えられないし、将来に対して無限の方向性があるという状況で芸術が果たせるのは、希望を提示することであろう。

この映画は悲しいが希望がある。その希望ははかないもので、一日の疲れの終わりには消えかかってしまうものかもしれないが、やはり希望がある。強姦した父はどんな顔をしていたのかと訪ねるサラに、エスマはやっとのことで髪の色が似ているという。激しく泣きじゃくった後でサラは自分の頭を丸坊主にしてしまう。旅行の朝、バスに乗り込んだサラは照れくさそうな感じでさりげなく母に手をふり、エスマは嬉しそうに手を振り返す。エスマは最初はお腹の中にいる赤ん坊を憎み続けたが、出産後その赤ん坊に授乳することにより、その赤ん坊を受け入れ、育てることを決意する。そして一番の救いはこの映画は敵兵を「セルビア人」と呼んでいないことである。映画はボスニアのムスリム人を殺戮し、強姦した人々はチェトニック人(大セルビア主義を崇拝し、過去にはナチと組みチトーと戦い、ボスニア戦争では、ボスニアで反ムスリムを掲げたセルビア人の蔑称)であるとし、すべてのセルビア人がボスニア人の敵であるとは絶対に言っていないのである。過去は変えられない。しかし「セルビア人がああした、こうした、悪い奴らだ」ということから希望は生まれないということを、この映画製作に携わった人々は言いたかったのではないか。

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[映画] 善き人のためのソナタ Das Leben der Anderen The Lives of Others (2006年)

レーニンは嘗て「ベートーベンのソナタを聴いてしまったら、革命を続けるのが困難になるだろう。」と述べたそうだが、これはそのソナタを聴いてしまった男の物語である。

1984年の東ベルリン。国家保安省(シュタージ)のヴィースラー大尉は有能な手腕で知られる諜報局員。彼は、反体制の疑いのある劇作家ドライマンとその恋人の舞台女優クリスタを監視するよう命じられる。盗聴器を彼らが住むアパートにしかけたが、その盗聴の活動の過程で実はその盗聴はクリスタを自分のものにしようとする芸術大臣がその目的を果たすために始めたものだとわかる。ドライマンの弾くソナタに心を揺さぶられるヴィースラー。慎重に反体制派から一歩自分を離していたドライマンだが、親友で政府から弾圧されていた作家が『善き人のためのソナタ』という題の草稿を残して自殺したあと、東ベルリンの実態を明らかにする記事を西側で出版しようとする。また芸術大臣から疎まれ窮地に陥ったクリスタはドライマンの秘密を当局に告げるスパイに変身する。二人に盗聴を通じて共感を覚え始めたヴィースラーは、自分の知った情報を基にドライマンとクリスタを助けようとするが、クリスタは自殺してしまい、自分も疑いをかけられて閑職に追いやられてしまう。

ベルリンの壁が崩壊してしばらく立ち、ドライマンは自分が実は当局に盗聴されていたことを発見し、その盗聴の記録からクリスタが自分のスパイであったことを知る。しかしコードネームでしかわからない諜報の責任者は、自分が西側で出版された体制の暴露記事の作者であることを示す証拠をを何一つ当局に報告していなかった。ドライマンは始めてその無名の諜報員が自分を守ってくれたことを知るのだ。更に何年か後、今はてひっそりと暮らすヴィースラーはドライマンが最近『善き人のためのソナタ』と題する本を出版したことを知る。本屋でその本の扉を開いたヴィースラーは「感謝をこめてこの本を奉げます」という献辞が自分に向けられたものであることがわかることで映画は終わる。

ヴィースラーを演じるウルリッヒ・ミューエは最初は制服に身を包んだ剃刀のような男として登場するが、盗聴をしているうちに、次第に冴えないズボン姿の剥げの普通の叔父さんに変身している所が見事。素晴らしい主題、演技力、映像、音声、サスペンスが「完璧な映画」を作り上げているが、もしこの映画に対する批判があるとすれば次のようなものであろう。

映画の中の歴史的な不正確さが非難の対象になるかもしれない。国家保安省(シュタージ)には、ヴィースラー大尉のような人間味のある人物を生み出す素地はなかっただろう。諜報員の中でもお互いの監視と責任の分担が行われ、一人の諜報員が誰かを助けるなどということは不可能であっただろう。たとえヴィースラーのような人間味のある諜報員がいたとしても、それがばれたらその罰則は「退屈な仕事をして20年暮らす」などという生易しいものではなかったということは容易に推測される。脚本と監督を担当したフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクはインタビューでこう語っている。「国家保安省(シュタージ)のことを調べれば調べるほど、実態を正直に書くのはあまりにも残酷であるということがわかり、敢えて残酷なシーンを作らないということに徹底したのです。」確かに、このシーンで残酷なのは、クリスタの死だけであるが、それも事故死なのか、自殺なのかはっきりしない描き方である。この映画は事実を残酷なまでに描くのと、その残酷さを抽象的にとどめるのと、どちらが聴衆に対してインパクトが強く、そのテーマがより長く人の心に残るのかという、決して結論のでない芸術のあり方に対する議論を含むものであろう。

ヴィースラーを演じるウルリッヒ・ミューエは東ドイツでも評価されていた舞台俳優だが、反政府デモや体制批判の劇にも従事した。最初の妻舞台演出家アンネグレット・ハーンとの間に二児を設けたが、のちに彼女と離婚して女優のイェニー・グレルマンと1984年に結婚した。しかし、後に彼は自分の同僚の演劇人4人と妻のイェニー・グレルマンが当局のスパイとして自分の情報を当局に流していたことを知り1990年に妻と離婚する。その後1997年に女優のズザンネ・ロータと再婚する。

『善き人のためのソナタ』は2007年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したが、その直後にミューエは急遽ドイツに戻り胃癌の手術を受けたなければならなかった。『善き人のためのソナタ』により数々の賞を受けたがその名声のさなか、彼は54歳の若さでこの世を去った。

2006年、『善き人のためのソナタ』の関連本に収録されたインタビューの中で、ミューエは映画のストーリーと同様に、旧東ドイツ時代に元妻のグレルマンが国家保安省(シュタージ)の非公式協力者で「HA II/13」というコードネームのシュタージ職員と接触しており、自分は妻に監視されていたと告白した。これに対して元妻のグレルマンは、自分が気付かないうちに非公式協力者としてミューエの情報源にされており、結果的にシュタージに協力した形になっただけだったと反論、この本の出版差し止めをベルリン地方裁判所に申し立てた。裁判所はこの申し立てを認めて本の出版を差し止めるとともに、ミューエの控訴を退け、ミューエに対して今後彼女をシュタージの元非公式協力員呼ばわりすることを禁止した。直後にグレルマンは病死、一年後にミューエも亡くなった。また三度めの妻ロータは2012年に51歳で死亡している。三人とも本当に若死になのである。

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[映画] クィーン The Queen (2006年)

今年はエリザベス女王の在位60年の式典とロンドンオリンピックがあり、英国民にとっては思い出深い年になったと思う。過去60年間は誰にとっても激動の時であっただろうが、特に女王にとっては、第二次世界大戦からの復興、英国病からの回復、冷戦、IRAの反乱、フォークランド戦争、対イラク、対アフガニスタン戦争、英連邦内の軋轢等数々の困難を越えての60年の治世であった。

この映画は1997年のダイアナの突然の死に際して、エリザベス女王が取った決断を描いている。「国民のプリンセス」として深く敬愛されたダイアナの死に対し、女王は、王室を去った女性の死は「プライベートマター」であるとして、彼女の死後もバルモラルの別荘にこもり続けたが、その態度は「王室の冷たさ」と国民の目に映り、国民の王室支持率は、突然過半数を割ってしまった。保守党政権を倒して新たに政権をとったブレア首相は、ダイアナに対する親愛を自分の支持に結びつける機敏な動きを取るが、同時に、女王にこれ以上王室がダイアナ無視し続けるのは王室に対するダメージになると忠言する。かつて保守党のサッチャー首相が公席で衣装かぶりをするのを怖れ「女王陛下は何をお召しになりますか?」と訪ねた時、きっぱりと「臣下の衣装には興味がない!」と述べ、王室と臣民の差を明らかにさせた位の女王であるから、なぜ離婚して王室を去っていった女性を王室の一員として扱わなければならないのか納得できない。しかし、心の底からダイアナを悼む国民を目の当たりにして、父ジョージ六世が即位した瞬間から、自分の一生は24時間365日国民に奉げると決意した女王は、もしダイアナの死は真の王妃の死であると国民が望むことなら、自分が今まで信じて来たことを変えてもいいと決意するのだ。

バッキンガム宮殿の前でに積まれたダイアナへの花束の山を見ている女王に一人の少女が花束を差し出す。「ダイアナ妃へのお花を私が奉げてあげましょうか?」と花束の山を見る女王に対して少女はきっぱりと「いいえ!!!」と答える。驚く女王にその少女は美しい瞳で、「この花はあなたに奉げたいのです。」と答える。その時の女王の感動の表情、女王と女王を演じる女優ヘレン・ミランが魔法のように融合した瞬間であった。テレビの実況で、国民に王室からのダイアナの死の追悼を述べる女王は、一人の暖かい義母であり、ダイアナの王子を心配する祖母であることを国民に強く印象付け、それをきっかけに国民の女王に対する敵意は解けていくのであった。

エリザベス女王の世代に取って、皇太子妃は他国の王家の娘か、最低でも英国の貴族の娘であるべきだった。チャールズ皇太子がカミラと恋仲であった時も、カミラは英国の上流階級の出ではあるが、最高位の貴族の出ではないということで反対にあい二人の結婚はかなわなかった。ダイアナは名門中の名門スペンサー家の娘であり、若くて早速王子を二人生むという快挙を成し遂げたという点では完璧な皇太子妃であったが、結局いろいろな理由で離婚ということになった。離婚協議中の泥沼劇と離婚後のダイアナの奔放な行動は、女王にとって「王室に泥を塗った」行為と移ったであろう。その中で女王も、もはや皇太子妃を階級で選ぶ時代は過ぎたということを、学んだであろう。英国の親戚筋にあたるヨーロッパの若い世代の皇太子のお妃はほとんど平民で、離婚経験のある者、大麻喫煙の経験のある子連れ、麻薬王の元愛人、政府高官の元愛人、南米の独裁虐殺者の内閣の要人政治家の娘、アジア系やブラックの血の入った女性など、女王の世代では考えられないような女性たちなのであるが、彼女たちはそれなりに国民の支持を受け、公務もてきぱきと行っているのである。

女王はずっとカミラに好感を持っていたそうだ。カミラは「ダイアナを追い出した憎むべき醜い女性」として長く国民から嫌われていたが、一言も自分を弁護することはなく、チャールズに従い大変な激務である公務を黙々と果たし続ける彼女を見て、「公務に対する責任感があるし、私!私!という野心もない。これだけの困難を乗り越えてチャールズに添い続けるのは、もしかしたら真実の愛というものなのかも知れない」と国民の見方も変わり始めた。カミラが訪米した際アメリカのジャーナリストは次のように書いている。「素顔のカミラは想像していたよりもずっと美しいし、優しさのこもったユーモアに溢れている。彼女をみていると、もしダイアナが生きていたら、カミラのように自然に美しく年を取るのは案外難しかったのではないかとすら思わさせるものがあった。」

ダイアナの忘れ形見ウィリアム王子の永年の恋人ケイト・ミドルトンもなかなか女王の結婚の同意がえられなかった。ケイトの家は一代で成しあがった富豪の家で、父親はまあ中流階級といえるが、母親は労働階級出身で野心たくましい印象を与え、また母方の叔父は麻薬の所持販売で逮捕されたという過去もある。しかし女王の懸念は、大学卒業後も働かずウィリアムからの結婚を待っているだけだとからかわれている彼女の評判にあり、ウィリアムに真剣に「彼女は健康なのに、なぜ働かないのか?」と訪ねたこともあるという。結局二人の間には一番大切なもの、愛と信頼があると確信した女王は二人の結婚を承認したわけだが、ウィリアムの妻になったケイトは、公務もきちんとこなし国民の人気も絶大なものがある。

エリザベス女王の人気は衰えることをしらず、ロンドンオリンピックの開会式でもボンドガールとしてヘリコプターから飛び降りて、開会式に臨席する(とみえる演出であるが)というセレブリティーまがいのことをやってしまったが、これも国民のためならば、オリンピックの成功のためならばという女王の意図であろう。これからもずっと長生きをしてほしい女王であるが、彼女の逝去の際は国民は深い悲しみに襲われるだろう。しかしその悲しみはダイアナの死と異なり、彼女の永年の国民への奉仕への感謝と、次世代への希望が込められたものになることは間違いない。

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