[映画] 英国王のスピーチ The King’s Speech (2010年)

英国王のスピーチ、単なる吃音の国王が頑張ってスピーチが上手になりました、というお話かと思ってあまり食指が動かなかったのだが、見終わって「ああ、これは演説の力、国王の国民に対する責任とリーダーシップを描いた作品だったのか。」と初めてわかった。素晴らしい。脱帽。

映画の中で、国王ジョージ六世の娘、のちのエリザベス二世と国王が映画を見ている。映画の前のニュースで、整列した軍隊の前で滔滔とドイツ語で演説するヒットラーの姿が映し出された時、エリザベス王女が思わず父に尋ねる。

「お父様、この方は何を仰っていらっしゃるの?」
「わからない。でも雄弁だね。」

その引きつった頬は、自分より6歳年上のヒトラーの、言語で国民を操る異様な才能への畏怖を語っている。そして、自分が確固とした英国民へのリーダーシップを優れたスピーチで伝達できなければ、英国はこの雄弁で危険な男の魔手に落ちることも漠然と感じているのである。ジョージ六世は兄エドワード八世が突然退位した後、自分が望むか否かに拘わらず王位を継がざるを得ず、その中で国民をファシストから守るため、スピーチの特訓を始めたのである。ちなみにジョージ六世はスターリンムッソリーニフランコなど当時のヨーロッパに君臨し独裁者と呼ばれた政治家たちと同世代である。

ヨーロッパの他の列強が、王政は人民を助けないと判断し、王室を廃止した中で、イギリス(及び北欧の比較的ヨーロッパの力の拮抗にかかわっていない国々)のみは、王政を「君臨すれども統治せず」という形で残していくのである。国王は政治に関する決断権はないが、イギリス国教会の首長として国民の精神的な支柱となり、また平和な時、戦時、困難な時を問わず、国民の統合の精神的な象徴となることを求められる。もはや肉体的に王の首を切ることはしないが、王が役に立つ仕事をしていなければ、王家に対する予算は減らされるし、用済みになったら首切り(解雇)になるかもしれない。王室の将来は国民を代表とする議会が決めるのである。

英国が王家に対して選んだ道は正しかったか?私はYESといいたい。たとえ民主主義のもと、国民の投票で国家の決断が諮れるとしても、国民は悲惨なことが起こった時慰めて自分を安らかにしてくれる存在、優雅に世界の舞台で国民を代表してくれる存在、政党の利益など無く中立の立場で常に国民の幸せを祈ってくれる存在を求めているのだ。王室がないアメリカでも、大統領は政治の決済をするだけでなく、災害があれば忙しい中を縫って現地にかけつける。大統領の妻(ファーストレディー)も美しく、何か一つ国民のためのライフワークを持っていてくれると人気沸騰だ。大統領候補もスキャンダルがあったり、何回も離婚していたり、不愉快な印象を与える男であったらまず当選はしないだろう。レーガン大統領以来、何らかのカリスマがない大統領はいないし、ファーストレディーは国民のことを考えるのに忙しく、大統領の仕事の何パーセントかは国民に勇気を与えたり奉仕することも含まれているのあり、これは英国の王室がフルタイムでやっている仕事に値するものである。やはり政権は君臨と統治の両方の側面があり、この二つが綺麗に分離しているのが理想なのではないだろうか。

オバマ大統領も数年前までは全く無名の、イリノイ州の上院議員だったが、彼は他の誰よりも卓出したスピーチ能力を持っていた。ヒラリー・クリントンがオバマと民主党の大統領候補を争っていた時、オバマの人気に対してこういった。

「(永年国政に貢献した自分と比べて)オバマは過去10年間に何をしたと言うの。あの人は単に演説が上手なだけじゃないの。」

ヒラリーとオバマのどちらが大統領の候補者になったかは、だれもが周知のことだろう。

English→

[映画]  シャッター アイランド Shutter Island (2010年)

話は二人の連邦保安官が、絶海の孤島にある精神疾患の犯罪者を収容している施設から脱走した女性患者を捜査しに行くところから始まる。その船上のシーンがハリウッドのハイテクコンピューターグラフを駆使しているはずなのに、なんとなく偽者のセットっぽく安物に見えて、最初から「はあ?」という感じ。危険な任務に携わる二人は何故かお互い初対面らしく、部下格の保安官(マーク・ラファロが演じている)がボス(レオナルド・ディカプリオ!!!)に対してさりげなく個人的な質問をしている。その島に行くにはフェリーが唯一の手段であるが、保安官たちは島に到着すると施設の警護官に銃を没収されてしまい、丸腰でかなり危険そうな島に入って行かざるをえなくなる。施設の庭は美しいのだが、患者たちは皆鎖で繋がれており、何が奇妙な表情で二人の保安官を見つめている。施設の所長も何か不自然な印象を二人に与える。捜査の過程で主人公の保安官レオナルドは女性患者だけではなく、もう一人の患者、非常に凶暴で危険な男患者もいなくなっているらしいことに気づくが、病院の誰もがそれを彼に告げない。彼がインタビューした精神病患者の一人は、他の誰もが見ていない隙をついて、瞬間正気に戻って、「逃げろ!」というメモをレオナルドに渡す。事態はますます不可思議になってくる。

翌日、なぜか失踪した女性患者が戻って来るが、どのようにして彼女が失踪し戻ってきたのかは全くの説明がない。しかし、レオナルドたちはもう使命を果たしたので、島から出るつもりでいたら、なんと台風が突然島を襲い、彼らは島にもう一日逗留することになる。翌朝、島で一番危険な患者を収容している施設が破壊しているという情報が流れ、保安官たちはその病棟に向かうが次第に彼らも何が実際におこっているのかわからなくなり、混乱してくる。レオナルドは、なぜかまだ恐れ知らずの雰囲気があるのだが、遂に部下の保安官マークが「ここから脱走するために、自分たちは力を合わせなくてはならない。」と言い出す始末。しかしそのマークも突然姿を消す。彼は誰かに拉致されたのか?そしていなくなっている最も危険な精神病犯罪者は誰でどこに潜んでいるのか? 必死になってマークを捜すレオナルドは洞窟の中に潜んでいる女性を発見する。その女性は、彼女こそが脱走した女性患者であり、院長は偽の女性をレオナルドたちに見せて、女性が帰ってきたように装っているのだと告げる。もっと恐ろしいことに、彼女はこの施設は精神病患者に対して人体実験をしており、彼女もそこの医師だったが、その実験に反対したがために精神病患者としてこの施設に閉じ込められているという事実を暴露するのだ。その洞窟からまだレオナルドが訪ねたことのない灯台と銃を持った護衛官が見える。その灯台に潜り込んだレオナルドはそこで意外な真実を知ることになる。

とまあ、その灯台の中で大どんでん返しがあり、また「はあ?」な感じ。その結論を知って映画を見るとすべてが違った角度に見えてきて、小さいところまでつじつまが合う感じ。つまり観衆は2時間、巧みに誤魔化されているというわけだ。それでお客さんにすまないと思うのか、最後の最後は見る人によって解釈が異なる結末になっている。レオナルドが最後に島から脱出できないと悟った時に取った行為は狂気なのか、諦めなのかということで、これは結論がでないようになっている。マーティン・スコセッシ監督は意図的に観客を混乱させるような切り口でこの映画を作ったのだろう。

彼曰く「話がわかりにくいって?素晴らしいじゃないか。お客は理解するためにもう一度劇場に足を運び、この映画は興行的に成功するだろう。」

レオナルド演ずる主人公はまだ心の中で自分が解放したナチのユダヤ人キャンプで見たものの影を引きずっているように描かれている。アメリカは戦場にこそならなかったが、たくさんの兵士が傷つき死傷したことは歴史上の事実である。また当時のアメリカではロボトミーが精神病の治療の一つとして認められていたことも描かれている。たとえば名門ケネディー家のローズマリー・ケネディは何らかの形の精神疾患に罹っていたと言われる。彼女の暴力性と気分障害が悪化したため、父のジョセフは1941年に秘密裏に、ロボトミー手術を彼女に受けさせた。この手術は彼女の認知能力をさらに損い、結果として、彼女は2005年に没するまで施設で過ごすことになった。この不気味な映画もあながち現実離れではないのかもしれない。

English→