[映画] 迷子の警察音楽隊 The Band’s Visit (2007年)

イスラエルの空港に、友好親善のコンサートのためにエジプトから送られた警察音楽隊が到着する。国を代表して送られた警察の音楽隊なのに、何となくおっとりした、たった8人のバンドメンバーで、何だかおもちゃの兵隊のようにみえる。護衛もマネージャーもいないということで、はてな(?)という感じがする。何かの間違いで送迎の車も来ないが、イスラエルに知る人もなく置き去りにされたとわかっても誰もあわてない。なぜ?

楽団長は、一番若いバンドメンバーの男(唯一若く、一番英語がうまいらしく、イケメンでさっそくイスラエルの女の子にモーションをかけている)に、コンサートの町に行く道順を捜させるが、この男の隊員がが目的地の町の名前の子音のp とbの一字微妙に違う場所へのバスを尋ねてしまったので、その間違ったバスから降りた楽団員たちは、砂漠の中のポツンとした、目的地とは全く違う集落に残されてしまうが、相変わらず楽団長を含めた団員たちはおっとりとした態度を崩さない。その集落の唯一の食堂らしき場所には、女性オーナーとそこで時間潰しをしている男Aと男Bがいる。オーナーから食事をご馳走された時、この村にはホテルもなければ最終バスはさっき彼らを置いていったバスだと知らされる。オーナーも男たちも団員がエジプトから来たということを知っても「あ、そう?」という感じで、そこには劇的な憎悪も政治的な議論もなく、そこの人々は団員たちよりももっとのんびりしている感じ。なかなか魅力的なオーナーの骨折りで、楽団長と若い団員は彼女の自宅へ、副団長らしき男と他の二人は男A の自宅へ、他の団員三人は男Bの場所で一夜をすごすことになる。

女性は、単調な暮らしの中で、文化国のエジプトから音楽家がやって来たことにちょっと興奮したのか、車でちょっとの距離の町に洒落た場所があるので一緒にいってみたないかという。おしゃれをした彼女が楽団長と来たのは、ハイスクールの食堂のような、がらんとただ広い殺風景な場所。これはジョーク?と思うがその食堂の端には、昔日本の大衆デパートの屋上に置いてあったような木馬があるので、やはりその場所は人々にとっては、心弾んで食事をする場所なのだろう。食事をしているうちに、楽団長はその女性は心の優しい女性だが、若いころは将来のことを建設的に考えず時間を過ごし、少し若くなくなった今周囲には自分にふさわしい男性がいなくなっているということに気づき、何か目にみえない寂しさを抱えている女性であることに気づく。楽団長も誰にもいえない悲しい家族の過去を抱えている。エジプトでは他の人には言えないことでも、何故かこの女性には素直に話しができてしまうのだ。

若い団員は同世代の男Bとその友達と一緒に、車で町へ遊びに行くので、興奮している。しかし男の子が一緒に連れて来た二人の女の子は今いち可愛くない。町のディスコに行ったものの、これこそ高校の体育館を5分の一にしたような狭さで、全然カッコよくない。男Bは女性経験もなく、誰にも相手にされないで傷ついている一緒に来た女の子を義理でもやさしくエスコートしてあげなきゃということも知らない。ここで若い団員が男Bの助っ人をせざるを得なくなる。

副隊長らが招かれた男A の家では、彼の両親と妻と彼の赤ちゃんが住んでいる。誰も楽団員がアラブ!!!の国から来たなどと眉を吊り上げず、自分たちの日常の毎日がどうであるかを淡々と語り始める。父親はなかなか洒落た男で、楽団員と歌を歌い瞬間でもそのディナーを楽しむのである。父親はまだ妻とのなり染めのロマンスを覚えているが、母親の方はもう「そうだったけ?」という感じ。彼女にとっては一年間も失業している息子の方が気になっているのだ。息子たちも恋愛で結ばれたらしいが、もうその情熱はさめているようで、いつそのお嫁さんが逃げていっても不思議ではない。もしそんなことが起こったら、彼らの赤ちゃんはどうなるのだろうか、とふと思わせる。最初はイスラエルに置き去りにされた楽団員、まるで星の王子様のように地球に舞い降りた彼らがどうなるだろうか、という感じで見始めた観衆も、いつか自然とイスラエルの小さな町に住む人たちの暮らしに対して関心が向いてくるようになってくるのである。

一夜明けて楽団員は感謝の思いをこめてこの町を去っていく。彼らはどうやら無事目的地に着いたらしく、群衆の前で演奏している団員を描いてこの映画は終わる。何も起こらなかったじゃないか、と言いたくなる人もいるだろうが、実はこの映画80分の短い中に数え切れない程の内容を散りばめた意外な秀作なのである。見る人の人生経験や、知識、教養あるいは興味でどのような解釈も取れるし、そのどれもが正しいのかもしれない。まるで一人一人の心を移す鏡のような映画である。

私もこの映画を見て色々な思いを持ったがその一つを書かせてもらうと、この映画の底を流れるのはアメリカのハリウッドの映画に対する知的批判であろう。ハリウッド映画が提供する、ロマンスと美貌のキャラクターの出会いと殴りあいとドラマチックな終末が必ずしも秀作の条件とはいえないじゃないかと監督は優しく語っているようだ。イスラエルの一部の人たちはハリウッドとのコネクションで、ドラマチックなホロコーストや中東の対立の巨大制作費の映画を作ってくれている。でもそれだけがイスラエルのすべてじゃないよ、と言いたいのではないか。イスラエルに住んでいる若者も、自分がどきどきするような結婚相手をみつけるのも大変だが、結婚できても、安定した生活が続くとも限らない。ただでさえ人生楽ではないのに、他国との紛争やテロがあるのは耐え難い。いろいろな考えの人がイスラエルに住んでいるだろうが、大多数の人はイスラエルという国以外には自分の住む国はないのが事実で現実だとわかっているのではないか。イスラエルの建国が一番正しい方法だったかどうかはわからないが、たくさんの人の尽力で、先住民を追放するという大きな犠牲を払って自国を得た彼らにとっては、過去はどうあろうとも、自分の国を最も他者の犠牲を少なくする中で守りたいと思うのが本当の気持ちではないか。そうでなければ、過去のいろいろな犠牲は何だったのかということになる。

私にもユダヤ人の親友がいる。彼女は非ユダヤ人と結婚し、プロフェッショナルな仕事を持ち、シナゴーグでの人間関係を楽しみ、異文化の友人たちとの友情を楽しみ、、民主党の大統領を支持し、毎年外国旅行に行き、退職後のための貯金もきっちり貯め、お金が余ればケニヤの女子の高等教育を支持する基金に寄付する。彼女にとってアメリカが唯一楽しく安全に住める国であるが、その彼女の子供がイスラエルに強い興味を持ち、遂にイスラエルに留学してしまった。彼女曰く「イスラエルに住みたいという気持ちを持つ子には育てたくなかったけど、行きたいというのを止めることはできないわ。実際住んでみると本当のイスラエルの姿がわかるでしょうから、これは彼にとっては必要な過程だと、自分を納得させているの。息子に対しては、心配な気持ち半分、立派な決心をしてくれたという誇りが半分ということかしら。」

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