[映画]  カティンの森 Katyń (2007年)

現在のこの時点で「観て良かったと思う映画を一本だけ選ぶとしたら何か?」という問いに、私が迷い無く選ぶのがポーランド映画 『カティンの森 Katyń』である。映画としてもかなり高水準だが、この映画を観なければ決して知りえなかったであろう情報を提供してくれる。この映画に対して、心から感謝したい。

東のロシア、西のドイツに挟まれた‎ポーランドは、歴史的に両国の勢力争いの犠牲になるという悲劇を持つ。1939年9月、 ドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦が勃発した混乱を利用して、ソ連はポーランドの東部に侵攻した。同時に秘密裏に独ソ不可侵条約が結ばれ、ポーランドは、ドイツとソ連に分割占領されることになったのである。西からドイツ軍に追われた人々と、東からソ連軍に追われた人々は、ポーランド東部のブク川で鉢合わせになり、ソ連軍から逃げて来たポーランド人はドイツから逃げて来たポーランド人に危険だから西に戻れと言い、ドイツ軍から逃げて来たポーランド人は逆のことを言う。個々の人間が自分の運命を瞬間的に決定しなければいけなかった。

ポーランド政府はロンドンへ脱出し、ポーランド亡命政府を結成した。ポーランド軍人は速やかに独ソ両軍からの命令に応じ、ドイツ軍とソ連軍に平和的に名誉の降伏をした。ドイツ軍は国際法に則りポーランド兵を釈放したが、ソ連軍はそうではなかった。『カティンの森』はソ連軍に降伏したポーランド兵が辿った運命を描く。

1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランド亡命政府とソ連は条約を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、攻ナチのポーランド人部隊が編成されることになった。しかしその時点で捕虜になった兵士の90%以上が行方不明になっており、ロンドンのポーランドの亡命政府の追求に対し、ソ連側はポーランド兵士はすべてが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。

しかし1943年4月、不可侵条約を破ってソ連領に侵攻したドイツ軍は、元ソ連領のカティンの森の近くで、2万人近くのポーランド兵士の死体を発見した。ドイツは、これを1940年のソ連軍の犯行であることを大々的に報じた。その後ドイツが敗北し、大戦が終結した1945年以後、ポーランドはソ連の衛星国としてソ連の支配下に置かれた。ソ連はカティンの森事件は実はドイツ軍の仕業であったと反論し、大々的な反ナチキャンペーンを行い、その後ソ連支配下のポーランド人が事件の真相に触れることはタブーとなった。

この映画は、ソ連支配が始まった後、ナチスドイツに対する憎しみと身の安全の追求のため、人々がソ連に靡いて行く中で、カティンの森事件の被害者の親族で真相を明らかにしようとしてソ連占領軍に対抗した少数の人々の悲劇も併せて描く。

監督のアンジェイ・ワイダは父をカティンの森事件で虐殺された。彼は『地下水道』『灰とダイヤモンド』『大理石の男』などで世界的な名声を獲得したが、同時にその反ソ的姿勢から、ポーランド政府から弾圧を受けた。彼はカティンの森事件の映画化を50年以上の長きに渡って構想していたが、ベルリンの壁の崩壊以前ではそれは不可能であり、2007年に最終的にこの映画を作製した時は既に80歳であった。「カティンの森で何が起こったかを伝えるまでは死ねない」という怨念が伝わってくるような映画である。この映画で私たちが記憶しなくてはならないのは次の3点であろう。

まず犯罪である。戦争は人と人が殺しあうという異常な極限状態ではあるが、その中でも普遍的なルールがある。まず非戦闘要員(civilian)は絶対に意図的に殺害してはいけない。そしてたとえ戦闘要因であっても、降伏した兵士に対しては人間的な扱いをしなければならない。しかし、スターリンの指令の下で捕虜の収容を担当していた内務人民委員部(NKVD)はポーランドの兵士を個々に尋問し、すこしでも反共産主義の考えが感じられた兵士は容赦なく殺害したのである。

次は嘘である。ドイツがカティンの森での死体を発見した後、ジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査の依頼がなされたが、ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は調査団派遣を断念した。1943年4月24日、ソ連は同盟関係にあったポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求したがポーランド亡命政府はそれを拒否し、ついにソ連は亡命政府との断交を通知した。大戦に勝つためにソ連の助けが必要と信じる連合国軍は、ソ連を直接非難することは許されなかった。1944年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集するためにジョージ・アール大尉を密使に任命した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触して情報を収集し、カティンの森虐殺はソ連の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールはその後任務からはずされ、サモアの任務に更迭された。こんな同盟国のお国の事情を背景に、ソ連は虐殺はナチスドイツの許されざる犯罪であるという偽りの見解を50年に渡り維持し続けたのであった。

最後に私が強調したいのは、戦勝国の傲慢である。

1946年の、ニュルンベルク裁判においてナチスドイツの罪は裁かれた。戦勝国のソ連はこの機会を利用して、カティンの森での虐殺の首謀者としてドイツを告発しようとまでしたが、さすがにアメリカとイギリスはソ連の告発を拒絶した。その後この事件の責任について、西側でも東側においても議論が続けられたが、ポーランド国内では、支配者であるソビエト連邦に対する怖れにより誰も真相を究明することは許されなかった。この真相を問われることのない状態は1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで継続し、若い世代はカティンの森の虐殺があったということも知らされることはなかった。

カティンの森事件の被害者の人権が最終的に認められたのは、1989年のソ連の自由化開始後であった。1989年、ソ連の学者たちはスターリンが虐殺を命令し、当時の内務人民委員部長官ベリヤ等がカティンの森虐殺の命令書に署名したことを明らかにした。1990年、ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。1992年のソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最終的にカティンの森事件の公文書を公にし、ここで遂に50年に渡ったソ連の嘘が始めて公に証明されたのである。

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[映画] 名もなきアフリカの地でNowhere in Africa  Nirgendwo in Afrika (2001年)

1938年、ドイツに住むユダヤ人の少女レギーナは母イエッテルと共に、ナチスの迫害から逃れるため先に英国領ケニアへ移っている父ヴァルターの元へ向かった。ヴァルターはドイツでは弁護士であったが、今は英国人の植民者が経営する農地のマネージャーとしての仕事を得、粗末な家に住み、慣れない農業に従事していた。レギーナは一家の料理人のオウアになつき、ケニアの生活に瞬く間に溶け込んでいったが、イエッテルは現実が受け入れられず、夫には不平不満をこぼし、夫婦の仲は口論も絶えなかった。1939年、ついに英国とドイツが交戦を開始し、ヴァルターの一家は敵国人として収容所に送られ、ヴァルターは敵国人という理由で農場のマネージャーの職を解雇されてしまう。しかしケニヤにいるユダヤ人の人々は、ナチに迫害されているユダヤ人は英国人の敵ではないと英国政府に説得して結局収容所から釈放される。

レギーナとイエッテルが送られた収容所として使用されたのはナイロビの最高級ホテルで、ドイツ人の女性はそこで最高級の接待を受ける。当時のケニヤでは白人と現地人とでは滞在する場所が違っており、敵国人とはいえ白人の女性を現地人が泊まる場所に送ることが出来ず、そういうことになったのであろうが、そこに当時のケニヤの隠されたアパルトヘイトを彷彿させる。

美しいイエッテルに好意を寄せる英国兵の助けで、ヴァルターは新しい英国人の雇用主を見つけることができ、家族はその農場に移る。オウアも移って来て良好な環境の下で新しい生活が始まる。ヴァルターは英国兵として志願することを許され、イエッテルの反対を押し切って大戦に参戦する。レギーナは英国人のための寄宿舎で勉強を始める。イエッテルはヴァルターが戦争に行っている間に新しい農場で生き生きと働き始め、ヴァルターはイエッテルが自分の友人のジュスキントと親しい関係にあるのではないかと疑うようになる。事実ジュスキントはイエッテルに求愛していたのである。

戦争は英国の勝利で終わった。ヴァルターは英国軍に奉仕したので帰還兵としてドイツに帰国することが可能になり、またドイツから判事の仕事のオファーが来ていた。帰国を希望するヴァルターに対してイエッテルはアフリカに滞在することに固執する。二人が決断を下したところでこの映画は終わる。

戦乱や人種の迫害の中で自分の故国をどう選ぶかということに関して、この映画は面白い観点を提供しているし、これはなかなかいい映画なのだが、一つ観衆に不快感というか不可解感を与えるのはイエッテルの描かれ方であろう。ケニヤに到着早々「こんな所に住むなら死んだ方がましよ!」と叫び、オウアを見下した態度を取りヴァルターに「君のオウアに対する態度は、ナチのユダヤ人に対する態度と同じだね。」と非難される。「肉が食べられないなんて考えられない。」という不満に応えてヴァルターが仕方なく鹿を撃ち殺すと「動物を殺すなんて!」と非難する。あれだけケニヤを嫌っていたはずなのに、いざヴァルターが帰国を許されて祖国の復興に尽くそうというと、「自分の家族を殺した国など信用できない」といって帰国を拒否する。しかし自分が妊娠したのを知ると「この国の人が怖い」といって帰国に賛成する。また行く先々で自分が男性の関心を惹くのを自覚している風があり、実際にその情事の現場を娘のレギーナにも目撃されてしまう。

このイエッテルの人格の矛盾は、この映画は三層の視点から成っているということに起因しているだろう。一つは原作者シュテファニー・ツヴァイク(映画ではレギーナとして描かれている)の子供の目、もう一つは大人になってこの自伝を書いたシュテファニー・ツヴァイクの大人の眼、さらにもう一つはこれを映画化したカロリーヌ・リンク 監督の視点である。

シュテファニー・ツヴァイクは母を嫌っているわけではないが、原作となった伝記では彼女を常に我がままなユダヤ人のお姫様のように回想している。彼女にとって人格形成の基盤となったのは、常に前向きに人生を開拓して行く父(ヴァルター)と無限の愛を注いでくれたコック(オウア)、そして自分が通った英国の寄宿舎であった。

映画で父ヴァルターを演じたのは、旧ソ連領のグルジア生まれでオーストリアに移民してきた美青年俳優のメラーブ・ニニッゼであるが、インタビューでシュテファニー・ツヴァイクは「メラーブが父とそっくりなので驚きました。その顔立ち、哀愁と郷愁を心に秘めながら、力強く情熱的に前向き生きているところなど、父そのものです。彼のドイツ語は東方訛りがあり、父と同じドイツ語を話します。」と雄弁に語っているのに、母を演じた女優に関しては「全く似ていません。」と素っ気無く、母がどういう人間かというのにも言及していない。

オウアに関しては、自伝を書いたのはオウアのモデルになる素晴らしい人がいたということを記録したかったからだと述べているくらいだ。映画ではヴァルターが「自分が兵役にいる間は君はナイアビで暮らせる。」というのに対してイエッテルは「私はこの農場を守るわ。」と大見得をきるのだが、実際は母は父が戦場に行ったあとナイアビに移ったらしい。しかしそのコックは自分の故郷を離れて、母に従ってナイアビに移ってずっと彼女の面倒をみてくれたという。

少女レギーナの視点では、父と母は太陽と大地みたいなもので、その間に恋愛関係があるというのは全く考慮の外であっただろう。しかしカロリーヌ・リンク監督はこの映画をラブ・ストーリーとして作製したのである。ヴァルターを演じたメラーブ・ニニッゼは次のように述べている。「ある日、ニニッゼ監督が私に対して、『違う、この映画はラブ・ストーリーなのよ!』と叱責しましたが、それで私はこの映画の解釈がわかり、それ以後演技の方針が決まりました。」

つまり、メラーブ・ニニッゼはこの映画はもっと政治的なものだと解釈していたのだ。しかしカロリーヌ・リンクの意図はこの映画を「裕福なユダヤ人の家庭で育ったお嬢様のようなイエッテルがアフリカの大地の中で自立する女として成長していく過程を大人の恋愛を混ぜながら描いたドラマ」として再現したのであり、それはアフリカという大地を素直に吸収して生きていくという少女が中心の視点から大きくずれてきており、中心人物はイエッテルに移り、作者の女性の自立や恋愛観をイエッテルに投影させようという意図が結果として、映画では矛盾した人間となっているようである。

シュテファニー・ツヴァイクの書いたものを読むと、映画では描かれなかったいろいろな事情がわかり興味深い。なぜユダヤ人がドイツを逃げなかったのかという質問には、当時は国外に逃亡するのには高額な資金が必要で、多数のユダヤ人はそれを捻出できなかったという可能性も示唆している。彼女の父がケニヤに逃亡したのは別に深い理由はなく、入国の費用が1人50ポンドと格安であった上に、ナイロビではユダヤ人のコミュニティーが強く、ケニヤが比較的安全な場所であったからだという。

ケニヤでも、父はすでに確立している植民地の統治制度の中間マネージャーとして赴任したのであり、一からの出発ではない。つまり植民地の英国人白人の支配機構の中間管理職としての立場である。農場に仕事がある限りは、支配者階級の一つとして現地人の労働を監督するわけで、収入や身分が保証されているし使用人も使えるので、イエッテルがそこに留まりたいと思うのもわかる気がするが、ヴァルターはケニヤで才能のない農場者として果てるよりも、自分の才能を生かしてもう一度祖国で自分を試してみたいという気持ちになるのもわかる。あるいは父はドイツにおけるユダヤ人の末路を見抜くだけの力がある人だったから、平和で優しいケニヤにもやがて民族主義や独立運動の波が吹き荒れるということを洞察していたのかもしれない。

シュテファニー・ツヴァイクの父にとって、自由の国アメリカへの移民は選択肢ではなかった。彼は英語が話せないので、たとえアメリカに渡っても弁護士として生きて行くのは40歳を過ぎてからではまず不可能であり、彼はどんなに苦しくても祖国ドイツで自分の人生を再構築することにしたという。彼は自分に命を与えてくれたケニヤに対する感謝を生涯忘れることはなかったという。

祖国として自分が暮らす国を選ぶ基準は、まず国家が自分の生命を保証してくれること、そして自分の才能が生かせる環境であること、自分が主人公として環境をコントロールできること、自分の愛する家族に囲まれていること、言語がわかること、好きな食べ物が簡単に入手できることなどがあるだろう。日本人がこれだけたくさんの基準を一瞬で簡単に満たして『日本』という国を祖国として選べるということは、何という幸せなことであろうか。この世界には祖国を選べない人もたくさんいるのである。

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[映画]  危険なメソッド A Dangerous Method (2011年)

私達は誰でも心理学者のフロイドとユングの名前は知っているし、フロイドの夢診断のことも知っている。しかし、二人の療法の詳細は心理学でも勉強しない限りはわかりようがないし、この二人の関係とか二人を生み出した当時の状況というのは案外知られていないのではないだろうか。この映画はフロイドとユングの友情とその決別、そして二人に師事した女性精神家医ザビーナ・シュピールラインとの関係を描く。

ザビーナはロシアの西端にあるロストフに住む富裕なロシア系ユダヤ人の家族に生まれたが、精神病を患い1904年にスイスのチューリヒ近郊のブルクヘルツリ精神病院に入院した。ここで彼女を治療したのが若い精神科医のユングであった。ユングはルター教会牧師の息子であり、富裕な出自の妻を持ち、真面目で身持ちの堅い、そして美しい風貌と知性に恵まれた男性だったが、同時に第六感的能力のような超自然的直感の鋭い男でもあった。彼は、ザビーナも自分のような鋭い直感を持ち、また非常に優秀な頭脳の持ち主であることがわかる。ユングの治療によりザビーナの病は治癒し、彼女は大学の医学部に進学し精神科医をめざすようになる。

ユングは、ジークムント・フロイドがザビーナの症状に似た患者を、当時革新的であった無意識の解明という観点から治療しているのを知り、1907年頃から親交を結ぶようになった。フロイトはユングのことが気に入り、自分の弟子で精神が病んでいるオットー・グロスの治療を依頼する。個人セッションで彼を治療しているうちに、オットーの退廃的な人生観は優等生で道徳的に一夫一妻制度に凝り固まっていたユングを激しく揺さぶり、ユングは自分に正直であろうとして、ザビーナへの愛を認め、彼女と愛人関係になる。またザビーナの卓越な知性はユングの理論に大きな影響を与えていく。

しかし1913年あたりから、ユングとフロイドは袂を分かつことになる。フロイトはユングの超能力への傾倒はオカルトであり、学問としての心理学から離れていくと怖れ、逆にユングは夢判断をすべて無意識の性への願望に結びつけるフロイドに疑いを持ち始める。それ以後二人は学者として敵対することになる。同時に精神科として成長したザビーナは愛人以上の関係をユングに求め始め、それが原因で二人は別れることになる。ザビーナがユングの後自分の師として選択したのは、フロイドであり、フロイドは自分とザビーナは同じユダヤ人なので、よく理解できると彼女に述べる。しかし、ユングがザビーナの後に選んだ愛人はやはりユダヤ人のトニ・ウルフであった。この映画はユングとフロイトが決別する第一次世界大戦前夜で終わっている。

フロイドがユダヤ人であったということが、ユングとフロイドの関係を興味深いものにしている。1911年にはフロイドとユングが中心になり国際精神分析協会が設立されたが、その初代会長になるのはフロイトでなくユングであるのは、ユダヤ人以外を会長に選ばなければならなかったからだといわれている。フロイトはアシュケナジー(東欧系ユダヤ人)であり、当時はアシュケナジーは大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ研究に勤しんでいた。

アシュケナジーとは、ユダヤ人の中でドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々を指す。もう一つのグループ、中東に居住していたユダヤ人はセファルディムと呼ばれる。アシュケナジーは当初は、ヨーロッパとイスラム世界とを結ぶ仲買商人だったが、ヨーロッパ・イスラム間の直接交易が主流になったこと、ユダヤ人への迫害により長距離の旅が危険になったことから、定住商人へ、さらにはキリスト教徒が禁止されていた金融業へと移行した。シェークスピアの『ベニスの商人』ではアシュケナジーの商人が登場する。アシュケナジーは1290年には英国から、1394年にはフランスから追放され、東欧へ移民して行った。彼らは神聖ローマ帝国では迫害されたが、ポーランド王国では既に1264年に「カリシュの法令」によりユダヤ人の社会的権利が保証されていたのでポーランドはユダヤ人にとって非常に住みやすい安全な国となった。経済的にもポーランド王国は専門職移民であるユダヤ人を経済的な利益があるとして歓迎したのである。ユダヤ人はポーランドを基点としてさらに東方のウクライナやロシアに移って行った。

1938年、アドルフ・ヒトラー率いるナチスがアシュケナジーの学者を精神科医の学会から追放した時、ユングは学会の会長であり、自分が永世中立国の住民であるという立場を生かし、ドイツ帝国内のアシュケナジー医師を受入れ身分を保証することを決定し、フロイトに打診した。しかし、フロイトは「自分の学問の敵であるユングの恩義を’受け入れることは出来ない」と言って援助を拒否した。フロイト自身はその直後にロンドンに亡命したが、亡命できなかったアシュケナジーの医師たちは仕事を失い、大部分は強制収容所のガス室に送られ殺されたのである。

ザビーナについては、彼女は1912年、ロシア系ユダヤ人医師パヴェル・ナウモーヴィチ・シェフテルと結婚し、ベルリンで暮らした。第一次世界大戦中はスイスで暮らしたが、ロシア革命後の1923年、ソヴィエト政権下のロシアに帰国し、モスクワにて幼稚園を設立した。しかし1942年に故郷ロストフにて、侵攻したナチの手で殺害された。

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[映画]  バーダー・マインホフ 理想の果てに The Baader Meinhof Complex Der Baader Meinhof Komplex (2008年)

1960年から1970年代は、米ソの冷戦、ベトナム戦争、パレスチナ難民問題、文化大革命、 アルジェリアの独立、‎南米のDirty War、ケネディ大統領やキング牧師の暗殺と世界的な動乱の時代であったが、ドイツの赤軍がヨーロッパでテロを起こしていたということを覚えている人が現代ではどれくらいいるだろうか。1970年前後には、20代のドイツの若者の三分の一はドイツ赤軍に共感を抱いており、その若者の反乱は西ドイツ政府にとっては大きな脅威となっていた。その赤軍を支持していた若者は今60代から70代になっているはずだ。この映画『バーダー・マインホフ 理想の果てに』は正義感の強い高等教育を受けた若者が60年代に理想に燃えて左翼運動に走り、70年代には非暴力で行くか、武装闘争で行くかで方針の分裂が起き、過激派の赤軍がどんどん暴力集団に変貌していく過程を描いている。映画では描かれないが80年代にはベルリンの壁が倒れ、結局社会主義は統治の原理としては失敗であったことを人々は知ることになる。

この映画は10年に渡る長い期間の中での数多くの赤軍の若者とそれに対抗する当局者たちを描いているので、とにかく次から次へと暴力的行為が起こり、1人1人の描かれ方が浅い。また事実をドキュメンタリータッチで羅列しているだけで、一番大切な「なぜ60年代のドイツの若者が赤軍派武装集団に入ったり、それを支持したのか。なぜそれだけ支持されていた赤軍が崩壊したのか」ということは描かれていない。またドイツの歴史をあまり知らない人間、ドイツのような発展国に過激派が存在したことを覚えていない人間にとって、この映画は少々わかりづらい。映画は聴衆が歴史を知っていることを前提として、詳細を全く説明をしてくれないからである。この映画の背景を少し調べてみた。

映画は1967年、イランのシャーが西ベルリンを訪ねたことから始まる。シャーの独裁から逃亡したイラン人や学生を中心とした平和的抗議デモは、学生が警官に射殺させたことを機に暴動化する。ウルリケ・マインホフは高名な左翼ジャーナリストであったが、その事件にショックを受け、さらに過激な思想に走っていく。夫も左翼的雑誌の編集者であったが、彼は暴力的行為には反対しており、二人は離婚する。

グドルン・エンスリンは牧師の娘で、頭脳明晰な優等生であった。ドイツの最高学府のベルリン自由大学で博士号の取得をめざしており、婚約者の父で元ナチ党員の遺稿を出版しようとしていた。彼女の父は社会問題に理解のある牧師で、彼女も穏健な議会改良主義を信じていたが、アンドレアス・バーダーと出合ったことで人生が変わる。彼女は婚約者との間にできた子供を放棄して、アンドレアスと出奔する。

アンドレアス・バーダーは高校を退学して、あらゆる犯罪を繰り返していた男であった。高学歴の人間が多い過激派の中で異色の存在であったが、その強いカリスマで、グドルン・エンスリンと共に過激派をテロ行為や犯罪行為に導いていく。

エンスリンとバーダーはデパートの放火で逮捕された。マインホフは投獄されたエンスリンを取材に行き、彼女と意気投合する。マインホフとエンスリンそしてバーダーを中心としてバーダー・マインホフ・グループが結成され、それが後に赤軍に発展する。彼らはヨルダンに当時本拠を置いていたパレスチナ解放ゲリラのゲリラ訓練所に滞在し軍事訓練を受けた後、次々とテロ活動や資金稼ぎの銀行強盗に成功し、西ドイツ政府の大きな脅威となっていく。マインホフ、エンスリンそしてバーダーを含む赤軍派の指導者たちは1971年に逮捕されたが、彼らは、赤軍派の弁護士のクラウス・クロワッサンとジークフリート・ハーグの面接を通じて、獄中からの赤軍派の活動家を指導し、彼らが二世三世の赤軍兵士として育って行く。

次世代の赤軍派はどんどん過激化し、バーダーたちの保釈を求めて、誘拐やハイジャックなどを起こす。バーダーたちの保釈を求めたテロとして有名なのは、1972年のミュンヘンオリンピックの選手村でのイスラエル人選手の誘拐と殺害、1975年のスウェーデンのドイツ大使館の占拠と爆破、1977年のジークフリート・ブーバックとユルゲン・ポントの暗殺事件、実業家ハンス=マルティン・シュライヤーの誘拐と殺害、ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件などがある。1970年代後半には赤軍の暴力度は頂点に達し、一連のテロ行為は『ドイツの秋』と呼ばれ、赤軍は国民からの最後の支持も失っていった。誘拐に失敗して殺害されたドレスナー銀行の頭取ユルゲン・ポントはそのテロに加担した赤軍派のメンバー アルブレヒトの父の友人であり、アルブレヒトの名付け親でもあった。この赤軍派と提携して戦ったのが、ヨルダンを追放されてレバノンに移りさらに過激化していた、パレスチナの武装集団『黒い九月』であった。

ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件犯のリーダーである『黒い九月』の兵士は西ドイツ政府に対し、赤軍派第一世代メンバー11人の釈放と現金1500万米ドルを要求した。パレスチナ人が難民になってから、国際世論、特にアラブ諸国はパレスチナ人とその解放戦線に対しては同情的であったが、この時から風向きが微妙に変わって来た。パレスチナ解放戦線は既にヨルダンとシリアからの支持を失っていた。ハイジャック機はラルナカ(キプロス共和国)、バーレーン、ドバイを転々とし、ドバイから先はアラビア半島のどの空港からも着陸の許可は下りなかった。、燃料が尽きたハイジャック機は結局南イエメンのアデンに不時着したのちソマリアのモガディシュに到着し、ここでドイツ政府機関に鎮圧される。このハイジャックの失敗の直後、獄中にいた赤軍派の第一世代は自殺を決行する。

戦後の新しい世代は第二次世界大戦後、親の世代が残した課題、あるいは親の世代が作り出した問題を当時の希望の星であった左翼思想により解決しようとしたのであろう。最初は理想から始まったこの動きも次第に暴力か非暴力かという選択に迫られていく。暴力に訴える方が解決策としては一見手っ取り早いかもしれないがそれは永続しない解決だった。

この映画の監督はウーリ・エーデル、ウルリケ・マインホフを演じたのは『マーサの幸せレシピ』(これはキャサリン・ゼタ=ジョーンズ主演で『幸せのレシピ』としてハリウッドでリメイクされた)、『善き人のソナタ』に出演したマルティナ・ゲデックである。この映画はアカデミー賞最優秀外国語映画賞にノミネートされたが、結局日本から出品された『おくりびと』が最優秀映画賞を受賞した。

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[映画]  グッバイ、レーニン!  Good Bye, Lenin!(2003年)

東ドイツの首都東ベルリンに暮らす主人公のアレックスとその家族。母のクリスティアーネは夫のローベルトが西ドイツへ単独亡命して以来、その反動から熱烈に社会主義に傾倒してしまったという設定。1989年10月七日、東ドイツ建国40周年記念日にクリスティアーネは心臓発作を起こして倒れ、昏睡状態に陥る。彼女は二度と目覚めないと思われたが、8ヶ月後に病院で奇跡的に目を覚ます。しかし、その時にはすでにベルリンの壁は崩壊、東ドイツから社会主義体制は消え去り、東西統一も時間の問題となっていた。アレックスは、母を自宅に引き取ったが、「もう一度大きなショックを受ければ命の保障は無い」と医師から宣告されたため、周囲を巻き込んで、東ドイツの社会主義体制が何一つ変わっていないかのように必死の細工と演技を続ける。しかし、母の告白により、実の父は母を捨てて亡命したのではなく、クリスティアーネはローベルトが西側に逃げた後を追いかけるという約束を破って東ベルリンに留まり、父から来た手紙すらアレックスと姉には見せず隠していたことを知る。クリスティアーネはベルリンの壁の崩壊後3年行き続け、アレックスは自分がうまく現実を母から隠しおおせたと思っているが、実際はどうだったんでしょうね、という感じで幕が閉じる。

『グッバイ、レーニン! 』はコメディーであり、その底には風刺と機知がある。東ベルリンに住んでいる人間がベルリンの壁の崩壊の前は「それを得られるなら命を捨ててもいい」と思ったほど渇望していた自由も、壁の崩壊の崩壊後の経済混乱、失業、社会混乱、今まで誇りに思っていたものの喪失などを目の当りにすると、自由社会というのは思ったようなバラ色のものではなかったという苦い現実を感じてしまう。しかしそれよりもこの映画に深く流れているのは、自分が信じていたもの、信じさせられていたものは嘘だったいうことへの自覚である。それを悔やんだり、誰かを責めているというのではない。普通の市民は社会主義体制の中では与えられたプロパガンダを信じて生きていくだろうし、社会が急激に変わったら変わったなりに、一生懸命適応していくものだ。映画では、アレックスとその周囲の人々はの転換期をさらっとしたユーモアで描くのだが、母親にはやはり古い価値を信じたまま安らかに死んでほしいという思いもある。この映画がドイツで大ヒットをしたのも、価値観の急激な変化やそれに伴う混乱こそあれ、順調に民族統一を成し遂げたドイツ社会の安定というものが背後にあるのだろう。その時は苦しかったが、ドイツ人には、20年後の今、ユーモアで過去の混乱を振り返る余裕があるのだ。

急激な体制の変化を風刺と笑いで描こうと意図は価値のあるアプローチだと認めるとしても、残念なことに、この映画が素直に面白いのは前半だけで、長い映画の後半に入ると、同じ試みの繰り返しで話はだらだらと退屈になってくる。アレックスの善意の努力も見当はずれになり、「いつまでだまし続けるのか?正直に母に現実を告げなさい。」という恋人の批判も、「だまし続ける生活はストレスだらけだ」という姉の怒りもお構いなく、一日中偽造に奮闘するアレックスを見ていると、だんだん笑えなくなってくる。おまけに風刺の対称は何なのかがわからなくなってさえくる。「冷戦の終了は甘いものばかりではなかった」というセンチメントを表現したいのか、或いはへたをすればそれは「なんだ、社会主義の方がましだったじゃないか。東ドイツは米ソに次いで多くの金メダルをオリンピックで獲得していた偉大な国だったんだ。」というメッセージを受け取ってしまう人もいるかもしれない。

しかし、私たちは東ドイツのオリンピックの栄光の陰には、国家をあげての薬物の使用という事実があったことを忘れてはいけないだろう。それも、薬物はアスリートの同意なしに与えられていたのである。その一人として東ドイツの砲丸投げの一人者ハイジ・クレーガーがいる。彼女は自分がそうと知らないうちに継続して与えられたステロイドホルモンのために体を壊し競技生活を引退したが、今は性転換手術の後男性としてアンドレア・クレーガーという名前で生きている。彼は2004年のニューヨークタイムズのインタビューで「男性として暮らせる今の生活には満足しているが、自分の同意なく政府機関から薬物を与えられてこの状況に至ったというその過程には非常に怒りを感じる。」と述べている。

風刺の意図をどれだけ明確にするかというのは、コメディーを作る場合、高い技術を要求されると思うが、やはりもう少し姉や恋人のまっとうな意見に影響されるアレックスを見たかった。聴衆の中には、最後にはアレックスの行動に辟易する人が結構いるような気がする。その辟易とした時点で笑いも止まってしまうのだ。

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[映画] 善き人のためのソナタ Das Leben der Anderen The Lives of Others (2006年)

レーニンは嘗て「ベートーベンのソナタを聴いてしまったら、革命を続けるのが困難になるだろう。」と述べたそうだが、これはそのソナタを聴いてしまった男の物語である。

1984年の東ベルリン。国家保安省(シュタージ)のヴィースラー大尉は有能な手腕で知られる諜報局員。彼は、反体制の疑いのある劇作家ドライマンとその恋人の舞台女優クリスタを監視するよう命じられる。盗聴器を彼らが住むアパートにしかけたが、その盗聴の活動の過程で実はその盗聴はクリスタを自分のものにしようとする芸術大臣がその目的を果たすために始めたものだとわかる。ドライマンの弾くソナタに心を揺さぶられるヴィースラー。慎重に反体制派から一歩自分を離していたドライマンだが、親友で政府から弾圧されていた作家が『善き人のためのソナタ』という題の草稿を残して自殺したあと、東ベルリンの実態を明らかにする記事を西側で出版しようとする。また芸術大臣から疎まれ窮地に陥ったクリスタはドライマンの秘密を当局に告げるスパイに変身する。二人に盗聴を通じて共感を覚え始めたヴィースラーは、自分の知った情報を基にドライマンとクリスタを助けようとするが、クリスタは自殺してしまい、自分も疑いをかけられて閑職に追いやられてしまう。

ベルリンの壁が崩壊してしばらく立ち、ドライマンは自分が実は当局に盗聴されていたことを発見し、その盗聴の記録からクリスタが自分のスパイであったことを知る。しかしコードネームでしかわからない諜報の責任者は、自分が西側で出版された体制の暴露記事の作者であることを示す証拠をを何一つ当局に報告していなかった。ドライマンは始めてその無名の諜報員が自分を守ってくれたことを知るのだ。更に何年か後、今はてひっそりと暮らすヴィースラーはドライマンが最近『善き人のためのソナタ』と題する本を出版したことを知る。本屋でその本の扉を開いたヴィースラーは「感謝をこめてこの本を奉げます」という献辞が自分に向けられたものであることがわかることで映画は終わる。

ヴィースラーを演じるウルリッヒ・ミューエは最初は制服に身を包んだ剃刀のような男として登場するが、盗聴をしているうちに、次第に冴えないズボン姿の剥げの普通の叔父さんに変身している所が見事。素晴らしい主題、演技力、映像、音声、サスペンスが「完璧な映画」を作り上げているが、もしこの映画に対する批判があるとすれば次のようなものであろう。

映画の中の歴史的な不正確さが非難の対象になるかもしれない。国家保安省(シュタージ)には、ヴィースラー大尉のような人間味のある人物を生み出す素地はなかっただろう。諜報員の中でもお互いの監視と責任の分担が行われ、一人の諜報員が誰かを助けるなどということは不可能であっただろう。たとえヴィースラーのような人間味のある諜報員がいたとしても、それがばれたらその罰則は「退屈な仕事をして20年暮らす」などという生易しいものではなかったということは容易に推測される。脚本と監督を担当したフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクはインタビューでこう語っている。「国家保安省(シュタージ)のことを調べれば調べるほど、実態を正直に書くのはあまりにも残酷であるということがわかり、敢えて残酷なシーンを作らないということに徹底したのです。」確かに、このシーンで残酷なのは、クリスタの死だけであるが、それも事故死なのか、自殺なのかはっきりしない描き方である。この映画は事実を残酷なまでに描くのと、その残酷さを抽象的にとどめるのと、どちらが聴衆に対してインパクトが強く、そのテーマがより長く人の心に残るのかという、決して結論のでない芸術のあり方に対する議論を含むものであろう。

ヴィースラーを演じるウルリッヒ・ミューエは東ドイツでも評価されていた舞台俳優だが、反政府デモや体制批判の劇にも従事した。最初の妻舞台演出家アンネグレット・ハーンとの間に二児を設けたが、のちに彼女と離婚して女優のイェニー・グレルマンと1984年に結婚した。しかし、後に彼は自分の同僚の演劇人4人と妻のイェニー・グレルマンが当局のスパイとして自分の情報を当局に流していたことを知り1990年に妻と離婚する。その後1997年に女優のズザンネ・ロータと再婚する。

『善き人のためのソナタ』は2007年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したが、その直後にミューエは急遽ドイツに戻り胃癌の手術を受けたなければならなかった。『善き人のためのソナタ』により数々の賞を受けたがその名声のさなか、彼は54歳の若さでこの世を去った。

2006年、『善き人のためのソナタ』の関連本に収録されたインタビューの中で、ミューエは映画のストーリーと同様に、旧東ドイツ時代に元妻のグレルマンが国家保安省(シュタージ)の非公式協力者で「HA II/13」というコードネームのシュタージ職員と接触しており、自分は妻に監視されていたと告白した。これに対して元妻のグレルマンは、自分が気付かないうちに非公式協力者としてミューエの情報源にされており、結果的にシュタージに協力した形になっただけだったと反論、この本の出版差し止めをベルリン地方裁判所に申し立てた。裁判所はこの申し立てを認めて本の出版を差し止めるとともに、ミューエの控訴を退け、ミューエに対して今後彼女をシュタージの元非公式協力員呼ばわりすることを禁止した。直後にグレルマンは病死、一年後にミューエも亡くなった。また三度めの妻ロータは2012年に51歳で死亡している。三人とも本当に若死になのである。

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[映画] ヒトラーの贋札 Die Fälscher The Counterfeiters (2007年)

「ヒトラーの贋札」の原題は単に「贋物造り」という意味で、どこにもヒトラーという言葉はない。 しかしヒトラーという言葉は「独裁者」ひいては「権力を持たせると何をやらかすかわからない危険な男」という意味が込められているような気がする。この一言をこの映画の和訳につけることで、人々はこの映画の中の危険な匂いを感じ取るだろう。なんとも言えない名訳である。映画もナチスの暗黒時代に強制収用所に送られたユダヤ人の悲惨生存への戦いの経験を描いているのだが、その描き方はナチス(悪)対ユダヤ人(善)の明確な対立という単純なものではない。

主人公は天才的な贋札偽文書製作者のユダヤ人サロモン。ドル紙幣の贋作がばれて逮捕され、ユダヤ人であることから強制収容所に送られるが、そこでも絵画の才能が評価されてドイツ人の兵士から重宝がられる。やがて、その贋札造りを逮捕した優秀な警察官がナチ親衛隊の少佐に昇進され、サロモンに接近してくる。少佐は収容所に送られた囚人の中から、絵画、印刷技術、贋札造りの才能のある者を集めてイギリスなど連合国の貨幣を捏造し、連合国の経済的崩壊を画策するプロジェクトの指揮者となっていたのだ。少佐はサロモンをそのプロジェクトの技術リーダーに任命し、彼を優遇してこのプロジェクトを成功させようとしていた。

サロモンの矛盾はここから始まる。彼はどんなことであっても憎きナチスを助けることはしたくない。しかし、少佐に従わなければ自分と仲間の命は危ない。ユダヤ人の仲間も決して一枚岩とはいえず、少佐におもねる者、プロジェクトを成功させることにより自分たちの命が保障されると信じたい者、エリートである自分たちに与えらる特権と比較的安楽な環境に一時的に酔うもの、また印刷工ブルガーのように反ナチの反乱を起こそうと仕掛けるものもいる。その中でチームをまとめるのは容易なことではない。そして世界一模造が困難とされる英国証券の贋作にかかわる中で、次第に彼の贋作者としての誇りとパッションが生まれてくるのである。彼らの偽イギリス証券が完璧に英国銀行から本物として認められたことが発表されると一瞬(一瞬であるが)少佐とユダヤ人の囚人たちの間に「何か偉大なことを共に成し遂げた。」という共感の火花が飛び散るのであった。プロジェクトチームの囚人たちはそのご褒美として、卓球をして遊ぶことを許される。

しかし戦局は次第にナチに不利に動いていた。それを知っている少佐はスイスへの亡命を企て、サロモンに家族全員のスイスパスポートを偽造させ、「今は困難な時代だ。お互いに耐えて生き延びよう。」とサロモンに告げて去って行こうとする。この少佐は平和時に生きていたなら、職務に優秀な家庭的な良き父、夫、友人だったかもしれない。しかしサロモンにとっては、少佐は自分をこの難しい状況に陥れた男であり、プロジェクトチームの成功に感動して、思わず「はは~偽者作りはユダヤ人に勝るものはないな。」とからかう男である。平和時では何の繋がりも無かった男かもしれないが今の状況の中で、サロモンは少佐に対して屈折した行動にでてしまう。

ナチの収容所が連合国によって解放され、隣の敷地に収容されていた痩せこけたユダヤ人がサロモンの建物に押しかけてくるが、彼らはサロモンたちがナチに囚われた囚人だということを信じない。サロモンたちの健康状態があまりにもよかったからだ。サロモンたちは自分たちはナチ軍人の偽装ではなく正真正銘のユダヤ人であることを同胞たちに証明しなければいけなかった。また、収容所が解放された直後にサロモンの仲間の一人が自殺した。彼はナチの恐怖に戦うことが唯一の生きる理由だったのだが、今ナチが崩壊したあと何も心の支えになるものがなかったのだ。ナチの崩壊とともに何かが彼の中で壊れてしまったのだ。

この映画は気骨のある印刷工ブルガーの自伝を基に作成された。ブルガーとサロモンのその後の実際の人生の対比が面白い。ブルガーはユダヤ人のナチからの逃亡を助けるため彼らにカトリック洗礼証書を偽造したかどで、ナチスに逮捕され収容所に送られていたのだ。、解放後、彼は自らの体験を後世に伝えるためジャーナリストとなり、出版や講演を通じてファシズムを糾弾する活動を続けている。一方のサロモンは、大戦後も贋札造りを続け、国際的に指名手配される。彼は密かにウルグアイに逃げたともいわれるが、さらにブラジルに逃げそこで一生を終えたとも言われる。サロモンの詳しい人生は謎のままである。

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