[映画]   ムッソリーニとお茶を Tea with Mussolini (1999年)

『ムッソリーニとお茶を』は1935年から1945年にかけてイタリアのフロレンスで暮らした英国人及びアメリカ人婦人と、彼らと深く関わり合う一人のイタリア人の少年・青年ルカの生活を描いたコメディータッチの映画である。ムッソリーニ率いるファシストの台頭、英米のイタリアへの宣戦布告後の英米人の強制収用所での生活、ユダヤ人狩、パルチザンの動きなどが中心なのだが、銃声も殺人もほとんどなく、最初から最後まで映画は上品なお茶とビスケットの香りを失わないという不思議な映画である。実はこの映画の脚本、監督を担当したゼッフィレッリは、自分の経験をルカに投影させているというのだから、案外映画の内容は正確なのかもしれない。ゼッフィレッリは戦争当時反ファシズムのパルチザンとして反戦活動をしていたという。

第二次世界大戦の前夜、フィレンツェのコロニー(外国人居留区)に、元駐伊外交官未亡人のレディ・ヘスターをリーダーとする英国婦人たちのグループがあった。アメリカ人の歌手エルサもそのグループと親しいが、誇り高い昔気質のヘスターはアメリカのエルサを成金として嫌っていた。グループの一員のメアリはイタリア人のビジネスマンの秘書であったが、その上司は非嫡子のルカを英国紳士に育てあげようと希望し、メアリにルカの教育を依頼する。一方エルサは、自分が亡くなったルカの母と友人だったので、ルカの教育を援助する基金を立ちあげる。しかしイタリアが英国との友好関係を断絶しドイツに接近したので、ルカは方針を変えた父の意向で、ドイツ語を学ぶためにオーストリアの学校に送られてしまう。ヘスターはファシストの台頭を心配し、フロレンスの英国人社会を守るために、自分が面識のあるムッソリーニに会いに行き、アフタヌーン・ティーをふるまうムッソリーニに「イギリス人は何が起こっても守ってあげる」と言われて安心して帰って来る。しかしイタリアが英国に宣戦布告した後、イギリス人の女性たちは強制収用所に収容されてしまう。

エルサは大金を積み、ヘスターたちを収容所から高級ホテルに移し、彼らの住まいを確保してあげる。また彼女は、イタリア国内のユダヤ人に偽パスポートを提供し、彼らの海外逃亡を助ける。そのエルサの使命を手足となって助けているのは、美しい青年へ成長し、オーストリアから帰国したルカだった。やがて真珠湾奇襲により、ようやくアメリカが参戦し、イタリアとアメリカは敵国になり、実はユダヤ人であったエルサの身に危険が迫る。ルカはパルチザンにエルサの逃亡を依頼し、今や自分を守ってくれているのはイタリア人のムッソリーニではなく、アメリカ人のエルサであることを知ったレディ・ヘスターも、エルサの逃亡に一役買う。ルカはレディ・ヘスターの孫が加わったパルチザンに自分も加わり、また後にスコットランド兵に率いられる連合軍に合流し、ナチに占領されているイタリア解放のために戦う。映画はヘスターたちが暮らしているイタリアの町からドイツ軍があたふたと引き上げ、ルカたちのスコットランド軍がその町に到着し、町民の熱狂的な歓迎を受けるところで終わる。

この映画は歴史に残る名作というよりも、良い味わいの小品という感じだが、それでも実際のその時期を暮らした人間の映画だからこそわかる細かな点が幾つかあった。

一つは第一次世界大戦後から1930年代の初めまでは英伊関係が良好であったことである。従ってイタリア人にとって、英語が堪能だということは、大きなプラスだったのだ。またイギリス人の間では、ムッソリーニはある時点までは好意的に見られていたようだ。またイギリス人も戦争は主にイタリア・ドイツ対ドイツ周辺の国々という小規模で終わる戦争で、イギリス政府は上手に戦争を回避してくれると信じていたようだ。ある時点までは、戦争はある意味では他人事だったのだ。しかし、いったんイギリスが参戦せざるを得なくなった時点で、アメリカの存在がいっぺんに大きなものになってくる。今までイギリス人にとってアメリカは海の向こうのいい意味でも悪い意味でも遠い国だったのが、今や救世主のような立場になってくる。アメリカの参戦はヘスターたちに感謝をもって受け止められる。

また英国内でのイングランドとスコットランドの敵対関係も面白く描かれている。連合国参加を目指して戦場をさすらうルカが、連合国軍らしい軍団を見つけた時大声で訪ねる。「アメリカ軍か?」「NO!」「イングランド軍か?」「まさか!!俺たちはあんな残酷な奴らではない!!!」唖然とするルカに兵隊たちは大笑いする。「俺たちはスコットランド人だ!安心しろ!」そしてほっとしたルカを彼らは大笑いして迎えるのである。

ルカが参加したスコットランド軍の使命は、ヘスターを含む英国人捕虜を釈放して安全な場所に輸送することであった。町でヘスターに会ったスコットランド兵は「皆さんの身の安全のため、すぐさま荷物をまとめ、安全地帯に移ることを命令します。」と述べるが、ヘスターは「スコットランド人が(イングランド人の貴族である)私に命令をするのは、許しません!!」と怒るが、ルカとスコットランド兵が「しょうがないね。」といった感じで微笑を交わすところでこの映画は幕を閉じる。

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[映画] 武器よさらば A Farewell to Arms (1957年) 

ヘミングウェーイが、第一次世界大戦の1917年に赤十字のボランティアとして、イタリアに赴いた若き日の自分の経験を基にして1929年に出版した小説を、ハリウッドが2度映画化している。最初は1932年にゲイリー・クーパー主演で、そして戦後のハリウッドの隆盛の中での華々しいリメークは1957年ロック・ハドソンが主役を演じている。

イタリアは第二次世界大戦ではドイツと組んだが、第一次世界大戦では連合国側の一員としてフランス、英国、ロシア、米国と組んで、オーストリア、ドイツ、トルコの枢機国側と戦った。ヘミングウェーイを投影する主人公ヘンリーはイタリア軍の負傷者を戦場から病院へ運搬する救急車の運転手を務めるアメリカ軍兵士である。ドイツとオーストリア軍は軍事的には優位でありイタリアは常に枢機国軍からの脅威にさらされるが、それは「ドイツがひたすら軍備増強をはかっていた間にイタリアは民主主義の建設に専心していたから」であり、共和制と民主主義を誇りを持って守ろうとするイタリア人をヘミングウェーイは、この『武器よさらば』の中で好意的に描いている。しかし時間の経過と共に、第二次世界大戦前夜にドイツと組んでファシスト国家への道を走り続けたイタリア。イタリアをずっと見守っていたヘミングウェーイに取って、「あのイタリアはどこへ行ってしまったのだろう?」という思いが後に湧いてきたのではないか?ムッソリーニが大変人気があった第一次世界大戦後でも、ヘミングウェーイはムッソリーニを警戒していたという。イタリア警察軍が、スパイ容疑をかけられた同胞のイタリア人を緊急尋問し、弁護も許さず次々と容疑者を射殺していく。主人公は命からがらそこから脱出し脱走兵になるのだが、その尋問のシーンはイタリアが後どのような道を辿って第二次世界大戦に突入したかを象徴している。

1957年のリメークの映画に話を戻そう。ロック・ハドソンはなんとなくロンドン・オリンピックの金メダル水泳選手のライアン・ロクテに似ていて「プリティー・フェイス」という感じだが、ヘミングウェーイの知性とか荒削りのたくましさは出せていない。負傷した彼を看護して恋に落ちる看護婦を演じるジェニファー・ジョーンズはエリザベス・テーラーとオードリー・ヘップバーンを足して2で割って間延びをさせたような顔つきだが、エリザベス・テーラーのような鋭い目の力もないし、オードリー・ヘップバーンのような可憐な初々しさもない。ジェニファー・ジョーンズはこのキャラクターを演じるのに、よく言えば色っぽすぎるというか、正直いって清潔感がない。またオンスクリーンでは「狂ったように恋をする」はずの二人だが全く二人の間にはスクリーンでのスパークがないので、二人の戦場での恋にもドキドキという感動は湧いてこない。

傷病兵が山積みになるはずの病院の大部屋には、いつまでたっても主人公ひとりががらんとした大部屋に横たわっているだけで、「他の傷病兵はどうしたの?」と聞きたくなるし、たくさんの病人の世話で忙しいはずの看護婦も一日中イタリアの町を駆け回って主人公が好きなアメリカ食を探し回るというていたらく。主人公は誰も邪魔しない専用(に見える!!!)病室でひたすら「♪ふ~たり~のために~、せ~かいはあるの~♪」というが如く愛を育て、それに気づいた婦長に「そんなことができるくらい元気なら戦場に戻りなさい!!!」と命令される始末である。この婦長は二人の愛を妨げる超悪役なはずなのだが、彼女がまともな人間に見えるほど、二人はだらしない。戦争がどうなっているかは全くお構いなく、世界が都合よく自分の周りを回っているという感じで映画は終わってしまう。

ヘミングウェーイは自分の映画がハリウッドで映画化されるたびに、自分の小説の中の政治的なテーマは骨抜きにされ、単なる恋愛物語にされてしまうことに失望していたと伝えられているが、彼の怒りは全くもっともだと思わされるような映画であった。ハリウッドの聴衆者たちも馬鹿ではない。驚くほどの予算をかけて現地のロケもいれて作成した豪華絢爛なリメークであるが、興行的には失敗で、多数のアカデミー賞部門にノミネートされた1932年の映画に比べて評価も全く低かったという。この映画は当時大女優だったジェニファー・ジョーンズが恋人のチャールズ・ヴィダー監督に「あ~たしも、武器よさらば、やってみたい。」とお願いして自分主演で作らせた映画だそうだ。ヘミングウェーイがこの映画を見たかどうか、見てもどう思ったのかわからないが、何となく彼が気の毒になるような映画であった。

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[人] ムッソリーニ首相 (1883-1945)

mussoliniベニート・ムッソリーニは、社会主義と無政府主義と共和主義を信じた父を持ち、彼自身も、王室打倒とイタリア統一を成功させたガリバルディを賞賛し、スイスに移ったのちは、スイスに亡命していたレーニンと懇意になり、レーニンからドイツ語とフランス語を学び、お互いを尊敬し合う関係を築くようになった。彼は、若いころはカール・マルクスの思想に心酔し階級闘争を肯定していた。スイスから帰国後はイタリア社会党に入党したが、彼は第一次大戦に参戦を主張し、中立を掲げる社会党から除名させれた。レーニンは、イタリア社会党が優秀で将来性のあるムッソリーニを除名したことに大変失望したという。

第一次世界大戦に志願し戦争から戻ったムッソリーニは、1921年には英国からの支援を受けファシスト党を形成し、社会党や共産党との武力衝突を繰り返した。英国やアメリカも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称え、1920年代前半のアメリカの新聞も彼を好意的に報道していた。ウィンストン・チャーチルも最初はムッソリーニのことを「偉大な指導者の一人」と高く評価していた。しかしアーネスト・ヘミングウェイは比較的初期からムッソリーニに懸念を抱いていた。アドルフ・ヒトラーとの個人的な感情は、ヒトラーは最初はムッソリーニを尊敬していたが、ムッソリーニはヒトラーを嫌っていたと言われる。その後の独伊関係の進展により、ムッソリーニとヒトラーの関係は次第に良好となったが、イタリアの第二次世界大戦の中での劣勢が明らかになるとムッソリーニに対するヒトラーの態度は次第に冷淡になって行った。

ムッソリーニは、イタリア語に加えて英独仏語に堪能であったほか、哲学から芸術にまで通じた教養人であったと言われている。第二次世界大戦でのイタリア敗戦後、彼は中立国のスイスに向かい、そこからさらにもう一つの中立国で、フランコ将軍が統治するヨーロッパで唯一ファシスト政権が継続しているスペインへ向かう計画であったとされている。しかし、スイスへ逃亡途中、パルチザンに見つかり、愛人のクラレッタペタッチとともに銃殺刑に処され、彼の遺体はミラノのロレート広場に晒された。その遺体は広場の屋根にロープで吊り下げられたが、これはファシスト政権が政治犯に行っていた街頭での絞首刑と同じスタイルで、ファシスト政権に対するパルチザンからの報復の意味合いがあった。政権期を通じて私腹を肥やすことに興味を持たなかったムッソリーニは、死後に殆ど資産を残さなかったとも言われている。イタリア国内でのムッソリーニの死後の評価はドイツにおけるヒトラーほど憎まれておらず、幾分に悪いイメージもあるものの、マフィアを徹底して弾圧したり、積極的な雇用政策を進めた事から比較的に好印象を持たれているということだ。

ムッソリーニは自分の父親の愛人であるアナ・グイーディの娘であるラケーレ・グイーディと長い交際期間があり、1910年にラケーレとの間に娘のエッダをもうけた。1915年にはラケーレとの最初の結婚式を市庁舎で行ったが、ムッソリーニが政治家として有名になった後、1925年に彼女との2度目の結婚式をカトリック式で挙げた。

しかし2005年に出版されたマルコ・ゼーニの著作によれば、ムッソリーニは1909年にジャーナリストの職を得てトレントに移り、そのトレント滞在期に同地出身であったイーダ ・ダルセルと知り合い、1914年に彼女と結婚したという可能性が発見された。生活に困っていたムッソリーニは、社会主義者の理想に燃えるムッソリーニを支持するイーダからの財政的支援を得ており、1915年にイーダとの間に長男アルビーノをもうけたらしい。この結婚がなぜ2005年まで公式に知られていなかったかというと、ムッソリーニ政権はイーダ ・ダルセルとムッソリーニに関する公式文書をすべて破壊し、二人の間の往復書簡も可能な限り消滅させたからであると言われている。イーダもアルビーノも精神病院の中で死亡し、特に26歳という若さで死んだアルビーノは殺された可能性も示唆されている。この状況は映画 『愛の勝利を - ムッソリーニを愛した女』でも描かれている。

これが事実なら、ムッソリーニはラケーレとは昔からの付き合いがあったのに、1909年から1915年まではイーダとも関係をもっていたらしいということになる。もしイーダとの結婚が正式なものであり、正式な離婚がなされていないなら、ムッソリーニは重婚の罪を犯したことになる。どちらにせよムッソリーニは1915年あたりに社会主義者である自分を理解して愛してくれたイーダを放棄し、ラケーレを妻として選んだことになる。複雑な経歴の持ち主のムッソリーニであるが、第一次世界大戦のあたりから、公私ともに大きな転換期を迎えたということであろう。

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[映画] 愛の勝利を - ムッソリーニを愛した女 Vincere (2009年)

ベニート・ムッソリーニについては、イタリアの独裁者であり、1945年にパルチザンに殺害されて,今までパルチザンを逆さり等の形で虐殺してきた彼への報復のために、死後公共の場に逆さづりにされたということくらいしか知らなかったが、この映画は、実はムッソリーニは重婚者であったという彼の知られざる一面を描いている。実在の女性イーダ ・ダルセルは、若き日の野心満々のムッソリーニと恋に落ち、駆け出しのジャーナリストである彼を財政的にも支えた最初の『妻』として息子を生みながら、その存在はムッソリーニの率いる政府によって完璧に隠蔽消却され、結局彼女は精神病院に送られそこで死亡し、息子も精神病院に送られ26歳で死亡した。彼女がムッソリーニと正式結婚していたかの証明はないというクレジットで映画は終り、イーダが本当にムッソリーニと結婚していたのか、或いは単に彼女が精神を病んでムッソリーニの妻であるという幻影を持ったにすぎなかったのかは曖昧にされている。

2005年にジャーナリストのマルコ・ゼーニが自分の調査に基づいて『La moglie di Mussolini』と『L’ultimo filò』の二冊の本を出版してイーダ ・ダルセルの存在を明らかにし、それを基にしたテレビドキュメントも放映されたことによってイーダの存在が明らかにされ、イタリア国民の間に大きな衝撃を与えた。2009年には彼女の人生はイタリア映画の巨匠マルコ・ベロッキオ監督によって映画化され、その映画は全世界に大きな反響を呼んだ。インタビューに答えてマルコ・ベロッキオは何故イーダについての映画を撮ろうとしたのか?という質問に次のように答えている。

「それは、イーダのことが全く知られていなかったからです。私自身も偶然知ったほどです。ドキュメンタリーを見たり、新聞を読んだりしているうちに偶然知り得たわけですが、彼女の本当にプライベートの部分は歴史家たちにも全く知られていなかったことで、最近になってようやく浮上してきたのです。私は自分でファシズムについてよく知っているつもりでいたのに、『えっ、こんなことがあったのか!』というほど興味を掻き立てられ、こうして映画を作るまでになったのです。」

博識のイタリア人である彼が知らなかったことを私が知らなかったのは当然であろう。マルコ・ベロッキオ監督はムッソリーニをファシストと描くこと事態には興味が無く、彼の映画作成の情熱はイーダという権力に屈さぬ強い女性が真の『勝利』を勝ち取ろうとしたことに焦点をあてているようだ。彼は次のようにも語っている。

「私がこの女性を映画を作りたかった理由はごくシンプルだ。イーダ・ダルセルはヒーローだからだ。私はファシスト政権の悪にハイライトを当てたり、それを暴露することには興味はなかったんだ。だが、イーダという女性は、どんな妥協もしようとしなかった。そのことにとても胸を打たれた。何年もの間、彼女は完全に独りぼっちだった。統帥に対してだけでなく、おそらく自分では気づかないで、あるいは不本意ながらも、イタリア国民のほとんど全員を敵に回したのだ。彼女はまだ無名だったその若き日のムッソリーニに心底ほれ込んだ。他の誰からも相手にされなかった彼を、彼女は愛した。無一文になり、非難され、侮辱された彼を彼女は庇ったのだ。その後、立場は逆転する。統帥となった彼を誰もが愛するようになると、彼女は締め出され、誰もが彼女に背を向けた。だが、まだ無謀な恋から抜け出せず、誰が有利かに気づけなかった彼女は、イタリア全体を敵に回した。」

「当時のイタリアはファシスト主義を掲げ、ムッソリーニの天下だった。統帥に立ち向かった勇気と、妥協を拒絶し、最後まで反逆者であったイーダという女性の人生を考えると、ギリシャ神話に登場するアンティゴネーのような悲劇のヒロインたちを連想させると共に、アイーダのようなイタリアのメロドラマのヒロインを彷彿とさせるんだ。その意味では、この映画もまた、一人の無名のイタリア人女性の精神的な強さを描いたメロドラマでもある。彼女はどんな権力にも屈せず、ある意味では、実際に勝ったのは彼女だ。彼女には、世間に向かって訴えるだけの強さと勇気と、ある意味の愚かさがあった。それゆえに、私にとって彼女のストーリーには歴史的な価値がある。」

「現代の私たちから見ると、ファシズムは馬鹿馬鹿しく、不条理で笑ってしまうようなものだが、彼女の人生を知ることにより、ファシズムは笑い話ではなく、残酷な独裁政治だということを思い出さざるをえない。その狂気の策略を実行するためなら、その邪魔になる者は誰でも迷わず踏みつぶし、無数の罪なき人々の命を犠牲にした体制なのだということを。」

マルコ・ベロッキオ監督の意図はシンプルであるが、彼の意図はこの映画によって観客に正しく伝わるであろうか?映画では彼女が本当にムッソリーニの妻であったかどうかは曖昧にされ、観客には、彼女が狂気と幻想の中で死んのだかも知れないとも思わせる。もしそうなら2時間もかけて延々と『確実さ』のない映像を見続けた観衆は、一体何のために自分はこの狂気とつきあっているのかとも思ってしまう。もし監督がイーダの勝利を描きたいのであれば、この曖昧な描き方は目的を果たすためのベストの手法でないのかもしれないと私は思う。もし、現代のイタリアが人が、『ファシズムは馬鹿馬鹿しく、不条理で笑ってしまう』という位言動の自由が許されているとしたら、なぜもっと権力によって消滅され、暗殺されたかもしれない母と子の生涯を史実に基づいて明示しないのだろうか。確かにこの映画の映像は魅惑的で、無声映画と現実の繋がりなど映画の芸術性を狙う意欲は見られるが、真の無名の英雄に献辞を贈るのならもっと効果的な別の映画が作れたのではないかという気がするのである。この映画を見終わったあと、事実を誰にでもシンプルに伝わるような素直な映画を作ることが、野に捨てられた無名の英雄に対する最大の敬意ではないのだろうかと思わずにはいられなかった。

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