[映画]  血と蜂蜜の国で In the land of blood and honey (2011年) 日本未公開

ハリウッドの人気女優で、国際連合の難民問題に関する機関UNHCRの親善大使であるアンジェリナ・ジョリーが初めて監督を務めた作品で、ボスニアを舞台に、ボスニア戦争に翻弄されたボシュニャク人・ムスリム人の女性とセルビア軍の隊長の恋愛の末路を描くメロドラマ。2013年に日本で公開の予定だと聞く。

個人的にはアンジェリナ・ジョリーという女優は好きだし、彼女が、難民や天災で苦労している人々や、中東の女性の教育や里親制度の振興のために多額の寄付をしているということにはいつも感心と尊敬の念を抱いているし、彼女の勇気ある行為を応援しているのだが、この映画はあまり感心できなかった。以下私の感想を簡単にまとめてみたい。

まずこの映画では英語が使用されていることだ。これは映画の最大の配給先のアメリカでは字幕のある映画は嫌われているという現状では仕方ないことかもしれないし、出演する俳優の英語は非常に流暢なのだが、やはり彼らが話すボスニア語とセルビア語を聞きたい。でなければ、この映画の真実味が減ってしまうような気がする。

この映画は結局はハリウッド映画である。主人公を演じる女優は最初はさすがにスカートとセーターを着ているが、セルビア人隊長の恋人に匿われるあたりから、段々肌の露出が激しくなり、アンジェリナ・ジョリーがレッド・カーペットに着るようなドレスを着始め、あれ?彼女はムスリムではないの?こんな服着て、どこでこんな素敵なお洋服手に入れたの?とふと思ってしまう。この女優は顔立ちも何となくアンジェリナ・ジョリーに似ている。出演者の感情表現も怒れば物を投げつけるというようなハリウッド的な演技指導がなされている。

映画はセルビア人が一方的に悪者という描き方である。戦争に至った歴史的な背景とかは描かれてはいない。次から次へと残酷なシーン(セルビア兵によるボシュニャク人へのレイプとか、ボシュニャク人女性を盾にして、ボスニア兵を撃ちまくるセルビア人の兵士)などが出てくる。ボスニア人の兵士は善良に描かれているが、セルビア人たちはいつも醜く描かれており、敵を射撃する時もにたらにたら笑っていたりする。ボスニア戦争では、ボシュニャク人とセルビア人のどちらのサイドも生存の危機を感じたから戦争をしているのであり、どちらの陣営も相手が最初に戦争を仕掛けたと主張している。しかしこの映画ははっきりとセルビア人が悪だと描いている。残酷なシーンはそれを証明するために示されているかのようである。そこには、複雑な対立が存在する中で、善玉悪玉をはっきりさせることにより聴衆を満足させるというハリウッド映画の手法が使われていると思う。

アンジェリナ・ジョリーは親善大使として世界各国を訪問している。この映画も彼女がボスニア・ヘルツェゴビナを訪れた時の感銘を基にして作られていると思う。やはり自分が見たことを全世界に伝えたいという強い正義感というか、願望を感じたのだろう。彼女がショックを受けたのは、セルビア軍によるボシャニック人絶滅の意図が殺人のみならずレイプという行為でもなされていたということだろう。しかしボスニア戦争は非常に複雑な戦争であり、若く、また外国人の彼女がそれを基にした映画を作成するのは難しいし勇気がいることだったと思う。彼女はこれを作る時「私はボスニアについては何も知らない。でも私は愛に対しては自分なりの想いがあるから、愛を主軸にしてボスニア戦争を描きたい。」と思ったのではないか。一言で言えばこの映画は「戦争さえなければ幸せに家族を構成していたかもしれないが、戦争で運命を狂わされた男と女の物語」であろう。

しかし二人の間に本当に愛があるのだろうか。セルビア人の男ダニエルとボシュニャク人の女アイラは戦争が始まる直前に一度会い、その時お互いに好意を抱く。ダニエルはアイラがどんな人間で何をしているのかも知らない。戦争が始まり、アイラは他のボスニア人の女たちとともにセルビア軍に連行され危うくレイプされそうになるが、その女を連行した部隊の隊長がダニエルで、彼は兵士に「もう十分楽しんだだろう」といいアイラがレイプされるのを止める。ダニエルは何とセルビア軍の最高の将校の息子だという設定なのである。その後もアイラは「自分の所属品だから」と部下に述べ、彼女だけには手を出させないようにする。挙句の果ては逃亡の手はずを整えて彼女を逃がす。アイラは逆にスパイとしてダニエルの部隊に戻ってくる。彼女は大きな個室を与えられダニエルが自ら運んでくる夕食を取るという毎日である。ダニエルの父の命令でアイラをレイプした自分の部下を怒りのあまり射殺してしまい、アイラには軍の秘密をぺらぺら喋ってしまう。そんなダニエルを見ていると「戦争の理由がどうであれ、あなたは自分の部下と祖国に責任のある立場でありながら、なぜ自分の立場をわきまえた行動ができないのか」といらいらしてしまう。結局ダニエルはアイラがスパイであることを発見し、彼女を射殺し自分は国連軍に「私は戦争犯罪人である」と言って自首して出るのである。

国連が一見内戦に見えるボスニア戦争に介入したのは、これが人種撲滅というヒューマニティに反する戦いだったからである。しかしダニエルが自ら戦争犯罪人であると宣言することでこの映画が終結するというのは果たしてアンジェリナ・ジョリーの訴えに対する最善の終わり方であったかどうか?またこの映画による一方的なセルビア人への断罪を聴衆はどう受け止めるだろうか。セルビア人が全員殺人者であるわけないし、虐殺が行われていることを知らなかった者が大多数であるだろう。映画では「すべてのセルビア人が悪者ではない」と短いせりふで語っているが、それは残虐な延々とした画像の中ではかき消されてしまうのである。

同様に映画では、ダニエルの父である将校にセルビア人の歴史、悲しい民族の歴史、を短く語らせているのであるが、それがまるで歴史の教科書を棒読みさせているような演出で彼が語ったことは聴衆の心に残らないのが残念である。

バルカン半島はトルコの支配下にあったが、19世紀後半、オスマントルコ帝国の衰退に伴い、1875年にこの地の支配を巡りロシアとトルコの間で露土戦争が起こった。戦後、ロシアの南下政策を不安視する英国の支援により、オーストリアがボスニア、ヘルツェゴビナの支配を強め、1908年にオーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。ボスニア、ヘルツェゴビナの隣国で大セルビア主義のもとで拡大を意図するセルビアはオーストリアと対立し、これが第一次世界大戦の一因となった。

第一次世界大戦後、オーストリアの敗戦により、セルビア主体のセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国がバルカン半島に建国され、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。しかし第二次世界大戦時、ナチスドイツは傀儡政権であるクロアチア国によりバルカン半島を支配することを企み、セルビアを弾圧した。クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、セルビア人はユダヤ人や反体制派などとともに迫害を受け、また強制収容所に送られて殺害された。これに対してセルビア人の民族主義団体チェトニクを結成して、反クロアチアの運動が起きた。

第二次世界大戦後はバルカン半島にユーゴスラビア連邦人民共和国が成立し、カリスマのある指導者チトーのもとで多民族をまとめた連合国が誕生した。この時代は民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。ユーゴスラビアは他のソ連の衛星国とは一戦を画し、体制批判的な映画も製作され、1984年にはサラエボオリンピックも開催された。民族紛争が再開するのは、ソ連の崩壊の後、ユーゴスラビア内の諸国が独立の選択をせまられた1990年以降であった。ボスニア地方ではセルビア主体のユーゴスラビアから独立を望むクロアチア人やボシュニャク人が独立を主張するのに対し、ボスニアに住むセルビア人はユーゴスラビアからの独立を望まなかったことからボスニア戦争が始まった。後にクロアチア人とボシュニャク人の間でも抗争が始まり、三つ巴の紛争となった。

1994年にはアメリカ合衆国やNATOによる軍事介入がはじまり、1995年に国際連合の調停で和平協定デイトン合意に調印し、紛争は終結した。アンジェリナ・ジョリーはこの映画の正確を期すために、当時のクリントン政権の国務次官補であり、デイトン合意に尽力したリチャード・ホルブルックを始めとする外交の専門家たちやボスニア戦争を取材した報道陣にも映画の内容の監修を頼んだという。リチャード・ホルブルックはオバマ政権下で、アフガニスタン・パキスタン問題担当特使に任命され、アフガニスタン紛争収拾活動に携わったが、2010年特使在任のまま病気のため、この映画の完成の前に死去した。

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[映画] サラエボの花 Grbavica Land of My Dreams(2006年)

戦った兵士、死んだ人々、苦闘の末の勝利を描くのが多い戦争映画の中で、この映画はボスニア戦争を生き延びた人々とその戦争の中で生まれた人間を描いている。

ボスニア戦争の過程で、1995年に起きたスレプレニッツアの虐殺のように、セルビア軍による戦略的な「民族浄化」が行われ、ボスニアのムスリム人男性は殺戮され、女性は強姦されその結果できた子供を産まされた。「サラエボの花」の原題であるGrbavicaとは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボの中で、この民族浄化の舞台となった地区の名称である。

シングルマザーであるエスマは12歳の一人娘サラとこの地区に生きている。サラの学年は修学旅行に行くことになるが、父を戦争で失った者は旅行代が無料、負傷した父を持つものは減額になると告げる教師に、そのような父を持った子供は目を輝かせる。サラは父が名誉の戦死をしたと母に聞かされているので、無料で旅行に行くために父の死亡証明書を求めるが、エスマはあれやこれやとはぐらかして死亡証明書を見せてくれない。エスマは生活補償金と裁縫で何とか暮らしているが、それに加えてサラの旅行代を稼ぐためにナイトクラブのウェートレスの夜勤を始める。

そのナイトクラブで用心棒兼運転手をしている男が、自分が戦死者の遺体収容所で父親を探している時そこで見かけたエスマを覚えていた。エスマもずっと遺体収容所で父の遺体を捜していたのだ。男はエスマに好意を抱き始める。渋々デートの誘いに応じたエスマではあるが、その男は大学で経済学を専攻したインテリで、まだ学問に対する未練が残っているのを発見する。しかし男は情熱と規律のない生活をしている今の自分は大学の厳しい生活にはもう耐えられないだろうし、たとえ大学を卒業してもこんな世の中ではまともな仕事はないだろうと呟く。しかしサラも戦争が始まる前は、医学生であり、医者になるために頑張っている女性だった。戦争さえなければ、医者と政府の役人のようなエリート同士で知り合い、幸せな家庭を築いていたかもしれない二人なのだ。

サラは反抗期の真っ最中で、父親のことを知らせない母に残酷に反抗する。「お母さんはいつかは私を捨てる」と言ったかと思うと、「お母さん、絶対に再婚しちゃだめ」とも言う。しかしやはり普通の女の子で、友達と遊ぶのが喜びで、同じく父親のいない少年と親しくなり、自分以上に虚無的に生きているその少年に優しく接するのである。エスマが苦労して借金したお金で修学旅行の代金を払ったあとでも、サラは父の死亡証明書はどこにあるのかと問い詰める。

ある日、男がエスマの元を訪ねてくる。彼は許可が降りたので、オーストリアに移住することになったのだ。その時のエスマの反応は、「私を置いて行くの?」でもなく「幸せになってね」でもなく、「え!じゃあ誰がこれから、お父さんの死体を捜すの?」という言葉であった。エスマと男の悲しげな別れを見ていたサラは、少年から預かっていた拳銃をエスマに突きつけ、「お父さんのことを教えて!」と脅迫する。男との別れ、サラとの難しい関係、生活苦、そして忘れようとしても忘れられない過去などすべてのことが瞬間的に爆発して、エスマはサラに彼女は敵兵の強姦によって生まれた子だと告げる。

数え切れないほどの残酷なことが起こったであろうボスニア戦争。それをどのように世界に、そして次の世代に伝えていくのか。残酷な事実をこれでもかと述べ続けるのならドキュメンタリーであろう。誰が悪者で誰が犠牲者で、この後始末をどうすべきかを述べるならプロパガンダであろう。しかし、それを踏まえた上で映画という芸術を作るなら、その中に希望がなければいけない。過去は変えられないし、将来に対して無限の方向性があるという状況で芸術が果たせるのは、希望を提示することであろう。

この映画は悲しいが希望がある。その希望ははかないもので、一日の疲れの終わりには消えかかってしまうものかもしれないが、やはり希望がある。強姦した父はどんな顔をしていたのかと訪ねるサラに、エスマはやっとのことで髪の色が似ているという。激しく泣きじゃくった後でサラは自分の頭を丸坊主にしてしまう。旅行の朝、バスに乗り込んだサラは照れくさそうな感じでさりげなく母に手をふり、エスマは嬉しそうに手を振り返す。エスマは最初はお腹の中にいる赤ん坊を憎み続けたが、出産後その赤ん坊に授乳することにより、その赤ん坊を受け入れ、育てることを決意する。そして一番の救いはこの映画は敵兵を「セルビア人」と呼んでいないことである。映画はボスニアのムスリム人を殺戮し、強姦した人々はチェトニック人(大セルビア主義を崇拝し、過去にはナチと組みチトーと戦い、ボスニア戦争では、ボスニアで反ムスリムを掲げたセルビア人の蔑称)であるとし、すべてのセルビア人がボスニア人の敵であるとは絶対に言っていないのである。過去は変えられない。しかし「セルビア人がああした、こうした、悪い奴らだ」ということから希望は生まれないということを、この映画製作に携わった人々は言いたかったのではないか。

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[人] スロボダン・ミロシェヴィッチ大統領 (1941-2006)

かつて存在したユーゴスラビア連邦(ユーゴ)は、「7つの国境(西にイタリア、北にオーストリアとハンガリー、東にルーマニアとブルガリア、南にアルバニアとギリシャ)、6つの共和国 (セルビア、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ  、マケドニア、モンテネグロ)、5つの民族(セルビア人、クロアチア人、スロべニア人、ボシュニャク人或いはムスリム人、アルバニア人)、4つの言語(セルビア語、クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語)、3つの宗教 (ギリシャ正教、カトリック、イスラム教)、2つの文字(ラテン文字、キリル文字)、1つの国家(ユーゴスラヴィア連邦)」と称されていた。この呼称が示すように、ユーゴは民族構成が大変複雑な多民族国家であった。この地域はオーストリアとトルコ、後にはナチスドイツとその周辺国とソ連に囲まれその力関係の犠牲になった地域でもあり、一発触発の情勢は『バルカンの火薬庫』とも呼ばれた。

1918年にセルビア王国を主体としたセルブ・クロアート・スロべーヌ王国がこれらの民族をまとめる王国して成立し、1929年ユーゴスラビア王国に改名された。1945年からはチトーに率いられた社会主義体勢が確立され、ユーゴスラビア連邦人民共和国と改称された。カリスマ的魅力でユーゴを一つにまとめていたチトーの死後、1990年近くになると、ソ連国内におけるゴルバチョフ指導による民主化が進み、ユーゴを構成する各国ではチトー時代の体制からの脱却に対する要求が強まった。

ユーゴの中心勢力であったのはセルビアであったが、1991年に文化的・宗教的に西側に近いスロベニアが独立を達成する。スロベニアに次いでマケドニアが独立、ついで歴史を通じてセルビアと最も対立していたクロアチアが激しい戦争を経て独立した。続いてボスニア・ヘルツェゴビナも1992年に独立した。セルビアはモンテネグロと組み1992年にユーゴスラビア連邦共和国を結成した。2003年にユーゴスラビア連邦共和国は緩やかな国家連合に移行し、国名をセルビア・モンテネグロに改称したため、ユーゴスラビアの名を冠する国家は無くなった。2006年にモンテネグロが独立して国家連合も解消された。

スロボダン・ミロシェヴィッチは、1941年にベオグラード近郊の町で生まれた。ベオグラード大学法学部卒業後、1978年に、ベオグラードの共産主義者同盟幹部となった。セルビア民族主義者中で圧倒的な人気を獲得したが、一方では自身の権力強化のために、セルビア民族主義を国民に扇動したと批判もされている。1987年にイヴァン・スタンボリッチが辞任したのを受けて、セルビア共和国幹部会議長に就任した。1990年には新設のセルビア共和国大統領に就任。大統領になってからは、情報・治安機関を使って政敵や野党勢力の動向監視や民主化運動を容赦なく弾圧していた。

1991年にはスロベニア・クロアチア・マケドニア共和国独立に、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナ独立運動に軍事介入した。クロアチとボスニア・ヘルツェゴビナが独立後も、両国には少数派住民として セルビア人が住み続けてきた。この二国のセルビア民族主義者は、セルビア人がクロアチア人やボスニアのムスリム人によって排除されることをおそれ、彼らに抵抗するために「自治区」を結成し、自らの民族自決を掲げてクロアチア及びボスニア・ヘルツェゴビナからの独立運動を起こしたが、スロボダン・ミロシェヴィッチ大統領率いるセルビア共和国はその動きを支援した。

一方セルビア内のコソボ自治区は、本来アルバニア人が多数派にもかかわらず少数派のセルビア人に支配されていた。1982年、スイスに在住していたアルバニア人が「コソボ共和国社会主義運動」という左翼的な組織を設立し、コソボでもその影響を受けアルバニア人の独立運動が強まっていった。コソボの独立を阻止したいセルビアはクロアチア、ボスニアでの紛争の結果大量に発生したセルビア人難民の居住地としてコソボを指定した。この結果コソボの民族バランスは大きくセルビア人側に偏ることになった。

1995年のデイトン合意によってクロアチア、ボスニア紛争が一旦落ち着いた後の90年代後半に入ると、実力をもってセルビアから独立することを主張するコソボ解放軍が台頭するようになった。コソボ解放軍は勢力を増し、ユーゴスラビア(セルビア)の警察官やセルビア人の一般住民を攻撃、殺害したり、セルビア人女性を強姦するという事件が報告されるようになった。また、ドイツの新聞「Berliner Zeitung」(1999年3月4日付け)が入手した秘密文書によると、コソボ解放軍が資金を集めるためにアフガニスタン産のヘロインなどの違法麻薬の販売を行ったと言われている。コソボ地方の4分の1の地域では、ユーゴスラビア政府が統治できず、コソボ解放軍が完全に支配するようになった。その結果、コソボのセルビア住民がそれらの地域から逃げ始めた。隣国のアルバニアでは社経済的な混乱に陥っていたが、コソボ解放軍は混乱したアルバニアに自由に出入りし、セルビア側の追っ手を回避、戻って来る時にはアルバニア国内で流出した武器やアルバニアでリクルートした兵士を連れて帰ってくることができた。翌1998年になるとセルビアとしてもコソボ解放軍に対して対応をせざるを得なくなってきた。セルビアは大規模なゲリラ掃討作戦を展開し、セルビア警察特殊部隊によってコソボ解放軍幹部が暗殺されるなどコソボ全土にわたって武力衝突が拡大することになった。これがコソボ紛争の始まりである。

この中で、戦闘員ではないアルバニア人が攻撃を受け、多くのアルバニア人が隣接するマケドニア共和国やアルバニア、モンテネグロなどに流出し、ボスニア戦争に続き、セルビア側の「非人道的行為」が再びクローズアップされるようになった。国連やEUは、セルビアとコソボの間に立って調停活動を行うことになった。1999年3月からは、NATOが国際世論に押されてセルビアに対する大規模な空爆を実施するに至った。この空爆は約3ヶ月続き、国際社会からの圧力に対抗しきれなくなったセルビアはコソボからの撤退を開始、翌年までに全ての連邦軍を撤退させた。これによってコソボはセルビア政府からの実効支配から完全に脱することになった。代わって国連の暫定統治機構である国際連合コソボ暫定行政ミッション(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo: UNMIK)が置かれ、軍事部門としてNATO主体の国際部隊(KFOR)が駐留を開始した。それ以降、主にセルビア系住民が多数を占める限られた一部の地域と一部の出先機関を除いて、セルビア政府による実効支配は及ばなくなった。

しかし、セルビア側が撤退しUNMIKの管理下に入った後も、コソボ解放軍の元構成員によって非アルバニア人に対する殺害や拉致、人身売買が行われたり、何者かによって爆発物が仕掛けられたりといった事件が起こり、事態が完全に収まったとはいえない。加えて、多くのセルビア正教会の聖堂が破壊され、迫害を恐れた非アルバニア人がコソボを後にする事例が多く発生している。

2000年、ユーゴスラビア連邦大統領選挙は国民による直接投票となったが、スロボダン・ミロシェヴィッチは選挙不正に怒った国民の抗議行動により退陣し、連邦大統領の座をセルビア民主野党連合のヴォイスラヴ・コシュトニツァに譲った。その後、コソボ紛争でのアルバニア人住民に対するジェノサイドの責任者として人道に対する罪で起訴され、2001年5月に職権濫用と不正蓄財の容疑で逮捕された。同年7月に彼が国連旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(オランダ・ハーグ)に身柄を移送され、以降人道に対する罪などで裁判が行われた。これには前セルビア共和国幹部会議長イヴァン・スタンボリッチ殺害の容疑も含まれている。体調の不具合という理由とまた容疑事実の立証が困難だったため、裁判は長引いた。2006年3月11日朝、スロボダン・ミロシェヴィッチは収監中の独房で死亡しているのが発見された。死因は心臓発作とされている。

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[映画]  ノー・マンズ・ランド No Man’s Land (2001年)

ノー・マンズ・ランド (無人地帯)とは、戦時に敵味方両軍が対峙して膠着状態にある地域のことで、そこは原則として無人地帯として保たれていなくてはならない。この映画の舞台は1992年から1995年まで続いたボスニア戦争のいつか、敵対するセルビア軍とボスニア軍の間に位置するノー・マンズ・ランドの塹壕に迷い込んでセルビア軍に銃撃された二人のボスニア兵士、それを斥候に行った一人のセルビア兵士、重傷を負ったこの三人を助けようとする国連軍のフランス人軍曹マルシャン、その軍曹を助ける爆弾専門の国連軍のドイツ人軍人、現場をスクープしようとする英国人の女性レポーター、リヴィングストンの半日を描いている。

新米のセルビア兵士ニノは上官から、もう一人の老兵と共に無人地帯に侵入したらしいボスニア兵士たちの様子を見に行けという危険な業務を任されるが、その上官は安全な場所にこもったままだ。老兵は無人地帯に倒れているボスニア兵士のツェラが死んでいると思い、彼の体の下に地雷をくっつける。もし仲間のボスニア兵士が彼の体を持ち上げると地雷が爆発するようになっている。しかし老兵は、負傷しながらも密かに隠れていたもう一人のボスニア兵チキに殺されてしまう。地雷のために動けないツェラ、負傷したチキとニノの三人は塹壕の中で生存のための彼らなりの戦いを開始せざるを得なくなる。

チキとニノは戦争では敵同士ではあるが、同じ言葉を話し、平和時は同じ町に住み、なんと共通の知人までいることがわかる。その共通の知人の女性のことを話す時の二人は思わず顔をほころばせる。何とか相手をやっつけて塹壕から逃げ出そうとする二人だが、相手が困っている時は思わず優しい思いやりをみせてしまったりするのだ。

この映画はボスニア戦争の背景を描こうとしているのではなく、具体的で典型的な個人たちを描くことにより、ボスニア戦争だけではなく、戦争とはどういうものかという本質を抽象的に描こうとしている。塹壕で最初は、チキはセルビア側が、ニノはボスニア側がこの戦争を始めたと思い、相手を責めているが、段々二人とも一体何のために自分たちがここにいて、誰がこの戦争を始め、何のために自分が命令に従わなければならないのかという疑問を持ち始める。マルシャン軍曹は、国連軍の中立を守るという立場は何もしないことではなく、負傷兵を可能な限り助けなくてはならないという使命に燃えているが、遠隔で安全な地から命令を下している上官は面倒に巻き込まれたくないと人ごとのようである。リヴィングストン記者は、何が戦場で起こっているかを世界に知らせるのが自分の報道人としての使命だと思うと共に、誰もがスクープしない現状をスクープしてやるんだという野心に燃えて、危険を覚悟で塹壕に近づいて行く。彼女の映像を英国で受け取っているテレビ局の同僚達は「もっとおいしい映像を送ってくれ。」と彼女に注文するのだが、実際の塹壕での生死を賭けたチキとニノの戦いの映像を見ると、凍り付いてしまうのだった。リヴィングストンたちの映像が世界の聴衆の目に公になると、国連軍もそのダメージコントロールをせざるを得なくなる。やはりそのポリティックスの犠牲になるのは現場の兵士たちだ。自分の上官が嘘をついて去っていくのを、マルシャン軍曹は悲しく見つめる。

この映画は立場の違うチキ、ニノ、ツェラ、マルシャン軍曹とリヴィングストン記者を同じ距離で、誰に対しても聴衆が共感を描けるように描いている。ボスニアとセルビアのどちらが悪者なのかなどは問題ではない。敵対する陣営の兵士が、そして中立の国連軍とジャーナリストがお互いに理解しようという一瞬が次々に現れては消えていく。それは映画を見ている人間に「戦いをやめて、皆無事に家に帰って!!!」と祈らせるのに十分だ。そういう聴衆の祈りに対して、この映画の結論はあまりにも残酷であり悲しい。しかし、ボスニア戦争の現実は安易なハッピーエンドは許さない。安易なハッピーエンドは却って戦争に従事した兵士、死んだ人々を弔うことにはならないだろう。この悲しい結末を見ることにより、聴衆はもっと平和を深く願うことになるに違いない。この映画にはそれだけの力があるのだ。

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