[映画] ミツバチのささやき El espíritu de la colmena The Spirit of the Beehive (1973年)

この映画の舞台は、激しいスペイン内戦の末、総選挙で選ばれた左派人民戦線政府を覆して、フランコ総統が実権を握った1939年の直後である。その後、フランコが死亡する1975年までスペイン内で恐怖政治が続き、人々は報復の恐怖から沈黙する日々が続いた。この映画が製作された1973年には、独裁政権の厳しさも当初ほどではなくなっていたが、映画は当局の厳しい検閲を受けなければならなかった。現代でもスペインの映画に比喩と抽象化が多いのは、この40年間の文化的弾圧に対する文化人の態度が一つの文化伝統になってしまったからかもしれない。事実この映画には何一つドラマチックな出来事はない。見終わったあとで、一体何が言いたいのかと狐につつまれるような映画だ。

ただ一つ、映画の中で逃亡した解放戦士が射殺されるのを暗示するシーンがあり、検閲官もこれには目をつけたが、「こんな退屈な映画は誰も見ないだろう」と判断して、ノーカットで上映が許可されたという経緯がある。政治的アジェンダを抽象化する映画人とそれの裏を読もうとする当局のイタチごっこだったのである。しかし、やっと上映されたこの作品は人々の心を打ち、傑作という評判を確立する。映画の美しい映像が人の心を打ったのか、それともスペインの聴衆は比喩の中に何かを発見する術を学んでしまっていたのか?

この映画はあまりにも抽象的なので、見る人にあらゆる解釈を許してくれる。政治的な暗喩として極端な解釈の例を言うと、どうでもよさそうな蜜蜂の研究に明け暮れる父親は自分を殺して生きている知識階級の象徴。彼が嫌悪する蜜蜂の社会は、統率がとれているが創造力が欠如したフランコ統制化の社会の隠喩。解放派でどこかに逃避した昔の恋人(これは私の想像だが映画ではそうとしか思えない描き方をされている)に手紙を書くことで一日を過ごす母は自由への憧れと過去に対するセンチメントの暗喩。同年代だがずっと大人びて見える姉のイザベラは、フランコ政権に批判なく順応している若い世代を表し、世界を怯えた目で見る妹のアナは1940年当時のスペイン共和国の純粋な若い世代を象徴している。主人公アナの家庭が感情的に分裂している様子は、スペイン内戦によるスペインの分裂を象徴し,廃墟の周りの荒涼とした風景はフランコ政権成立当初のスペインの孤立感を示している。ラスト近くで子供を無視して自分の世界にこもっていた母の気持ちが和らぎ、家族の繋がりが強くなっていくが、これはスペインの将来に対する希望とも解釈できる。

それと極端な解釈は、政治には関係なく、この物語はアナという少女が現実と空想の世界が混沌とする幼い心から、成長していくというものである。

というわけで、映像の美しさは誰でもが感じることだが、これをどう解釈するのかというのは議論が分かれるだろう。当時のスペインは誰もが背中の後ろから監視されているような生活を送っていたから、この監督が全く政治的なスタンスがないとはいえないだろう。誰もが心の中で恐怖政治に向かい合わなくてはならなかったのだから。しかし、すべてが反政府への抗議の象徴だとも思えない。この映画が、そんな理知的なゲームを作るような感覚で作られた映画とは思えないのだ。

この映画は幼い誰もが感じる未知の世界への恐怖感を描いている。フランケンシュタイン、闇、夜、廃墟、毒キノコ、精霊、深い井戸、森、池に映る映像、鉄道、子供にとってはすべてが恐怖だ。しかし、アナにとって、その子供の自然な恐怖心に対して「怖がらなくても大丈夫だよ。」と包み込んでくれなくてはいけない親がここでは奇妙に欠如している。親も政治に対する恐怖を感じているからだ。アナはフランケンシュタインを捜して行く過程で逃走兵と知り合う。その逃走兵が射殺されることにより、アナは自分の心の中で作り上げた恐怖よりももっと怖いものが現実にあるということをおぼろげながら知る。それがこの映画に隠れた政治批判ではないのだろうか?

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