[映画] BIUTIFUL ビューティフル (2010年)

スペインのバルセロナ、移民たちが暮らす貧しい地域に住むウスバルは、非合法移民に仕事を与え仲介料を受けるという中で、非常に貧しい生活を送っていた。また彼は死者の魂と語ることができるという能力を持っていたので、霊媒師としてお葬式で死者との会話を親族に頼まれることもあった。妻は病的な躁鬱症で子供を育てることが出来ず、ウスバルは妻と別居して2人の幼い子供たちと暮らしていた。そんな中、彼は末期ガンであり、もう余命が幾ばくもないと宣告される。ウスバルは、セネガルからの非合法移民で夫は強制送還され、乳飲み子と暮らしているイゲーとひょんなことから共同生活を始めることになる。心優しく子供の面倒をみて自分の看病もしてくれるイゲーに心を許したウスバルは、全財産をイゲーに与え、自分の死後子供の面倒を見てくれと頼む。この映画はイゲーがそのお金を手にセネガルに帰国しようとこっそりアパートを出た日にウスバルが死ぬというところで終わっている。

映画の最後は非常に曖昧である。イゲーは結局帰って来たともとれるし、イゲーは帰ってこず「私、今帰って来たわ」という彼女の声はウスバルの幻想とも取れるし、娘がイゲーに代わって返事をしているようにも見える。穿った解釈をすれば、大金を持ったイゲーは強盗に殺されて亡霊だけが帰って来たようにも取れる。この映画を議論しているディスカッションサイトを覗いてみると、人々は次のように論議している。「結局イゲーは帰って来たの?」「あの人いい人だったから、金を持ち逃げしたなんて悲しいな」「イゲーの声はウスバルの幻想だよ」「いや、監督のインタビューでは彼女は帰ってきたと言っている」「え、そう?それならうれしいな」「いや~、あれで全財産を持ち逃げされたら救いが無いからな~」

何と優しい会話であろうか。監督のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥもきっとたくさんの瞳が潤んだファンから同じことを何回も聞かれたのだろう。監督として、これだけ聴衆の心を取り込んだ映画を作れたということは何と監督冥利に尽きることだろう。私もイゲーは結局ウスバルのところに帰ってきたと思う。

バルセロナは今ロンドンに次いで世界で(パリやニューヨークを押さえて!!)2番目にファッショナブルな街だと言われているそうだ。ウディ・アレンの「それでも恋するバルセロナ」は観光客から見る美しい表の顔を描いているが、この映画はその裏の顔を描いている。バルセロナは古来カタルーニャ人の住む地域であり、マドリッドを中心とするスペイン人とは対立関係にあった。フランコはカタルーニャ文化を崩壊させるため、スペイン人のカタルーニャ地方への移住を推奨し、そこではカタルーニャ語を話すことを禁じたという。カタルーニャ人の中でも更に底辺の人間はバルセロナの場末に押し込められ、その人々は「チャルネゴ」と呼ばれるようになった。ウスバルは「チャルネゴ」であり、彼の父はフランコの政策に反対して命が危なくなり、国外逃亡し、若くしてメキシコで死んだという設定である。

この映画は、ガンという病気と、最底辺の生活という暗いテーマを描くのだが、その暗さに拘わらず共感できることがたくさんあり、見終わったあとも何か一筋の希望がある。というのも、ウスバルが非常に心の美しい愛情深い人間に描かれているからだ。しかし、彼は完璧な人間ではない。題名がBeautiful ではなく Biutiful になっているのは、彼が完璧に美しい人間になるには何かが欠けているからである。何が欠けているかというと、「賢さ」である。彼は最悪の環境で生きている中国人の移民に同情してストーブを買ってあげるが、安物のストーブから出るガスで、結局その大部屋に住んでいる中国人の移民は皆死んでしまう。裏社会で金を稼いでいるので、銀行に預金するでもなく、ガンになっても保険はないし、貧しい子供の死後をどうするかという決断もできず、安心して死ぬこともできない。頼れる人は他人のイゲーしかおらず、彼女には全財産を与えてしまう。しかし、この「賢さ」とか「処世術」とかは親から、社会から学ぶものである。ウスバルにこういった叡智を授けてくれる両親がいないのは、フランコの抑圧の結果だとも言えるし、「チャルネゴ」として差別されている限りは教育も満足に受けられないだろうし、まともな職にもつくことができないだろう。悪いシステムの中での悪循環である。この映画は愚かでも美しい心のウスバルを描くことで間接的に社会のシステムを批判しているかのようだ。ウスバルが死人と交流できるというのも、彼が純粋だが教育がないということの極端な結果かもしれない。

スサンネ・ビア監督の『アフター・ウェディング』を観た時は、監督はガンを物語りの狂言回しの知的道具として使っているという印象を受けて、その映画は好きになれなかった。しかし、この『BIUTIFUL』の中でのガンの扱い方には納得が行った。監督のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは死というものを心で感じて理解している人なのだと思った。ウスバルの霊媒師仲間の女性がウスバルに「あなたは死んでいく。身の回りの整頓をしなさい」と静かに語るシーンが印象的である。人は皆自分が死ぬとは思っていないが、たいていの場合は死は突然にやって来る。しかしガンでの死は静かに時間をかけてやって来る。死の準備が出来、自分の人生を振り返る時間が与えられるのである。そして現在ではガンはもはや『死に至る病』ではない。ガンからの生還は可能なのである。私は、アメリカで暮らしているが、ガンから生還した人に何人も出会ったが、多くの人が「ガンを患ったことは、一番幸運なことだった」と言う。私はその気持ちが100%理解できる。

イニャリトゥ監督の映画は全作観ているが、彼の心の根底にあるセンチメントは日本人にも分かり合える『一期一会』とか『輪廻』である。人々はこの世では意外な所で無限に繋がっており、その出会いから人生が展開していくというのが彼の思いであろう。だから、人間の繋がりは国境を越えて拡がって行くものである。その現世での精神の交流が死後にはどうなるかということは、彼は語っていない。しかし、彼は、心というものは、自分が死んだ後でも、子供や新世代の人間に受け継がれていくと信じているのではないか。だから、次の世代のために生きることは、自分のために生きることでもある。

イニャリトゥ監督はメキシコ出身だが、現在は家族と共にロサンゼルスに住んでいる。別にそれは祖国メキシコに対する裏切りでも何でもなく、仕事の関係、そして最近特に治安が悪くなっているメキシコで子供を育てることへの不安、或いは二カ国に住むことによって自分が複数の眼を持てるという環境が好きなのかもしれない。私がイゲーが結局戻ってきたと思うのも同じ理由からである。彼女は夫が強制送還された時に、夫から、お前は絶対にセネガルに帰ってくるな、ここで子供と頑張れと言われている。子供はスペイン生まれなので、スペイン人だし、子供の母親として彼女もスペインに滞在できる。セネガルに帰っても貧困生活が待っているだけで、最下層としてのバルセロナの生活は、それに比べたら楽なものであるし、子供の将来の希望もある。親としての決心なのである。

この映画は2010年のアカデミー最優秀外国語賞をスサンネ・ビア監督の『未来を生きる君たちへ』と競って負けた。スサンネ・ビア監督は「人間ってちょっとした小さいことで、復讐心を抱いちゃうでしょ。それが面白いな~と思ってこの映画を作りました」と言っている。アカデミー賞を取れなかったから、この映画が『未来を生きる君たちへ』より劣っているなんていうことは全くない。少なくとも、イニャリトゥ監督は「面白いな~と思ってこの映画を作りました」とは言わないだろう。

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[映画]  蝶の舌 La lengua de las mariposas Butterfly’s Tongue (1999年)

この映画を『ベル・エポック』(1992年)と『みつばちの囁き』(1973年)と併せて観ると、スペインの1931年の第二次共和制の樹立から、1936年の内乱の勃発と、ファシストが政権を取ってからの苦しい沈黙の時代がよくわかる。『ベル・エポック』は共和制樹立を描き、『みつばちの囁き』は1940年代の沈黙の時代を描く。この『蝶の舌』は1936年の内戦に至る過程を描いている。映画が作成されたのも、フランコ政権が倒れ民主主義が戻ってきた1999年であるから、スペインの芸術家も沈黙を破り、自分を守るシンボリズムも捨て、自分の訴えたいことを率直に表現していると言える。

1936年、スペイン、ガリシア地方の片田舎の町。喘息持ちのモンチョは1年遅れて小学校に入学する。人見知りをしてなかなか周囲に馴染めないモンチョに、担任のグレゴリオ先生は優しく接してくれた。グレゴリオ先生は、子供たちに授業以外にも、人生、文学、愛など色々なことを教えた。先生は、生物を勉強するために子供たちをフィールドトリップに連れていく。蝶の舌の話に興味を持ったモンチョに、先生は顕微鏡で見せることを約束する。モンチョの兄アンドレも町のバンドに入れてもらい、いろいろ演奏旅行をすることで人生を広げて行く。モンチョの父は共和党派であり、母は共和党を信じないが、それが夫婦の絆には何の障害もない。父とグレゴリオ先生の間には友情と尊敬があった。

しかし、遂に町がファシストに乗っ取られる日がやってきた。それまで共和党の支持者であることを明らかにしていた父は一家を守るために、逮捕された共和党派の人々の見せしめに加担するために、町の広場に他の町民と出て行く。一家を守るために、母は逮捕された人々に罵声を浴びせかけ、それを黙って見ていた兄弟だが、アンドレは自分に優しくしてくれたバンドリーダーが、モンチョは自分の親友の父がその逮捕された人々の中に入っているのに驚く。その逮捕された人々の最後に並んでいたのは、グレゴリオ先生だった。父も苦しそうに罵倒を始める。母に促されて、モンチョは自分の大好きだった先生に、「赤!」「無神論者!」と罵倒し、自ら進んで石を投げつけるのであった。

この映画で一番怖いのは、平和に暮らしていた町の人々が内戦で一転して敵味方に別れてしまうことだ。内戦が始まる前は、夫婦の間でも、家族でも、学校でも、教会でもそれなりの小さな問題や意見の食い違いがあった。しかし、町というコミュニティーはそんな小さな違いを乗り越えて互いに助け合うことで成立していた。しかし、中央の政権争いが段々過激になるにつれて町の人々の顔つきまでが変わってきて、最後は憎しみと怖れと戦いと投石でコミュニティーが破壊していく。ファシストと共和党の戦いは遥か彼方の政権中央部で行われている抽象的な争いではない。ここでは、昨日の隣人が今日の迫害者になる恐ろしい現実なのだ。

もう一つ怖いのは、子供が親の保身を恐れを敏感に感じ取り、親以上の過激な行動にでてしまうことである。映画では、両親は戦争も望まないし、誰をも傷つけたくないのだが、もし逮捕された共和党派の味方をしたら、明日はわが身だということがわかって、保身のための罵倒を行う。しかし子供はその親の怖れを敏感に感じ取って、親以上の行動に出てしまうのだ。自分の行為に対する結末がわからないだけ、コントロールがきかないのが怖い。

しかし、この映画は自分をあれだけ可愛がってくれたグレゴリオ先生に投石をするモンチョを責めているのではない。何が起こっているかわからないが敏感に何かが起こっていることを感じ取れる子供をそのように行動させる時代が悪いのだ。中国の文化大革命でも、カンボジアのクメールルージュでも、子供が大人たちを裁いている。その背後には子供たちをそうさせた何者かがいたのだ。

フランコの死は1975年、スペインが本当に民主国家として安定したのは1981年、反フランコ者の名誉が回復するのは2008年まで待たなければならない。スペインにはグレゴリオ先生のように、名誉を奪われて死んだ人々はたくさんいるのだろう。

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[映画] ミツバチのささやき El espíritu de la colmena The Spirit of the Beehive (1973年)

この映画の舞台は、激しいスペイン内戦の末、総選挙で選ばれた左派人民戦線政府を覆して、フランコ総統が実権を握った1939年の直後である。その後、フランコが死亡する1975年までスペイン内で恐怖政治が続き、人々は報復の恐怖から沈黙する日々が続いた。この映画が製作された1973年には、独裁政権の厳しさも当初ほどではなくなっていたが、映画は当局の厳しい検閲を受けなければならなかった。現代でもスペインの映画に比喩と抽象化が多いのは、この40年間の文化的弾圧に対する文化人の態度が一つの文化伝統になってしまったからかもしれない。事実この映画には何一つドラマチックな出来事はない。見終わったあとで、一体何が言いたいのかと狐につつまれるような映画だ。

ただ一つ、映画の中で逃亡した解放戦士が射殺されるのを暗示するシーンがあり、検閲官もこれには目をつけたが、「こんな退屈な映画は誰も見ないだろう」と判断して、ノーカットで上映が許可されたという経緯がある。政治的アジェンダを抽象化する映画人とそれの裏を読もうとする当局のイタチごっこだったのである。しかし、やっと上映されたこの作品は人々の心を打ち、傑作という評判を確立する。映画の美しい映像が人の心を打ったのか、それともスペインの聴衆は比喩の中に何かを発見する術を学んでしまっていたのか?

この映画はあまりにも抽象的なので、見る人にあらゆる解釈を許してくれる。政治的な暗喩として極端な解釈の例を言うと、どうでもよさそうな蜜蜂の研究に明け暮れる父親は自分を殺して生きている知識階級の象徴。彼が嫌悪する蜜蜂の社会は、統率がとれているが創造力が欠如したフランコ統制化の社会の隠喩。解放派でどこかに逃避した昔の恋人(これは私の想像だが映画ではそうとしか思えない描き方をされている)に手紙を書くことで一日を過ごす母は自由への憧れと過去に対するセンチメントの暗喩。同年代だがずっと大人びて見える姉のイザベラは、フランコ政権に批判なく順応している若い世代を表し、世界を怯えた目で見る妹のアナは1940年当時のスペイン共和国の純粋な若い世代を象徴している。主人公アナの家庭が感情的に分裂している様子は、スペイン内戦によるスペインの分裂を象徴し,廃墟の周りの荒涼とした風景はフランコ政権成立当初のスペインの孤立感を示している。ラスト近くで子供を無視して自分の世界にこもっていた母の気持ちが和らぎ、家族の繋がりが強くなっていくが、これはスペインの将来に対する希望とも解釈できる。

それと極端な解釈は、政治には関係なく、この物語はアナという少女が現実と空想の世界が混沌とする幼い心から、成長していくというものである。

というわけで、映像の美しさは誰でもが感じることだが、これをどう解釈するのかというのは議論が分かれるだろう。当時のスペインは誰もが背中の後ろから監視されているような生活を送っていたから、この監督が全く政治的なスタンスがないとはいえないだろう。誰もが心の中で恐怖政治に向かい合わなくてはならなかったのだから。しかし、すべてが反政府への抗議の象徴だとも思えない。この映画が、そんな理知的なゲームを作るような感覚で作られた映画とは思えないのだ。

この映画は幼い誰もが感じる未知の世界への恐怖感を描いている。フランケンシュタイン、闇、夜、廃墟、毒キノコ、精霊、深い井戸、森、池に映る映像、鉄道、子供にとってはすべてが恐怖だ。しかし、アナにとって、その子供の自然な恐怖心に対して「怖がらなくても大丈夫だよ。」と包み込んでくれなくてはいけない親がここでは奇妙に欠如している。親も政治に対する恐怖を感じているからだ。アナはフランケンシュタインを捜して行く過程で逃走兵と知り合う。その逃走兵が射殺されることにより、アナは自分の心の中で作り上げた恐怖よりももっと怖いものが現実にあるということをおぼろげながら知る。それがこの映画に隠れた政治批判ではないのだろうか?

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[映画] ぜんぶ、フィデルのせい La Faute à Fidel Blame it on Fidel (2006年)

BlameitonFidel1960年代から70年代と言う時代は、全世界で社会が大きく激動した時代である。キューバでは1961年にカストロが社会主義宣言をし、インドシナ半島ではベトナム戦争が泥沼化し、中国では文化大革命が続行していた。チリでは、世界初の民主的な総選挙により、社会主義政権が確立する。西側諸国でもパリでは五月革命があり、ギリシャでは軍事政権に対するデモが続発する。アメリカでも反戦運動が高まり、日本では赤軍派や極左派による事件が相次いだ。スペインではスペイン内戦によってフランコによる独裁政治が続いていた。要するに第二次世界大戦後に解決できなかった問題が表面化して来た時だったのだ。

1970年。弁護士の父フェルナンドと、女性月刊誌『マリ・クレール』編集者の母マリーを持つ9歳のアンナは、パリで庭付きの広壮な邸宅に住みカトリックの名門ミッションスクールに通学している。バカンスはボルドーで過ごし、身の回りはフィデル・カストロが社会主義体制を確立したキューバから亡命してきた家政婦に面倒を見てもらう生活を送っていた。ある日、フランコ独裁政権に反対する、スペインに住む伯父が処刑され、スペインを逃れてきた伯母の家族がアンナの家にやってきて同居することになり、それをきっかけに父の態度が変わり始める。今まで祖国に対して何もしてこなかったことに負い目を感じていたフェルナンドは社会的良心に目覚め、マリーと共に突然チリに旅立ってしまう。そして戻ってきた二人はすっかり共産主義の洗礼を受けていて、ヒッピーのような風貌になってしまい、アンナは自分を取り巻くそんなすべての変化が気に入らない。キューバ人の家政婦は「ぜんぶ、フィデルのせいよ。」とアンナに言うが、その家政婦もクビになってしまう。フェルナンドは弁護士を辞め、チリの社会主義者アジェンデ政権設立のために働くことを、母は中絶運動を起こし女権の拡大することを決意する。両親の変化により、アンナの生活も以前とは180度変わってしまう。大好きだった宗教学の授業は受けられなくなり、大きな家から小さなアパートに引っ越すことになり、ベトナム人のベビーシッターが家にやってくるようになった。世界で初の民主的選挙によってアジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生したのもつかの間、アジェンデ大統領は暗殺されてしまう。深く悲しむ父を見て、自分の家族のルーツを訪ねたアンナは、自分の家はスペインの大貴族の家柄で、反王党派を残酷に弾圧していた家族で、フランコ政権下では親フランコ派であったとわかる。映画はカトリックの学校をやめて、公立学校に通学することを選んだアンナがその公立学校に初めて通学した日のショットで映画は終わる。

この映画の印象を一言で言えば、『headstrong』だなあという感じ。Headstrongというのは日本語では『理屈っぽい』とか『頑固』とか『頭でっかち』に近いのかもしれないが、回りに対して虚心坦懐に心を開いて何が起こっているかを素直に吸収し受け止めるというより、自分の主義主張でフォーカスしたレンズで、周囲を判断しまくるという態度である。たった一年の出来事を2時間弱の映画にしているのだが、その中に全世界の問題を都合よく全部マッピングしてやろうという大変忙しい映画なのである。

冒頭はフェルナンドの義兄の死と、妹の結婚式が同時進行する。自然死ではなく政治的な死であるから、家族のショックは大変かと思うとそうでもなく、結婚式は幸せに行われ、注意していないと伯父が処刑されたということもわからないくらいだ。家政婦は、キューバ人、亡命したギリシャ人、そしてベトナム人と次々と変わる。伯父の死でショックを受けて、今まで無視して来た自分の政治的信念に目覚めるのは結構なことなのだが、なぜその改革の相手が自分のルーツのスペインではなく、遠く離れたチリなのか?これは、この映画の監督のジュリー・ガヴラスの父コスタ=ガヴラス監督は、左翼系の思想を持ち、チリにおけるアメリカ政府の陰謀を描いた『ミッシング』で世界的な名声を得たが、娘はそれを都合よく利用していると思わずにはいられない。フェルナンドとマリーがチリに滞在したのは、2週間くらいの感じであるが、その後二人はこちこちの共産主義となって帰って来る。共産主義に洗脳するのがこんなに簡単なら、レーニンもスターリンもそんなに苦労しなくてもよかったのに、とつい思ってしまう。2,3ヶ月前に結婚して幸せ一杯のはずのフェルナンドの妹が突然中絶をしたいといいだし、マリーがフェミニストとして活躍し始める。えっ、もう赤ちゃんができたの?結婚したばかりなのに、もう結婚生活が不幸になったの、と思わずこちらも算数の引き算をしてしまう。もう一つおまけとして、マリーの書いた中絶解禁を求める「343人の宣言」記事が評判になり、彼女が自分より有名になったことに嫉妬するフェルナンドが「家政婦に子供の面倒を見させるより、もっと家庭に専念していい母親になれ」と怒り、社会主義者の家でも真の女性解放はないのだという嘆きまで描かれる。

ジュリー・ガヴラス監督が言いたいのは

「ごめんね、ママとパパは自分の問題で手一杯で、あなたを犠牲にしているかもしれないわ。でも、ママとパパは自分たちが正しいと思うことを精一杯必死で追求しているの。きっと大人になったらあなたはパパとママの気持ちがわかってくれるわ。」

「いいえ、パパやママが連帯とか団結なんて声を上げて言わなくっても、なんにも言わなくっても、手を差し出せば、人と人がつながっていく。そんなことがわかったわ。」

ということでないかとも思うのだが、それにしても、これを表現するために全世界の問題を背負い込む忙しい映画を作るのが一番最良の方法だったのかという疑問が残る映画であった。

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[映画] 日はまた昇る  The Sun Also Rises (1957年)

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『日はまた昇る』という邦題は、「人生苦しいけれど、明日は素晴らしい日が待っているよ。」といった復活を期待するという意味に取られがちな日本語訳であるが、実際は第一次世界大戦後の何とも言えない気持ちの空白期に「あ~今日も飲んで、食べて、恋して終わった。何も新しいことはない。こんな自分に関係なく地球は回っていて、明日もまた何事もなく太陽が昇るんだな~」という変わらぬ日常生活に対するやるせなさを表している。

ヘミングウェーは第一次世界大戦で傷ついた肉体と精神をアメリカの田舎生活の中でなかなか理解してもらえず、自分の第二の故郷になったイタリアに移り住もうとするが、友人に「どうせヨーロッパに行くのなら、文化の中心のパリに行け」とアドバイスされ、駐在記者の仕事を見つけてパリに住む。そこには自分と同じように、大戦で何らかの傷を受け、人生を変えられてしまった若者たちがたくさんいた。「日はまた昇る」は、自分の投影である主人公が仲間たちとスペインのパンプローナへ闘牛とお祭を見物に行き、闘牛という競技の美しさに魅了されるという物語である。

正直いってこの映画は、闘牛シーンと牛を町の通りに雄牛を放すシーン以外は、全く映画としての魅力に欠けているのだが、やはり一番の問題は20代の迷える若者たちを演じる俳優たちが皆40代の役者であるということだろう。原作では主人公たちは、若くて、何となく失望していて、何をしたらいいかわからなくて、恋をするのが『フルタイム・ジョブ』(それだけが全て)であるような生活を送っている。それに対してそれを演じる俳優たちは、ハリウッドでも成功し、ポケットにもお金がたくさん詰まっており、撮影がおわったら家族や友達と一緒に楽しく食事でもしようという態度が顔もにありありと出ており、生活や将来に対する不安など何も感じられない。ホルモンに突き動かされて、衝動的に恋をしてしまう自分を止められない若者を演じている俳優に「いい年をして何バカなことやってるの」と言いたくなるような映画なのが残念である。

ヘミングウェーほどアメリカの良さを感じさせる作家はいないだろう。アメリカの原点である「正直さ、実直さ、勤勉さ」を象徴するイリノイ州の生まれ。イリノイ州出身の政治家はアブラハム・リンカーン、ヒラリー・クリントンそしてオバマ大統領であるといえば、イリノイ人の価値観がわかるだろう。ヘミングウェーは美男子で正義感が強く、誰にでもわかる簡潔な英語で気持ちを表現する文体を確立させた。健康な体を持ち、スポーツが好きで、特に狩猟、釣り、ボクシングを好んだ。健康な男だが、繊細な気持ちや頽廃感も理解する幅広い人間性を持っていた。

彼の人生観を決めてしまったのは第一次世界大戦の経験である。アメリカのある世代にとってベトナム戦争がそうであったように、彼のすべての問題意識は第一次世界大戦に始まり、第一次世界大戦に終わる。その後の第二次世界大戦も彼にとっては第一次世界大戦ほどのインパクトを持たない。彼が一番戦争というものを理解でき、それに影響を受ける10代後半に起こった戦争が第一次世界大戦だったからだ。アメリカにとっても、ヘミングウェーは1950年代以前の『古き良きアメリカ』を象徴する作家でもあった。

アメリカの映画を見ていると、1950年代以前と1970年以降では映画が全く違っているのに気づく。1950年以前の映画は『絵空事の学芸会』のようで、現代的なテーマとの共通性はない。しかし1970年代に作られた映画、たとえばゴッド・ファーザーとかディア・ハンターのような映画は今見ても、現代に繋がる何かがあり、そのテーマが古くなっていないことに驚かされる。その1950年と1970年の間に横たわる1960年代は、ケネディ大統領とキング牧師の暗殺、ベトナム戦争の悪化、ウオーター・ゲート事件があった。その後で、もはやアメリカは同じではなかったのだ。ヘミングウェーは1961年に自殺しているが、それは『古き良きアメリカ』の終焉を象徴しているように思われる。たとえ彼が生き続けたとしても、第一次世界大戦を知っているヘミングウェーがベトナム戦争によって深い影響を受けたとは思えない。

ヘミングウェーがこよなく愛した闘牛はスペインの国技であったが、牛を殺すということに対する動物愛護の反対派の影響もあり闘牛の人気は落ち始めた。1991年にカナリア諸島で初の「闘牛禁止法」が成立し、2010年7月には反マドリッドの気が高いカタルーニャ州で初の闘牛禁止法が成立、2011年にはカタルーニャ最後の闘牛興行を終えている。スペインの国民の75%は闘牛には興味がないと答えており、いまやスペイン人はサッカーに熱狂する。かつては、田舎をライオンや象を連れてまわり、動物を実際に見たことのない人々を喜ばせていたサーカスも、動物の愛護運動の反対で斜陽化し、2011年には英国最後となるサーカス象が正式に引退を迎え、新しい住処となるアフリカのサファリパークに移送されたということがニュースになった。スペインの国王ファン・カルロス一世は2012年、非公式で訪れていたボツワナで、ライオン狩りをしていたことが大きく報道され、国王自身が世界自然保護基金の名誉総裁の職にあったにも関わらず、動物のハンティングを行ったことについて世界的な批判を受けることとなり、その基金の名誉総裁を解任されるに至った。現在最も人気のあるスポーツはサッカーとか、バスケットボールとか、テニスとか、陸上競技であり、ボクシングや狩猟を趣味とする人間は減っているだろう。日はまた毎日同じように昇っているのだが、やはり時代は変わっているのである。

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[映画] The Last Circus  (2010年)

この映画の大部分は残酷なクラウンとそれに苛められる悲しいピエロの死闘が描かれており、グロテスクで馬鹿馬鹿しいお話であり、映画を見た直後は「こんな映画、誰にも推薦できない。」と怒りがこみ上げて来た。しかし一晩眠ったあとこの映画のことを考えると、残酷でグロテスクなシーンはすべて消え去り、馬鹿馬鹿しさの陰に隠れていたものがくっきりと見えてきた。これはスペイン現代史の寓話であり、すべての寓話がそうであるように、残酷さと悲しさと教訓が含まれているのだ、ということが自然にわかってくるような映画であった。

1937年の内戦期のスペイン。平和にサーカスで人々を楽しませていた田舎巡りのサーカス団の人たちは、自分たちのために戦ってくれているはずの人民派で反ファシスト派の共産主義者エンリケ・リステル将軍に脅かされて、むりやり徴兵されて、前線で戦うことになってしまった。結局人民軍は大敗し、ファシストによってほとんどのサーカス団員は射殺され、クラウンだけは強制労働キャンプに送られる。クラウンの息子は父を助けるために強制労働キャンプに行くが、父はファシスト派の将軍に自分の目の前で殺され、少年もその将軍の目を潰しただけで、命からがらキャンプから逃げ出す。

話は一転して1970年代のフランコ政権下で平和が訪れた現代に移る。死んだクラウンの息子は今は悲しみに満ちた泣き虫ピエロとなっており、あるサーカスに就職の面接に行く。面接をしたそのサーカスの人気者のクラウンが「クラウンをしていなければ、自分は人殺しになってしまっているだろう。」と言ったのに対し、その弱虫ピエロも「自分もそうだ」と言い「あれ?」と思わせるが、クラウンはなぜかその弱虫ピエロが気に入り、自分が苛める役として採用する。クラウンはサーカスの誰に対しても傲慢で残虐で意地悪で皆から恐れられているが、彼は子供に人気があり、彼を見たいがために観衆がやってくるので、団長を含め誰も彼に文句が言えず、彼のつまらないジョークも無理に面白がって笑う。ただ一人きょとんとしてジョークがわからないと正直に言うピエロは、クラウンに睨まれてしまう。クラウンの美しい恋人の曲芸師は、クラウンを恐れぬピエロの態度に感心し、ピエロを誘惑する。そのピエロが曲芸師に恋をし、クラウンに虐待されながらも離れられないでいる彼女をクラウンから救おうとしたことからクラウンの怒りが爆発し、ピエロはクラウンにもう少しで殺されるほど殴られる。ピエロの病室を見守った曲芸師はピエロよりもクラウンを選ぶと言って去っていくが、それに怒り狂ったピエロはクラウンを襲い、彼の顔をめちゃくちゃにしてしまう。警察から逃げたピエロは偶然自分が片目を奪った将軍に保護される。片目将軍はピエロを犬のように扱う。豪勢な邸宅に住む片目将軍は、上司のフランコ将軍を自宅に狩猟に招待し、彼が撃った獲物をピエロにくわえさせてフランコに提供する。この映画の中で、穏やかで優しい人間と描かれているフランコ将軍は片目将軍に対して、「人間をこんな残酷に扱ってはいけない」と諭すが、その瞬間にピエロはフランコの手に噛み付いてしまう。ピエロは自分の顔を自分で痛めつけて恐ろしい顔に変えて、片目将軍を殺害して逃走する。

かつて大人気のクラウンも今では醜くなって子供から嫌われ恐れられる存在になっていた。しかし、曲芸師への変わらぬ愛を持って彼女の前に現れたピエロはその曲芸師に、「今はあなたの方が、クラウンより恐ろしいわ」といわれてしまう。フランコの腹心の部下ブランコ首相が突然暗殺される。その直後に狂ったように曲芸師を追うクラウンとピエロは、彼女を追って高層ビルのような馬鹿馬鹿しく高い十字架の上に登り、そこで三人の死闘が始まる。それを見て、かつてサーカスで一緒だった若い団員が三人を救助に行く決心をする。この若い団員は毎日大砲で板に放り投げられ、人々に一瞬面白いと笑われすぐに忘れられてしまうという毎日を送っていた。彼は大きな大砲で投げられて十字架に向かっていくが、十字架にぶつかり今度は本当に死んでしまう。曲芸師はピエロに「今はあなたのことを愛している」と告げた直後に十字架から転落して死んでしまう。

逮捕されて護送車の中で対峙する二人の男は、今はメークアップ無しでも恐ろしい顔のクラウンとピエロになってしまっている。死闘を繰り返し、曲芸師と若い団員は死んでしまったのに二人はぴんぴんとしており「さて次は何が始まるか?」といった感じで笑いながら相手を見つめるところでこの映画は終わる。

ピエロとクラウンから求愛される美しい曲芸師は『権力』の象徴であろう。それが、国王であろうが、独裁者であろうが、国民に選挙された大統領であろうが、とにかく権力を持つ者、だれもがそこに到達したいと思う者の象徴である。クラウンは『ファシスト』の象徴であろう。人々の心を惹きつける魅力があるが同時に危険でもあり、誰もがその力を押さえつけることができない。しかしそのクラウンが醜くなると人々はクラウンを憎むようになるのだ。ピエロは『共産主義』或いは『人民主義のなれの果ての過激派』の象徴である。最初は清い心を持ち、人々の悲しみを代弁する存在であったピエロが次第に凶悪になって行き、或る時点ではクラウンよりも怖い存在となり、クラウンが何をしても逮捕はされないが、残虐行為をするピエロを、当局は追い続ける。三人を助けようとして死んでしまった無名の誰からも注目されないサーカスの団員は『無名の国民』の象徴ではないだろうか。自分の仕事を黙々とこなし、誰からも注目を浴びず、混乱する体制への効果的な解決の方法がわからないでいるスペインの国民をこの若い団員は象徴しているのではないだろうか。

映画ではどちらの陣営の将軍たちも残虐に描かれているが、不思議とフランコは優しくて公平な人間として描かれている。2010年の現代でもフランコ批判はタブーなのだろうか?いやそうでもないだろう。私は、フランコは反対陣営には厳しかったが、人間としては、清廉で彼なりに本気でスペインの国民と将来を考えていた人で、政治的な立場の違いはあれ、スペイン国民も彼の価値をそれなりに認めていたような気がする。そういう印象を与える映画であった。

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[映画] ベル・エポック Belle Époque  The Age of Beauty (1992年)

1931年、王制を廃止し共和国スペイン設立を狙う共和党派とそれを阻止しようという王党派の国民党が激突するスペインで、共和党軍に志願したものの脱走したフェルナンドと、彼を庇護下に入れた村の芸術家と4人のその美しい娘たちを中心に話は展開する。

フェルナンドは美青年で、女性に優しく、純情で、料理がめっぽううまい。4人の娘はマドリッドに住んでおり夏にだけこの村に戻ってくるのだが、マドリッドが政治的に混乱する中で「デモに飽き飽きした。」ということで突然村に戻ってくる。長女、次女、三女がそれぞれの手を尽くして彼を誘惑し、三女に言い寄る国民党の若者のバルコニーの下での求愛のセレナード、家族の友人であるカトリックの神父との愛に満ちた昼食、カーニバル、楽しいピクニック、オペラ歌手で世界的に成功している母の突然の帰宅など、毎日絵に描いた様な楽しい日々が、美しい映像と音楽、微笑みと家族の愛、素晴らしいユーモアを全篇に散りばめることにより描いている。共和党派が勝利をおさめ、母は再び世界ツアーに旅立ち、三人の上の娘は「また夏に帰って来るわ」とマドリッドに戻り、末娘はフェルナンドと結婚し land of opportunity である「新天地」アメリカに旅立つということで話が終わり、めでたしめでたし。

というのが美しい表布であるが、それを支える裏布がこの楽しくてユーモラスな話に隠されているのだ。

映画は逃亡したフェルナンドが国民党の憲兵に逮捕されるところから始まる。この憲兵は父と婿なのだが、父は「もしかしたら共和党が勝つかもしれないから、共和党派の兵士には優しくしてあげよう」と、フェルナンドを釈放しようとする。怒った婿は思わず義父を射殺してしまうが、愛する義父を殺した婿はその罪におののきフェルナンドの前で自殺してしまう。

四人の娘たちは皆美しく魅力的なのだが、長女の夫は昨夏のピクニックの時池で溺死している。次女はレズビアンである。三女は、カトリックで裕福な家の出で王党支持者の恋人をどう扱っていいかわからず混乱している。末娘はフェルナンドに強い思いを持つが誰からも子供扱いにされておカンムリだ。母も四人の娘の将来を考えて、頭が痛い。長女は相変わらず美しいが毎年確実に年を取っていくのがわかり、未亡人としてこの先どうしていくのだろうか。次女はプロフェッショナルな仕事を持ち、経済的には安定しているが、彼女を本当に愛してくれる伴侶(それが男であっても女であっても)に巡り合えるだろうか。三女は手に職をもつこともなく刹那的な生き方をしており、求婚者を真面目な気持ちで扱っていない。しかし母親もその男と結婚することが本当に三女を幸せにしてくれるのかわからない。母は誰もから子供扱いされている末娘が、姉たちの人生から学ぶことにより案外地についた人生を送ってくれるのではないかと思っている。その母にしても、自分は世界的なオペラ歌手だと信じていても、実際の興行は赤字続きで、恋人兼マネージャーの男が自分のポケットから財政を負担することにより、かろうじてスターの地位を保っているだけなのだ。

共和派が優勢になることにより、頑固な王党派だった三女の求婚者とその母はさっと共和派に鞍替えする。しかし、末娘とフェルナンドの結婚式の日に家族の友人であった神父は首を括って自殺する。たとえスペインが共和制になったとしても、共和軍の脱走兵であるフェルナンドの過去は消えない。アメリカに移住するのがフェルナンドの唯一許される選択なのであった。

「来年の夏が楽しみ」といって別れて行く家族だが、政治危機がつのるスペインに暮らす彼らに果たして、楽しい来年が待っているのだろうか?アメリカに渡ったフェルナンドと末娘は当分スペインに帰ることはないだろう。オペラ歌手の母にしても、マネージャに見放されたら、南米のどこかで野垂れ死にする可能性すらあるのだ。混乱期のマドリッドに暮らす3人の娘たちに何が起こるかもわからないし、何よりも村にたった一人で残された老いた父はもしかしたら明日何かの病でたった一人で死んでしまことだってあり得る。しかしこの家族にとって脱走兵のフェルナンドと暮らしたこの短い日々は、何年かの後振り返って、「美しい日だったわね。」と思えるものなのかもしれないということを示唆して映画の幕は閉じる。

事実、共和制はすぐに崩壊し、スペインは内戦に突入して行く。内戦後もフランコの独裁政治が続き、フランコの死後も政治不安定が続く。スペインが本当に民主国家として安定したのは1981年、反フランコ者の名誉が回復するのは2008年まで待たなければならない。この映画が作成されたのは、1992年、国政の安定なしにはこの美しい映画を作るのは難しかったであろう。しかしそれでも、1992年には直接的なファシスト批判はきっと簡単ではなかったであろう。その苦衷の結果がこの美しい映画となって結実した。

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[映画] 誰がために鐘は鳴る For Whom The Bell Tolls (1943年)

「行動する知性」として地球上どこでも、匂いを嗅ぎ付けて何かありそうな場所に本能的に引き付けられてしまい、そこに実際に行ってしまうヘミングウェイ。彼はNorth  America Newspaper Alliance の特派員としてフランスに派遣された。「誰がために鐘は鳴る」はヘミングウェイが1940年に出版した 隣国のフランコ政権下で市民戦争が起こっている1930年代のスペイン内戦(フランコたち軍部が率いるファシスト軍とそれに対抗するゲリラたちの抗争)を、反ファシストを支援するアメリカ人の架空の人物を通じて描いた小説である。この映画はその小説の1943年の映画化である。ヘミングウェイの親友で、彼に俳優としても信頼されていたゲイリー・クーパーが 『武器よさらば』(1932年)に次いで主演しており、主人公の恋人マリアを演じるのはイングリッド・バーグマンである。

スペインでは1931年に王制が倒され、憲法に基づく共和制が始まったがその後も政権が安定せず、1932年の軍部クーデターがきっかけに混乱状態に突入した。実際の公式のスペイン内戦は1936年から1939年までであるがこの映画は1937年を描いている。これは単なる内戦ではなく共和派には、ソビエト連邦、メキシコ、各国からの義勇軍が加担し、フランコ将軍等が率いるファシスト党には日本、ドイツ、イタリア、ポルトガルが支援をした。その勢力は全く伯仲し、紛争の中で50万人以上が殺されたとい言われている。この映画はマドリッドに近いセゴビアの山間にこもる共和派のパルチザン・ゲリラたちと、ソビエト連邦の指揮官の指示のもとに彼らを支援するアメリカ人のスペイン語の大学教師にして爆破スペシャリストでもある主人公との繋がりを描いている。かつてはヘミングウェイが支持していたイタリア軍の爆撃機が、アメリカ人の主人公が潜んでいる山にも攻撃をしかけてきて、20年間という時代の変遷を感じさせる。

映画に話を戻すと当時のマリア役には当時のトップ女優がこぞって興味を示したが、実際に選ばれたのは演技に無縁のバレーリーナであった。撮影が始めると監督は彼女の演技力に不満を抱く。彼女はその役をクビになる前に自分からマリア役を降りてしまい、急遽行われたオーディションで、ヘミングウェイが希望したイングリッド・バーグマンが選ばれ、マリアに関するシーンの撮り直しが行われたという。その状況に関してイングリッド・バーグマンは次のように語っている。

「あのバレーリーナがマリア役を自主的に降りたのは、マリア役は洞窟のある絶壁を上り下りする過酷な役で、彼女は自分の足がこの撮影によって傷ついてしまうのを恐れたからです。そう、バレリーナにとっては足が一番大切なもので、それは女優にとって顔が一番大切なのと全く同じではないかしら。」

彼女の何気ない一言は当時ハリウッドで一番大切なものは「美貌」であったということをいみじくも語っている。道理で、1950年代よりも前のハリウッド映画は美男美女の学芸会だったわけだ。

今日でももちろん、ジュリア・ロバーツやブラッド・ピットやトム・ハンクスのように「出てさえいただければ無条件にン(!)億円の出演料」という「顔」で選ばれる俳優もいないことはないのだが、やはり現代での俳優の選択の基準は「どれだけ、リアルにその役柄を演じられるか」になっているのではあるまいか。そういう意味では最も大切なのは、俳優の、その役柄の時代性と年齢と人間性と多彩な人種を現実的に表現できるバックグランドと演技力である。また映画製作はチームとしてのプロジェクトであるから、皆に好かれるチームプレーヤーでなくてはいけないし、健康で時間を守り、他の人の時間を無駄にしないプロフェッショナリズムを持っていないといけない。『時は金なり』で時間を無駄にしてはいられないのである。

イングリッド・バーグマンの同世代の女優としては、ビビアン・リー、オリビア・デ・ハビランド、ジョアン・フォンテーン、ジェニファー・ジョーズ、ロレッタ・ヤングなどがおり、彼らはハリウッドの花のグレース・ケリー、オードリー・ヘップバーン、マリリン・モンロー、エリザベス・テーラーなどの一世代前の女優たちである。同世代の女優たちが早世したり女優としての活動が短期間であるのに対し、イングリッド・バーグマンは死ぬ直前の1980年代まで女優としての活動を続け大女優としての名声を保ったまま世を去った。ただ美しいだけの女優ではなかったのだろう。

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[人] フランコ将軍 (1892-1975)

第二次世界大戦の前後には(悪)名高い独裁者が輩出している。例を挙げれば、アドルフ・ヒトラー (1889-1945)、ベニート・ムッソリーニ(1883-1945)、ヨシフ・スターリン(1878-1953)そしてフランシスコ・フランコ(1892-1975)である。彼らは同世代と言っていいだろう。民の不安が独裁者を生んだのか、独裁者が戦争を好んだのか。鶏と卵だが、どちらも正しいかもしれない。もう一つこの時代に共通しているのは、彼らは絶対王朝の崩壊のあとを受け継いだ独裁者であるということである。1917年 ロシアで革命が勃発し、ニコライ2世が退位することにより、ロマノフ朝は滅亡した。ドイツでは、1918年にハプスブルク家の最後の皇帝カール1世が亡命し、中欧に650年間君臨したハプスブルク帝国は崩壊した。スペインでは 1931年の総選挙の結果、左派共和政勢力が勝利を収め、アルフォンソ13世は退位して第二共和政が樹立されブルボン家はイタリアに逃亡した。イタリアの歴史は複雑であるが、一言でいえば、サヴォイア王家は第二次世界大戦までは存続したが、ムッソリーニの独裁を後押ししたかたちのサヴォイア王家は国民の信頼を失い、1946年に行われた王制の是非を問う国民投票では賛成54%の僅差で王政廃止が決定されウンベルト2世は廃位、共和制を採択してイタリアはイタリア共和国となった。昔昔、ブルボン朝を廃ししたフランスでも、ナポレオンの台頭は国民が待ち望んだものだった。これらは、「君臨すれども統治せず」の原則を守って王室を国民の纏まりの拠り所として大いに利用活用し、民主主義を育てた英国とはかなり対比的であろう。

ヒトラー、ムッソリーニとフランコはファシストというカテゴリーで一緒に語られることが多いが、フランコは二人とは別の独自の道を歩んでいる。スペイン内戦終結直前の1939年3月、フランコは日独伊防共協定に加入したが、同年9月に第二次世界大戦が勃発すると、フランコは国家が内戦により荒廃したために国力が参戦に耐えられないと判断して中立を宣言した。しかしこの時点では、一応日独伊との友好関係は維持する。その後、1943年頃より連合国が優勢になると、再び中立を固持するという立場を取り、フィリッピンの権益の衝突を理由に日本とは断交までしている。戦争後世界の指導者となったアメリカ合衆国にとり、独伊と親しく、また独裁者としてスペインに君臨統治するフランコに対しての不信感は拭いようもなかったが、アメリカにとってスペインが軍事政治上重要な立場にあることは否定しようもなかった。1959年の歴史的なアイゼンハワー大統領とフランコの会談は、意外や意外、二人は深く理解できる関係を築くことに成功し、これによりアメリカとスペインの関係は飛躍的に改善されることになった。

表面を見る限りでは、フランコはただの日和見主義者のようで、その行動は非常に不可解である。しかし私はフランコは一本筋の通った人間だと思う。一生を通じてフランコが恐れたものは二つの「理解できない」物であった。その一つはロシアで成功した共産主義で、フランコにとってはドイツやイタリアはその共産主義がスペインに浸透するのを阻んでくれる防波堤だったのである。もう一つの恐怖は白人以外の民族の動きである。これを一概に責めることはできないだろう。わからないもの、新しいものは誰でも怖いのである。フランコは叩き上げの軍人であり、その職務を誇りを持って全うし政権についたアイゼンハワー大統領やペロン大統領は、たとえ国や環境が異なろうとも、安心できる存在だったのかもしれない。

フランコは自分の死後のスペインの政権のあり方についても彼なりに真剣に考えていたようだ。彼は失敗を続けたスペインでの議会制民主主義を見ていたので、彼の死の時点でスペインが民主主義にすんなり移行できるとは思えなかったのである。彼は自分が確立した独裁制を王制に移行するのが一番スペインの将来に利益をもたらすと考えていた。1947年、フランコは「王位継承法」を制定し、スペインを「王国」とすること、フランコが国家元首として「王国」の終身の「摂政」となること、フランコに後継の国王の指名権が付与されることなどを定めた。この「王位継承法」は7月の国民投票で成立し、フランコは終身国家元首の地位を得た。

70歳を越え健康状態が悪化すると、フランコは、1969年に前国王ブルボン家のアルフォンソ13世の孫フアン・カルロスを後継者に指名し、1975年に83歳で没した。世界中からファシストと呼ばれ、ヒトラーに似た怖れを抱かれ、国内の反対派からも批判された男が、天寿を全うし安らかにベッドの中で死んだのである。

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[映画] 屋根裏部屋のマリアたち Les Femmes du 6ème étage (2011年)

何気なく、何も知らず選んだ映画がこんなに楽しいものだったとは!!! ストーリーが、映像が、俳優が、そして映画の中の会話がおいしくて、見ているうちにこちらもお腹がすいて来てしまった。

1960年代のパリ。フランコの抑圧下の貧しいスペインからパリに移り住んで、フランスの裕福層のメイドとして暮らしているスペインの女性たち。彼女たちは、異国でお金を稼げるだけ稼いで、自国の貧しい実家へ仕送りをし、お金が貯まれば晴れて母国へ帰りたがっている者が大半だ。故郷に残した家族、村の人たちとの繋がり、空気に流れる暖かさ、食べなれた食事が懐かしく、パリでも同国人のメイドたちと助け合い、日曜日には必ず教会に行き、帰郷できる日を待ち望んでいる。しかし、たとえ故郷が恋しくても、フランコ 恐怖政治が終わらない限りは帰らないと心に決めている者も少数派ではあるがいるのである。

マリアは、若く美しく賢く敬虔で有能なスペイン人のメイド。雇い主の裕福な主人と、彼の妻のお気に入りでもあるが、彼女はなんとなく訳ありなところがあるのが、話の進行と共に明らかになってくる。主人の妻は、貧しい田舎娘から結婚によって上層階級にのし上がったため、自分に自信がなく、表面的なパリの社交界に溶け込もうと浮ついた努力を重ねている。彼女の主人は富、仕事、家族などほしいものは全部手に入れて、自分の人生に満足しているのだと自分自身に思わせようとしていた、、、そう、マリアに会うまでは。

ネタばれになるので二人がどうなるかはここでは書かないが、主人は金持ちの息子であっても上流階級に窮屈さを感じ、田舎出の女性に安らぎを感じ、なんとなく現在の妻と結婚してしまった男。マリアは生まれ持った気品と気丈さがあり、身分差に卑屈にならない本当の自信を持った女性。マリアはどう生きていっても自分と自分の愛する人を幸せにできる人だし、主人も必要となれば余分なものは手放す潔さを意外と持ち合わせているようで、見る側としても主人とマリアがどうにかして幸せになってほしいとつい思ってしまう。

マリアを演じるナタリア・ベルベケは、顔が小さく姿勢がよく、何となくバレーリーナのよう。「美人じゃなきゃいけないが、美人すぎてもいけない。」という監督の厳しい審査眼にかなっただけの女性である。1975年にアルゼンチンに生まれたが幼少時にアルゼンチンの「汚い戦争」と呼ばれる政治弾圧のため、家族と共にアルゼンチンを逃げ出し、スペインに移ったと言う過去を持つ。

脱線するが、ウッディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」は同じ頃公開された同じくパリを舞台とする映画である。その映画では、すべてのシーンは典型的な絵葉書のようであり、彼はその絵葉書シーンを貼り付けることにより、力まかせにパリを描こうとしているが、映画が描くのは、相変わらずニューヨーカーの彼のメンタリティーであり、全くパリの匂いや粋、生活感が欠如している。対照的に「屋根裏部屋のマリアたち」はパリを舞台にしているのに、パリらしい風景が出てこないのだ。出稼ぎスペイン人にとっては、仕事場と市場と教会と自分の屋根裏部屋が日常のほとんどなのだろう。観光シーンを訪ねるのがパリで生きることではない。マリアと彼女の仲間たちにとっては自分の周囲にあるものがリアリティーであり、そういう意味では彼女たちは一瞬でも本当にパリに生きているのではないだろうか。

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