[映画] 灼熱の魂 Incendies (2010年)

カナダのケベックに住むジャンヌとシモーンの双子の姉弟の母ナワルが急死する。遺言によって、二人は初めてこれまで死んだものとばかり思っていた父が地球上のどこかに存命しているだけでなく、その存在すら知らなかった兄がいることを知る。ナワルは二人に対し、父と兄を探し出し、それぞれに手渡すように、二通の封書を弁護士に託していた。ジャンヌは母の最期の願いをきき遂げるべく、ナワルの出身地である中東に旅立ち、隠された母の過去を捜そうとする。その地はレバノンのように思われるが、映画でははっきりとどこか断定していない。父と兄はまだ生きているのか。もしそうなら、どこにいて、どんな暮らしをしているのか。

要するにこれは謎解きミステリーなのだが、レバノンらしい風景の中で、キリスト教徒とムスリムの激烈な対決と殺し合いというレバノン戦争らしき史実を背景にしているので、「これは現実に起こったことを基にした事実に近い話なんだな。」、或いは「作者の体験が基になっているのか。」という印象を持って映画に引き込まれてしまう。しかし、話が展開して行くうちに、これはあり得ないというほど、悲劇を超越した恐ろしい方向に話が展開し、「何だ、ギリシャ悲劇じゃあるまいし。」と興ざめた気持ちで映画を見終わった。これが事実だとしたら本当に恐ろしい話である。事実この映画の恐ろしさに打ちのめされた聴衆もたくさんいると思う。

しかし冷静に考えてみると、映画の中では、辻褄の合わないことが多すぎて、疑問がたくさん出てくる。母と兄の年齢が近すぎるし、母はある日突然意識を失って意識も戻らぬまま間もなく死亡したのだから、こんなミステリーを企んで、凝った手紙を残す時間があったはずがない。母は内戦でそれこそ何回死んでもおかしくない状況に陥り、周囲の人はどんどん死んでいくのに、彼女だけは不思議に生き延びる。また現実ではあり得ない奇跡的な偶然の出会いが多すぎる。30年前のことなのに、人々は母のこと、兄のことをよく覚えている。母のこの遺言の本当の意図はなんだったのかに説得力がない。ショッキングな事実を知って、狂ったようになってしまっているはずの母は、意識不明になっている中で、なぜか知性的なコントロールのでいろいろ深く考えているようなのである。辻褄があわないので、この映画そのものが『嘘』のような気すらしてくる。人間の深い悲劇を描いているのに、それが信じられなくなるのである。

映画を見終えた後、この映画はワジディ・ムアワッドが書いた戯曲を、デニス・ベレヌーブが映画化したということを知り、やっと納得した。ワジディ・ムアワッドは15歳だった1983年に、レバノン内戦の戦火を避けるためにレバノンを逃亡してカナダに移住した。彼はレバノン人だし、レバノンで何が起こったかを知っているから、この戯曲はレバノンらしい中東を舞台にしているが、その戯曲の意図は「レバノン戦争の悲劇を伝えたい」ということではないような気がした。

この戯曲があまりにもパワーフルなので映画化になったのだろうが、原作が舞台から映画に移った時、大きな転換を遂げる。演劇では、抽象的な観念が中東に舞台を借りていたのだが、映画はあまりにもリアルな手法を取っているのでこれは実際に起こったことを基にしており、政治的な主張やアジェンダがあるかのように思わせてしまうのだ。勿論故国を去らざるを得なかった人間なのだから、何らかの政治的アジェンダはあるだろうが、ワジディ・ムアワッドはギリシャ悲劇の源泉を辿り、現代のシェークスピアになりたいという芸術家としての野心から、この戯曲を書いたのではないか。或いはムスリムとキリスト教徒との交錯の中で人々が殺しあう源泉となっている『神』とは何かという議論を提示したかったのではないだ。いずれにせよ、彼の目指していたものは、事実を伝えるというより、中東を舞台として知的なゲームを展開するということだったような気がする。そしてそのゲームの鍵になるのは、『1+1=1』というスマートなフォーミュラだ。

確かに『芸術』は『作り物』ではあり、舞台も映画も『作り物』であることは間違いないが、両者の間には微妙な違いがある。舞台を見る人間にとって、些細な事実の食い違いはパワーフルな主題の下では、何と言うことはないし、聴衆は舞台に『リアリズム』を要求しない。舞台は現実を表現するには余りにも多くの制限があるからだ、しかし聴衆は映画に対してはしばしば『リアリズム』を要求するのである。ある種の戯曲はすんなりと映画に移行し、聴衆になんの違和感も与えないだろう。しかしこの映画は、あまりにもドキュメンタリータッチで作られているし現実に根を張っているように思わせるので、これが壮大なギリシャ悲劇なのだとすぐにはわからないのである。まあ、たとえそれがわからなくとも、映画の多くの聴衆はこの映画のパワフルさに圧倒され、感動できるだろうが。

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