[映画] モントリオールのジーザス Jesus of Montreal(1989年)

『モントリオールのジーザス』は、『アメリカ帝国の滅亡』や『みなさん、さようなら』を監督したドゥニ・アルカン監督の作品で、この三つを一緒にして彼の三部作とも言われている。『モントリオールのジーザス』はカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞しているものの、アカデミー賞外国語映画賞候補になった『アメリカ帝国の滅亡』やアカデミー賞を受賞した『みなさん、さようなら』に比べると日本での知名度は今一歩で、DVDの入手も困難になっていると聞く。三作とも非常に佳品なのだが、私の好みでは『モントリオールのジーザス』が頭一つ抜きんでている感じである。キリスト教を知的に解釈して、魅力的な登場人物がユーモラスに愛を語っているし、ストーリー展開も面白く、映画自体も芸術的である。結構日本人の感性にふんわりと訴えるものがあるような気がするのだが。

モントリオールに代表されるケベックはカナダの中でも特殊な存在である。もともとフランス領であるから、現在でも公用語は英語と仏語であり、宗教はカトリックである。カナダ連邦政府に対する反発が強く、選挙で独自の社会主義体制を確立した。最近まで結構暴力的な反カナダ独立運動があったし、現在でもケベック独立派と中央政府残留派がけっこう同じくらいの勢力で拮抗している。私の友人のケベック人の弁護士さんも、彼が小さい頃は自分の近所は貧しくて暴動が結構起こっていたと言っていた。

ドゥニ・アルカンに代表されるケベックの知識人は、まずカトリックの影響から抜け出す精神的革命を行い、その革命の支えとしてマルクス主義を選んだ。しかし、彼らも次第にマルクス主義に幻滅を感じる始める。その幻滅は『みなさん、さようなら』に出てくる社会主義の精神で経営されていて、官僚主義で病人を助けることは二の次で、病人が常に廊下に溢れている病院に象徴されている。

『モントリオールのジーザス』は、キリスト教という宗教団体の権威に対する批判であが、そのトーンは非常にスマートでなおかつ爽やかで愛らしさに満ちている。映画の中で二本劇中劇があり、劇中劇の量は映画の全体量の三分の一くらいである。最初の劇中劇があまりにも馬鹿馬鹿しく退屈なので映画を見ることをやめようとしてしまったくらいだが、このつまらなさは、つまらない芸術作品を作って「どうだ、お前にこのすごさがわかるか」と傲慢に笑う一部のあまり才能のない芸術家へのドゥニ・アルカンなりの批判だと理解したい。二本目の劇中劇は非常に美しく、思わず引き込まれてしまった。

この映画は、才能に溢れた、しかしメイン・ストリームの商業主義に興味がなく、アンダー・グランドの演劇活動をしている俳優のダニエルが、大きなカトリック教会の神父からジーザスの生涯を描く演劇を教会で演じてほしいと頼まれたことから始まる。神父は「好きなようにやってくれればいいから」と非常に協力的で物分りがよさそうで優しそうな人である。ダニエルは、自分の演劇学校の先輩でホームレスのシェルターで働いている女性、ポルノ映画の吹き替えをしている男優、気難しそうで自分の気に入った作品にしか出ない男優、体を売り物にする安っぽいコマーシャルに出ていて「演技なんかできるわけがない」と軽蔑されている若い女優をリクルートして、すばらしい舞台を作ってしまい、聴衆や批評家から絶賛される。彼に協力した俳優たちも自分たちがこれほどの才能があるということに初めて気づいて、興奮し幸福に浸る。

しかし、ダニエルのジーザスの解釈が、「ローマ人の兵士とマリアの間に生まれた、心が強く優しい男」であるというところから神父はカトリック教会の上司から圧力がかかり、自分の地位が危うくなるのではないかと心配し、その劇の続演を中止しようとする。その中で、一見まともに見える神父の俗物性がどんどん明らかになっていく。映画は、劇をやめさせようとする教会側とそれに反対する観衆の間に起こった暴動が悲劇に続いて行く中で幕が閉じる。

ダニエルは、ジーザスが現代に生まれていたらどんな人間だったか、ということの象徴であるだろう。冒頭のつまらない芸中劇に出演した俳優が、自分が誉めそやされている時にダニエルを指差し「私より優れた俳優がそこにいる」と言うのは、洗礼者ヨハネがジーザスの到来を預言したことを思わせる。4人の俳優たちが自分の仕事を投げ打ってダニエルに協力したのは、当時の信者たちが自分の所有物を捨ててジーザスのもとに走ったのに似ている。特に「お前の演技力は尻だけ」と軽蔑されていたコマーシャル専門の女優が、自分を尊敬を持って扱ってくれたダニエルに絶対の愛を捧げるのは、マグダラのマリアを思わせる。ダニエルの死んだ瞬間の姿は十字架に架けられたジーザスそのものである。ジーザスが起こした、死人を蘇らせたり盲目の人間に視力を与えたりという奇跡もダニエルの死後実際に起こる。また有能な弁護士がダニエルの死後、ダニエルに従った二人の男優に接近して「ダニエルの偉業を伝える劇団を作ろう」と話しかける場面がある。この二人の男優はジーザスの使徒たとえばパウロやペテロの象徴であろう。「商業主義ではなく、ダニエルが目指した聴衆との直接の交流のある劇団ならやってもいい」と答える二人はジーザスの心を受け継いで行こうと謙虚な心を表しているが、彼らの目の中には「まんざらでもないな」と光るものが一条ある。これは、謙虚な気持ちで出発したキリスト教会がその後ローマ帝国からの公認と共に大きな政治的団体に堕落していったキリスト教会を予兆させるものであろうか。

とにかく、面白く心に響く映画だった。最初の2分で映画を見るのをやめないでよかった・・・

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[映画] みなさん、さようなら Les Invasions barbares The Barbarian Invasions (2003年)

1986年に『アメリカ帝国の滅亡』を作成して17年経った2003年に、  ドゥニ・アルカン監督はその続編として『みなさん、さようなら』を作成した。ドミニク学部長を中心として展開した 『アメリカ帝国の滅亡』と異なり、『みなさん、さようなら』ではレミとルイーズの人生に焦点が当たっているが、中心人物は、レミとルイーズの息子セバスチャンとダイアンの娘ナタリーである。

ロンドンで投資家としてばりばり稼いでいるセバスチャンは、父親レミが癌を患っているとの知らせを聞き、婚約者のガエルを連れて故郷のモントリオールに戻った。父母は離婚して、セバスチャンはあまり父と暮らした思い出はなかったが、母に頼まれ、父親の最期の日々を楽しいものにしようと決心する。

労働組合に支配されている病院は能率が悪く、病室はたくさん空いているのに患者たちは廊下に置かれている。セバスチャンは金の力に物を言わせてレミの個室を確保すると、父の昔の同僚のダイアン、ドミニク、ピエールとクロードを招き、その個室は同窓会兼パーティーのような趣になる。あれだけ結婚をバカにしていたピエールは若い妻と結婚して、小さいわが子の育児に精を出す毎日で、それが本当に楽しそうである。男性遍歴を重ねていたゲイのクロードも、パートナーと安定した生活を送っているようだ。セバスチャンは大学の学生を買収して、病院に来させ、如何にレミが優れた教師であったかという芝居をさせてレミを喜ばせる。

レミの癌はもう末期まで進行しており、手の下しようがなく、レミも痛みに苦しんでいた。セバスチャンはヘロインにより痛みの緩和を図ろうとして、ダイアンを通じてヘロインを使用している彼女の娘のナタリーと知り合う。セバスチャンはナタリーを雇って、ヘロインの投与を含めて父の看護を依頼する。その過程でセバスチャンとナタリーははお互いに心を引かれるようになり、ナタリーはヘロインの使用をやめようと決意して、それを実行する。

レミはケベック州の社会主義化に賛成し、病院の労働組合も支持していたので、自分の選択の結果としてお粗末な医療を受けることに対しても文句を言わないと心に決めていたが、その自分に最後の安静を与えてくれたのは、自分が否定していた資本主義社会の中で成功していた息子だった。死を目前にして、あれこれ頑張り遊びまわった割りには自分は何も成し遂げなかったと寂しい反省もするが、意外にも自分の一番の功績は、自分がそれまで功績だとも思っていなかったわが子だということがわかり、安らかに息を引き取るのだった。

ケベック州はカナダの中でも特異な位置を占めている。ここは歴史的には17世紀頃からフランス人の入植がなされた地域であるが、18世紀の七年戦争で英軍に占領された。1776年に英国から独立した米国は、ケベック州の反英の気持ちを知っていたのでアメリカ合衆国に参加するように誘ったが、ケベックは深慮の上、カナダに残ることに決めた。しかし、カナダ独立後ケベック州の反カナダ連邦主義は続き、フランス語をケベック州の唯一の公用語として、今でもケベック住人の半数弱はカナダからの独立を主張している。

1960年代からケベック州では『静かな革命』といわれる流血によらない穏やかな社会主義化が進み、民族主義と社会民主主義(左翼)を柱として、反カトリック、社会主義的医療保険制、スト権を認める強力な労働基準法などが設立された。カナダは英連邦の模範児で、医療や労働条件に関してはヨーロッパに似た穏やかな社会主義を取っているが、ケベックはさらにもう一歩過激なのである。

ドゥニ・アルカン監督は1941年生まれだから、ケベックの静かな革命の影響をもろにうけている。『アメリカ帝国の滅亡』と『みなさん、さようなら』の登場人物もだいたいドゥニ・アルカン監督と同世代かちょっと若いくらい、1986年に40歳前後という設定であろう。彼らは1980年代にはカトリックも資本主義も衰え、頼みのマルクス主義もだめで一体何が人生のドクトリンになるのかと思っていたが、案外資本主義は健在だったんだな、見落としがちだけど、やはり家族が生きていく上での核になるのだなというのが、この映画のオチであろう。それにしても、主演の6人の俳優が二作とも仲良く出演しているのには驚く。17年もあれば、死んでいる人間もいるかもしれないし、俳優を辞めているかもしれないし、俳優としての格の上がり下がりで出演料の交渉も大変だろうが、皆楽しく元気そうに好演している。俳優としてこの作品の価値を認めているのだろうし、なによりもドゥニ・アルカン監督が俳優を惹きつける力があるのだろう。

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[映画] アメリカ帝国の滅亡  The decline of the American Empire (1986年)

『アメリカ帝国の滅亡』とは大仰なタイトルであるが、これはこの映画監督のドゥニ・アルカンが歴史を専攻し、ローマ帝国などの歴史に詳しいので、自分の主張を歴史的な表現に託したからであろう。この題が何を意味するかは、映画をぱらっと観ただけでは明らかではない。極端に言えば、この映画を一回観ただけではこの映画が何を言いたいのかわかりにくい。もし映画の意図がわからなければ、観た人はイラつくだろう。事実、そういう鑑賞後の感想もいくつか読んだ。

ドミニクはケベックの大学の 歴史学科の学部長であり、最近著書を出版し、現代(80年代)に顕著な個人的レベルの幸福を追求しようとする動きは、国家が衰退するのに比例して起こっているという学説を提唱した。彼女の学部のティーチング・アシスタント(日本でいえば非常勤講師のような立場)のダイアンは放送局のアルバイトで彼女のインタビュー番組の司会者を務めている。彼女はその幸福の追求の具体例として、知識階級の自由奔放な生活態度、従来の性道徳からの開放、結婚しない女性の増加などを挙げた。彼女は勿論独身、ダイアンは女の子を連れて離婚している。

ドミニク率いる歴史学科の教官たちはメンバーの1人の家にディナーを楽しむために集まった。教授のレミ、ピエール、クロードと大学院生のアランは男性軍、女性軍はドミニクとダイアンに加えて学部生のダニエールとレミの妻のルイーズだ。インテリであるレミ、ピエール、クロード、ドミニクとダイアンはああでもない、こうでもないという大口の議論をしている。レミはルイーズと結婚しているが、浮気の限りを尽くしている。ピエールは結婚していたが、自由がほしくて離婚し、今はダニエールと付き合っている。クロードはゲイである。ダイアンが他の4人が順調にキャリアを伸ばしているのに、自分は離婚や子育てに時間を潰して大したキャリアを持っていないのを嘆くと、ルイーズは子供を持ったということが一番の人生の成功だと慰める。ルイーズは調子に乗って、子供を持たないドミニクやピエールやクロードはキャリアで成功していても、何か大切なものが欠けていると言い出し、その3人特にドミニクをいらいらさせる。

ディナーもたけなわになり、メンバーはドミニクのインタビューの続きを聴く。彼女はマルクス・レーニン主義が崩壊した後、人々を導く原理はなく、原理を失った社会は崩れていくのみだと続ける。すると、インテリの声高い議論に参加していなかったルイーズが無邪気に「どうして生きている今が悪いと言えるの。案外私たちは科学が発達した素晴らしい、新しい時代に生きているのかもよ」と堂々と反論をした。ドミニクはそれを自分の学問に対する侮蔑と、キャリアを優先して寂しい人生を送っているという自分の個人攻撃と受け取って、自分はルイーズの夫のレミともピエールとも関係があったということを暴露してしまう。おまけにレミが、上司である自分のような知的で権力のある女性と関係を持つのに興奮したという残酷なおまけ付で。ルイーズはダイアンも夫のレミと2年間の関係があったということを知ってショックを受けてしまう。

この映画の99.9%は会話で、その95%は各々の性生活の冒険の自慢話であるので、映画のフォーカスがそちらに行きがちだが、この映画のフォーカスはちょっと違うところにあるような気がする。一言でいえば、それまでの価値観が崩れた人間の迷いである。その価値観とは何かというと、ケベックの社会で大きな影響力を持っていたカトリック教会である。もう一つは50年代60年代の青年たちを魅了したマルクス・レーニン主義である。歴史を専攻した者にとってマルクス主義は大きな光だったと思う。それが80年代になって崩れてしまったのだ。その結果が80年代に蔓延する個人レベルでの幸福の追求や自己愛、例えば結婚よりも自由恋愛を選び、家族や子供は自分の自由を奪う厄介な存在だという傾向になるとドミニクは説いている。またそう言った開放感が異人種間の男女の接触やゲイに対する容認という80年代の新しい文化を作り出したのかもしれない。

このアイディアは1986年の時点では非常に新鮮だったらしく、この映画は高い評価を得る。しかし監督のドゥニ・アルカンは時代と共に成長しているらしく、17年後にこのテーマの続編『みなさん、さようなら』を作っている。その映画に関してはまた別の記事で語ってみようと思う。

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[映画]  ぼくたちのムッシュ・ラザール Monsieur Lazhar (2011年)

カナダのモントリオールのある小学校。教室で自殺した女教師の代理として雇われたアルジェリア移民のバシール・ラザールは、担任を亡くしたショックから完全に立ち直っていない生徒たちとまっすぐに向き合い、子どもの心を開いていく。しかし、ラザール自身も悲しい過去と秘密を背負っていた。ラザールは母国で激しい内戦を経験し、亡命者としてカナダにやって来た。彼の妻子はテロリストに殺され、彼はカナダで政治亡命者として永住権を得ようとしていたが、教師の資格もなく、教えた経験もなかった。それを知った校長はラザールを解雇するが、彼は生徒の心の中に強い影響を与えて去っていくという話である。

この映画はアカデミー賞の外国語映画賞にもノミネートされ、各国で絶賛されたというが、私はあまりこの映画には惹き付けられなかった。まず、教師が教室で首吊り自殺を図るというのが不自然だ。なぜ、教室で、自分と問題があった男子生徒に発見させるような意図を持ち、自殺の場所と時間を選んだのか?一応この映画の中でラザールの口から「どうして彼女は教室で自殺したのか」という質問をさせるが、彼女と親しかった同僚は「彼女は前からちょっと精神がおかしかったから」というだけである。子供には人気のあった先生という設定だが、生徒や周囲の人間は何も彼女の精神状態を不審に思わなかったのだろうか?また何故、教職の経験も全くないラザールが突然自殺した教師の代理を志願したのだろうか。学校も、永住権もなく、従って働く権利もないラザールをバックグランドのチェックもなしに、教職に採用したというのもおかしな話である。

いずれにせよ、この映画の中心は、先生の死によって傷ついた生徒の心が、もっと深い傷を負っているが、明るい態度を崩さないラザールによって癒されるというのがテーマであるらしいから、そこへ至るまでの設定はどうでも構わない、或いはドラマチックな方がより効果的だというつもりなのかもしれない。校内で自殺が起これば学校側としては、慎重に対応せざるを得ず、何とかそれ以上の面倒を起こしたくない『事なかれ主義』になることはあり得るのだが、自殺というのは大きな行為であり、それに至るまでの深刻な経緯があるはずだが、それに対しては全く考慮せず、自殺をストーリー展開の道具に使うというのは、私にとってはあまり説得的ではなかった。先生の自殺で一番傷ついているのは、先生を自殺に追い込んだ少年の筈なのだが、この映画はクラス一般を広く映画に取り入れ、特に主人公のラザールに心を開いていく少女が中心となって話が展開していくので、映画の意図が今ひとつ私に伝わってこなかった。

この映画の背景は1999年にアルジェリアの大統領に選出されたアブデルアジズ・ブーテフリカの政権が10年に渡って繰り広げられたアルジェリア内戦を収めるため、国内の対立勢力に妥協することを余儀なくされ、過去の過激派の政治犯たちを恩赦で釈放した事件である。ラザールの妻はそれを批判した本を出したせいで、彼の家族は過激派からの脅迫を受け、結局彼の家族はテロリストに殺されてしまうのである。

ラザールを演じたアルジェリア出身の舞台俳優でコメディアンのモハメッド・フェラグもアルジェリアから逃亡した過去を持つ。1995年に彼の舞台に爆弾が投げ込まれた事件をきっかけに彼はチュニジアにそしてそこからフランスに亡命した。この映画はモノローグの戯曲を基にしているが、戯曲の作者エベリン・デ・ラ・シェネリーラはラザール役にモハメッド・フェラグを強力に推薦したが、この映画の監督のフィリップ’ファラデューは彼の演技はあまりにも舞台的だと思い、すぐには彼を採用しなかったという。しかし、舞台で鍛えた演技力と彼の実経験は監督を説得するに十分だったようだ。

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[映画] 灼熱の魂 Incendies (2010年)

カナダのケベックに住むジャンヌとシモーンの双子の姉弟の母ナワルが急死する。遺言によって、二人は初めてこれまで死んだものとばかり思っていた父が地球上のどこかに存命しているだけでなく、その存在すら知らなかった兄がいることを知る。ナワルは二人に対し、父と兄を探し出し、それぞれに手渡すように、二通の封書を弁護士に託していた。ジャンヌは母の最期の願いをきき遂げるべく、ナワルの出身地である中東に旅立ち、隠された母の過去を捜そうとする。その地はレバノンのように思われるが、映画でははっきりとどこか断定していない。父と兄はまだ生きているのか。もしそうなら、どこにいて、どんな暮らしをしているのか。

要するにこれは謎解きミステリーなのだが、レバノンらしい風景の中で、キリスト教徒とムスリムの激烈な対決と殺し合いというレバノン戦争らしき史実を背景にしているので、「これは現実に起こったことを基にした事実に近い話なんだな。」、或いは「作者の体験が基になっているのか。」という印象を持って映画に引き込まれてしまう。しかし、話が展開して行くうちに、これはあり得ないというほど、悲劇を超越した恐ろしい方向に話が展開し、「何だ、ギリシャ悲劇じゃあるまいし。」と興ざめた気持ちで映画を見終わった。これが事実だとしたら本当に恐ろしい話である。事実この映画の恐ろしさに打ちのめされた聴衆もたくさんいると思う。

しかし冷静に考えてみると、映画の中では、辻褄の合わないことが多すぎて、疑問がたくさん出てくる。母と兄の年齢が近すぎるし、母はある日突然意識を失って意識も戻らぬまま間もなく死亡したのだから、こんなミステリーを企んで、凝った手紙を残す時間があったはずがない。母は内戦でそれこそ何回死んでもおかしくない状況に陥り、周囲の人はどんどん死んでいくのに、彼女だけは不思議に生き延びる。また現実ではあり得ない奇跡的な偶然の出会いが多すぎる。30年前のことなのに、人々は母のこと、兄のことをよく覚えている。母のこの遺言の本当の意図はなんだったのかに説得力がない。ショッキングな事実を知って、狂ったようになってしまっているはずの母は、意識不明になっている中で、なぜか知性的なコントロールのでいろいろ深く考えているようなのである。辻褄があわないので、この映画そのものが『嘘』のような気すらしてくる。人間の深い悲劇を描いているのに、それが信じられなくなるのである。

映画を見終えた後、この映画はワジディ・ムアワッドが書いた戯曲を、デニス・ベレヌーブが映画化したということを知り、やっと納得した。ワジディ・ムアワッドは15歳だった1983年に、レバノン内戦の戦火を避けるためにレバノンを逃亡してカナダに移住した。彼はレバノン人だし、レバノンで何が起こったかを知っているから、この戯曲はレバノンらしい中東を舞台にしているが、その戯曲の意図は「レバノン戦争の悲劇を伝えたい」ということではないような気がした。

この戯曲があまりにもパワーフルなので映画化になったのだろうが、原作が舞台から映画に移った時、大きな転換を遂げる。演劇では、抽象的な観念が中東に舞台を借りていたのだが、映画はあまりにもリアルな手法を取っているのでこれは実際に起こったことを基にしており、政治的な主張やアジェンダがあるかのように思わせてしまうのだ。勿論故国を去らざるを得なかった人間なのだから、何らかの政治的アジェンダはあるだろうが、ワジディ・ムアワッドはギリシャ悲劇の源泉を辿り、現代のシェークスピアになりたいという芸術家としての野心から、この戯曲を書いたのではないか。或いはムスリムとキリスト教徒との交錯の中で人々が殺しあう源泉となっている『神』とは何かという議論を提示したかったのではないだ。いずれにせよ、彼の目指していたものは、事実を伝えるというより、中東を舞台として知的なゲームを展開するということだったような気がする。そしてそのゲームの鍵になるのは、『1+1=1』というスマートなフォーミュラだ。

確かに『芸術』は『作り物』ではあり、舞台も映画も『作り物』であることは間違いないが、両者の間には微妙な違いがある。舞台を見る人間にとって、些細な事実の食い違いはパワーフルな主題の下では、何と言うことはないし、聴衆は舞台に『リアリズム』を要求しない。舞台は現実を表現するには余りにも多くの制限があるからだ、しかし聴衆は映画に対してはしばしば『リアリズム』を要求するのである。ある種の戯曲はすんなりと映画に移行し、聴衆になんの違和感も与えないだろう。しかしこの映画は、あまりにもドキュメンタリータッチで作られているし現実に根を張っているように思わせるので、これが壮大なギリシャ悲劇なのだとすぐにはわからないのである。まあ、たとえそれがわからなくとも、映画の多くの聴衆はこの映画のパワフルさに圧倒され、感動できるだろうが。

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