[映画] 愛と哀しみの果て Out of Africa (1985年)

『愛と哀しみの果て』はアイザック・ディネーセンにより1937年に出版された『アフリカの日々』を基にしている。アイザック・ディネーセンは男性の名だが、実は本名がカレン・ブリクセンという女性である。彼女は男女二つの名前を使い分け、デンマーク語と英語でたくさんの本を出版しており、アカデミー外国語映画賞を受賞した『バベットの晩餐会』の原作者でもある。『愛と哀しみの果て』はアカデミー賞の作品賞を受賞しているが、映画の作り方は完璧ではなく、人間関係の説明がないので原作を読んでいないと取り残されてしまうことがあるし、ちょっと映画が冗長すぎる嫌いがある。しかしケニヤの映像は素晴らしいし、映画の稚拙さを補って余りある原作の魅力というか素晴らしさを感じてしまう。

『アフリカの日々』は基本的には彼女の自叙伝である。映画では冒険好きでデンマークに物足りない裕福な家の出身の女主人公(1885年生まれ)が、没落した男爵の息子と身分と財力を交換するような結婚をして、新天地のケニヤに旅立つ。実際、カレン・ブリクセンも1913年にスウェーデン貴族のブロア・ブリクセンと結婚し、翌年ケニアに移住している。映画通り夫婦でコーヒー農園を経営するが、まもなく結婚生活が破綻し、離婚後は単身でコーヒー園の経営を続けるが失敗し、1931年にデンマークに帰国した。

カレンの夫となるブロア(ブリクセン男爵)は1886年生まれのスウェーデン貴族である。彼はカレンとは遠縁に当たる。彼には一卵性双生児の兄がおり、映画ではこの兄が実はカレンの恋人であったという設定になっている。この双子の兄は1917年に飛行機事故で死亡した。コーヒー農園の資本はすべてカレンの両親から出資されていたので、離婚に際しコーヒー農園はカレンの所有となり、ブロアはサファリ・ツアーの会社を始める。20世紀初頭のヨーロッパの貴族は、経済力と母国の帝国主義の成功の追い風をうけ、起業に情熱を燃やすものが多かったようだが、何かこれは現代の起業家の精神に似ているものを感じる。ブロアの会社の顧客には、英国の皇族や貴族がたくさんいたという。彼は、カレンとの離婚後、1936年に探検家のエバ・ディクソンと結婚した。1938年にエバが死亡したので、ブロアはスウェーデンに帰国し、そこで没した。

ブロアとの離婚後、カレンが親しくなったのがデニス・フィンチ・ジョージア候である。彼は1887年に非常に由緒ある名門貴族の家に生まれた。23歳の時にケニヤの西部に土地を買い、そこを基にして、共同出資者と狩猟会社を始めた。彼もブロアと同じ貴族起業家であり、同じ境遇にある名門貴族出の起業家のバークレー(コール候)とも親しく付き合っていた。この4人が映画の主要人物である。1925年にカレンとブロアが離婚した後、デニスはカレンと親しくなり、やはり自分が始めたサファリ会社の仕事の合間にカレンのコーヒー園でカレンと時間を過ごすことになった。彼のサファリ会社の顧客もやはり、英国の王族や名門貴族が多かった。登場人物はすべて貴族階級の青年たちなのだが、ハリウッドの人気俳優が演じる彼らは、なんとなく金鉱で一儲けしてやろうというアメリカのカウボーイにしか見えないのが、ちょっと残念だが。

映画では、カレンとデニスが破局したのは、デニスが結婚という関係を望まなかったこと、そして別の女性が現れたからだということになっているが、それも事実らしい。1930年からデニスはベリル・マッカムという牧場経営者と親しくなり、二人で飛行機の操縦も学び、ケニヤ中を飛び回り始めた。結局デニスは、カレンが農場を閉じてデンマークに帰国しようと決心した時に飛行機事故で死亡してしまう。

この映画の素晴らしさは、当時のヨーロッパの支配階級出身の伸び伸びとした、怖いものなしの若者の開拓者精神を生き生きと描いていることだ。しかし同時にその特権はいつまでも続かないだろう、という予兆のようなものも漂っているのが見事だ。この映画では、自分の特権を顧みずアフリカに飛び出して、自らの手を汚して自分の運命を試す若者の勇気というものを感じるのだが、それだけ帝国主義というものが健在だったのだろう。この時はヨーロッパの帝国主義の最後の閃光だったのかもしれないが。

カレンは不実な夫により梅毒を移されてしまい、それで一生苦しみ、また全財産を投資したコーヒー農場も失敗してしまうのだが、誰を批判もせずすべてを受け入れて生きていく。その生き方が見事である。この精神は『バベットの晩餐会』にも感じられるものである。ここには作者の人間性が自ずとにじみ出ているのであろうか。

カレンはケニヤの原住民、たとえばキクユ族、マサイ族、ソマリ族などの違いを細かに観察している。当時のケニヤの植民者はキクユ族を利用してケニヤの殖民をすすめている。キクユ族は農耕に順応し、首長が白人入植者に友好政策を取り、白人に土地を奪われた後そこでの小作労働や家内労働に従事した。また、若者はミッション系の学校で教育を受けたので、英語も堪能になった。カレンの言葉を借りれば、キクユ族は「反抗心を持たず、羊のように我慢強い土地の人たちは、権力も保護者もないまま、自分たちの運命に耐えてきた。偉大なあきらめの才能によって、今もなお彼らは耐えている」と描写されている。ソマリ族は、すでにムスリムに改宗しており、植民者はソマリ族はいつ反抗するかわからないと警戒しており、キクユ族のような信頼を感じていなかった。マサイ族は狩猟民族であることを諦めず、孤高の道を選んでいた。映画では、キクユ族の人間でさえ、マサイ族は得体の知れない不気味な民族で、彼らを恐れていたことを描いている。

ケニヤ独立の中心となったのは、植民者のことを経験と勉強により理解していたキクユ族であった。ケニヤ独立の動きはすでに1919年にキクユ人のハリー・ツクがナイロビで東アフリカ協会を立ち上げるなどの形で起こっていた。1924年には青年層を中核とするキクユ中央協会(KCA)が成立し、植民地政府と同調する首長勢力と対決し、そのKCAの急進派の動きが1952年のマウマウ戦争に発展し、これにより白人入植者が撤退し始める。民族主義・独立の動きはケニア・アフリカ民族同盟 (KANU) に結集されて行き、ケニヤの独立が達成されたのは1963年であった。

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[映画] 名もなきアフリカの地でNowhere in Africa  Nirgendwo in Afrika (2001年)

1938年、ドイツに住むユダヤ人の少女レギーナは母イエッテルと共に、ナチスの迫害から逃れるため先に英国領ケニアへ移っている父ヴァルターの元へ向かった。ヴァルターはドイツでは弁護士であったが、今は英国人の植民者が経営する農地のマネージャーとしての仕事を得、粗末な家に住み、慣れない農業に従事していた。レギーナは一家の料理人のオウアになつき、ケニアの生活に瞬く間に溶け込んでいったが、イエッテルは現実が受け入れられず、夫には不平不満をこぼし、夫婦の仲は口論も絶えなかった。1939年、ついに英国とドイツが交戦を開始し、ヴァルターの一家は敵国人として収容所に送られ、ヴァルターは敵国人という理由で農場のマネージャーの職を解雇されてしまう。しかしケニヤにいるユダヤ人の人々は、ナチに迫害されているユダヤ人は英国人の敵ではないと英国政府に説得して結局収容所から釈放される。

レギーナとイエッテルが送られた収容所として使用されたのはナイロビの最高級ホテルで、ドイツ人の女性はそこで最高級の接待を受ける。当時のケニヤでは白人と現地人とでは滞在する場所が違っており、敵国人とはいえ白人の女性を現地人が泊まる場所に送ることが出来ず、そういうことになったのであろうが、そこに当時のケニヤの隠されたアパルトヘイトを彷彿させる。

美しいイエッテルに好意を寄せる英国兵の助けで、ヴァルターは新しい英国人の雇用主を見つけることができ、家族はその農場に移る。オウアも移って来て良好な環境の下で新しい生活が始まる。ヴァルターは英国兵として志願することを許され、イエッテルの反対を押し切って大戦に参戦する。レギーナは英国人のための寄宿舎で勉強を始める。イエッテルはヴァルターが戦争に行っている間に新しい農場で生き生きと働き始め、ヴァルターはイエッテルが自分の友人のジュスキントと親しい関係にあるのではないかと疑うようになる。事実ジュスキントはイエッテルに求愛していたのである。

戦争は英国の勝利で終わった。ヴァルターは英国軍に奉仕したので帰還兵としてドイツに帰国することが可能になり、またドイツから判事の仕事のオファーが来ていた。帰国を希望するヴァルターに対してイエッテルはアフリカに滞在することに固執する。二人が決断を下したところでこの映画は終わる。

戦乱や人種の迫害の中で自分の故国をどう選ぶかということに関して、この映画は面白い観点を提供しているし、これはなかなかいい映画なのだが、一つ観衆に不快感というか不可解感を与えるのはイエッテルの描かれ方であろう。ケニヤに到着早々「こんな所に住むなら死んだ方がましよ!」と叫び、オウアを見下した態度を取りヴァルターに「君のオウアに対する態度は、ナチのユダヤ人に対する態度と同じだね。」と非難される。「肉が食べられないなんて考えられない。」という不満に応えてヴァルターが仕方なく鹿を撃ち殺すと「動物を殺すなんて!」と非難する。あれだけケニヤを嫌っていたはずなのに、いざヴァルターが帰国を許されて祖国の復興に尽くそうというと、「自分の家族を殺した国など信用できない」といって帰国を拒否する。しかし自分が妊娠したのを知ると「この国の人が怖い」といって帰国に賛成する。また行く先々で自分が男性の関心を惹くのを自覚している風があり、実際にその情事の現場を娘のレギーナにも目撃されてしまう。

このイエッテルの人格の矛盾は、この映画は三層の視点から成っているということに起因しているだろう。一つは原作者シュテファニー・ツヴァイク(映画ではレギーナとして描かれている)の子供の目、もう一つは大人になってこの自伝を書いたシュテファニー・ツヴァイクの大人の眼、さらにもう一つはこれを映画化したカロリーヌ・リンク 監督の視点である。

シュテファニー・ツヴァイクは母を嫌っているわけではないが、原作となった伝記では彼女を常に我がままなユダヤ人のお姫様のように回想している。彼女にとって人格形成の基盤となったのは、常に前向きに人生を開拓して行く父(ヴァルター)と無限の愛を注いでくれたコック(オウア)、そして自分が通った英国の寄宿舎であった。

映画で父ヴァルターを演じたのは、旧ソ連領のグルジア生まれでオーストリアに移民してきた美青年俳優のメラーブ・ニニッゼであるが、インタビューでシュテファニー・ツヴァイクは「メラーブが父とそっくりなので驚きました。その顔立ち、哀愁と郷愁を心に秘めながら、力強く情熱的に前向き生きているところなど、父そのものです。彼のドイツ語は東方訛りがあり、父と同じドイツ語を話します。」と雄弁に語っているのに、母を演じた女優に関しては「全く似ていません。」と素っ気無く、母がどういう人間かというのにも言及していない。

オウアに関しては、自伝を書いたのはオウアのモデルになる素晴らしい人がいたということを記録したかったからだと述べているくらいだ。映画ではヴァルターが「自分が兵役にいる間は君はナイアビで暮らせる。」というのに対してイエッテルは「私はこの農場を守るわ。」と大見得をきるのだが、実際は母は父が戦場に行ったあとナイアビに移ったらしい。しかしそのコックは自分の故郷を離れて、母に従ってナイアビに移ってずっと彼女の面倒をみてくれたという。

少女レギーナの視点では、父と母は太陽と大地みたいなもので、その間に恋愛関係があるというのは全く考慮の外であっただろう。しかしカロリーヌ・リンク監督はこの映画をラブ・ストーリーとして作製したのである。ヴァルターを演じたメラーブ・ニニッゼは次のように述べている。「ある日、ニニッゼ監督が私に対して、『違う、この映画はラブ・ストーリーなのよ!』と叱責しましたが、それで私はこの映画の解釈がわかり、それ以後演技の方針が決まりました。」

つまり、メラーブ・ニニッゼはこの映画はもっと政治的なものだと解釈していたのだ。しかしカロリーヌ・リンクの意図はこの映画を「裕福なユダヤ人の家庭で育ったお嬢様のようなイエッテルがアフリカの大地の中で自立する女として成長していく過程を大人の恋愛を混ぜながら描いたドラマ」として再現したのであり、それはアフリカという大地を素直に吸収して生きていくという少女が中心の視点から大きくずれてきており、中心人物はイエッテルに移り、作者の女性の自立や恋愛観をイエッテルに投影させようという意図が結果として、映画では矛盾した人間となっているようである。

シュテファニー・ツヴァイクの書いたものを読むと、映画では描かれなかったいろいろな事情がわかり興味深い。なぜユダヤ人がドイツを逃げなかったのかという質問には、当時は国外に逃亡するのには高額な資金が必要で、多数のユダヤ人はそれを捻出できなかったという可能性も示唆している。彼女の父がケニヤに逃亡したのは別に深い理由はなく、入国の費用が1人50ポンドと格安であった上に、ナイロビではユダヤ人のコミュニティーが強く、ケニヤが比較的安全な場所であったからだという。

ケニヤでも、父はすでに確立している植民地の統治制度の中間マネージャーとして赴任したのであり、一からの出発ではない。つまり植民地の英国人白人の支配機構の中間管理職としての立場である。農場に仕事がある限りは、支配者階級の一つとして現地人の労働を監督するわけで、収入や身分が保証されているし使用人も使えるので、イエッテルがそこに留まりたいと思うのもわかる気がするが、ヴァルターはケニヤで才能のない農場者として果てるよりも、自分の才能を生かしてもう一度祖国で自分を試してみたいという気持ちになるのもわかる。あるいは父はドイツにおけるユダヤ人の末路を見抜くだけの力がある人だったから、平和で優しいケニヤにもやがて民族主義や独立運動の波が吹き荒れるということを洞察していたのかもしれない。

シュテファニー・ツヴァイクの父にとって、自由の国アメリカへの移民は選択肢ではなかった。彼は英語が話せないので、たとえアメリカに渡っても弁護士として生きて行くのは40歳を過ぎてからではまず不可能であり、彼はどんなに苦しくても祖国ドイツで自分の人生を再構築することにしたという。彼は自分に命を与えてくれたケニヤに対する感謝を生涯忘れることはなかったという。

祖国として自分が暮らす国を選ぶ基準は、まず国家が自分の生命を保証してくれること、そして自分の才能が生かせる環境であること、自分が主人公として環境をコントロールできること、自分の愛する家族に囲まれていること、言語がわかること、好きな食べ物が簡単に入手できることなどがあるだろう。日本人がこれだけたくさんの基準を一瞬で簡単に満たして『日本』という国を祖国として選べるということは、何という幸せなことであろうか。この世界には祖国を選べない人もたくさんいるのである。

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