[映画] 風立ちぬ(2013年)

この宮崎駿原作監督のアニメーションは飛行機設計家の堀越二郎(1903−1982)の物語であるが、筋書きには作家堀辰雄(1904−1953)の人生と彼の自伝的小説『風立ちぬ』の要素が組み合わされている。日本の歴史の中で難しい時代を生きた堀越二郎と堀辰雄は宮崎に強い影響を与えたと思われる。宮崎は映画広告で両人に献辞を書いている。この映画は堀と堀越のどちらの伝記でもないけれども、両人の生き様を見事に捉えて見る人の心を動かす。加えて、この映画は「どうして宮崎は紛れもなく平和主義者なのに戦闘機、戦車、銃火器などの兵器に魅かれるのか」というファンの(そして恐らく彼自身の)疑問に対する答でもある。彼はこの映画で説得力のある答を示すのに成功している。私見だが、画質では宮崎の過去の作品には及ばないにも関わらず、私はこの映画を彼の最高傑作と考えている。

初期の飛行技術の発達がベルエポックの興隆と終焉に果たした役割

ベルエポック(美しい時代)は通常第一次世界大戦の前の40−50年の期間を指す。この名の由来はこの期間にヨーロッパと先進国は比較的平和を楽しみ、技術革新が爆発的に進んだ事による。例を挙げると鉄道網の発達、電気配線の始まり、電話(1976)蓄音機(1877)電灯(1880)の発明、エッフェル塔とパリ万博の開催(1889)、ラジオの発明(1897)、巨大客船の就航、高層ビルの建設、最初の飛行機(1905)、自動車の大量生産(T型フォード、1908)などである。この技術の発達は富裕層だけでなく、社会全体の人々の生活を変え続けた。もちろん貧富の差や過酷な労働環境などの深刻な社会問題は存在したが、ベルエポックでは科学技術の進展が人々に力を与え、生活を豊かにするという希望が基調にあった。言葉を変えると、人々の生活は良くなり続けるだろうという将来に対する楽観がこの時代にはあった。

堀越はベルエポックの最後の十年くらいに生まれ育ち、飛行技術の驚くほどの発達を目の当たりにして成長している。これは人間が人類史上初めて鳥の様に空を飛びはじめた時である事を考えれば、彼が飛行機に魅了され飛行機を作りたいと思ったのは不思議ではない。『星の王子様』の作者であるサンテグジュペリ(1900−1944)は堀越と同世代であり、彼も飛行機に魅了され飛行機のパイロットになる道を選んでいる。黎明期の飛行経験がサンテグジュペリの世界観に与えた影響は彼の傑作『人間の大地』などに生き生きと書かれている。鳥の様に飛ぶことで彼は人類がこれまでに行った事のない所へ行き、これまでに見た事もないものを見たのである。

第一次世界大戦の期間に技術革新は更に速く進んだが、皮肉にもこの技術の進展自体がベルエポックに終焉をもたらした。兵器の進展により前例のない6百万人もの兵士が大戦で死亡した。戦場はもはや勇者が輝く場所ではなく、恐ろしい大量殺戮の場所となった。砲弾ショックという言葉が大戦中に生まれたが、これがPTSDとして治療が必要な障害と認識されるのはずっと後の事であった。当時は砲弾ショックの兵士は弱虫として懲罰の対象とされていた。飛行機もこの大戦中に強力な殺戮兵器に変貌し、それ以来軍事力競争が航空技術革新の推進力として機能した。堀越は有能で献身的な技術者として戦闘機の設計を主導した。最新の技術を駆使して最も進んだ飛行機を作りあげるという事は、芸術家が革命的な技法で新しい作品を生み出すのに比べられるものだった。しかしながら第二次大戦の勃発で彼の努力は悲劇となった。

宮崎自身も黎明期の飛行技術の美しさと危険に惹きつけられた。彼の作品『紅の豚』(1992)はコミカルな娯楽作だが、『風立ちぬ』の主要テーマはすでに『紅の豚』の中に見出される。初期のパイロットと飛行機設計者の勇気と情熱、初期の飛行機を操る美しさと危険、そして飛行機の持つ兵器としての悲劇的な性格などである。宮崎と同じく私も子供の頃に飛行機、特に戦闘機に興味があった。戦闘機は最高の機能を追求する結果、そのかたちからある種の美しさが放射される。それに比べ民間機は経済性第一のため、戦闘機の持つ畏敬感に欠ける。この戦闘機の持つ魅力は優れた芸術作品の美しさの様なものであり、殺戮兵器だという知識で打ち消せるものではないだろう。

愛と死の物語

この作品では堀越の飛行機設計に対する情熱に堀辰雄の愛と死の物語が取り込まれている。結核は第二次大戦までの日本では早死の第一の原因だった。堀自身も結核にかかり、彼の婚約者はこの映画と同様若くして結核で亡くなっている。死の陰りは堀に彼の人生と愛のはかなさを常に思い出させた。宮崎はこの二つの話を取り合わせるのに驚くほど成功している。二つの話が互いに強め合い、作品に深さを加えている。これにより作品は只の仕事好きのエンジニアの話、あるいは只の若死する恋愛悲劇以上のものとなっている。彼等の生きた時代は今以上に制約の多い時だった。彼等の人生を左右する事の多くは自分の力ではどうする事も出来ないものだった。しかしながらこの映画に出てくる人達は言い訳をする事なく彼等の力の及ぶ中で愛し合い、助け合い、夢を追求した。迫る死の中でも主人公は彼女の人生をいっぱいに生きた。

ポストベルエポック:我々皆が生きる時代

第一次大戦中もその後も技術革新は呆れる程の速さで進んでいったが、ベルエポックの頃の科学技術に対する楽観的な信頼は恒久に失われた。第一次大戦での類を見ない死者の数と残虐さを前に、互いに殺し合うための技術が進み過ぎたのではないかと人々は考え始めた。しかしながら人々が国どうしの全面戦争を回避する道を本気で探り始めるのは第二次大戦における第一次大戦をはるかに上回る犠牲者と原子爆弾の発明の後だった。第二次大戦の後も技術は進み続けた。抗菌剤の開発で結核はもはや早死の一番の原因ではなくなり、ジャンボジェットは長距離の旅の時間を短縮し、コンピューターとインターネット革命は我々の仕事と暮らし仕方を根本から変えた。GPSを使う洗練された兵器は戦争の犠牲者を減らせるはずだった。

進んだ兵器は21世紀に独裁政権を倒したが、デモクラシーを振興し人々の生活を良くすることはできず、内戦の犠牲者は続いている。技術の力は万能では無いが、良くにも悪くにも我々に大きな影響を与える。兵器の技術革新がもたらした何千万人もの戦争の犠牲者と冷戦の恐怖の教訓を忘れてはならないだろう。もう一つの技術革新の深刻な結果は人間の活動が自然環境に与える影響が飛躍的に増大した事である。人類史上ベルエポックに到るまで、ひ弱な人間の活動など大自然に大きな影響を与える事などあり得なかった。技術の進歩と人口の増加した現在ではこの想定も根本から崩れてしまった。我々の活動の環境に対する影響は明日とか数年のうちとかに見えてくるという様なものではないだろう。しかし次の世代が住む世界に多大な被害を与えない様に行動するのは我々の義務である。

堀越による技術革新の情熱的な努力は社会の発展に寄与することができなかった。これが我々の生きている世界の現実である。ポストベルエポックでは未来は予測できない。技術革新は続くだろうが、それがより良い将来をもたらすという保証はない。我々が獲得した知識を消す事はできない。我々に出来るのはこの強力な技術で何をするかというのを賢く決める事である。この映画には何をすべきかという答はない。我々の誰も確かな答など知らない。『風立ちぬ』は飛行機愛好家と日本の過去に興味のある人達だけのための映画ではない。この映画は全世界の人々が現在直面している技術の進歩のもたらした問題を提示しているのだ。

English →

[映画] ノルウェイの森 (2010年)

村上春樹の『ノルウェイの森』の映画化に対して、4つの考え方があるのではないか。

1)村上春樹はよく知らないし興味がないので、映画も見に行かない。
2)村上春樹の『ノルウェイの森』には余りにも思い込みがあるので、映画化は見ない。
3)村上春樹の小説は読んだことがないが、この映画を見て村上の小説を読んだことにする。
4)村上春樹の『ノルウェイの森』には余りにも思い込みがあるので見たくないが、見ないと何かが終わらないような気がするので(ため息)見てみる。

結局3)と4)の人が映画館に行くのだろうが、3)の人は「何だ、村上って有名なだけで大したことないじゃなか」と思い、4)の人は「やっぱり、だめだったか」とうな垂れるのではないか?私の正直な感想は、国際映画界での自分の位置に野心満々なトラン・アン・ユン監督が、村上という名を使って世界の聴衆に自分の存在を確認させようとした映画である。だから直子を演じるのは日本人女優で一番名の知れている菊地凛子でなければならないし、彼女が最後までたくさんスクリーンに出てこなければならないのだろう。

村上の熱烈な読者は、映画を見る前から一人一人の登場人物のイメージを既に自分の心の中に作り上げているだろうから、キャスティングが難しいというのはわかる。しかし、この映画が聴衆をがっかりさせてしまう一つの原因は、菊地凛子が直子を演じていることだろう。菊地凛子という女優がだめなのではない。私の論点をはっきりさせるために敢えて言わせてもらえば、大女優だから演じられるだろうという理由で杉村春子や樹木希林に直子を演じさせるようなものである。菊地凛子は若いが、30代の菊池に10代の直子を演じさせるのは無理である。たかが10年というが、その10年の差が『ノルウェーの森』では致命的なのである。また菊地凛子はGo-Getter  (ほしいものはみんな手に入れてみせる!!!)のたくましい人である。汚れのない柔らかな雪が目の前でひそかに溶けていってしまい、水も残してくれないような直子とは全く資質が違うのである。

第二にレイコの描き方が無茶苦茶である。原作には主人公の女性はいない。(直子は主人公ではない)しかし、原作ではレイコは、主人公のワタナベに深い影響を与える非常に重要な人物であり、読者は小説の女性たちの中ではレイコに一番親近感を持つのではないか。彼女の人生は或る意味では悲劇ではあるが、彼女は直子を最後まで見捨てず、暖かい気持ちで直子とワタナベを繋ぎとめてくれた人間なのだが、映画では「何でこの人が出てくるのだろう」としか思えない描かれ方なのである。小説でレイコがワタナベに書く手紙は美しい。この小説はそれをすべて無視し、レイコを「わけのわからない変なおばさん」としてしか描いていない。

norwegianwood_jp私なりの小説『ノルウェイの森』の世界を一言で言えば、広々とした野原の中の大きな長方形である。右上の角に直子がいる。左下の角に緑がいる。直子の位置の延長には長い道がつづいていて、ワタナベはそこをレイコとゆっくり歩いて行く。その道に平行して小川が流れ、レイコと歩く道の対岸にはハツミが立っていて、ワタナベは遠目からハツミを横目で見て歩いているのである。そして長い散歩の果てに緑が対岸で待っている。レイコはそこで優しくワタナベの背中を押し、ワタナベが川を渡る勇気を与えてくれるのである。川の流れは激しいが、そこをふわふわとしかし波に押し流されもせずに永沢が水鳥のように軽々と浮いている。そしてワタナベが永沢の方に挨拶をしに近づこうとしたら、永沢は「お前、早く川渡れよ。じゃあ元気でな」と行ってふわふわと川を下っていくのである。

この映画はある意味で「通過」の物語である。それを人によっては「喪失」というかもしれないし、「大人になる」とでもいうかもしれない。英語で一番ぴったりの表現があるがそれはmaturityである。永沢にはそれがある。チェコ映画の『存在の耐えられない軽さ』の中に出てくる外科医のように、愛情と性交は全く別のものだと理解し、現実的なものの見方ができ、「え~、人生はこうであってくれなきゃイヤ」とごねる人間を横目で見てフンと笑い、自分を哀れまず、言い訳をしないで、批判精神はあっても人を非難しない男である。映画では彼の本質が全く描かれず、単なる傲慢な男としてしか描かれていなかったが。

緑は心のマチュリティーが自然に体内にある子である。彼女の人生は決して楽なものではなかったが、彼女には自己への哀れみはなく、むしら人生をたくましく生きて行く太い精神の二本足を持っている。彼女は決してそれを見せびらかさないが、ワタナベはそれを感じ取ってしまう。ワタナベはその意外さに足元をすくわれ、緑を本当に好きになってしまうのだ。その意外さも全く映画では描かれていない。正直言って、映画では直子は「私、濡れていたでしょ!」を繰り返すし、レイコはいきなりワタナベに「私と寝て!」という色情狂のようだし、緑は「う~んといやらしい映画に連れてってね」とねだる。大切な女性が皆、性欲過多のように描かれていて本当に残念だった。小説の中では性というものはもちろん重要な意味を持っているが、それはその背後にある更に重要なものの一環である。この映画はそれすら描いていない。

レイコは、ハツミや直子のように「こだわる」心を持っていたのだが、そのこだわる心を捨てようと決心した女性である。映画でレイコ役の女優がビートルズのノルウェーの森を歌っていたのだが、あまりのひどさにびっくりした。上手下手という以前に心のない歌い方だったからだ。

原作の『ノルウェイの森』はワタナベが川を横切る映画である。しかしそれは簡単な旅ではなかった。川を渡るということは、こちらの岸にある美しいものを捨てるように思われ、それを捨てることは自分自身を捨てると感じてしまうからだ。また川を渡ることは『責任感』の放棄なのでもある。ワタナベにとって『責任感』とは大人の社会で言われる「やらなきゃいけないことをやり、約束を守る」という単純なものではなく、自分を自分たらしめているものであり、それを捨てることは自分の一番大切なことを捨てるとまで思ってしまうものである。しかし結局ワタナベは川を渡ったのだろう。小説を読むと冒頭にそのことが示唆されている。しかし映画はそれには全く触れていない。

一言でいえば、この映画は、原作のエッセンスを表現するために描かなくてはならないディテールは全てカットされ、不必要なシーンが追加されているということである。映像はなかなか美しいのだが、よい映画はそれだけであってはならないはずだ。

English→