[映画]  灰とダイヤモンド Ashes and Diamonds、Popiół i diament (1958年)

この映画は非常にわかりにくい映画である。原作は、ポーランド共産党お墨付きの共産党指導者賞賛の文学であるが、映画化に当たりワイダ監督は主人公の共産党指導者を脇役にして、原作ではほんの端役にすぎない、暗殺を企むゲリラの若い男性を主人公にしている。その若い男はへんてこりんな眼鏡をかけた「チャラ男」であるが、灰にまみれたダイヤモンドのような酒場の女の子と、お互い家族をドイツ兵に皆殺しされたという境遇であるとわかり恋に落ちるあたりから、眼鏡をはずすと、なんとなくジェームズ・ディーンに似ている孤独な美青年に変貌していく。映画がわかりにくいのは、舞台となった時代の政治的状況の複雑さもあるだろうし、検閲を通るために余分な会話を避け、メタフォーを多様していることもあるだろう。

images1共産党政権下のポーランドではもちろん映画の厳しい検閲があった。この映画は、原作の主人公が脇役になっている以外は当局お墨付きの原作に忠実だし、最後にその青年がゴミ捨て場で灰のように死んでしまうのは「は~は~は~、共産党に逆らうとこうなるんだ」という戒めのようでもある。しかし検閲側は何かこの映画に不穏なものを感じ、この映画を許可するかどうか真剣にモスクワと話し合ったという。結局、何一つ具体的に咎めるものがないので検閲に通ったが、この映画のプロデューサーが身の危険を冒してこの映画をベネチア映画祭に提出し、西欧からの圧倒的な評価を得たことにより、共産党政権も「何かわからないが、この映画には反体制の思いがこめられている」と感じたらしい。これ以後、すでに当局から睨まれていたワイダ監督は完全にブラックリストに入れられることになる。

第二次世界大戦下のポーランドの状況はワイダ監督の「カティンの森」に描かれている。政治体制の違いはあっても彼の姿勢は60年間全くぶれていないし、彼は亡命という道も選ばず不遇の時期をポーランドで乗り越える。道理で尊敬されているわけだ。

この映画で共産党の政治家の命を狙っているゲリラは、反独のパルチザンのグループの一員である。なぜ、ドイツに反抗した彼らが、ドイツを追撃したソ連寄りの共産党員を暗殺しようとしているのか、というのは当時の情勢がわからないと理解しにくいだろう。

1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦は独ソ不可侵条約を結んだが、その中の秘密条項には、ドイツとソビエトによるポーランドの分割も含まれていた。翌9月1日、ドイツ軍とスロヴァキア軍が西から、17日にはソ連軍が東からポーランド侵攻を開始した。ポーランド政府はロンドンに亡命し「ポーランド亡命政府」を打ちたて国内のパルチザンを指導するようになる。。ポーランド亡命政府にとって、ソ連は自国をドイツと共に侵略した憎い国であったが、独ソのどちらかを選ばなくてはならず、英国と同盟しているソ連を選ばざるをえなかった。しかしポーランドはカティンの森事件のこともあり、ソ連を信頼してはいなかったのである。

ソ連は、ロンドンのポーランド亡命政府とは別に、自分たちの言いなりになる共産主義者による傀儡政権樹立をを樹立し、英国の支援をうける亡命政府側主導のパルチザンとは敵対した。第二次世界大戦は結局、英独ソの対立であったが、ポーランドでは地理上最もその本当の対立構造が明らかになったのである。ポーランド亡命政府の指示の基に国内のパルチザンは何回か対独蜂起を起こすが、その中でも1944年6月に起こったワルシャワ蜂起がもっとも大掛かりなものであった。これはどちらかというとソ連から呼びかけられた蜂起であったが、肝心な時にソ連軍は蜂起軍への援助を停止した。結局、ドイツ軍とパルチザンの蜂起軍との戦いになった。ヒトラーは、ソ連赤軍がワルシャワを救出する気が全くないと判断し、蜂起軍の弾圧とワルシャワの徹底した破壊を命じたのである。蜂起軍はワルシャワ市民の圧倒的な支持を受け善戦したが、結局蜂起に失敗してしまう。蜂起軍の多くは死亡したが、生き延びたものは地下水道を通って逃亡したのである。ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは破壊され、これ以後蜂起参加者はテロリストとみなされ、パルチザン・市民約22万人が処刑された。蜂起が収まった後、1945年1月にソビエト赤軍はようやく進撃を再開して廃墟のワルシャワを占領した。その後、ソビエト赤軍はパルチザン幹部を逮捕し、ポーランドの独立を願うパルチザンを弾圧して行くのである。

『灰とダイヤモンド』は、1945年にドイツが降伏した後、ポーランドのある町に占領司令官として赴任してくるシチューカ書記を、天涯孤独のパルチザンのマーチェクが指令を帯びて暗殺を企む四日間をえがいている。英米仏の連合国にとってドイツの降伏は幸せな日の第一歩であったが、ポーランドにとっては、次に何が来るかわからない不吉な前兆であったのである。

images2ワルシャワ蜂起の失敗のあとで、英国に支援されるパルチザンはやっと本当の敵はソ連であると認識するようになり、ソ連を攻撃の目標としていた。数少ない生き残りの反共パルチザンは森に潜み、ソ連に対する抵抗をしていたが、もうソ連がポーランドの支配者になるということは明らかになりつつあったので、それは空しい抵抗であった。ワイダ監督の念頭にあったマーチェクのイメージは「理由なき反抗」で世界的なスターになったジェームズ・ディーンであり、マーチェクを演じたズビグニェフ・ツィブルスキにジェームズ・ディーンを研究するように要求している。事実この映画が成功した後でズビグニェフ・ツィブルスキは「ポーランドのジェームズ・ディーン」と呼ばれるようになった。ジェームズ・ディーンとズビグニェフ・ツィブルスキは同世代であり、ジェームズ・ディーンは24歳で交通事故死しているがズビグニェフ・ツィブルスキも39歳で事故死している。和製ジェームズ・ディーンと言われた赤木圭一郎も21歳で交通事故で夭折している。

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[映画]  The Way I Spent the End of the World、 Cum mi-am petrecut sfârşitul lumii(2006年)日本未公開

この映画は、ルーマニアの首都ブカレストに住む17歳のエバの1989年の人生のスケッチである。1989年はルーマニアでは共産党書記長のニコラエ・チャウシェスクが処刑され、共産主義独裁政権が倒された年であるが、この映画は、反抗的で無表情で無愛想で、なげやりでいい加減にみえる(しかし外見は可愛らしくて、ボーイフレンドと話す時だけはちょっと笑顔をみせる)エバが、社会主義政権の有力者の息子アレクサンドラと付き合いつつも、ニコラエ・チャウシェスク暗殺未遂の容疑で両親が行方不明になっているアンドレーにも興味を示し、二人でドナウ川を渡ってユーゴスラビアへの亡命を企む。結局エバは「や~めた」と言って川を横断するのを中断し、一人でブカレストに帰って来て、怒った両親から、一家の立場を安全にするためにアレクサンドラともっと仲良くしてほしいと頼まれる。エバはアレクサンドラが最近購入したぼろアパート(しかしルーマニアの水準では高級アポートかもしれない)に目を奪われる。結局二人は何となく男と女の関係になってしまい、帰宅したエバは得意満面で「私たち婚約したわ!!」と宣言するのだが、その直後に流血革命が起こり、それまで鬱屈として体制の言いなりになっていたかに見える大人たちが、突然嬉々として破壊活動を始める。この映画は流血革命のあと上流階級から滑り落ちたアレクサンドラの一家、無事ユーゴスラビア経由でイタリアに辿りついたアンドレー、得意満面に国際路線の客船搭乗員としてキャリアを追求するエバを短く描いて終わる。

エバは最初から最後まで無表情で傲慢で、彼女の内面は全く描かれていない。政権の中枢を象徴するアレクサンドラと反体制の象徴のアレックスを行き来し、双方のハンサムな若者をそれなりに好きなのだから、ティーンネージャーの愛とはこういうものだろうと思わせる。ソ連の衛星国の中でも後進国のルーマニアの荒涼とした様子、首都ブカレストでさえ荒れ果てており、両親が何をしているのかわからないが、いつも暗鬱な顔をして疲れていて、子供に対する関心もない。暮らし向きは悪くないはずだが、家の中も荒れ果てている感じだし、食事もスープとパンだけという粗末さだ。政治議論は全くなく、政治に係わることも恐れている大人たちだが、その荒廃した日常生活の描写が、行き着く所まで行き着いたルーマニアの独裁社会主義政権の停滞の実態を表し、説明の言葉も必要ない。

ルーマニアの映画界は1980年後半から新しい活動の兆しをみせ、2000年代にはカンヌ映画祭を中心に注目を浴びるようになった。そのテーマは社会主義国から自由経済国家体制への移行や、チャウシェスク体制の批判が中心であるが、編集未完成のようなドキュメンタリー風のミニマリストの作品が多いようだ。これを「新鮮」というか、「アマチュアリズム」というかは議論の分かれるところであるが、洗練された映画技巧を誇るポーランドやチェコやハンガリーの映画を観たあとでは、ルーマニアの映画はまだこれからだという感じがする。カンヌでルーマニア映画が一時もてはやされ、この映画でエバを演じたドロティア・パトレは主演女優賞までもらっているが、これはルーマニアに対する応援という西欧諸国の気持ちもあるのだろう。この映画もストーリが唐突であり、冬と夏が何回も繰り返されるので何年かにわたってのお話だと思っていたら、たった一年である。そのへんの正確さに期すという態度はない。またエバを演じるドロティア・パトレが老け顔で30歳くらいに見え、母親を演じる若作りの女優と全く似ていないし、二人は姉妹か友達という感じに見える。確かに両女優とも結構美人なのだが、これでいいのだろうかと思ってしまう。何となく気分のままに、細かいことに拘らず作った映画という感じで、世界には凝りに凝って作る監督が多い中で、さてルーマニアの映画はこれからどういう方向に行くのだろうかと思わされる。

1989年というのは、中国で天安門事件が起こり共産主義の徹底が強化された年であるが、東欧では比較的平和的に共産主義独裁国家が倒された年でもある。1978年にポーランド出身のヨハネ・パウロ2世がローマ教皇に就任した時は、誰もこれが冷戦の終結に繋がる一歩だとは思わなかっただろうが、実際にヨハネ・パウロ2世が冷戦の終結になした貢献は偉大なものなのではないか。ポーランド人は何か心の中で信じるもの、精神的な希望を感じたのである。同時に現実的でカリスマのある労働運動の指導者レフ・ヴァウェンサ(日本ではワレサと呼ばれた)議長の登場である。彼が『連帯』という言葉で風向きを変えようとした時、東欧を見つめる世界の大半の人間は「ああ、またハンガリー動乱やプラハの春が今度はポーランドで繰り返されるのか」と思っただろう。しかし、ヴァウェンサの態度は異なっていた。彼は非常に二枚腰で柔軟であり、モスクワの反応を用心深く確認しながら一進一退で、非暴力を主張し穏健に辛抱強くポーランドの民主化を進めて行ったのだ。

ハンガリーも同じ「大人の国」であった。もとから、ハンガリーは自国はオーストリアのような精神の先進国であるという自負があった。1985年年にソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ政権が始めた「ペレストロイカ」でソビエト連邦が持っていた東側諸国の共産党国家に対する統制、いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」が撤廃されると、ハンガリーは巧みにこの動きを利用して、1989年5月にハンガリーとオーストリア間の国境を開放した。6月にはポーランドで選挙によって非共産党政権が、そして10月にはハンガリーでも非共産党政権が樹立された。

ハンガリー・オーストリア国境を東ドイツ市民が大挙して集団越境し、オーストリア経由で西ドイツに亡命することが可能になった今、ベルリンの壁の存在意義は喪失した。11月10日にベルリンの壁は破壊されたのである。それはチェコスロバキアやルーマニアにおいて、民主化を要求する市民たちを大いに励ました。チェコスロバキアでは11月17日にビロード革命と呼ばれる無血革命が起こった。しかしルーマニアでは独裁者ニコラエ・チャウシェスクの処刑という血生臭い結果となった。

ニコラエ・チャウシェスクは1967年から1989年までの22年間ルーマニアの独裁者であった。最初はプラハの春の鎮圧に反対してソ連支援の軍隊を出すことを拒絶したり、 ユーゴスラビアと共に親西側の態度を表明し、IMF やGATTに加入し西側経済にも同調し、イスラエルをソ連衛星国の中で唯一承認して外交関係を立ち上げ、東側諸国が軒並みボイコットした1984年のロサンゼルスオリンピックにおいても、ルーマニアは唯一ボイコットをせず参加した。ニコラエ・チャウシェスクは西側諸国では非常な好印象を持たれていたし、国民の支持も高かったのである。しかし残念ながら、権力の座に長くいすぎたようである。彼は次第にルーマニアの国家体制を北朝鮮の朝鮮労働党や中国共産党の方向に向けようとし始めた。

ニコラエ・チャウシェスクの不人気を決定的にしたのは、彼の経済政策の失敗である。西側諸国から人気のあったルーマニアであるから、西側からの資金援助を得ることは容易であったが、これは両刃の刃であった。ルーマニアはその多額の融資の返還に苦しみ、国内経済を犠牲にしルーマニア人の生活が大変貧窮したのである。国内では食糧の配給制が実施され、無理な輸出が優先されたのでルーマニア国民は日々の食糧や冬の暖房用の燃料にも事欠くようになり、停電が頻繁になった。この辺はこの映画でも描かれている。

2012年の「中東の春」ではTwitterによる交信がリアル・タイムで機能し、革命を推進したが、1989年の「東欧革命」ではテレビが大きな役割をしめている。ルーマニアの国民はテレビを通じてハンガリーで、ポーランドで、チェコスロバキアで、東ドイツで何が起こっているかを知ることができた。この様子もこの映画で詳しくうかがうことができる。

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[映画] ブリキの太鼓 The Tin Drum(1979年)

『ブリキの太鼓』は、ドイツの作家ギュンター・グラスが1959年に発表した長篇小説を基にして、フォルカー・シュレンドルフ監督により1979年に映画化されたものである。映画は原作の後半を省いているが、前半はかなり原作を忠実に再現しているという。ギュンター・グラスはこの本を含めて作家としての業績で1999年にノーベル賞文学賞を受賞しているし、この映画自体はカンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞、そしてアカデミー外国語映画賞を受賞している。私は原作を読んでいないので、この映画のみについて書いてみたい。

この映画はガラス板を爪で引っ掻く音を聞かされるような不愉快な映画である。映画の主人公は何らかの理由で体の成長が止まって幼年のままであるが、頭脳や感情は立派な大人である。「この映画は戦争に反対するために成長を止めた主人公の戦争反対の思いである」などというキャッチフレーズはとんでもない。一言で言えば、体が小さいから安心させて好き勝手をして、結構いい目をみて、自分が責任をとらなくてはならない時は子供だからと、のうのうと責任逃れをしている主人公の物語である。主人公はその特異性ゆえに、大人の自分に対する甘さ、自分を利用する大人の狡さを敏感に感じ取ってしまうのだろう。また、主人公は作者ギュンター・グラスの一部を投影しているような気がする。

ギュンター・グラスは小人ではないが、この映画・小説の主人公のオスカルのように、ポーランドとドイツの拮抗の狭間にあった自由都市ダンツィヒで、やはりオスカルのように、ドイツ人でナチス党員の父と少数民族として差別されていたカシューブ人の母の間で生まれていた。オスカルは、仲間の小人たちと小人サーカスに参加してナチスの高官たちを慰問し、結構いい思いをするのだが、実際にギュンター・グラスも若いころはナチスの活動を一生懸命やっていた。それは彼自身もあまり公表したくない過去だったのかもしれないが、彼がそれを告白した時は、ノーベル賞作家で平和支持者のように行動していたギュンター・グラスを理想化していた世界の読者はかなりショックを受けたそうだ。

成功した作家だから即完璧な人間であるわけはないから、それを期待するのは読者の身勝手なのではないだろうか。また真面目に人生を考えて醜い世界を変えようと思い共産主義に染まる若者が嘗て多かったから、理想主義でこの世の中をもっといいものにしようという情熱でナチスに走った純粋な人間もたくさんいただろう。単に過去の真摯な決心を今日的な観点から判断はできないのではないか。この映画は小説の途中で突然終わっているので、聴衆は「不愉快な思いで引きずり回されて、これで終わりなのか?」と思わされてしまう。しかし、原作はその後も続き、相変わらず現実を逃避している主人公がそれなりの成長を遂げ、過去を振り返るところで終わっているそうだ。現実逃避の真っ最中に終わる映画に比べて、その自分勝手な未熟さをもう一つ別の観点で振り返る原作は映画にない深さがあるのではないかと推測する。

この映画が作られた1970年代というのは世界的に迷いの時代であった。冷戦が深刻化しつつも、もはや社会主義が世界を変える唯一の救いだというのが幻想であると大多数の人間が気づき始めたときである。自由主義と社会主義の対立の他に、キリスト教国家とイスラム原理主義国家という新しい対立も芽生えてきた。米英ソがレーガン大統領、サッチャー首相、ゴルバチョフ書記長という現実的な指導者を選び、現実的な解決を探し始めた1980年とは全く違う、「途方に暮れた時代」なのである。甘いハッピーエンドを必ず選んでいたハリウッドでさえ、解決策も救いもなく、絶望的に聴衆を突き放す映画を作り始め、聴衆もそういうタイプの映画が深くて真実だと思い込んでいた時代に、この映画は作られている。40年経った今この映画を見る聴衆はどう思うだろうか。現在の聴衆はもっと心を癒す映画、徹底的に娯楽的な映画、或いは情報があり生き方に肯定的な影響を与えてくれる映画を望んでいるのではないか。この映画がリリースされた時の熱狂的な反応を理解するのはもう難しくなっているのではないかと思われる。

ダンツィヒは、バルト海に接する港湾都市で、ドイツの北東部端を分断しているポーランド回廊にある。この回廊は古来ドイツとポーランドの間で利権を巡り争われた地域であるが、第一次世界大戦でのドイツ敗戦を踏まえて、ドイツから分離されて国際連盟の管轄下に移された。ダンツィヒはベルサイユ条約でポーランド関税領域に組み込まれ、実質的には地続きではないがポーランドと強い関係が結ばれるようになった。ポーランドへ接続されている自由都市の鉄道線はポーランドにより管理されていたし、ポーランドの軍港もあったし、2つの郵便局が存在し,1つは都市の郵便局で、もう1つはポーランドの郵便局であった。この地域の住人は、ポーランド人とドイツ人が大半をしめ、カシューブ人やユダヤ人のような少数民族もいた。

最初はポーランド人の利益を守り、ポーランド国の勢力を伸ばすことが目的で建設されたダンツィヒであるが、次第にドイツ人やナチスの影響が強まり、1933年にナチスが選挙で勝利した後は反ユダヤ、反カトリック(ポーランド人やカシューブ人が対象)の法律が成立することになった。1939年、ダンツィヒのナチス党政府は、ダンツィヒのポーランド人の迫害を本格的に行うようになった。そして1939年9月1日、ダンツィヒにあるグダニスク湾に停泊していたドイツ戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタイン号が何の布告もなくダンツィヒのポーランド軍駐屯地に激しい艦砲射撃を開始して、第二次世界大戦が始まったのである。

ポーランド軍はポーランドの郵便局を要塞として抵抗した。ポーランドの郵便局はダンツィヒ市域ではなくポーランド領と見なされており、ポーランドへの直通電話の回線が引かれていた。従業員は大戦以前から武装し、また銃撃の訓練を受けていたといわれる。またここはポーランドの対独秘密情報組織が密かに活動していたという説もある。しかし彼らの必死の防戦もドイツ軍の攻撃には歯が立たず、結局郵便局のポーランド民軍は降伏した。

第二次世界大戦は、ダンツィヒでは非ユダヤ系ポーランド人住民の大半がドイツ民兵である自衛団等により虐殺され、ユダヤ系住民はホロコーストの対象となり強制収容所へと送られた。1945年3月、ダンツィヒはソ連赤軍により解放された。映画でオスカルの母がカシューブ人でドイツ人の夫とポーランド人の愛人の間を行ったり来たりするのは、そのダンツィヒの人種闘争を象徴しているのだろう。オスカルの実際の父はポーランド人の男である可能性が強いが、戸籍上では彼はドイツ人の子供なので、戦後オスカルは命からがらドイツに逃げ出すが、彼の祖母はダンツィヒに残り、オスカルと生き別れになる。祖母はカシューブ人なので、ドイツに受け入れてもらえなかったからである。

現代のダンツィヒはポーランド領でありグダニスクと呼ばれている。第二次世界大戦で殆ど廃墟になったが、現在は市民の努力にようり歴史的町並みが再現され、美しい街であり観光でも栄えているという。

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[映画]  カティンの森 Katyń (2007年)

現在のこの時点で「観て良かったと思う映画を一本だけ選ぶとしたら何か?」という問いに、私が迷い無く選ぶのがポーランド映画 『カティンの森 Katyń』である。映画としてもかなり高水準だが、この映画を観なければ決して知りえなかったであろう情報を提供してくれる。この映画に対して、心から感謝したい。

東のロシア、西のドイツに挟まれた‎ポーランドは、歴史的に両国の勢力争いの犠牲になるという悲劇を持つ。1939年9月、 ドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦が勃発した混乱を利用して、ソ連はポーランドの東部に侵攻した。同時に秘密裏に独ソ不可侵条約が結ばれ、ポーランドは、ドイツとソ連に分割占領されることになったのである。西からドイツ軍に追われた人々と、東からソ連軍に追われた人々は、ポーランド東部のブク川で鉢合わせになり、ソ連軍から逃げて来たポーランド人はドイツから逃げて来たポーランド人に危険だから西に戻れと言い、ドイツ軍から逃げて来たポーランド人は逆のことを言う。個々の人間が自分の運命を瞬間的に決定しなければいけなかった。

ポーランド政府はロンドンへ脱出し、ポーランド亡命政府を結成した。ポーランド軍人は速やかに独ソ両軍からの命令に応じ、ドイツ軍とソ連軍に平和的に名誉の降伏をした。ドイツ軍は国際法に則りポーランド兵を釈放したが、ソ連軍はそうではなかった。『カティンの森』はソ連軍に降伏したポーランド兵が辿った運命を描く。

1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランド亡命政府とソ連は条約を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、攻ナチのポーランド人部隊が編成されることになった。しかしその時点で捕虜になった兵士の90%以上が行方不明になっており、ロンドンのポーランドの亡命政府の追求に対し、ソ連側はポーランド兵士はすべてが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。

しかし1943年4月、不可侵条約を破ってソ連領に侵攻したドイツ軍は、元ソ連領のカティンの森の近くで、2万人近くのポーランド兵士の死体を発見した。ドイツは、これを1940年のソ連軍の犯行であることを大々的に報じた。その後ドイツが敗北し、大戦が終結した1945年以後、ポーランドはソ連の衛星国としてソ連の支配下に置かれた。ソ連はカティンの森事件は実はドイツ軍の仕業であったと反論し、大々的な反ナチキャンペーンを行い、その後ソ連支配下のポーランド人が事件の真相に触れることはタブーとなった。

この映画は、ソ連支配が始まった後、ナチスドイツに対する憎しみと身の安全の追求のため、人々がソ連に靡いて行く中で、カティンの森事件の被害者の親族で真相を明らかにしようとしてソ連占領軍に対抗した少数の人々の悲劇も併せて描く。

監督のアンジェイ・ワイダは父をカティンの森事件で虐殺された。彼は『地下水道』『灰とダイヤモンド』『大理石の男』などで世界的な名声を獲得したが、同時にその反ソ的姿勢から、ポーランド政府から弾圧を受けた。彼はカティンの森事件の映画化を50年以上の長きに渡って構想していたが、ベルリンの壁の崩壊以前ではそれは不可能であり、2007年に最終的にこの映画を作製した時は既に80歳であった。「カティンの森で何が起こったかを伝えるまでは死ねない」という怨念が伝わってくるような映画である。この映画で私たちが記憶しなくてはならないのは次の3点であろう。

まず犯罪である。戦争は人と人が殺しあうという異常な極限状態ではあるが、その中でも普遍的なルールがある。まず非戦闘要員(civilian)は絶対に意図的に殺害してはいけない。そしてたとえ戦闘要因であっても、降伏した兵士に対しては人間的な扱いをしなければならない。しかし、スターリンの指令の下で捕虜の収容を担当していた内務人民委員部(NKVD)はポーランドの兵士を個々に尋問し、すこしでも反共産主義の考えが感じられた兵士は容赦なく殺害したのである。

次は嘘である。ドイツがカティンの森での死体を発見した後、ジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査の依頼がなされたが、ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は調査団派遣を断念した。1943年4月24日、ソ連は同盟関係にあったポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求したがポーランド亡命政府はそれを拒否し、ついにソ連は亡命政府との断交を通知した。大戦に勝つためにソ連の助けが必要と信じる連合国軍は、ソ連を直接非難することは許されなかった。1944年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集するためにジョージ・アール大尉を密使に任命した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触して情報を収集し、カティンの森虐殺はソ連の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールはその後任務からはずされ、サモアの任務に更迭された。こんな同盟国のお国の事情を背景に、ソ連は虐殺はナチスドイツの許されざる犯罪であるという偽りの見解を50年に渡り維持し続けたのであった。

最後に私が強調したいのは、戦勝国の傲慢である。

1946年の、ニュルンベルク裁判においてナチスドイツの罪は裁かれた。戦勝国のソ連はこの機会を利用して、カティンの森での虐殺の首謀者としてドイツを告発しようとまでしたが、さすがにアメリカとイギリスはソ連の告発を拒絶した。その後この事件の責任について、西側でも東側においても議論が続けられたが、ポーランド国内では、支配者であるソビエト連邦に対する怖れにより誰も真相を究明することは許されなかった。この真相を問われることのない状態は1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで継続し、若い世代はカティンの森の虐殺があったということも知らされることはなかった。

カティンの森事件の被害者の人権が最終的に認められたのは、1989年のソ連の自由化開始後であった。1989年、ソ連の学者たちはスターリンが虐殺を命令し、当時の内務人民委員部長官ベリヤ等がカティンの森虐殺の命令書に署名したことを明らかにした。1990年、ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。1992年のソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最終的にカティンの森事件の公文書を公にし、ここで遂に50年に渡ったソ連の嘘が始めて公に証明されたのである。

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[映画]  危険なメソッド A Dangerous Method (2011年)

私達は誰でも心理学者のフロイドとユングの名前は知っているし、フロイドの夢診断のことも知っている。しかし、二人の療法の詳細は心理学でも勉強しない限りはわかりようがないし、この二人の関係とか二人を生み出した当時の状況というのは案外知られていないのではないだろうか。この映画はフロイドとユングの友情とその決別、そして二人に師事した女性精神家医ザビーナ・シュピールラインとの関係を描く。

ザビーナはロシアの西端にあるロストフに住む富裕なロシア系ユダヤ人の家族に生まれたが、精神病を患い1904年にスイスのチューリヒ近郊のブルクヘルツリ精神病院に入院した。ここで彼女を治療したのが若い精神科医のユングであった。ユングはルター教会牧師の息子であり、富裕な出自の妻を持ち、真面目で身持ちの堅い、そして美しい風貌と知性に恵まれた男性だったが、同時に第六感的能力のような超自然的直感の鋭い男でもあった。彼は、ザビーナも自分のような鋭い直感を持ち、また非常に優秀な頭脳の持ち主であることがわかる。ユングの治療によりザビーナの病は治癒し、彼女は大学の医学部に進学し精神科医をめざすようになる。

ユングは、ジークムント・フロイドがザビーナの症状に似た患者を、当時革新的であった無意識の解明という観点から治療しているのを知り、1907年頃から親交を結ぶようになった。フロイトはユングのことが気に入り、自分の弟子で精神が病んでいるオットー・グロスの治療を依頼する。個人セッションで彼を治療しているうちに、オットーの退廃的な人生観は優等生で道徳的に一夫一妻制度に凝り固まっていたユングを激しく揺さぶり、ユングは自分に正直であろうとして、ザビーナへの愛を認め、彼女と愛人関係になる。またザビーナの卓越な知性はユングの理論に大きな影響を与えていく。

しかし1913年あたりから、ユングとフロイドは袂を分かつことになる。フロイトはユングの超能力への傾倒はオカルトであり、学問としての心理学から離れていくと怖れ、逆にユングは夢判断をすべて無意識の性への願望に結びつけるフロイドに疑いを持ち始める。それ以後二人は学者として敵対することになる。同時に精神科として成長したザビーナは愛人以上の関係をユングに求め始め、それが原因で二人は別れることになる。ザビーナがユングの後自分の師として選択したのは、フロイドであり、フロイドは自分とザビーナは同じユダヤ人なので、よく理解できると彼女に述べる。しかし、ユングがザビーナの後に選んだ愛人はやはりユダヤ人のトニ・ウルフであった。この映画はユングとフロイトが決別する第一次世界大戦前夜で終わっている。

フロイドがユダヤ人であったということが、ユングとフロイドの関係を興味深いものにしている。1911年にはフロイドとユングが中心になり国際精神分析協会が設立されたが、その初代会長になるのはフロイトでなくユングであるのは、ユダヤ人以外を会長に選ばなければならなかったからだといわれている。フロイトはアシュケナジー(東欧系ユダヤ人)であり、当時はアシュケナジーは大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ研究に勤しんでいた。

アシュケナジーとは、ユダヤ人の中でドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々を指す。もう一つのグループ、中東に居住していたユダヤ人はセファルディムと呼ばれる。アシュケナジーは当初は、ヨーロッパとイスラム世界とを結ぶ仲買商人だったが、ヨーロッパ・イスラム間の直接交易が主流になったこと、ユダヤ人への迫害により長距離の旅が危険になったことから、定住商人へ、さらにはキリスト教徒が禁止されていた金融業へと移行した。シェークスピアの『ベニスの商人』ではアシュケナジーの商人が登場する。アシュケナジーは1290年には英国から、1394年にはフランスから追放され、東欧へ移民して行った。彼らは神聖ローマ帝国では迫害されたが、ポーランド王国では既に1264年に「カリシュの法令」によりユダヤ人の社会的権利が保証されていたのでポーランドはユダヤ人にとって非常に住みやすい安全な国となった。経済的にもポーランド王国は専門職移民であるユダヤ人を経済的な利益があるとして歓迎したのである。ユダヤ人はポーランドを基点としてさらに東方のウクライナやロシアに移って行った。

1938年、アドルフ・ヒトラー率いるナチスがアシュケナジーの学者を精神科医の学会から追放した時、ユングは学会の会長であり、自分が永世中立国の住民であるという立場を生かし、ドイツ帝国内のアシュケナジー医師を受入れ身分を保証することを決定し、フロイトに打診した。しかし、フロイトは「自分の学問の敵であるユングの恩義を’受け入れることは出来ない」と言って援助を拒否した。フロイト自身はその直後にロンドンに亡命したが、亡命できなかったアシュケナジーの医師たちは仕事を失い、大部分は強制収容所のガス室に送られ殺されたのである。

ザビーナについては、彼女は1912年、ロシア系ユダヤ人医師パヴェル・ナウモーヴィチ・シェフテルと結婚し、ベルリンで暮らした。第一次世界大戦中はスイスで暮らしたが、ロシア革命後の1923年、ソヴィエト政権下のロシアに帰国し、モスクワにて幼稚園を設立した。しかし1942年に故郷ロストフにて、侵攻したナチの手で殺害された。

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[映画] ソハの地下水道 In Darkness W ciemności (2011年)

この映画は、ナチス・ドイツに支配された1943年の旧ポーランドの街リヴィウ(或いはリヴォフとも表記される)で、ユダヤ人を地下に匿ったリヴィウ市の下水道整備工ソハの実話を基にしている。ソハは、地下の下水道でナチスの迫害から逃れて潜んでいるユダヤ人たちに出会う。日当を貰うという約束ででユダヤ人に食料を運び、彼らを助けることになったが、ソハの行動は自分だけではなく家族の命を危険にさらすことになっていく。

映画ではドラマ性を持たせるために、ソハは窃盗などをする小悪党で、ユダヤ人を匿ったのも最初は金目当てであり、妻からユダヤ人を助けるのには反対されていたが、彼らを匿る過程で、次第にユダヤ人への同情がわき、ユダヤ人たちが財産を全部使い果たした後は無料で、自分の命を冒してまで彼らを助けたように描かれている。しかし、私がいろいろ関係した情報を調べていく中で、それは必ずしも事実ではなかったかもしれないという気がしてきた。彼は最初からユダヤ人に同情的で、妻や友人と力を合わせて、自分の意思で彼らを助けたという可能性がある。金銭を受け取ったのは、ソハも非常に貧しい生活を送っており、他人を助ける余分のお金は持ち合わせていなかったので、ユダヤ人の食物を買うためには彼らの金が必要だったのではないか。後にユダヤ人のお金が尽きた時、彼は自分のお金で食物を買って彼らに提供している。こういう生活が14ヶ月続いたのだ。

どちらが真実かはわからないし、それは重要なことではないだろう。重要なことは、何故自分と家族の命を失う危険を冒してまでソハはユダヤ人を助けたのであろうかということたろう。それを私なりに考えてみたい。

ソハが住む町リヴィウはポーランドの中でも東端で、古来から西のポーランド王国と東のキエフ公国の間で争奪が繰り返されていた地域である。17世紀まで、リヴィウはウクライナ・コサックやオスマン帝国などの相次ぐ襲撃を受け、1704年には大北方戦争でカール12世の率いたスウェーデン軍に占領され、町は破壊された。

1772年の第1回ポーランド分割によって、リヴィウはオーストリア帝国の支配下に置かれた。オーストリア帝国政府はドイツ化を強く推し進め、公用語はドイツ語とされた。それを憎むポーランド人は1848年には民衆蜂起を起こし、その後ポーランド人は徐々に、この地で自治を認めらるようになった。リヴィウはポーランド文化の中心地でもあったが、同時にここにはウクライナ人も居住し、ロシア帝国に支配されている他のウクライナ地方と違い、ここでは、ウクライナ文化も守られていた。第二次世界大戦でのオーストリアの敗北の後1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が消滅すると、西ウクライナ人民共和国の独立が宣言され、リヴィウはその首都とされた。

それに対してポーランド人の住民が蜂起し、ポーランド・ウクライナ戦争が起こった。戦闘は本土からのポーランド軍の全面的支援を受けたポーランド人側の圧勝に終わり、再びリヴィウにポーランドの支配が復活した。ウクライナ人民共和国のディレクトーリヤ政府は、リヴィウにいるウクライナ人の味方につかず、自分の背後にあるロシアの赤軍に対抗するために、ポーランドからの協力をとりつけた代わりに、ポーランドのリヴィウに対する支配を認めた。

1920年に革命に成功したソビエト赤軍がリヴィウを襲った。ポーランドは武装した住民が赤軍を撃退し、ウクライナの意向を無視してソビエト側との講和に入った。これは反ソという原理で同盟を結んだウクライナ人民共和国に対する裏切りであった。

これらの複雑な情勢を簡単にまとめると、リヴィウでは古来からポーランド人とウクライナ人の対立があり、ウクライナ人はロシア、そして革命後のソ連とは天敵であった。反対にポーランド人は古来からドイツ人に対しての憎しみがあった。ウクライナ人はリヴィウでの覇権を得るためにドイツ人と結託し、ポーランド人は逆にロシア人と結びついたということである。

第二次世界大戦において、ドイツは1939年9月1日にポーランドに侵攻し、リヴィウは9月14日にドイツ軍に占領された。その後リヴィウは短期間ソ連に占領されるが、結局ドイツがこの地を占領することになる。ドイツ軍は共産主義者とユダヤ人を壊滅することを目的とした。リヴィウのウクライナ人の一部は、反ソ親ナチの運動を起こしナチに協力した。ドイツ占領の中で、ポーランド人は苦しい生活を迫られる。映画の中でポーランド人たちがドイツ兵を殺したという容疑で何人も処刑されているシーンがでてくるが、ポーランド人にとってナチによるユダヤ人の迫害は『明日は我が身』であると思われたのであろう。そこには共感がある。しかし、それでも危険を冒してユダヤ人を守ったソハの決心の源泉を測ることはできない。

第二次世界大戦後、一帯はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土とされた。その際に、ポーランド人の住民の大部分がポーランドに逃亡した。

1945年、第二次世界大戦の終了直後、ソハが彼の娘と一緒に自転車に乗っている時、ソ連の軍トラックが彼の娘に向かって進んできた。娘をトラックから守ったソハは、トラックに轢かれて死亡した。彼の葬式で「彼が死んだのは、ユダヤ人を匿まって、神の怒りに触れたからだ。」と言った人もいたという。映画をドラマチックにするために、ソハは卑小な人間として描かれているが、私はそれを信じない。彼がどういう人間だったかというのは私には問題でない。彼が何をしたかというのが大切であり、この映画によって人々は彼のことを語り続けるだろう。

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