[映画] 屋根の上のバイオリン弾き Fiddler on the Roof (1971年)

当時帝政ロシア領であったウクライナに生まれたユダヤ人作家ショーレム・アレイヘム(1859年生まれ)が1894年に書いた短編小説『牛乳屋テヴィエ』が、1961年にブロードウェーで『屋根の上のバイオリン弾き』というミュージカルとして上演され、大ヒットになった。このミュージカルはノーマン・ジュイソンの監督とプロデュース、ミュージカルの脚本も担当したジョセフ・スタインの脚本で、1971年に映画化されたのである。村の牛乳屋のテヴィエとその5人の娘のうちの上の3人の結婚と、帝政ロシアの迫害により一家が故郷を追われてアメリカに移住するまでを描く。

この映画の大きなテーマは二つある。一つは、原作の小説にあるように、伝統を守ってその共同体で平和に暮らすユダヤ人の家族が、娘の結婚相手の選択で新しい時代に対応せざるを得ないという時の流れである。監督のノーマン・ジュイソンは後にインタビューで映画に対する聴衆の反応を聞かれて、(インタビューアーはニューヨークでの反応を念頭においてこのような質問をしたのだろうが)彼は自分の日本での経験を語っている。彼は日本で繰り返し「顔と洋服を取り去ってみれば、この映画で描かれているのは、今日の日本そのままだ」という聴衆の反応を受け、「日本人の聴衆は本当に理解力のある素晴らしい人たちであり、この映画が心から彼らに受け入れてもらったと思う」と語っている。1971年に来日して、その後20年たってもまだ日本の聴衆の反応が監督にとって印象に残っているのであり、その好印象を問わず語りに語っているのである。

たしかに60年70年代の日本はこの映画が描いている世代断絶が大きな問題になっていたのではないか。その当時は世界的に政治的変革の時ではあった。しかし日本では、「仲人によって身近な人とお見合いで結婚する」というそれまで絶対的な結婚の原則が崩れかけてきたのがこの70年代だったのである。それまで家柄の釣り合いだけで考慮していた結婚相手も、高度経済成長の中で、「経済力」という新しい要素も加わったし、女性も自分が好きな人と結婚したいと望むようになった。要するに、親も「家柄」「経済力」「愛情」という三つの矛盾するかもしれない条件の中で迷い、「経済力」とも関連する「学歴」と「職業」という考慮も入ってくるし、「愛情」に関する「外見」や「人柄」への考慮も入ってくる。親はその中で何が一番大切なのかを選ぶ確固たる基準がなかった。「高学歴だが低収入」と「すごい学歴ではないがそこそこの金持ち」のどちらを選ぶかとか、「家柄の低い成金」と「衰退した良家の子弟」のどちらが価値があるのかとか、その場その場であちらを選び、こちらを選びという感じで、全くこの映画の父テヴィエと同じである。結局長女は、仲人が押し付けようとした「金持ちだが卑しい職業とみなされていた肉屋の年老いた男」より、自分が好きな貧しい若い男と結婚する。次女は村で一番身分が高い聖職者の息子に憧れるが、結局教育を受けた自分の家庭教師である青年に心ひかれ、彼が革命運動の罪でシベリアに流刑になると彼と行動を共にして、シベリアに流れて行く。三女はユダヤ人ではない男と駆け落ちをして、ギリシャ正教の教会で式を挙げてしまう。長女次女の行動はそれなりの理由をつけて許したテヴィエも、三女の結婚だけは許すことができないのである。日本では混乱した結婚相手の条件も現在では「三高」(高身長、高学歴、高収入)に簡便化しているようだが、50年前の社会的過渡期ではそれほど単純ではなかったのである。また現在では、「お見合い結婚制度」などもう死んでおり、それがあったということも知らない世代がいるのではないだろうか。

もう一つのテーマは、ミュージカル・映画化で加えられた、帝政ロシア末期におけるユダヤ人への迫害である。ユダヤ人への迫害はロシア語でポグロムといわれる。これは誰が行ったと特定されるものでなく、その時その時で不満を持った人々が一揆や反乱を起こした際にユダヤ人が巻き添えで襲撃されたこともあるし、1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、ロシアで反ユダヤ主義のポグロムが起こったりもした。『戦艦ポチョムキン』でも当時の根強い反ユダヤ人主義が見てとれる。このポグロムは、帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したので助長されることになり、1903年から1906年にかけて激化し、ユダヤ人の海外逃亡が続いた。この映画の原作者ショーレム・アレイヘムも1905年にアメリカに亡命している。映画監督の スティーブン・スピルバーグの一族もウクライナのユダヤ人であったが、第一次世界大戦が始まる前にアメリカに移住している。たぶん、ショーレム・アレイヘムもスティーブン・スピルバーグの祖先も同じ時期に同じ理由でアメリカに移住してきたのだろう。

『牛乳屋テヴィエ』がミュージカル化で『屋根の上のバイオリン弾き』という魅力的な題名に変わっているのは、ユダヤ人の画家シャガールの絵に触発されたと言われている。ローマ帝政期にローマ皇帝ネロによるユダヤ人の大虐殺があった時、逃げまどう群衆の中で、ひとり屋根の上でバイオリンを弾く男がいたという故事を描いたシャガールの絵にちなんでこの題名が付けられたという。マルク・シャガールは1887年、ロシア帝国領であったベラルーシ(ウクライナの北隣)に生まれた。彼は1922年にフランスに移るが、1941年にはナチスの迫害を避けてアメリカに移住した。結局彼は第二次世界大戦後フランスに戻り、その地でフランス人として暮らし、その一生を終えるのだが。『牛乳屋テヴィエ』が『屋根の上のバイオリン弾き』と変わったとき、この原作にもっと社会的な要素が加えられた。

Fiddler_chagallこの映画の魅力はもちろん、その美しい音楽(「サンライズサンセット」などの名曲)やロシアの当時のユダヤ人の共同体の生活を見事に再現したシネマトグラフィーであろう。ノーマン・ジュイソンは映画会社から予算の関係上アメリカでロケをしてほしいと依頼されたが、厳しい予算にも拘わらず当時の雰囲気を残すユーゴスラビアでロケをすることを選んだと言う。しかし最大の魅力は世界情勢につれて移って行く価値観の違いにも拘わらず、それを受け入れつつもなお変わらず伝統の価値を保っていくテヴィエの生き方であろう。それは、コミュニティーで助け合い、同時に何が起こっても父として、家長として家族を守るという決意である。何百年も宗教の違いを超えて地域のコミュニティーの中で平和に生きてきた人々、助け合いの伝統はそんな安心感を基盤にして育ち、受け継がれて来たのである。テヴィエが生きたのは、不幸にもそんな伝統が覆されるような政治的変革の時代であった。善き人の心にある豊かな伝統が時代に踏みにじられるのが哀しいのである。

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[映画]  戦艦ポチョムキン Battleship Potemkin (1925年)

『戦艦ポチョムキン』は、1905年のロシア帝国支配時に起こった水兵の反乱を、ソ連政権下の1925年に、共産革命の栄光の第一歩として描くプロパガンダ映画である。そのあまりのプロパガンダぶりには唖然とするが、同時に1925年にこれだけの斬新な映画を作ったセルゲイ・エイゼンシュテイン監督の鬼才にも唖然としてしまう。

ロシア帝国は、不凍港を求めて常に南下政策を採用し、1878年の露土戦争の勝利によってバルカン半島における権威を獲得した。ロシアの拡大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、ロシアの勢いを牽制することに成功した。これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになり、その結果として1904年に日露戦争が起こったといえよう。アジアに権益を持つイギリスは、ロシアのアジア進出を怖れ、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行ったが、独英に苦い思いを持つフランスは露仏同盟を結んで、両国に対抗した。日本側は当時は日本に好意的であったアメリカ合衆国の大統領セオドア・ルーズベルトに和平交渉を依頼したが、ロシア側は当時無敵を誇っていたバルト海に本拠を置くバルチック艦隊を送ることを決定し、ルーズベルトの和平交渉を拒否した。

バルチック艦隊は7ヶ月に及びアフリカ大陸沿岸を巡回して日本へ向かった。アフリカの英独植民領からの食料や燃料支給の拒否は予想していたが、頼りにしていた仏領からの支援もままならず、大変苦しい航海を続けなければならなかった。実はイギリスとフランスは日露戦争開戦直後の1904年4月8日に英仏協商を結んでいたのである。1905年の5月27日に連合艦隊と激突した日本海海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失い、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受け、この海戦は日本海軍の一方的な圧勝に終わった。時を同じくして6月14日に黒海に駐留していた戦艦ポチョムキンで水兵の反乱が起きたので、ロシアも早期に日露戦争を終結する必要に迫られるようになった。

ロシアは露土戦争以前の1821年に勃発したギリシア独立戦争で、ギリシャのオスマン帝国からの独立を支援し、単独でトルコと開戦し勝利を収め、1829年のアドリアノープル条約で黒海沿岸地域をトルコから割譲し、ロシア船舶がボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡を自由に通行することを承認させた。ロシアの南下をおそれた英仏は1840年にロンドン会議を開き、1841年の国際海峡協定で、ロシアの船舶のボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡の通行は廃棄された。つまり、ロシアの軍艦は両海峡を越えて地中海に出ていくことが国際的に禁止されたのである。だから黒海にあるロシア海軍艦隊は日露戦争の時も出兵ができなかったのである。ポチョムキンはその黒海艦隊の一つであった。

この映画では、ポチョムキン艦上で水兵による武装蜂起が発生し、反乱を起こした水兵たちは士官を処刑して革命を宣言し、ウクライナの港湾都市オデッサに向かう。ポチョムキンを歓迎するオデッサの市民に対し、政府軍によるオデッサ市民の大虐殺が起こり、ロシア政府軍艦隊がポチョムキン鎮圧のために向けられる。しかし、政府軍艦隊の水兵たちはポチョムキンの水兵たちを兄弟と呼び、心を通わせるところを描き、革命の端緒の反乱を栄光を持って描く。しかし、この映画、どこまで事実を反映しているのだろうか。

まず映画史上に残る名場面と絶賛されるオデッサの階段の虐殺は史実ではないらしい。この階段自体は実際にオデッサにある、不思議なデザインの階段である。階段に立って下を見下ろす人には踊り場だけ見えて階段は見えない。しかし階段を下から見上げる人には、階段だけ見えて、踊り場は見えない。海から階段を見上げると階段が実際より長いように見せ、陸から階段を見下ろすと下までの距離は短いように思われる。このオデッサの階段の虐殺のシーンがあまりにも古典として定着されてしまったので、歴史上の史実のようになってしまったのだ。オデッサの当局はポチョムキンの行動には否定的で、ポチョムキンが停泊することを許可しなかった。

ポチョムキンを鎮圧しに行った艦隊がポチョムキンに砲火しなかったのは事実である。司令官代理に任命されたクリーゲル海軍中将は、自分が率いる鎮圧艦隊の中の水兵にはポチョムキンの反乱に賛成している者が多く、ポチョムキン砲火の命令をすると、自分の生命が危ういどころか全鎮圧艦隊の水兵が反乱を起こすことを感じ取り、何らの行為もせずポチョムキンから離れたのである。鎮圧艦隊の水兵たちは上官たちから禁じられていたにも拘らず、甲板上に出て接近するポチョムキンに歓声や挨拶を送った。何と、そのうちの一艦である装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツの水兵たちは自分たちの上官をたちを逮捕し、ポチョムキン蜂起に合流したのである。もう一つの戦艦シノープでは、ポチョムキンへの合流に賛成する派閥と反対派閥とが議論し、後者が勝ちポチョムキンへの参加は起こらなかった。

ポチョムキンで反乱した水兵たちは、その後どうなったのか?

ポチョムキンのもとに留まった装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツでは、すぐに水兵たちのあいだでの仲間割れが生じた。叛乱へ安易に同調したことを後悔した者たちが艦長や士官らを釈放し、翌日には叛乱の首謀者68名を引き渡した。オデッサから停泊を拒否されたポチョムキンはルーマニアのコンスタンツァに到着したが、ルーマニア政府はポチョムキンに必要物資を提供するのを拒んだ。ポチョムキンの水兵はルーマニアで降伏し、戦艦ポチョムキンはルーマニア政府によりロシア政府に返還された。大部分の水兵は政治犯としてルーマニアに亡命することを選び、1917年にロシア革命で共産党政権が樹立するまでルーマニアに留まった。また何人かはそこからさらに海外逃亡を図った者もいる。彼らの逃亡先はアルゼンチンなどの南米であり、またトルコ経由で西欧に向かった者もいた、

映画の中のオデッサの市民の反政府デモのシーンでは「処刑執行人、専制政府、ユダヤ人をやっつけろ!!」と叫ぶ市民が、「仲間で喧嘩をするのはよそう」となだめるユダヤ人をリンチするシーンまである。そのユダヤ人は金持ちそうで、憎たらしく描かれている。この映画を作製したセルゲイ・エイゼンシュテインがユダヤ人であるということを考えると、全く驚くが、これが当時のロシア人のユダヤ人に対する感情だったのかもしれない。

『戦艦ポチョムキン』の大成功により、セルゲイ・エイゼンシュテインはハリウッドに招かれ1930年からアメリカで暮し、ウォルト・ディズニーやチャーリー・チャップリンと親しく交際するようになるが、彼の映画人としてのアイディアはハリウッドで活用されることはなく、結局彼は一つの目に見える業績もなくソ連に戻ることになった。一体彼はアメリカで何をしていたのだろうかとすら思う。

セルゲイ・エイゼンシュテインが帰国した時にはスターリンの大粛清が始まり、その粛清が芸術家にも及んでいた時であった。セルゲイ・エイゼンシュテインは完璧には社会主義リアリズムに合致しない芸術味豊かな映画を作り、またアメリカに長期滞在していてアメリカ人の友人も多かったのでスパイ罪の嫌疑がかかってもおかしくない状況であったが、彼はこの粛清も無事乗り切ったようで、どういうわけか彼の上司にあたるボリス・シュマトスキーが粛清にあい、処刑されている。ここには何故か大きな暗黒の疑問符が漂っているのである。

第二次世界大戦後、セルゲイ・エイゼンシュテインと親友だったことから、ウォルト・ディズニーやチャーリー・チャップリンはマッカーシー上院議員が権限を持って遂行した「赤狩り」の容疑者に挙げられる。ウォルト・ディズニーは無実を勝ち取ったが、チャーリー・チャップリンは結局国外追放となったのである。

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[映画] 火の馬 Shadows of Forgotten Ancestors (1964年)

嘗て、名作と謳われ欧米で数々の賞を受賞したこの映画が、すでに忘れられDVDの入手も困難になっている。嘗て国際的な巨匠と言われたこの映画の監督セルゲイ・パラジャーノフも忘れられかけている感がある。この映画は作成当時は、親友のアンドレイ・タルコフスキー監督(『僕の村は戦場だった』)と並ぶ斬新な手法で観る者を驚かせた。しかしその斬新な手法が各国の後輩監督に学習・模倣されて多用されたので、今日から見るとその新しさの価値がわかりにくいこと、ソ連でのこの映画の評判が悪かったこと、またセルゲイ・パラジャーノフがソ連の政権下での政治的抑圧で葬られた犠牲者の一人であったこともその原因であろう。

セルゲイ・パラジャーノフはジョージア(日本ではロシア風にルジアと呼ばれることが多いが、ジョージア政府は英語風にジョージアと呼ばれることを国際的に要求している)に1924年に生まれ、モスクワの国立映画大学で映画製作を学んだ。彼は人種的にはアルメニア人である。

ジョージアは黒海とカスピ海を繋いで走るコーカサス山脈の南麓にあり、北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来より数多くの民族が行き交う交通の要所であり、ロシアの南下政策の要点として重要視され、1783年のギオルギエフスク条約により、ジョージア東部はロシア帝国の保護領となった。ジョージアは敬虔なギリシャ正教の国で、ロシアの南下を恐れるトルコやペルシャなどのイスラム国がジョージアに侵攻してくるのを防ぐためにロシアの援助が必要であった。つまり、ロシアに頼るのは、ムスリムの勢力と共存するコーカサス地方において、ムスリムを推す南部のペルシアやトルコの脅威から身を守るために必要な決断でもあったのだ。1801年には内戦をきっかけにジョージアはロシアに併合された。その後1832年にジョージアの貴族がロシアの支配を覆す企みを起こしたがロシア側に鎮圧された。ロシア革命の勃発に際して、ジョージアはロシアからの独立を宣言するが、ソ連により鎮圧され、ジョージアはソ連の一共和国となった。スターリンがジョージア出身ということもあり、ジョージアは1991年に独立宣言をするまでは、ソ連中枢部に対して比較的従順な態度を取り、ソ連の問題児とはみなされていなかった。

セルゲイ・パラジャーノフはウクライナ人の女性と結婚しウクライナを中心に芸術活動を続けるが、次第にその前衛的な作風が反体制的とみなされ、ソ連社会主義政権からの弾圧を受けるようになった。ソ連では、社会主義リアリズムの手法を取り、なおかつ社会主義を礼賛する映画のみが許されており、セルゲイ・パラジャーノフのような前衛的でシュールレアリスムな映画は退廃的で何かを隠している危険な映画だと見なされたのである。この『火の馬』は世界的な絶賛を浴びたが、ソ連内では不評であった。セルゲイ・パラジャーノフは次第に政府当局から弾圧され、1974年には同性愛の罪で投獄されるに至った。彼の投獄に対して、フェデリコ・フェリーニ、ロベルト・ロッセリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールといったヨーロッパ中の映画人が抗議運動を展開して、彼は3年後には釈放されたが、その後もソ連当局の執拗な弾圧を受け、映画を作製することも不可能になった。こういった過酷な状況の中、彼はその後、アルメニアに移住することになった。

『火の馬』の原作はムィハーイロ・コツュブィーンシクィイによる『忘れられた祖先の影』である。ムィハーイロ・コツュブィーンシクィイは、1864年、当時ロシア支配下であったウクライナに生まれたウクライナ人であり、ロシア帝国の下でウクライナ文化が厳しく弾圧された時代にウクライナの伝統文化に基づいた文学運動を行った。当時西ウクライナはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあり、そこではロシアよりもウクライナ文化活動が許されていたので、彼は西ウクライナを中心に本を出版した。セルゲイ・パラジャーノフ監督はウクライナ人ではなかったが、ウクライナ文学復興運動に身を奉げたムィハーイロ・コツュブィーンシクィイと自分との間に何か共通するものを感じたのであろう。

『火の馬』は西ウクライナの山岳民族の少年が自分の親を殺したライバルの家の娘と恋に陥る、ウクライナ版『ロメオとジュリエット』的物語である。当時のソ連では厳禁されていたギリシャ宗教の信仰を生き生きとした色彩で描き、宗教が人々の生活の規範であり、人々は精霊のような超自然的現象を恐れて生きていることを示唆している。これだけでも、いかなる宗教をも禁止した(しかしマルクス主義という思想に固執した)社会主義当局の神経を逆撫でするに十分であっただろう。ましてや、コサック兵の反抗などで常にロシアを脅かして来、ソ連の成立に伴い独立を企てた憎たらしいウクライナ民族を描く映画など、もってのほかであっただろう。

現在のウクライナがある地域にはキエフ大公国があったが、それは13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた。その後この地域は北方のリトアニア大公国や西方のポーランド王国に属していたが、次第にコサックと呼ばれる軍人共同体が発展し、外国勢力の支配に抵抗するようになった。しかし1667年のアンドルソヴォ条約により、西ウクライナはポーランド、後にオーストリア・ハンガリー帝国の支配下に、東ウクライナはロシアの支配下に置かれ、ウクライナは分割された。第一次世界大戦でロシア帝国とオーストリア・ハンガリー帝国が倒れたのに乗じて、西ウクライナに住んでいたウクライナ人は西ウクライナ人民共和国の独立を宣言し、それに反対するポーランドとの間でウクライナ・ポーランド戦争が始まった。ポーランド側はフランス・イギリス・ルーマニア・ハンガリーの支持があった。それに対して西ウクライナは東のウクライナ人民共和国に援助を求めた。しかし、ウクライナ人民共和国の政府はソビエトの赤軍と戦っていたので援軍を派遣することができず、結局西ウクライナはポーランドに占領され、西ウクライナ人民共和国は滅亡した。

東のウクライナ人民共和国はソ連の支配下に置かれたが、レーニン、スターリンに率いられたソ連はウクライナを敵視する政策を取った。その理由の一つはウクライナが豊かな農業国であり、工場労働者を基盤とする社会主義の政策が適用できない経済機構であったことだ。ウクライナの現実に合わない社会主義農業政策を強行に応用されたことによりウクライナの農業は壊滅的打撃を受け、莫大な人数の餓死者が出た。スターリンの大粛清もウクライナから始まったのであった。

第二次世界大戦においてウクライナはドイツに近いという地理的な状況から、莫大な損害を蒙り、ソ連の中でも最大の大戦の被害者となった。ウクライナ人の間では5人に1人が戦死したといわれている。この地域の人々の戦争に対する立場も複雑で、ソ連側に加担した人間もいるし、ドイツ側に加わった人間もいた。また、反ソ反独のウクライナ蜂起軍に入隊し、ウクライナ独立のために戦った者もいたのである。ウクライナ1991は年、ソ連崩壊に伴って新たな独立国家となったが、やはり色々な面でウクライナはロシアとの関係が深い。政権も反ロシア派と親ロシア派の間で揺れ動いているのである。

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[映画]  太陽に灼かれて Burnt by the Sun (1994年)

この映画の最初の2時間ほどは、ソ連の田舎にある芸術村で夏を過ごす家庭の団欒を描くことに終始し、まるでチェーホフの世界を眺めているようである。そうするうちに、一家の父親はロシア革命の伝説的な赤軍英雄のコトフ大佐であり、その若い妻はどうも元貴族の家系であり、彼女の一族がそこに召使と一緒に住んでいることから、この芸術村は妻の一家の別荘であったらしいと推測がつく。大佐は妻との間に ナージャという可愛らしい娘がいる。突然ディミトリという若くてハンサムな貴族風の芸術家が訪ねて来て、妻の家族に大歓迎される。そうこうしているうちに、ディミトリも元貴族で妻の嘗ての恋人であるということが知らされ、大佐以外は皆フランス語で楽しげに会話を始め、フランス語を知らない大佐はちょっと仲間はずれになる。これは恋の三角関係なのかと思っているうちに最後の20分で、ディミトリは実は秘密警察の一員であり、スターリンの命令でコトフ大佐を逮捕に来たという裏の背景がわかってくる。元貴族だから白軍派のはずなのに、ディミトリはなぜ赤軍の英雄のコトフ大佐を逮捕する権限を持っているのか、と観ている者は煙につつまれるはずだ。

ニキータ・ミハルコフがこの映画の監督、脚本、主演を勤めており、大佐の娘ナージャを演じた少女は彼の実の娘である。ニキータ・ミハルコフの兄は『僕の村は戦場だった』を監督したアンドレイ・タルコフスキーの親しい友人のアンドレイ・コンチャロフスキーである。ニキータ・ミハルコフの父はソ連国歌の作詞家であるセルゲイ・ミハルコフである。セルゲイ・ミハルコフによるソ連国歌は眩しいまでのスターリン崇拝の歌で、1944年に国歌となったが、セルゲイ・ミハルコフはスターリン批判の影響で1977年にはその歌詞の一部を書き換え、その後2001年には新しいロシアのために完全に歌詞を変更している。

スターリンの大粛清は1930年代に起こっているが、1953年のスターリンの死後、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフにより公式にスターリン批判が始まり、スターリンの個人崇拝は公的に批判された。1964年のフルシチョフの失脚後、レオニード・ブレジネフの政権下では一時改革派の力が衰え、チェコに軍事介入するプラハの春事件を起こしたりというジグザグもあったが、1985年にはミハイル・ゴルバチョフによって再びスターリン批判が再確認され、多くの犠牲者たちの名誉が回復された。この映画は1994年に作られているから、或る程度の言論の自由も保証されているはずだが、この映画の中でのスターリン批判は非常に象徴的である。そのシンボリズムはフランコの弾圧を恐れて、批判の気持ちをシンボリズムに託し、恐ろしいほど美しく妖しい映像をつくったスペインの現代映画に似ている。

この映画も映像の美しさ、シンボリズムの怪しさには恐るべきものがある。映画の中で具体的な粛清の恐ろしさを最小限に押さえ、はかない美を描くことに徹底したのはなぜだろうか。私はニキータ・ミハルコフという人間を知らないので何ともいえないが、私が感じるのは、ニキータ・ミハルコフという人は政治的な人ではないのではないか、ということである。彼にとって美しい心や、何か美しいものが一番大切なのであり、革命という仮面を被った暴力行為や、粛清という名の殺人行為は、それが醜いから、美しくないから、憎いのである。しかし、彼自身は繊細な心で政治というものに引っかかってしまっても、それを器用に扱っていくという資質の人ではないと思う。彼を理解するためには、彼が「親友で、一番大切な心の友」と常に呼んでいた黒澤明のことを考えれば、わかりやすいのではないか。黒澤がスターリンの大粛清を映画化するとしたらどうしたであろうか?私の答えは、「黒澤はそんな映画を作らなかっただろう」ということだ。たとえスターリンの大粛清の真実を知っていたとしてもである。たとえ、たとえだが、もし作ったとしても、非常にシンボリックな映画になったであろう。こう考えるとこの映画の極端なシンボリズムにも納得がいくのではないか。

しかし、ニキータ・ミハルコフという人は正直に自分の気持ちを表現する人である。彼は ボスニア戦争で一方的に犯罪者的な判断を下されて国際的な悪漢にされてしまった感のあるセルビア人を支持し、「民族としての誇りを忘れないでほしい」と述べ、セルビアの対コソヴォ政策も支持している。またウラジーミル・プーチンのリーダーシップにも支持の姿勢を明らかにしている。他の人の思惑はとにかく、自分の感情を正直に認めるタイプの人のように思われる。彼の政治信念を彼の言葉を借りていえば「個人的な考えとして、私は1917年以降のいかなる政府も合法的とは認めていない。なぜなら彼らの権力は暴力と流血とによって得たものだからです。」ということになろうか。だから『太陽に灼かれて』は革命という名の“偽りの太陽”に灼かれた犠牲者たちに捧げられているのであろう。ある日突然、何の前ぶれもなく連行され、家族たちにもその後がどうなったのか知らされなかった人々。大衆の前での偽りの公開裁判で晒し者にされた後で処刑された人々。全く政治に関係ないのに、逮捕されて殺された人々。この映画はそういう人々へのニキータ・ミハルコフとしての鎮魂歌なのであろう。

大粛清は、当時のソビエト連邦(ソ連)の最高指導者ヨシフ・スターリンが1930年代にソ連邦でおこなった大規模な反対陣営に対する政治弾圧を指す。スターリンに対抗したと看做された者は全て見せしめ裁判でスパイ罪などの自白を強要され死刑の宣告を受けたもので、その対象は幹部政治家のみならず、一般党員や民衆にまで及んだ。その目的はスターリンが自分の政敵を殺すこと、なかなか進まぬ経済の発展への大衆の不満を「裏切り者への憎しみ」に向けてそらすことであった。この粛清はついには革命を成功させた赤軍の英雄や、尊敬されている芸術家、そして海外からソ連に安全を求めて亡命して来た共産主義者にまで及ぶことになった。

大粛清が1938年後半にようやく収まったのは、虐殺によって優秀な人間が殺され、国家機能に支障を来たすほどになり、またナチスの脅威が現実のものとなったので、国民の不満をナチスに対する憎しみに向けることが可能になったからである。1938年末になると、スターリンはこれまで大粛清の中心的組織であった秘密警察NKVDを批判し、弾圧することになった。皮肉なことに、あれだけたくさんの人間を死に追いやった秘密警察の関係者も次々と殺害され、NKVD関係の人間でスターリン時代を生き残れた者は殆どいなかったという。

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[映画] 僕の村は戦場だった Ivan’s Childhood(1962年)

この映画は、ロシアの作家ヴァドミール・ボゴモロブの短編小説『イワン』を、アンドレイ・タルコフスキー監督が映画化したものである。第二次世界大戦の独ソ戦によって両親を含めた家族をすべて失って孤児となった12才の少年イワンが、ドイツに対する憎しみの中でパルチザンに、そして後に偵察兵としてソ連軍に参加し、結局ナチスに処刑されてその短い一生を終える。特にドラマティックなストーリーの展開はないのだが、少年の記憶に残る平和な日々の詩情豊かで美しい回想シーンと、少年の前に広がる戦争の厳しい現実をくっきりとしたコントラストで描いていく。

この映画の特徴はオブジェ(物体)の美しさである。実際の戦闘のシーンとかドイツ兵は一切出てこず、それらは線香花火のような光や銃声だけで象徴的に表現される。水、闇、光、ランプ、廃墟、沼、浜辺、井戸、馬、白樺、鳥、林檎などそれぞれのオブジェが効果的に、時には奇抜な位置で配置され、人々の動きが意外な角度から映される。

スターリンが1953年に死亡して、当時のソ連支配化の人々にようやく安らぎの心が生まれ、西側の文化がソ連に急速に流れ込んで来て、大学では新しい映画論や芸術論が紹介され、新しい世代の映画人が育ちつつあった時代にこの映画は作られた。アンドレイ・タルコフスキーもそう言った戦後の新世代の若者の一人であった。彼はアメリカかぶれと批判されるまでに、アメリカの現代文化に興味があり、ジャズに傾倒し、また当時の西側諸国での大監督と言われていたジャン=リュック・ゴダール、黒澤明、フェデリコ・フェリーニ、オーソン・ウェルズ、イングマール・ベルイマンなどを熱心に研究していたという。

この映画はストーリーや主題よりも、むしろ斬新なオブジェや撮影角度に拘っているように見受けられるが、これは当時フランスで湧き上がりつつあったヌーヴェルヴァーグ「新しい波」の影響をもろに受けているといえるだろう。ヌーヴェルヴァーグはフランスの映画評論家を中心として50年代にフランスで起こった映画運動で、既存の映画監督を「つまらない」と酷評した評論家たちが、「俺たちがもっと面白い映画を作ってやろうじゃないか」という意気込みで始めた映画創作活動であり、フランソワ・トリュフォーとジャン=リュック・ゴダールがその中心人物であった。

戦争の爪あとが厳しく残るフランスでは50年代、60年代には、戦争を起こした大人とかエスタブリッシュメントに対する反抗の姿勢が強かった。政治的には共産主義、思想的にはサルトルが率いる実存主義或いはそれに続く構造主義、映画ではヌーヴェルヴァーグ、そして多くの文化領域で新しい動きが勃興しつつあった。何と無しに退廃的な気持ち、エロティシズム、破壊的な行為、解決のない虚無的な気持ちなどが、新しいテーマであった。60年代における日本でのフランス文化の影響は多大なものがあり、日本でも「日本ヌーヴェルヴァーグ」というグループが生まれたが、その代表的な映画監督は、大島渚、篠田正浩、今村昌平、羽仁進、勅使河原宏、増村保造、そして蔵原惟繕などである。彼らは、青少年の非行、犯罪、奔放な性、社会の片隅に生きる女たち、底辺の人間たちなど、それまでの映画ではあまり対象にならなかったテーマを抉るようになり、またわかりにくい聴衆を突き放すような映画を作り、聴衆は彼らを「芸術家」とみなすようになった。

その当時は新鮮だったヌーヴェルヴァーグの映画だが、今見るとどうであろうか。その斬新さは次々と後から来る監督たちに模倣されてしまい、今では誰もが使う手法になってしまっているから、現代の聴衆にとってはどうしてヌーヴェルヴァーグの映画が革命的だといわれたのかわからないかもしれない。また現在サルトルやフランソワ・トリュフォーの名前を知っている人間がどれだけいるだろうか?現代の若者にとっては、「Sarutoru,who?」(去る取るなんて人、いたっけ?)であろうが、サルトルの名前はその響きの面白さから(猿とる)、60年代の日本でもテレビでコメディアンにギャグの一部として彼の名前が使われていたこともあるくらい、日本でも名前が知られていたのだ。今から60年前に新鮮な手法や思想を追求したというのは確かに偉大なことだと思うし、彼らの手法が現代の映画でまだメインストリームの手法として生きているということは、結局ヌーヴェルヴァーグの核心は現代まで生きていると言えるのではないだろうか。私たちは今でも「フランス映画は難解で、観る人間の心を冷たく突き放す」と一般論を述べる。現代のフランス映画はヌーヴェルヴァーグ的でないトーンが多いが、それでもやはり多くのフランス映画はヌーヴェルヴァーグの精神を基調にしている。ヌーヴェルヴァーグは戦後のフランス映画の基調を決めてしまうほどの影響力があったといえよう。

この『僕の村は戦場だった』という映画は、アンドレイ・タルコフスキーが多分意図していなかったであろう面白い問題点を結果として提起しているように思われる。

イワンは戦争孤児で、家族を殺されたことをきっかけにイノセントな少年から虚無的な少年に変わってしまう。彼が信じるものは『憎しみ』の感情だけである。もう何が起こってもこわくない。ドイツ兵は憎いが、ドイツ人だろうがロシア人だろうが、大人はもう誰も信用できない。この戦争を起こしたのは大人なのだから。

イワンは戦争で殺されたが、もし彼が生き残っていたらどんな若者になっていただろうか?もしかしたら、自分の上の世代の人間を憎む人間になっていたかもしれない。戦争の残酷な影響を受けたドイツやフランスでは50年代から60年代にかけて反体制運動が激しく巻き起こっていた。それらの中心になっていたのは、戦争時に子供だった世代であり、その世代が戦後生まれの新しい世代にエスタブリッシュメントを憎む気持ちを伝えたのだ。その未来を予感させるような、イワンを演じる少年のイノセントで幸せな笑顔から、暗い憎しみの表情への変化が非常に印象的な映画だった。

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[映画]  この素晴らしき世界 Divided We Fall(2000年)

United we stand, divided we fallと言うのは、団結すれば立てるが、分裂すれば倒れるという意味である。通常はUnited We Standという言葉が人々の団結を訴える時に使われることが多いが、この映画は助け合わなければ負けるというDivided We Fallの側面を強調している。題の邦訳は原題とは全く違う。この邦題を考えた人は、ベトナム戦争に反対して、平和な世界を願って作られた『この素晴らしき世界』という曲を念頭においていたのかも知れない。その歌は ルイ・アームストロングによって歌われ、1987年の映画『グッドモーニング, ベトナム』で、戦時中のベトナムの牧歌的田園風景を映す印象的なシーンにバックグランドミュージックとして流された。

この映画はチェコ映画であり、ナチスの支配時の庶民の苦しみの生活を描くが、その後のソ連の進駐に対する批判も間接的に描く。2003年に公開された『Želary』(日本未公開)と時代背景やテーマがよく似ている。どちらもアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたのだが、ナチスの弾圧の中で自分の命を守るために見知らぬ人と結婚してしまう(Želary)とか、自分の妻を他の男の手により妊娠させてしまう(この素晴らしき世界)というちょっととんでもないことをしてしまうというのも似ている。どちらの映画でも底に流れるのは「ドイツもひどかったけれど、その後やって来たソ連もひどかった」というものである。

第二次世界大戦で独ソの対立の犠牲になったという点では、チェコはポーランドと似た運命を辿ったが、彼らは最初はソ連を敵視していたわけではない。帝政ロシアは海路を求めて南下策をとっていたので、ロシアは帝国主義の先進国である英国から警戒されていた。またロシアはバルカン半島の覇権を巡ってオーストリア・ハンガリー帝国とも対立関係にあった。しかしチェコやポーランドにとってソ連は、自分たちを支配しているオーストリア・ハンガリー帝国の敵、つまり敵の敵は味方かもしれない、くらいの気持ちを持っていたのではないか。ロシア人もチェコ人もポーランド人もスラブ人という同じ民族なのである。

ヨーロッパにはたくさんの民族と国家があったが、結局第二次世界大戦までヨーロッパの流れを決めていたのは、英仏伊独の四カ国であった。この四国は共産主義革命で生まれたソ連を非常に警戒していた。英仏はドイツ人国家がバルカン半島を巡って長年ロシアと対決しており、また領内に多数のスラブ人を抱えてその反抗に悩んでいたこともあり、独ソが絶対相まみえることのない宿敵であると知っていたので、ヒトラー率いるドイツがソ連と対立しているのは自分たちにとっても悪くはない状況だと思っていた。しかしヒトラーも馬鹿ではない。1939年8月23日に独ソ不可侵条約が秘密裏に締結され、9月1日早朝、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、9月3日に英仏がドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まったのである。

この映画では、ナチスの支配下の小さな町で、ナチスの協力者になる者、密かにパルチザンになる者、ユダヤ人を匿う者などを描き、小さい町で隣人同士が誰も信じられないような環境で息を潜めて生きた庶民の物語である。全体を通してユーモラスなトーンを保ち、暴力的なシーンはないのが救いはあるが、それでもかなりしんどい状況である。

子宝に恵まれないヨゼフとマリアは、ユダヤ人のダヴィデをひょんなことから匿うはめになる。ダヴィデの父はヨゼフの上司であった。強制収容所から逃亡して町に戻ってきたダヴィデを発見したヨゼフは、ユダヤ人をみつけたら報告しなければならないという法令を破って彼に食事を与え、彼の逃走計画を助けるがそれが失敗してしまう。ダヴィデの存在を報告しなかったというだけで死刑ものなので、ヨゼフとマリアは「毒を食らわば皿まで」と覚悟してダヴィデを匿う決心をする。彼らの友人のホルストはドイツ人の妻を持つナチスの協力者である。ヨゼフは自分が疑われないように、意に反してホルストの部下になり、ナチスの協力者であるふりをする。ホルストはマリアに横恋慕したり、ヨゼフとマリアが何かを隠していることを気づく厄介な存在であるが、ナチスが彼らの家を家宅捜査しようとすると、自分の立場を利用して彼らを守ってくれる。

ナチスが敗れてソ連軍がやって来た。ヨゼフは裏切り者だとしてパルチザンに処刑されかかるが、自分はユダヤ人を匿うためにそうせざるを得なかったと弁明する。パルチザンはそれを証明するためにダヴィデに会うが、実はダヴィデが町に逃げ戻って来た時最初に彼を発見したのはそのパルチザンであった。そのパルチザンは慌てふためいてナチスの軍に大声で「ユダヤ人がいる!!!」と叫んだのだったが、その声がナチス軍に届かなかったので、ダヴィデは逃げることができたのだった。再開した二人はそのことを表に出すことなく、だまってうなずくのみであった。ホルストは裏切り者として処刑されようとしていたが、ヨゼフは自分の身の危険を犯してまで今度は彼を救おうとする。

この映画でソ連軍の兵士が「一体誰を信じていいのかわからない」とぼやくシーンがある。ソ連軍がヨーロッパの隣国に侵攻するのはこれが初めてである。彼らも、どのように振舞っていいのかわからなかっただろう。蛮行に走った兵士たちもたくさんいただろう。また表面的には歓迎してくれても、まだナチスの協力者は町に残っている。それらの人間をどうやって捜していくべきなのか。『Želary』でも村に入ってきたソ連軍を最初に歓迎はしたものの、若い兵士が村の女性をレイプし始めたり、疑心暗鬼になったソ連軍が村人と交戦を始めたことが描かれている。英米軍がイタリアやフランスを順調に解放した西部戦線と違い、ソ連がナチス支配下を開放した東部戦線はかなり複雑だったのである。

この映画は自分たちをナチスから守るためユダヤ人のダヴィデに頼んでマリアを妊娠させてもらったヨゼフが、無事生まれた赤ちゃんを抱き上げるところで終わる。何か聖書の受胎告知を思わせるシーンである。考えてみれば、ドイツが第二次世界大戦で戦った国はすべてキリスト教の国であり、キリスト教を生んだイエスはユダヤ人なのである。戦争を始める前に聖書をもう一回読んでほしいというメッセージであろうか?

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[映画] ニュールンベルグ裁判 Judgment at Nuremberg (1961年)

ニュールンベルグ裁判は史実である。しかしこの映画は、史実の中の歴史的なエッセンスを基に物語を作成し、冷戦下のアメリカの良心という観点から、第二次世界大戦後の世界を描こうとした試みであるといえるだろう。

第二次世界大戦終了後、戦勝国である米英仏露の軍部指導者は、ドイツの戦争犯罪人を裁くためにニュルンベルクに集まった。1945年に開始された前期の裁判は戦争を導いたドイツの最高クラスの指導者を一方的に断罪し、厳しい判決が下されたが、この映画の舞台となった1948年のニュルンベルク継続裁判になると、裁判を取り巻く世界情勢が微妙に変わっていた。米英仏にとっての脅威はもはやドイツではなく、ソ連であった。ソ連軍はドイツ東部を占拠し、さらにドイツ全土の占拠を視野に置いていると思われた。米英仏はソ連がドイツを支配下に置けば、全ヨーロッパがなし崩しに共産化すると判断し、今や米英仏の関心は、ドイツ人を裁くよりドイツをソ連から守り、共産化されることを防ぐことであった。

映画はアメリカの地方裁判所の判事ヘイウッド(スペンサー・トレイシー)が、ニュルンベルク継続裁判の一つのケースの主任判事に任命され、ニュールンベルグに赴く所から始まる。彼が任命された理由は、このケースはドイツの最高クラスの法律家を裁くものであり、特に国際的に高名で敗戦当時はナチの法務大臣であったエルンスト・ヤニング博士(バート・ランカスター)が被告の一人であったので、誰もその裁判の判事になりたがらず、無名で実直なヘイウッド判事にその任務が押し付けられたのであった。

ヘイウッド判事とニュルンベルクに滞在しているアメリカの軍人たちは、ドイツの伝統とその文化の奥深さに感動する。戦後の貧しさの中でも人々は美味しいビールを飲み、酒場では美しい合唱を楽しみ、ピアノやオペラの演奏に心を震わせる。人々の心は優しく、「ドイツ人は世界が信じるような獣ではない」と一人一人が証明しようとしているかのようだ。戦勝国として入って来た軍人たちは、「僕たちは、まるで美しい宮殿に土足で踏み入るボーイスカウトのようなものだな」と自嘲してしまうのである。戦争さえなければドイツはアメリカ人にとっての文化的憧れであっただろうに。そんなヘイウッド判事や、検事を勤めるローソン大佐(リチャード・ウィドマーク)に国家のトップから、裁判を早々に切り上げて、ドイツを味方につけるために厳しい判決をくださないようにという暗黙のプレッシャーがかかってくる。

ローソン大佐を迎え撃つ被告の弁護士ロルフ(この映画でアカデミー賞主演男優賞を受賞したマクシミリアン・シェル)は鋭い理論でローソン大佐の主張を次々に論破していく。ローソン大佐はユダヤ人の強制収容所を解放した自分の経験から、ユダヤ人の連行を文書の上で承認した法律学者を徹底的に裁こうとする。反対にロルフは「ドイツと独ソ不可侵条約を結んだソ連、虐殺や不法占領を行ったソ連の戦争責任はどうなのか。共産主義を抑えるためにヒットラーに同意した英国のチャーチルの戦争責任はどうなのか」と激昂する。それは、ニュールンベルグ裁判で戦勝国の横暴を黙って耐えなければならなかったドイツ人の無念を代弁していたのである。

裁判の最大の焦点はヤニング博士がニュルンベルク法の基で犯罪を犯したかどうかであった。ニュルンベルク法はナチが作った法律で、ユダヤ人とドイツ人の交流を犯罪として定義している。ヤニング博士は判事として、少女イレーネ・ホフマン(ジュディ・ガーランド)と交際したという罪状でユダヤ人の老人を死刑に、その罪状を否定するイレーネを偽証罪で懲役に課していたのだ。

ヘイウッド判事は人々の予測に反して被告全員に有罪判決を下し、終身刑に課した。彼は検察側は実際の犯罪が行われたことを『beyond a reasonable doubt』まで証明し、被告たちの名による執行命令の文書がない限りはこの犯罪が行われなかったから、被告たちは実際に手を下さなかったが法的な共謀者であるという理論であった。これに対し、裁判の副審を勤めた米国人の判事は弁護士ロルフの理論に同意し、被告はドイツの国家法であるニュルンベルク法に従ったまでであり、もしこの法律に従わなければ被告は国家に対する謀反の罪を犯すことになったとし、主審であるヘイウッド判事の判決に反論を加えた。

ここには英米で行われている普通法(Common Law)と独仏で行われている成文法の解釈の対立という図式もみられる。ヘイウッド判事は普通法の国米国で法律を学んでいるから、裁判官による判例を第一次的な法源とし、裁判において先に同種の事件に対する判例がある時はその判例に拘束されるとする判例法主義の立場から有罪判決に至った。しかしもちろん英米にも成文法があるから、裁く領域に成文法が存在する場合には成文法の規定が普通法よりも優先する。成文法は基準がは明確だし、ナポレオン法典のように長期間模範になる法律もあるが、ニュルンベルク法はどうであるだろうか?狂った指導者が狂った成文法を作ることは可能であることを、ニュルンベルク法は示唆しているのではないだろうか。たとえば、米国でも新しい法律を作ることは可能である。しかし、その法律は議員の多数の賛成を得なくてはならないし、もしそれが憲法に反対していたら司法から否決されるのである。

ヘイウッド判事の有罪判決はドイツ人もアメリカ人も失望させた。人々は被告はニュルンベルク法に従っただけであり、責められるのは法律そのものだと信じていた。また同時期の他の裁判は概ね被告が無罪となり、たとえ有罪であったとしても刑が非常に軽かったからだ。ロルフはヘイウッド判事に面と向かい「被告は全員5年以内に無罪放免されるだろう。アメリカ人はきっと近い将来ソ連軍に不法裁判で裁かれるような事態に置かれるかもしれないから、せいぜい心せよ」という言葉を投げかけて去って行く。ヤニング博士の要望で個人として彼と対面したヘイウッド判事は「あなたは有罪だ。なぜならば、イレーネ・ホフマンの裁判に臨む前にあなたは既に有罪判決を決めていたからだ」と述べる。ヘイウッド判事も、無罪判決を下したら、自分の判決が判例となり、将来文書で死刑を宣告した人間は自分の判例を根拠にして無罪になるという拡大解釈が起こるのを防ぎたかったのであろう。

マレーネ・ディートリッヒがニュールンベルグ裁判で処刑された将軍の未亡人として出演している。彼女の夫は戦後すぐの戦勝国の集団リンチのようなニュールンベルグ裁判で有罪となったが、もし裁判が1948年に行われていたら無罪になった可能性もあると映画では示唆されている。ヘイウッド判事と友情を育てた夫人は、夫妻ともにヒットラーを憎み、夫はドイツ国民を守るために戦ったのであり、国民の大部分はナチが何をやっていたのかは知らされていなかったと述べ、ドイツ国民の魂をヘイウッドに伝えようとする。

マレーネ・ディートリッヒの生涯がこの将軍夫人のキャラクターを生んだと言えよう。ドイツ出身の彼女は渡米後、ユダヤ人監督スタンバーグとのコンビでハリウッドのトップスターになった。アドルフ・ヒトラーはマレーネが気に入っておりドイツに戻るように要請したが、ナチスを嫌ったマレーネはそれを断って1939年にはアメリカの市民権を取得したため、ドイツではディートリッヒの映画は上映禁止となる。その後彼女は身の危険を冒してまで、アメリカ軍人の慰問に尽くした。

戦後アメリカを訪問した女優の原節子はマレーネ・ディートリッヒに紹介された時の感想を次のように述べている。映画ではとても美しく見えるのですが、実際に会ったディートリッヒはさばさばとあっさりした人で、顔も平板で映画での怪しい美しさが感じられませんでした。綺麗な人という印象は全くありませんでした・・・・

マレーネ・ディートリッヒの美しさは、そのたぐい稀なプロフェッショナリズムと人生への決意から来ているのではないだろうか。ディートリッヒがこの映画で若く美しい未亡人を演じた時、彼女は既に60歳であったのだ。原節子ももちろん戦争中は(他の日本人がそうであったように)大変苦労したであろうが、マレーネ・ディートリッヒがどれだけのものを乗り越えて来たのかを考えることはなかったであろうと思わされるような彼女の発言であった。

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[映画]  カティンの森 Katyń (2007年)

現在のこの時点で「観て良かったと思う映画を一本だけ選ぶとしたら何か?」という問いに、私が迷い無く選ぶのがポーランド映画 『カティンの森 Katyń』である。映画としてもかなり高水準だが、この映画を観なければ決して知りえなかったであろう情報を提供してくれる。この映画に対して、心から感謝したい。

東のロシア、西のドイツに挟まれた‎ポーランドは、歴史的に両国の勢力争いの犠牲になるという悲劇を持つ。1939年9月、 ドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦が勃発した混乱を利用して、ソ連はポーランドの東部に侵攻した。同時に秘密裏に独ソ不可侵条約が結ばれ、ポーランドは、ドイツとソ連に分割占領されることになったのである。西からドイツ軍に追われた人々と、東からソ連軍に追われた人々は、ポーランド東部のブク川で鉢合わせになり、ソ連軍から逃げて来たポーランド人はドイツから逃げて来たポーランド人に危険だから西に戻れと言い、ドイツ軍から逃げて来たポーランド人は逆のことを言う。個々の人間が自分の運命を瞬間的に決定しなければいけなかった。

ポーランド政府はロンドンへ脱出し、ポーランド亡命政府を結成した。ポーランド軍人は速やかに独ソ両軍からの命令に応じ、ドイツ軍とソ連軍に平和的に名誉の降伏をした。ドイツ軍は国際法に則りポーランド兵を釈放したが、ソ連軍はそうではなかった。『カティンの森』はソ連軍に降伏したポーランド兵が辿った運命を描く。

1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランド亡命政府とソ連は条約を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、攻ナチのポーランド人部隊が編成されることになった。しかしその時点で捕虜になった兵士の90%以上が行方不明になっており、ロンドンのポーランドの亡命政府の追求に対し、ソ連側はポーランド兵士はすべてが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。

しかし1943年4月、不可侵条約を破ってソ連領に侵攻したドイツ軍は、元ソ連領のカティンの森の近くで、2万人近くのポーランド兵士の死体を発見した。ドイツは、これを1940年のソ連軍の犯行であることを大々的に報じた。その後ドイツが敗北し、大戦が終結した1945年以後、ポーランドはソ連の衛星国としてソ連の支配下に置かれた。ソ連はカティンの森事件は実はドイツ軍の仕業であったと反論し、大々的な反ナチキャンペーンを行い、その後ソ連支配下のポーランド人が事件の真相に触れることはタブーとなった。

この映画は、ソ連支配が始まった後、ナチスドイツに対する憎しみと身の安全の追求のため、人々がソ連に靡いて行く中で、カティンの森事件の被害者の親族で真相を明らかにしようとしてソ連占領軍に対抗した少数の人々の悲劇も併せて描く。

監督のアンジェイ・ワイダは父をカティンの森事件で虐殺された。彼は『地下水道』『灰とダイヤモンド』『大理石の男』などで世界的な名声を獲得したが、同時にその反ソ的姿勢から、ポーランド政府から弾圧を受けた。彼はカティンの森事件の映画化を50年以上の長きに渡って構想していたが、ベルリンの壁の崩壊以前ではそれは不可能であり、2007年に最終的にこの映画を作製した時は既に80歳であった。「カティンの森で何が起こったかを伝えるまでは死ねない」という怨念が伝わってくるような映画である。この映画で私たちが記憶しなくてはならないのは次の3点であろう。

まず犯罪である。戦争は人と人が殺しあうという異常な極限状態ではあるが、その中でも普遍的なルールがある。まず非戦闘要員(civilian)は絶対に意図的に殺害してはいけない。そしてたとえ戦闘要因であっても、降伏した兵士に対しては人間的な扱いをしなければならない。しかし、スターリンの指令の下で捕虜の収容を担当していた内務人民委員部(NKVD)はポーランドの兵士を個々に尋問し、すこしでも反共産主義の考えが感じられた兵士は容赦なく殺害したのである。

次は嘘である。ドイツがカティンの森での死体を発見した後、ジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査の依頼がなされたが、ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は調査団派遣を断念した。1943年4月24日、ソ連は同盟関係にあったポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求したがポーランド亡命政府はそれを拒否し、ついにソ連は亡命政府との断交を通知した。大戦に勝つためにソ連の助けが必要と信じる連合国軍は、ソ連を直接非難することは許されなかった。1944年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集するためにジョージ・アール大尉を密使に任命した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触して情報を収集し、カティンの森虐殺はソ連の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールはその後任務からはずされ、サモアの任務に更迭された。こんな同盟国のお国の事情を背景に、ソ連は虐殺はナチスドイツの許されざる犯罪であるという偽りの見解を50年に渡り維持し続けたのであった。

最後に私が強調したいのは、戦勝国の傲慢である。

1946年の、ニュルンベルク裁判においてナチスドイツの罪は裁かれた。戦勝国のソ連はこの機会を利用して、カティンの森での虐殺の首謀者としてドイツを告発しようとまでしたが、さすがにアメリカとイギリスはソ連の告発を拒絶した。その後この事件の責任について、西側でも東側においても議論が続けられたが、ポーランド国内では、支配者であるソビエト連邦に対する怖れにより誰も真相を究明することは許されなかった。この真相を問われることのない状態は1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで継続し、若い世代はカティンの森の虐殺があったということも知らされることはなかった。

カティンの森事件の被害者の人権が最終的に認められたのは、1989年のソ連の自由化開始後であった。1989年、ソ連の学者たちはスターリンが虐殺を命令し、当時の内務人民委員部長官ベリヤ等がカティンの森虐殺の命令書に署名したことを明らかにした。1990年、ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。1992年のソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最終的にカティンの森事件の公文書を公にし、ここで遂に50年に渡ったソ連の嘘が始めて公に証明されたのである。

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[映画]モスクワは涙を信じない Москва Слезам Не Верит Moscow Does Not Believe In Tears (1979年)

題名の「モスクワは涙を信じない」とは「泣いたところで誰も助けてはくれない」という意味を持つロシア語の格言であるそうだ。1980年のアカデミー外国語作品賞も受賞したということで、1980年代から始まった「建て直し」の直前に感じるソ連に対する諸国の明るい期待をになっての受賞となった。確かに悪い映画ではないし、ロシア人の生活もリアリスティックに描いているので、ロシア人にもその他の国の聴衆からも暖かく迎えられた作品というのも納得がいく。

粗筋を簡単に述べると、1950年代後半から1970年代後半にかけてのモスクワを舞台に、田舎から夢と仕事と結婚相手を求めてモスクワに出てきた3人の労働者階級の女性の20代から40代への成長を描いている。エカテリーナは学問により出世をしようとする。その途中でテレビ局のカメラマンのルドルフとの間の子供ができてしまうが、認知してくれぬ男に頼らず、大学に行き、20年後には大工場のディレクターに出世する。エカテリーナの一人の友人アントニアは労働者の夫と結婚して堅実な生活を築いている。もう一人の友人リュドミラは玉の輿を狙い、それが成功したかに見えたが結局その結婚は失敗してしまう。エカテリーナは労働者ゴーシャと出会い真剣な交際を望むが、ゴーシャはエカテリーナが自分よりも給料が高いことを知り、離れていく。悲しむエカテリーナに昔の友人たちが集まりなんとかこれを解決。ロシア人と一緒に仕事をした人は、ロシア人が情にもろく友情に溢れたに人々だとわかることが多いだろう。この映画はキャリアの話、女性の自立、ソビエトの市民の日常の話であると同時に友情の話でもある。ただ一つこの映画にないもの、それは体制に対する批判である。

30年後の2012年。ロシア大統領選はプーチン首相が約64%の得票で当選したが、その勝利演説でプーチンは涙を流した。中流層の反プーチン運動の高揚で追い詰められた選挙戦だったがやはりプーチンは強かった。プーチン氏は演説で、「われわれは開かれた公正な戦いに勝ったのだ」と絶叫した。ステージに上がる前から涙が頬を伝わっていたようで、演説中はぬぐおうともしなかった。その後、「あの涙は何だったのか」との問いに、プーチン氏は「風が目にしみたのだ」と答えたそうだ。

翌日の反政府デモ隊は「モスクワは涙を信じない」と書いたプラカードを掲げて不正選挙に抗議した。ロシア人はこの映画があってよかった。しかしプーチン率いるロシアはこれからどうなっていくのだろうか。いろいろ不穏な現代情勢の中、ロシアが強くて健康な民主国家に育っていくのは、ロシア国民だけではなく、誰もが願うことだと思うのだが。

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[映画] 戦争と平和 (1956年)

1812年のナポレオン率いるフランス軍の帝政ロシア侵攻を縦糸に、ロシア貴族の三つの家族を含む500人の人物を横糸に、文豪トルストイが1865年から1869年にかけて執筆した大河ドラマを基にして、1956年にハリウッドが全力をあげて製作したドラマである。

4巻にも渡る長い小説を、他はできるだけ省いて、ベズコフ伯爵の庶子であるピエール (ヘンリー・フォンダ)、彼の無二の親友アンドレイ公爵(メル・ファーラー)、そしてロストフ伯爵家の娘ナターシャ(オードリー・ヘップバーン) の三人の愛情の縺れを中心に描いているのだが、それでも3時間以上の長さになり見ていて退屈してくる。スクリーンからはハリウッド臭の香水がぷんぷんと漂い、ロシアの大地の香りはどこに行ったの?という感じである。しかしこの映画をぶちこわしているのは、ファンには申し訳ないが、オードリー・ヘップバーンの大根女優ぶりではないだろうか?

咲き初めた花のようなナターシャを演じるには、オードリー・ヘップバーンはいささか年を取りすぎているが、可憐な感じを出そうとして、ただ落ち着きなく動き回ってキャンキャンと可愛い声を出している感じ。アンドレイ公爵とは広大なロシアの大地で知り合ったはずなのだが、映画では退屈な舞踏会での二人の出会いとなり、誰も相手にされずにふて腐れているナターシャにアンドレイ公爵が踊りを申し込むと彼女はいっぺんに有頂天になり、アンドレイ公爵と結婚すると言い出す始末。アンドレイ公爵が戦地に赴いたのちは、ピエールの妻ヘレーネの兄アナトールに誘惑されて、いとも簡単にその誘惑に落ち、駆け落ちを企てる。結局アンドレイ公爵もアナトールも失った後、再び自分の前に現れたピエールを見ると「ふふふ」といとも簡単にくっついて映画は終わるというわけだ。ピエールを演じるヘンリー・フォンダもあまりにも美男子すぎて、ついついなぜナターシャはこんなハンサムなピエールがそばにいるのに、無視をしていたのと思ってしまう。原作は実は「ナターシャは若いがゆえに、自分の魅力にも気づかず、何が人生で大切なのかまだわかっていない。しかし、戦乱の困難を乗り越えて行くことで、階級を越えて人々を助けることに意義を見出し、強く美しい大人の女に成長し、今まできがつかなかったピエールの心の真実に気がつき、愛が芽生える。」と言う深いトーンであることを祈りたい。そうでなければ、どうしてトルストイの原作が不朽の名作として残っているのだろうか?しかし残念ながら、このハリウッド映画はひたすら軽いのである。

閑話休題、あるアメリカ人の男子学生が、女性の魅力を三人の女優に象徴させて表現していた。彼にとっては三大女優はグレース・ケリー(美しさ)、マリリン・モンロー(セクシーさ)そしてオードリー・ヘップバーン(可憐さ)であるそうで、話を聞いていたほかの男性もいたく同意していた。この三女優はいみじくも同世代であり、グレース・ケリーとオードリー・ヘップバーンは同い年、マリリン・モンローは二人より3歳年上である。時代を虜にした同世代の女性は他にも『美人』の代名詞ともなったエリザベス・テイラー(二人より3歳年下)や大統領の妻ジャックリーン・ケネディー(二人と同い年!!!)そして大輪の花ソフィア・ローレン(二人より5歳年下)などがいる。エリザベス・テイラーが人間味、ジャックリーン・ケネディーが権力、ソフィア・ローレンがたくましさを象徴するとしたら、これらの同世代の6人の女優は女性の魅力を違った角度からきらきらと表現してくれているともいえるだろう。

グレース・ケリーとジャックリーン・ケネディーに関して、面白い話を聞いた。二人が偶然おなじ晩餐会に出席したことがあったそうだ。グレース・ケリーはどこに行っても男性の関心を引き続けていたが、その晩だけはすべての男性がジャッキーに群がり、誰もグレースに興味を持つ男性はいなかった。グレースは悔しさのあまり洗面所に篭り、一晩中泣いていたそうだ。私は後彼女がモナコ大公との結婚を決意したのも、その晩餐会の悔しい思い出が一役買っていたのではないかとさえ思っている。

話が脱線したが、この6人の女優もソフィア・ローレンを除いてすべてもうの世の人ではない。「戦争と平和」の映画から話題がずれたが、この6人が活躍した時代は戦後まもない活気あふれたハリウッドであり、この映画もその谷に咲いたあだ花ともいえるのである。

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