[映画] 白いリボン The White Ribbon , Das weiße Band (2009年)

ミヒャエル・ハネケ監督の作品といえば、『ファニーゲーム』や『ピアニスト』のように、不愉快な登場人物が次から次へと恐ろしい行為を繰り返し、見続けるのは恐ろしいが、きっと何か最後に説明がありすっきりさせてくれるだろうと聴衆に期待させ、結局何も説明がなく、聴衆は心が切り刻まれたまま放り投げられるというパターンが多い。アメリカ映画を好む聴衆からは「許されない」映画なのだが、彼の作品はすべてカンヌ映画祭を始めとするヨーロッパ映画祭で最高賞を受賞しているのだから、それなりにヨーロッパ映画に見慣れた聴衆の心を深くつかむのだろう。

『白いリボン』はミヒャエル・ハネケの作品の中では、比較的に一般受けがする映画なのではないだろうか。モノクロだが非常に美しく、1913年の北ドイツの小村の精髄を忠実に再現したシネマトグラフィー、美男美女は一人も出てこないが、子役を含めて実在感のある俳優たちの好演、そして謎解きを含んだ魅力的なストーリーが見る者の心を最後まで引っ張っていく。しかし、これは探偵ドラマではないし、犯人が最後まで明らかにされないのは、いつも通り「ハネケ的」である。

この映画は1913年に起こった村の医師の不審な落馬事故で始まり、1914年に第一次世界大戦の勃発時と同時に起こった医師の家族と隣家の助産婦の親子の不審な失踪で終わる。登場する家族は、村の半分の人口を雇用する勢力者の男爵家、牧師の家族、医師一家と医師と性的関係のある助産婦とその幼い息子、男爵に仕える執事の一家、男爵家の小作人の一家、そして村の学校の教師とその恋人のエヴァである。

医師と助産婦の一家に起こる事件は、不審な落馬事件、医師の助産婦に対する侮蔑と別れ話、医師の14歳の娘に対する性的な関係、助産婦の知恵遅れの子供に対する暴行事件、そして医師と助産婦一家の突然の蒸発である。

男爵家に起こるのは、領土内での小作人の妻の事故死、小作人の息子によってキャベツ畑を荒らされたこと、幼い息子の誘拐暴行事件、その息子の溺死未遂、納屋の火災である。

小作人の一家に起こるのは妻の事故死、息子の報復による男爵家のキャベツ畑の狼藉、男爵家の仕事をクビになった父の自殺である。

執事の家に起こるのは、新生児の部屋の窓が開け放されて赤ん坊が死にかかること、執事の子供による男爵家の幼い息子の溺死未遂事件である。

牧師の家では子供の些細な失敗に対しても厳格な体罰が行われ、牧師である父は思春期に差しかかった長女と長男に「純潔」の心を保つために白いリボンを巻きつける。牧師はこれは親の愛の表れであるというが、あまりにも厳しく友人の前で叱責された長女は失神してしまい、その後父親の可愛がっている鳥を殺してしまう。また長男も自殺に近い不審な行為を行う。

教師は他の町の出身で、やはりその町の隣町から男爵家に乳母として出稼ぎに来ている若いエヴァと知り合い結婚を申し込む。教師は次から次へと起こる事件の背後には牧師の長男と長女が関係しているのではないかと疑い牧師に話しに行くが、逆に牧師から名誉毀損だと脅かされてしまう。

映画を一見すると、教師が疑ったように、欺瞞的な牧師の親から抑圧された長男と長女が次々と事件を起こしていくように見えるが、それは方向の違う解釈のような気がする。犯人がはっきりしているのは、小作人の息子が母親の仇をとるためにキャベツ畑を荒らすこと、執事の息子が男爵の息子を突然川に突き落とすこと、牧師の長女が牧師の鳥を殺すことだけである。それ以外は単に事故かもしれないし、映画に出てくる家族以外の村人たちが男爵を憎んでやったことかもしれない。よく考えると10歳前後の子供たちが、夜放火したり、他人の家に入り込んだり、針金を木に精巧に結んで馬の通り道を防いだり、自分の顔を知っている男爵家や助産婦の息子を誘拐して暴行したりするのは難しいと思われるし、子供たちがすべての事件のマスターマインドである方が非現実的ではないだろうか。しかし、未解決の事件が重なることで村人たちの間で不信感が募っていくとか、子供たちの間で犯罪に対する好奇心が強まっていくのは事実である。

この映画は、村を支配している2つの勢力が次第に勢力を失っていく過程を描いている。一つは男爵に代表される政治的支配者である。男爵はその土地を所有しているが、次第に貨幣経済制の浸透という近現代社会への発展で金策に苦労しているようだし、貴族階級による支配に対する反抗の気持ちも小作人に芽生えている。社会主義思想、労働者の権利思想がひたひたとこの田舎村にも押し寄せているのだ。そして、貴族制を支えていたドイツ帝国も第一次世界大戦の敗北で崩壊してしまうのである。

もう一つはプロテスタントの禁欲主義が畸形化し、牧師は人々の心も救えないし、自分の子供の心さえ蝕んでいるということである。私は牧師の長女長男は犯罪の殆どには加担していないと思うが、彼らは父の与える体罰や「愛しているからこそ、罰する」という偽善的な言葉を疑い始めている。まだ子供だから何もできないが5年後には親の存在そのものを否定する人間になりかねない。そんな怖さをこの映画は描いている。

言葉を変えれば、支配者階級とそれに反抗する階級、偽善的な牧師の権威とそれに反抗する子供たち、専制的な男とそれに従属する女たちの対立の構図である。

ヒトラーは1889年生まれだから、第一次世界大戦が始まった時は25歳であり、この映画に出てくる子供たちより若干年長である。つまりこの映画に出てくる子供たちは、第二次世界大戦でヒトラーを賛美しナチスを支持した世代なのである。この映画はナチスの勃興を説明してはいない。しかしこの映画の中で望遠鏡を覗けばその地平線の果てにナチスが見えてくるような映画なのである。しかしハネケはそれについて何も語っていない。

というわけで、聴衆は『白いリボン』を見た後で、取り残されたような悔しさ、もどかしさを感じるのだが、これではずばりハネケの罠に嵌ったことになる。彼は彼自身の映画を「私の映画は、安易に回答を与え聴衆の疑う力を失わせてしまうアメリカ映画に対する抵抗であり、批判なのです。私の映画は聴衆に即座の(そして往々にして誤っている)回答を与える代わりに、頑固なまでに質問を繰り返します。映画を開放して終わるのではなく、まだ真実には距離があるということを聴衆に確認したいのです。そして映画で聴衆がみな同意して満足するのではなくて、まだ終わっていないということを聴衆の心に波立てたいのです」という風に説明している。

このハネケの難解な言葉を私なりに解釈させてもらえば「この映画の中の15個の謎を解こうとして犯人探しをして下さって苦労様と言いたいんですが、残念ならが答えは間違っています。というか、誰もが同意する真犯人などはいません。私はあなたの頭を使って考えてもらいたいからこの映画を作ったのであり、答えは用意していません」ということなのだろうか。

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[映画] The Last Days (日本未公開)1998年

『The Last Days』はShoah 財団の財政援助で作成された、ホロコーストの生き残りの人たちの証言のドキュメンタリーの一つで、これはハンガリー系ユダヤ人でホロコーストから生還した5人の証言である。5人の証言者の一人は後に米国の下院議員に選挙されたトム・ラントスである。

Shoah財団は、スティーヴン・スピルバーグが『シンドラーのリスト』でアカデミー賞を受賞したのを契機に設立した財団であり、ホロコーストの生存者及び関係者の証言を記録し、その結果を次ぎの世代に伝えることを目的にしている。Shoah とはヘブライ語でホロコーストを意味する。スティーヴン・スピルバーグの祖先は17世紀あたりにオーストリアに住んでいたらしいが、自分たちをウクライナ系ユダヤ人と呼んでいる。彼の一族は早くからアメリカに移民しており、ホロコーストとは無縁である。また彼の家族はユダヤ人の多いニューヨークではなくオハイオ州とかアリゾナ州という田舎で暮らしているので、彼はアメリカでのユダヤ人のコミュニティーとはあまり縁がなかったようだ。しかし、『シンドラーのリスト』の成功により、ホロコーストは彼のライフワークの一つになった。彼はユダヤ人のみならず、奴隷で連れてこられたアフリカ系のアメリカ人や同性愛者の権利などにも深い関心があるようだ。

ホロコーストの生還者はすでに非常な高齢であり、彼らの証言は何らかの形で残されるべきであるし、「ホロコーストのことは戦時中聞いたこともなかった」或いは「ホロコーストは史実ではない」と主張する人が多数いる中で、それを事実だと証明するのが彼のミッションなのだろう。骨と皮までに痩せこけた収容所のユダヤ人の写真や、非常に大規模な収容所の建物を実際に見せられると、映画とは違う現実感がある。あれだけの広大な施設を設計した人、構築した人、管理した人がいるはずで、それに対する予算もあったはずだ。予算なしにはいかなるプロジェクトもなりたたないからである。

このドキュメンタリーは、ホロコーストの実態を5人の視点から描いているが、なぜヨーロッパで第二次世界大戦中にあれだけ大規模なユダヤ人狩りが起こったかについては、説明がない。これは彼らにもわからない謎なのだ。5人は非ユダヤ人の隣人や友人たちに囲まれ、社会的に成功している両親の愛にはぐくまれ、少しづつ厳しくなって行く反ユダヤ的法的規制も戦時の緊急の一時的なもので、戦争さえ終わればまた元の幸せな日常に戻れると信じていた。チェコ映画の『Protektor』やポーランド映画の『ソハの地下道』には、死を覚悟して自分たちを匿ってくれる人の努力にも拘わらず、「もうこんな汚い不便な生活はイヤ!!」と怒って、自分からユダヤ人の収容所に自発的に入った女性たちが登場する。すべてではないが、ヨーロッパでは裕福なユダヤ人が多かったし、その家庭で育った女性は何一つ不自由のないお嬢様お坊ちゃまだったのだろう。彼女たちには収容所の先に何があるかの予測がつくわけではないし、同じユダヤ人に囲まれている方が安全だし、外の空気も吸えるし、楽だと思ったのかもしれない。殆どのハンガリーのユダヤ人は、強制収容所は強制労働をさせられる所で、同胞のハンガリー人が戦争で苦労している時は自分も働くのは当然だと思い、収容所に行くことに納得したのではないか。しかし、彼らは、自分たちがトイレもない家畜専用の輸送列車で何日もかかってアウシュビッツに送られ、そこで自分たちが愛する祖国の政府からの命令でどんな目にあうかなどとは想像もつかなかったであろう。

ドイツに占領されて、大戦勃発の比較的初期からユダヤ人をアウシュビッツなどの収容所に送ったポーランド、チェコ、フランスなどと違い、ハンガリーではユダヤ人狩りが始まったのは遅く、1944年、ドイツの敗北が決定的になったころであった。ハンガリーはドイツの同盟国であり、ユダヤ人にとって比較的安全な地域であった。『この素晴らしき世界』にもでてくるように、お金をもらってチェコやポーランドのユダヤ人をハンガリーに逃亡させるビジネスをしている人もいた。命からがら逃亡して来たそんなユダヤ人がポーランドの収容所で何が起こっているかを説明しても、ハンガリー国籍のユダヤ人はまさかドイツ政府がそんなことをするわけがない、と半信半疑だったという。彼らはポーランドやチェコ或いはソ連国籍のユダヤ人と違い、ハンガリー政府が自分たちを守ってくれると信じていたのだ。

しかし、ハンガリー人の間での反ユダヤ人感情は1920年から30年代にかけて次第に強まっていったようだ。ハンガリーのユダヤ人は全人口の5%にすぎなかったが、彼らの大半は富裕な階層であった。1921年にブダペストの株式上場のメンバーの88%、為替ブローカーの91%はユダヤ人であった。ハンガリーの産業の50%から90%はユダヤ人が所有しているとも言われていた。ハンガリーの大学生の25%はユダヤ人の子弟であり、エリート校のブダペスト工業大学の学生の43%はユダヤ人の子弟であった。ハンガリーの医師の60%、弁護士の51%、民間企業のエンジニアと化学者の39%、雑誌編集者の29%はユダヤ人であったといわれている。ナチスやそれと共同するハンガリー政府はは生活苦にあえいでいる下層階級の不満の捌け口を、こういったエリートで裕福であった少数民族のユダヤ人への憎しみの気持ちに向けたのではないだろうか。

後に米国の下院議員になったトム・ラントスは収容所からすぐに脱出して、ラウル・グスタフ・ワレンバーグの隠れ家に逃げ込み、そこから反ナチスの地下活動を行った。ワレンバーグはスウェーデンの外交官で、外交官特権を利用して自分の事務所に逃亡して来たユダヤ人を匿った。一説によると彼の努力で10万人のユダヤ人が救出されたという。しかし、彼はドイツ撤退後に進駐してきたソ連軍の事務所にユダヤ人の戦後の安全について話し合いに行ったきり、行方不明となってしまった。彼は、危険を顧みず戦時中にユダヤ人を救ったとしてイスラエル政府のヤド・ヴァシェム・ホロコースト記念館から「諸国民の中の正義の人(Righteous Among The Nations)」賞を送られている。一説では、ワレンバーグはアメリカのスパイとみなされてソ連軍に会談に行った際に即逮捕され、その直後にボルシェビキの強制収容所で死亡したという。ゴルバチョフが政権を取ってから、こうした記録が次第に公表されるようになったのである。

ドイツ占領下のポーランドでは、ユダヤ人を支援した場合、支援を提供した本人だけでなくその一家全員、時には近所の人々も全て死罪とされたが、多くのポーランドがその危険を顧みずユダヤ人を救うことを選んだ。6135人のポーランド人が「諸国民の中の正義の人」賞の受賞者が出ている。日本からは外交官であった杉原千畝がただ一人この賞を受賞している。

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[映画] ブリキの太鼓 The Tin Drum(1979年)

『ブリキの太鼓』は、ドイツの作家ギュンター・グラスが1959年に発表した長篇小説を基にして、フォルカー・シュレンドルフ監督により1979年に映画化されたものである。映画は原作の後半を省いているが、前半はかなり原作を忠実に再現しているという。ギュンター・グラスはこの本を含めて作家としての業績で1999年にノーベル賞文学賞を受賞しているし、この映画自体はカンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞、そしてアカデミー外国語映画賞を受賞している。私は原作を読んでいないので、この映画のみについて書いてみたい。

この映画はガラス板を爪で引っ掻く音を聞かされるような不愉快な映画である。映画の主人公は何らかの理由で体の成長が止まって幼年のままであるが、頭脳や感情は立派な大人である。「この映画は戦争に反対するために成長を止めた主人公の戦争反対の思いである」などというキャッチフレーズはとんでもない。一言で言えば、体が小さいから安心させて好き勝手をして、結構いい目をみて、自分が責任をとらなくてはならない時は子供だからと、のうのうと責任逃れをしている主人公の物語である。主人公はその特異性ゆえに、大人の自分に対する甘さ、自分を利用する大人の狡さを敏感に感じ取ってしまうのだろう。また、主人公は作者ギュンター・グラスの一部を投影しているような気がする。

ギュンター・グラスは小人ではないが、この映画・小説の主人公のオスカルのように、ポーランドとドイツの拮抗の狭間にあった自由都市ダンツィヒで、やはりオスカルのように、ドイツ人でナチス党員の父と少数民族として差別されていたカシューブ人の母の間で生まれていた。オスカルは、仲間の小人たちと小人サーカスに参加してナチスの高官たちを慰問し、結構いい思いをするのだが、実際にギュンター・グラスも若いころはナチスの活動を一生懸命やっていた。それは彼自身もあまり公表したくない過去だったのかもしれないが、彼がそれを告白した時は、ノーベル賞作家で平和支持者のように行動していたギュンター・グラスを理想化していた世界の読者はかなりショックを受けたそうだ。

成功した作家だから即完璧な人間であるわけはないから、それを期待するのは読者の身勝手なのではないだろうか。また真面目に人生を考えて醜い世界を変えようと思い共産主義に染まる若者が嘗て多かったから、理想主義でこの世の中をもっといいものにしようという情熱でナチスに走った純粋な人間もたくさんいただろう。単に過去の真摯な決心を今日的な観点から判断はできないのではないか。この映画は小説の途中で突然終わっているので、聴衆は「不愉快な思いで引きずり回されて、これで終わりなのか?」と思わされてしまう。しかし、原作はその後も続き、相変わらず現実を逃避している主人公がそれなりの成長を遂げ、過去を振り返るところで終わっているそうだ。現実逃避の真っ最中に終わる映画に比べて、その自分勝手な未熟さをもう一つ別の観点で振り返る原作は映画にない深さがあるのではないかと推測する。

この映画が作られた1970年代というのは世界的に迷いの時代であった。冷戦が深刻化しつつも、もはや社会主義が世界を変える唯一の救いだというのが幻想であると大多数の人間が気づき始めたときである。自由主義と社会主義の対立の他に、キリスト教国家とイスラム原理主義国家という新しい対立も芽生えてきた。米英ソがレーガン大統領、サッチャー首相、ゴルバチョフ書記長という現実的な指導者を選び、現実的な解決を探し始めた1980年とは全く違う、「途方に暮れた時代」なのである。甘いハッピーエンドを必ず選んでいたハリウッドでさえ、解決策も救いもなく、絶望的に聴衆を突き放す映画を作り始め、聴衆もそういうタイプの映画が深くて真実だと思い込んでいた時代に、この映画は作られている。40年経った今この映画を見る聴衆はどう思うだろうか。現在の聴衆はもっと心を癒す映画、徹底的に娯楽的な映画、或いは情報があり生き方に肯定的な影響を与えてくれる映画を望んでいるのではないか。この映画がリリースされた時の熱狂的な反応を理解するのはもう難しくなっているのではないかと思われる。

ダンツィヒは、バルト海に接する港湾都市で、ドイツの北東部端を分断しているポーランド回廊にある。この回廊は古来ドイツとポーランドの間で利権を巡り争われた地域であるが、第一次世界大戦でのドイツ敗戦を踏まえて、ドイツから分離されて国際連盟の管轄下に移された。ダンツィヒはベルサイユ条約でポーランド関税領域に組み込まれ、実質的には地続きではないがポーランドと強い関係が結ばれるようになった。ポーランドへ接続されている自由都市の鉄道線はポーランドにより管理されていたし、ポーランドの軍港もあったし、2つの郵便局が存在し,1つは都市の郵便局で、もう1つはポーランドの郵便局であった。この地域の住人は、ポーランド人とドイツ人が大半をしめ、カシューブ人やユダヤ人のような少数民族もいた。

最初はポーランド人の利益を守り、ポーランド国の勢力を伸ばすことが目的で建設されたダンツィヒであるが、次第にドイツ人やナチスの影響が強まり、1933年にナチスが選挙で勝利した後は反ユダヤ、反カトリック(ポーランド人やカシューブ人が対象)の法律が成立することになった。1939年、ダンツィヒのナチス党政府は、ダンツィヒのポーランド人の迫害を本格的に行うようになった。そして1939年9月1日、ダンツィヒにあるグダニスク湾に停泊していたドイツ戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタイン号が何の布告もなくダンツィヒのポーランド軍駐屯地に激しい艦砲射撃を開始して、第二次世界大戦が始まったのである。

ポーランド軍はポーランドの郵便局を要塞として抵抗した。ポーランドの郵便局はダンツィヒ市域ではなくポーランド領と見なされており、ポーランドへの直通電話の回線が引かれていた。従業員は大戦以前から武装し、また銃撃の訓練を受けていたといわれる。またここはポーランドの対独秘密情報組織が密かに活動していたという説もある。しかし彼らの必死の防戦もドイツ軍の攻撃には歯が立たず、結局郵便局のポーランド民軍は降伏した。

第二次世界大戦は、ダンツィヒでは非ユダヤ系ポーランド人住民の大半がドイツ民兵である自衛団等により虐殺され、ユダヤ系住民はホロコーストの対象となり強制収容所へと送られた。1945年3月、ダンツィヒはソ連赤軍により解放された。映画でオスカルの母がカシューブ人でドイツ人の夫とポーランド人の愛人の間を行ったり来たりするのは、そのダンツィヒの人種闘争を象徴しているのだろう。オスカルの実際の父はポーランド人の男である可能性が強いが、戸籍上では彼はドイツ人の子供なので、戦後オスカルは命からがらドイツに逃げ出すが、彼の祖母はダンツィヒに残り、オスカルと生き別れになる。祖母はカシューブ人なので、ドイツに受け入れてもらえなかったからである。

現代のダンツィヒはポーランド領でありグダニスクと呼ばれている。第二次世界大戦で殆ど廃墟になったが、現在は市民の努力にようり歴史的町並みが再現され、美しい街であり観光でも栄えているという。

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[映画] 暗い日曜日 Gloomy Sunday – Ein Lied von Liebe und Tod (1999年)

舞台はナチスの影が忍び寄る1930年代後半のハンガリー・ブダペスト。ラズロは高級レストランを経営するユダヤ人。美貌のウェイトレスのイロナとは「大人の仲」である。彼らはレストランのピアニストとしてアンドラーシュを雇ったが、会った瞬間にアンドラーシュとイロナの間に恋の火花が飛び交う。しかしイロナはラズロと別れることもできない。またラズロとアンドラーシュの間にも友情が育つので、三人は奇妙な三角関係に陥る。またドイツ人の若者ハンスはイロナに横恋慕するのだが彼女に拒絶されて自殺をはかる。彼を救ったのはラズロであった。

アンドラーシュは彼女のために『暗い日曜日』という曲を作曲して、その歌をイロナへの誕生日プレゼントとして贈る。この曲はラズロの力添えでレコードとして発表され大ヒットするのだが、その曲を聴きながら自殺する人々が続出した。やがて、ハンスがナチスの幹部としてブダペストに戻ってきたことにより、イロナとラズロとアンドラーシュの運命は暗転する。

この映画は単に甘ったるい作り事ではなく、一部事実に基づいている。映画の中で流される『暗い日曜日』は、1930年代にハンガリー人の作曲家シェレッシュ・レジェーにより作曲され、それに歌詞をつけたのは、彼がピアニストとして働いていたレストランのオーナーのヤーヴォル・ラースローであった。またこの曲を聴いて自殺する人が続出するという都市伝説までできた。イギリスやアメリカの放送局では一時放送禁止曲に指定されたこともある。またシェレッシュ・レジェーもこの映画の中のアンドラーシュのように自殺している。

この曲を聴いて自殺するというのは、都市伝説に過ぎないと思うが、この曲は世界大恐慌、第一次世界大戦の敗北、そしてナチスの支配という暗い30年間を送ったハンガリー人の気持ちの暗さを反映しているのではないか。

ハンガリーは19世紀後半からオーストリアとオーストリア=ハンガリー二重帝国を形成し、経済的にも文化的にも世界のトップに躍り出たが、第一次世界大戦で破れ、オーストリアとも切断され、領土の半分を奪われ屈辱的な経済制裁を受けなければならなかった。1920年に結ばれたトリアノン条約により、ハンガリーは二重帝国時代の王国領のうち、面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残されることになった。国家としてこれ以上の屈辱があるだろうか?一方古来より領土争いなどでライバルであったチェコや北方のポーランドが共和国として独立し、この世の春を謳っている時だった。その苦い気持ちから、ハンガリーはドイツを結んで枢軸国の一員となった。ドイツの支持を追い風に1939年のスロバキア・ハンガリー戦争で領土を回復したし、ポーランドやチェコが後に辿ったドイツの一部となる、つまり地図上から国が消えてしまうという運命からは免れることができたが、ハンガリーの国民の大半は次第に枢軸国から脱退することを願うようになっていた。しかし、その時はすでに手遅れで、どうにもならなかったのだが。

結局枢軸国は第二次世界大戦で負けるのだが、一時はトルコ、ブルガリア、ルーマニア、チェコ、ポーランドの東欧とオランダ、ベルギー、ノルウェイ、フランスの北部までを支配し、スペインと英国以外はすべて枢軸国の支配化になっていた時期があった。スペインは参戦こそしなかったがドイツの『親友』であったから、中立のソ連を含めて英国以外のヨーロッパが殆どヒットラーの支配下に墜ちた時期もあったのである。

この映画は、単なるソープ・オペラだと思っていた。ソープ・オペラとは『昼メロ』とでも訳すべきか。洗剤会社が主婦の購買層をターゲットにして、昼に流す甘ったるいロマンティックな連続メロドラマのスポンサーになったことから、安っぽいメロドラマのことをソープ・オペラと言う。しかし、この映画は知性を売り物にする(はずの)映画批評家の仲で異常に評判がいい。何故なのだろうかと思って見てみてわかったのだが、この映画は宝塚の劇なのである。宝塚のショーの切符を買う時に、知的な批評や歴史的な事実の再現、或いは変な芸術至上主義を期待して買う人はいないだろう。2時間美しいものにうっとりして、楽しくすごせればそれでいいのだ。この映画はまさにそれである。

しかし、この映画はただ甘いだけでなく苦い汁もあり、結構食えない映画なのである。映画の中で一番憎むべき人物、自分が愛するイロナの体当たりの懇願も無視して、自分の命の恩人のラズロをユダヤ人収容所に平気で送ってしまうハンス。彼はユダヤ人を楽々助けれる状況にいたのである。事実数多くのユダヤ人を大金や大量の宝石などをもらって国外逃亡させている。その時に「何かあったら、私がたすけてあげたと証言してほしい」とダメ押しまでしているのである。いわば、『シンドラーのリスト』のシンドラーのような男である。スピルバーグの映画では英雄として描いていても、同じ人物を別の角度から見ると結構醜いですよ、という感じである。彼はナチスのSSであったにもかかわらず、ユダヤ人を助けた英雄だということで戦後も生き抜き、非常に成功した実業家として妻と共にブダペストに観光旅行で戻ってくる。

イロナは3人の男から愛されて、その3人を上手に操っている。まあ本人はそれが愛であるから、操るなどとはゆめゆめ思ってもいなかったのだろうが。アンドラーシュが自殺した後は彼の巨額のロイヤリティーは彼女のもとに譲られることになった。またラズロは自分の店を守るために、収容所に送られる前にイロナに店の権利を譲り、イロナはその伝説的なレストランを自分のものにするのである。またアンドラーシュは美男で天才的なピアニストではあるが、金に対する理解力もあって、金の交渉など現実的な面でも結構長けているのである。この映画ではそうした財政的な議論がちゃんと描かれている。ただ甘く切なく哀しいだけの映画ではないのである。

一番の極めつけはイロナの子供の育て方である。アンドラーシュとラズロが死んだあと、彼女が妊娠しているということが描かれる。アンドラーシュの子供であってほしいのだが、彼が死んだのはちょっと早すぎる感じである。イロナの子供は母を助けてずっとレストランの経営をしているので、聴衆は彼がラズロの子供だという印象を受ける。しかし一番の可能性があるのはこれがハンスの子供であるということだ。そうなるとイロナがその子供を育てたやり方がまことに見事である。最後に聴衆はハンスに裏切られて死んだラズロの恨みをやっとイロナが果たすのを目撃するのだが、もしイロナの子供の父親がハンスであるとしたら、これは結構恐ろしい復讐である。言葉は悪いが「たいしたタマだ」と言いたくなるのである。

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[映画]  この素晴らしき世界 Divided We Fall(2000年)

United we stand, divided we fallと言うのは、団結すれば立てるが、分裂すれば倒れるという意味である。通常はUnited We Standという言葉が人々の団結を訴える時に使われることが多いが、この映画は助け合わなければ負けるというDivided We Fallの側面を強調している。題の邦訳は原題とは全く違う。この邦題を考えた人は、ベトナム戦争に反対して、平和な世界を願って作られた『この素晴らしき世界』という曲を念頭においていたのかも知れない。その歌は ルイ・アームストロングによって歌われ、1987年の映画『グッドモーニング, ベトナム』で、戦時中のベトナムの牧歌的田園風景を映す印象的なシーンにバックグランドミュージックとして流された。

この映画はチェコ映画であり、ナチスの支配時の庶民の苦しみの生活を描くが、その後のソ連の進駐に対する批判も間接的に描く。2003年に公開された『Želary』(日本未公開)と時代背景やテーマがよく似ている。どちらもアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたのだが、ナチスの弾圧の中で自分の命を守るために見知らぬ人と結婚してしまう(Želary)とか、自分の妻を他の男の手により妊娠させてしまう(この素晴らしき世界)というちょっととんでもないことをしてしまうというのも似ている。どちらの映画でも底に流れるのは「ドイツもひどかったけれど、その後やって来たソ連もひどかった」というものである。

第二次世界大戦で独ソの対立の犠牲になったという点では、チェコはポーランドと似た運命を辿ったが、彼らは最初はソ連を敵視していたわけではない。帝政ロシアは海路を求めて南下策をとっていたので、ロシアは帝国主義の先進国である英国から警戒されていた。またロシアはバルカン半島の覇権を巡ってオーストリア・ハンガリー帝国とも対立関係にあった。しかしチェコやポーランドにとってソ連は、自分たちを支配しているオーストリア・ハンガリー帝国の敵、つまり敵の敵は味方かもしれない、くらいの気持ちを持っていたのではないか。ロシア人もチェコ人もポーランド人もスラブ人という同じ民族なのである。

ヨーロッパにはたくさんの民族と国家があったが、結局第二次世界大戦までヨーロッパの流れを決めていたのは、英仏伊独の四カ国であった。この四国は共産主義革命で生まれたソ連を非常に警戒していた。英仏はドイツ人国家がバルカン半島を巡って長年ロシアと対決しており、また領内に多数のスラブ人を抱えてその反抗に悩んでいたこともあり、独ソが絶対相まみえることのない宿敵であると知っていたので、ヒトラー率いるドイツがソ連と対立しているのは自分たちにとっても悪くはない状況だと思っていた。しかしヒトラーも馬鹿ではない。1939年8月23日に独ソ不可侵条約が秘密裏に締結され、9月1日早朝、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、9月3日に英仏がドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まったのである。

この映画では、ナチスの支配下の小さな町で、ナチスの協力者になる者、密かにパルチザンになる者、ユダヤ人を匿う者などを描き、小さい町で隣人同士が誰も信じられないような環境で息を潜めて生きた庶民の物語である。全体を通してユーモラスなトーンを保ち、暴力的なシーンはないのが救いはあるが、それでもかなりしんどい状況である。

子宝に恵まれないヨゼフとマリアは、ユダヤ人のダヴィデをひょんなことから匿うはめになる。ダヴィデの父はヨゼフの上司であった。強制収容所から逃亡して町に戻ってきたダヴィデを発見したヨゼフは、ユダヤ人をみつけたら報告しなければならないという法令を破って彼に食事を与え、彼の逃走計画を助けるがそれが失敗してしまう。ダヴィデの存在を報告しなかったというだけで死刑ものなので、ヨゼフとマリアは「毒を食らわば皿まで」と覚悟してダヴィデを匿う決心をする。彼らの友人のホルストはドイツ人の妻を持つナチスの協力者である。ヨゼフは自分が疑われないように、意に反してホルストの部下になり、ナチスの協力者であるふりをする。ホルストはマリアに横恋慕したり、ヨゼフとマリアが何かを隠していることを気づく厄介な存在であるが、ナチスが彼らの家を家宅捜査しようとすると、自分の立場を利用して彼らを守ってくれる。

ナチスが敗れてソ連軍がやって来た。ヨゼフは裏切り者だとしてパルチザンに処刑されかかるが、自分はユダヤ人を匿うためにそうせざるを得なかったと弁明する。パルチザンはそれを証明するためにダヴィデに会うが、実はダヴィデが町に逃げ戻って来た時最初に彼を発見したのはそのパルチザンであった。そのパルチザンは慌てふためいてナチスの軍に大声で「ユダヤ人がいる!!!」と叫んだのだったが、その声がナチス軍に届かなかったので、ダヴィデは逃げることができたのだった。再開した二人はそのことを表に出すことなく、だまってうなずくのみであった。ホルストは裏切り者として処刑されようとしていたが、ヨゼフは自分の身の危険を犯してまで今度は彼を救おうとする。

この映画でソ連軍の兵士が「一体誰を信じていいのかわからない」とぼやくシーンがある。ソ連軍がヨーロッパの隣国に侵攻するのはこれが初めてである。彼らも、どのように振舞っていいのかわからなかっただろう。蛮行に走った兵士たちもたくさんいただろう。また表面的には歓迎してくれても、まだナチスの協力者は町に残っている。それらの人間をどうやって捜していくべきなのか。『Želary』でも村に入ってきたソ連軍を最初に歓迎はしたものの、若い兵士が村の女性をレイプし始めたり、疑心暗鬼になったソ連軍が村人と交戦を始めたことが描かれている。英米軍がイタリアやフランスを順調に解放した西部戦線と違い、ソ連がナチス支配下を開放した東部戦線はかなり複雑だったのである。

この映画は自分たちをナチスから守るためユダヤ人のダヴィデに頼んでマリアを妊娠させてもらったヨゼフが、無事生まれた赤ちゃんを抱き上げるところで終わる。何か聖書の受胎告知を思わせるシーンである。考えてみれば、ドイツが第二次世界大戦で戦った国はすべてキリスト教の国であり、キリスト教を生んだイエスはユダヤ人なのである。戦争を始める前に聖書をもう一回読んでほしいというメッセージであろうか?

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[映画]  英国王給仕人に乾杯! I served the king of England (2006年)

この映画は英国映画ではなく、チェコ映画である。英国王はもとより、英国も全く登場しない。エチオピアの皇帝がちょっと顔を出すだけである。だから『英国王のスピーチ』のような映画を期待してこれを観ると???と言う感じになるのではないか。

この映画は美しくグロテスクな映像の風刺喜劇である。しかし、主人公の人生やその時代から、この映画はある意味でチェコの近現代史ともいえる。この映画は第一次世界大戦の敗戦でオーストリア=ハンガリー帝国が解体され、チェコ・スロヴァキア共和国が誕生した1918年から、ヒトラーがズデーデン地方を併合し、その後チェコがドイツの保護領とされてしまった1939年をへて、ソ連の後押しを受けた共産党政権が成立した「二月事件」の起こった1948年を描き、1968年あたりで映画は終わる。チェコ共産党の支配下で発言の自由を奪われていたボフミル・フラバルがこっそり1970年ころ書いた小説をもとに、やはり共産党政権下で製作の自由を奪われていた監督イジー・メンツェルが、共産政権崩壊後2006年に映画化したものである。イジー・メンツェルは1967年に、同じボフミル・フラバル原作の映画化『厳重に監視された列車』がアカデミー外国語映画賞を受賞しているが、その後、1989年に共産主義政権が崩壊するまで長いキャリアのブランクがある。

チェコの映画といえば、最初はドイツに痛めつけられて、次はソ連に支配されて、苦しい迫害の20世紀だった・・・というトーンになるのかと思えば、この映画は違った角度から20世紀のチェコの歴史を描いている。この映画で何回ともなく語られているのがチェコのズデーテン地方である。

チェコの歴史は複雑である。チェコの中心はボヘミア地方であるが、ここは11世紀からドイツ人の植民によりドイツ化が進み、また北のポーランド王国、南のハンガリー王国とに支配されるという複雑な支配闘争が続いた。結局1618年から始まった三十年戦争にでチェコ人貴族が敗れたので、ボヘミアに置けるドイツ人の支配権が確立されたが、歴史的にボヘミア地方ではドイツ人とチェコ人の間には対立関係が強かった。チェコは伝統的に反ドイツ汎スラブでロシアに対する親近感が強かったのだが、この地域は結局オーストリア・ハンガリー帝国の一部となった。ボヘミアには炭田が多く、その豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、ボヘミア地方は中央ヨーロッパ有数の工業地帯となった。

ズデーテン地方は、ボヘミアの西の外縁部でドイツ国境の地域であり、古来よりドイツ人が多く居住していた区域であり、ドイツ人とチェコ人の対立が最も激しい地域であった。ドイツ人住民はチェコ人の多数派の支配の下で、職業の選択などの差別に甘んじていた。1918年の第一次世界大戦でのドイツ・オーストリアの敗戦の結果、オーストリア・ハンガリー帝国が解体し、チェコはスロヴァキアと合体してチェコ・スロヴァキアが独立国家を形成した。チェコは反独が主流であったが、ロシアに近いスロヴァキアでは逆に反ロシア親ドイツの気が強かった。チェコはズデーテン地方に侵略し、この地をドイツから奪い取った。この映画でもチェコ人がドイツ人を苛めているシーンがたくさん出てくる。その苛めはユーモアたっぷりに描かれているのだが、注意深く見ると残酷である。チャップリンの映画のような軽快さと巧みな動きで聴衆を見事にひきつけるのだが、裏に毒があり、またいろいろと考えさせられるものがある。

1938年3月にオーストリア併合を達成したヒトラーにとって次の領土的野心はチェコスロバキアであり、ヒトラーはズデーテン地方に居住するドイツ人が迫害されているという口実を使って、ズデーテン地方の支配権を得ようとした。当時チェコは領域を巡って、隣国のポーランドやハンガリーとも紛争中であった。この状況を利用して、ドイツはズデーテン地方の主権を得、その勢いに乗ってチェコを併合してしまったのである。

この映画では鏡が効果的に使われている。鏡は何かを反射するものである。この映画はチェコのメインストリームでない主人公が風刺たっぷりに映し出すチェコの素顔である。主人公は誰にも注目されない地味な小柄なチェコ人には珍しいブロンドの男である。チェコが独立して好景気に沸いていた時は貧しい男である。他のチェコ人がドイツ人を苛めている時、唯一ドイツ人を助けてあげる男であり、ドイツ人の女性と結婚までしてしまう。ナチスの支配が始まり他のチェコ人が弾圧され始めると、妻のおかげで高給ホテルや高給レストランでいい仕事につける。高給ホテルは一見優雅の極みではあるのだが、そこに来る金持ちや高給軍人や政治家たちはそこで本性を曝け出す。ホテル従業員は「すべてを見た上で、何も見なかった振りをする」ということに徹底しているので、そこに来る金持ち連中はホテルの従業員などの目を全く気にしない。主人公を描くことで鏡のようにその時代時代の人間を描いていくのである。第二次世界大戦でドイツが敗北し共産革命が成立した時主人公は大富豪だったのでその罪により15年間刑務所に入れられるという人生を送る。釈放された後、主人公はズデーテン地方に送られ重労働に課せられる。

主人公が到着した時はズデーテン地方は廃墟となっていた。第二次大戦後すべてのドイツ人は強制的に国外追放になったのだ。追放されたというのが一番いい待遇で、もっと恐ろしいこと、たとえば略奪や虐殺のようなものが起こっただろうということが示唆されている。主人公がこの廃墟のような山の中で静かに人生を振り返るというところで映画が終わる。主人公の若い時と老年期を演じた役者は別人で二人は似ていない。主人公の人間性が変わったというために二人の役者を使ったのだろう。この映画は主人公の青年期から初老にかけての35年くらいを描く。普通なら一人の役者が十分演じることができる年数ではあるのだが。

この映画はチェコ近代史にとって汚点のような、あまり触れられたくないズデーテン問題をチェコ人として取り上げている。画像美しき喜劇にはしているが、ズデーテン問題を主題にするのはかなり勇気のいることである。特に原作の著者ボフミル・フラバルはズデーテン問題が公的に解決される遥か以前の1970年代にこの作品を書いているという、その作家としての良心には感嘆する。それを思うとこの軽快なコメディは、自分を含めたチェコ人に「ナチスの被害者となる状況は、自分から作り出したのではないか?隣人とのちょっとした人種の違いで憎しみを持ち続けた自分たちは、心の狭い人間ではなかったのか?」という恐ろしい問題提起をしているのではないだろうか。

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[映画]  ヒトラー 〜最期の12日間〜 Der Untergang Downfall (2004年)

この映画は、ヒトラーの個人秘書として、ドイツ・ベルリンの総統官邸の地下壕で彼と生活を共にし、彼が自決するまで身近に仕え、彼の遺書をタイプしその死を目撃したトラウドゥル・ユンゲの回顧録を基にして作られた。

ヒトラーは1930年からずっと二人の秘書を使用していたが、1937年あたりから多忙になったので、ゲルダ・クリスティアンという女性を第三秘書として採用した。この女性は大変な美貌の持ち主だったという。クリスティアンは国防軍参謀本部のエックハルト・クリスティアン空軍少佐と結婚するために1942年から長期休暇を取ったので、彼女の代わりに採用されたのが、トラウドゥル・ユンゲであった。映画では美貌の女優がユンゲを演じ、ヒトラーは候補者がたくさんいる中で人目で彼女を気に入って採用したように描かれている。彼女はナチス生誕の地でありナチス活動の本拠地であったミュンヘンの出身だったので、それも一つの理由だったのかもしれない。ベルリンは共産主義に対する共感の強い地域で、歴史的にナチスが選挙で苦戦していた地域であった。クリスティアンが結婚休暇から復帰した後もユンゲはヒトラーの秘書として留まり、忠実なヒトラーの側近となった。

アドルフ・ヒトラーが総統官邸の中庭に地下壕を設置させたのは1935年のことである。その後1943年には、戦況が著しく悪化したので、防御機能を高めた新たな総統地下壕が建造され、二つの地下壕は階段で接続された。地下壕は攻撃にも耐えられるよう厚さ4メートルものコンクリートによって造られ、約30の部屋に仕切られていた。大戦末期の1945年1月からヒトラーはここでの生活を始めた。ヒトラーと愛人のエヴァ・ブラウン、ナチスナンバー2のゲッベルスとその家族、有力な親衛隊幹部、そして秘書と料理人がここに居住した。ヒトラーはベルリン市街戦末期の1945年4月30日にここで自殺した。

ヒトラーの死後、彼女は逃亡中連合軍に逮捕されたが、深く調査されることもなく、すぐ釈放されたという。その後も「私は何も知らなかった」という主張を続けているので、彼女の回想記から歴史上驚くべき真実は期待できないだろう。また、一番年少の秘書として知りえた政治的情報などは大したことではないだろう。もし彼女の視点で映画を作るなら「ヒトラーは優しい上司」であるし、ヒトラーのお気に入りの彼女をちやほやした将校たちは「素敵な叔父様たち」になるだろうし、安全な地下壕でワインを飲み、美味しい食事をとり、朝寝坊して夕方から映画を観る生活は捨てがたい、という映画になってしまうかもしれない。

ヒトラーが戦局の悪化に伴い4人の秘書に退去を命じた時も年配の二人の秘書は逃亡したが、ユンゲとクリスティアンは「最後まで総統と生死を共にする」といい、その命令を拒んでいる。ユンゲは後に「なぜそのような決断をしたのかわからない」と述べているが、やはり死の実感のない若さで、「いざとなれば死んでみせる」といった若気の至りと言うか純粋さが50%、そしてまさかこの全治全能で今まで自分に心地よい環境を与えて自分を守ってくれた男が負けるわけはないという若さゆえの愚かさが50%であったのだろう。保護者も友人もいない戦火のベルリンに一人放り出されるより、慣れ親しんで自分を守ってくれる(と思っている)人々に囲まれていた方がずっと安全だと感じられたのであろう。

ナチスの真実を知らず、外で苦しんでいた市民の生活も知らなかった彼女の視線を映画として生かすとしたら、彼女なりの若い女性のカンのよさであろう。秘書として誰にも愛想よく振舞っていても、彼女は誰が自分の上司のヒトラーに忠誠で誰が裏切るだろうということを上目遣いにじっと観察している。この映画は40%は彼女の視点に立って、絶対権力が倒れ命の危険にさらされる人間がどう行動するかを描いている。それだけでは不十分なので当時のナチスの人物像を歴史に基づいて付け加えたのが30%、それだけでもまだ十分ではないので、戦争に苦しんでいる市民の生活も加えている。だからこの映画に主人公はいないし、語り手の目線もあちこちにぶれる。ユンゲは顔を出すだけで、重要な役割は果たさない。映画の三分の二は自分の側近に失望したヒトラーが怒鳴ることに終始するから、ヒトラーが主人公なのかと思うとそうではない。この映画の本当の深さはヒトラーの死後から始まる。権威が喪失した後、人はどうするかというのを短い期間で生き生きと描いているのだ。ヒトラーに殉死した者もいる。逃亡して連合軍に逮捕され裁判で処刑された者もいる。逃亡を企てて国家に対する裏切り者として同僚に処刑されたものもいる。また共産主義であるという理由でソ連軍が入ってくる前に一般市民を見せしめに処刑したものもいる。将校はヒトラーが厳禁した喫煙をおおっぴらに始め、残り少ないワインを飲み干して酩酊した。逃亡を企てた者は南部のアメリカ軍が占拠していた地域を目指して逃げた。彼らにとっての一番の恐怖はソ連軍に逮捕されることであった。

ナチスについての詳しい知識の全くなかった私にとってこの映画は情報の宝庫であったが、その中でも一番印象に残ったのは、「ああ、やはりヒトラーは自決したのだな」ということであった。これは当たり前のことではあるが、やはり巷には『義経・ジンギスカン』都市伝説というものがある。ヒトラーは自殺せず、誰かが身代わりになり、アイデンティティーがわからないように、死体をガソリンで焼いた、ヒトラーは秘密の抜け道からこっそり抜け出したと。あんな強欲な男が簡単に死を選ぶわけはないと。

しかしヒトラーが自分の死体を焼いてもらいたかったのは、死を偽造するためではなく、自分の死後自分の体が広場に晒されたり(ヒトラーはムッソリーニがパルチザンによって無残に処刑され広場に晒されたことを知っていた)自分の服が博物館に展示されるのを防ぐためであるとこの映画は語っている。彼にとっては『誇り』が一番大切だったのである。自分の恥が晒されるのが一番怖いことだったのである。側近の一部が「国民のために、手遅れになる前に無条件降伏をするべきだ」と提言すると、それは恥になるので絶対に許せない。提言をした人間は危うくのところで射殺されそうになる。或いはそう提言して実際に処刑された人もいるのではないかと思わせるような迫力であった。彼は『市民』とか『国民のため』という観念を失っていた。映画では「市民、特に女性と子供を守らなければ」と提案する将校に「本土決戦になっている今、市民という概念は存在しない」と言い切っているのである。そこには「自分はどうなってもいいから、国民だけは助けてあげたい」とか「自分の間違いに対する裁きは受けるが、自分の命令に従った国民は罰しないでほしい」という心はない。どのようにして、自分の『名誉』を守って死ぬかということで頭が一杯なのである。

確かに逃亡用の地下道はあったらしい。ヒトラーの最後の命令の死体消却を完了したオットー・ギュンシェ親衛隊少佐はヴィルヘルム・モーンケ大佐に従い、ユンゲとクリスティアンを連れて地下道を通って逃亡を企てたが結局逃亡しきれなかった。クリスティアンは逃走を諦め、ギュンシェ少佐とモーンケ大佐と行動を共にする。映画は彼らがソ連軍に逮捕されるところは描かず、ユンゲが自転車に乗ってミュンヘンに脱走するシーンで映画は終わる。

映画ではクリスティアンは小さい役しか与えられていないし、彼女に対する情報はゼロに近い。クリスティアンはその後苦労してアメリカ占領地域に逃げ出すのだが、ギュンシェ少佐とモーンケ大佐はソ連軍に連行され、それぞれ東ドイツとソ連で10年間服役している。クリスティアンはギュンシェ少佐のことを『生涯の親友』と呼んでいたそうだ。彼女は戦争後まもなく夫と離婚し、その10年後に釈放されたギュンシェ少佐との再会を果たしている。

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[映画] 戦火の馬  War Horse (2011年)

『戦火の馬』は、1982年に出版されたマイケル・モーパーゴによる児童小説を基にして、2007年からニック・スタフォードの脚色により戯曲化されロンドンの劇場で好評を得ていた『軍馬ジョーイ』を、スティーヴン・スピルバーグ監督により2011年に映画化されたものである。映画のロンドン・プレミアでは、ケンブリッジ公爵ウィリアム王子とキャサリン妃が出席した。スティーヴン・スピルバーグの絶妙な語りと、どこで泣かせるかを完璧に心得たツボを抑えた演出、そして最初から最後まで計算され尽くした美しい画像は、黒澤明の力量を彷彿させる。

この映画は戦争用に売られた馬を通じて、その持ち主のイギリスの小作農家の少年、馬に乗って戦死する英軍将校、脱走兵として処刑されるドイツの少年兵たち、戦火でドイツ軍に親を殺され自分の農場を略奪されるフランス人の少女とその祖父、そしてその他の戦争に翻弄される英独仏の人々を描く。言い換えると、馬という美しい動物を最大限に利用して観客を引っ張り、人々が都合よく登場しては殺される映画である。

この映画で一番興味深いと思ったのは、騎兵隊が第一次世界大戦を最後として消滅して行く、つまり馬が戦争の役に立たなくなったという背後には戦争の技術の革命があるというメッセージである。スピルバーグは別にそれを伝えるためにこの映画を作ったわけではないだろうが。

歴史上、騎兵は戦術的に重要な兵種と考えられてきた。高速度で馬と共に移動できるし攻撃性も強いので、奇襲・突撃・追撃・背面攻撃・側面攻撃・包囲攻撃など、幅広い用途に使われた。また敵陣の偵察などにも効果的に活用された。19世紀前半のナポレオン戦争時代に、騎兵は全盛を迎え、戦場を駆け抜けて突撃する騎兵隊はナポレオンの勝利に大きく貢献した。しかし1870年に起こった普仏戦争ではフランス騎兵隊がプロイセン軍の圧倒的火力の前に全滅し、フランスはプロイセン軍に敗北を遂げる。

この背後にあるのは新しい武器の導入である。南北戦争(1861年から1865年)あたりから、機関銃やライフルの使用が始まり、それから身を守るために塹壕が掘られ、戦争は個人戦から、集団による打撃戦へと変化していった。突撃してくる馬は相手側による格好の射的となり、また狭いノーマンズランドに対峙して持久戦に持ち込むという地形の中でもはや馬が闊歩する時代ではなくなった。馬を維持するコストを考えると、騎兵は勝率効果の低い高コストの戦術となってしまったのだ。英軍を率いる将校たちは貴族の出身で、近代戦や機関銃に対する知識は叩き込まれていても、心の奥底ではまだ古い時代の騎士が馬に乗って名誉を重んじて勇敢に戦うことに憧れる精神が残っており、この映画では、騎兵で奇襲をかけた英軍が、徹底的に近代化したドイツ軍の機関銃に壊滅されるということがリアルに描かれている。

馬と象とラクダは古来から人類の友人であり、貴重な労働を提供してくれる存在だった。高い知能を持ち、一度飼い主と信頼尊敬の関係を築くと忠誠に尽くしてくれる。しかしただ穏やかなだけではなく、怒ると信じられないような強さも見せる。人類にとって、馬そして犬は永遠に友人であり続けるだろう。この映画を観て、主人公の馬に泣かされた人も多いだろうが、私は最初から最後まで醒めた気持ちを感じざるを得なかった。その理由を述べてみよう。

まず、馬を前面に押し出すために使われる登場人物の描き方が浅いというか不可解である。少年の親は、馬の購買を競っている自分の地主に負けたくないという意地で、大金を叩いてこの馬を買うが、借金が払えなくなるという状況に追いやられ、腹立ち紛れに自分が買った馬を射殺しようとする。この無茶苦茶な馬の紹介シーンが最初にでてくるので、その後はいかに馬が美しい演技をしても同感ができなくなってしまうのである。この馬は軍部に理不尽に徴収されたのではなく、父親が自分の借金の穴を埋めるために自ら軍に売りに行くのである。これは一例であるが、とにかく登場人物の描き方が浅い。ノーマンズランドを挟んで敵対する英独軍の兵士が馬を助けるために一時仲良くなるというシーンは『戦場のアリア』を彷彿させるが、『戦場のアリア』ではそれが映画の主題であるからその顛末を丁寧に描いているが、『戦火の馬』では映画の数多いエピソードのてんこ盛りの一つに過ぎず、とにかく唐突な感じがするのである。たくさんの負傷兵をかかえている野戦病院は人間の負傷兵で溢れかえっているが、軍医が「馬を助けるために出来る限りの手を尽くそう」というくだりでは、涙がでてくるより「ウ~ム、何故?」と思ってしまった。

次にこの映画では英独仏の登場人物が皆英語をしゃべるので、話のわけがわからなくなる時がある。ドイツ兵の将校のドイツ語の掛け声にあわせて行進する兵士が英語でしゃべっているので、捕虜になった英兵?と思ったらドイツ兵である。フランスの農場を略奪する軍隊も英語を話すので、英軍が味方のフランス人を虐待しているの?とびっくりするが、これはどうあってもドイツ軍という設定でなくてはならないのだろう。スピルバーグが全員に英語を話させているのは、アメリカでのこの映画の興行の成功を狙ったからに違いない。アメリカ人は字幕のある外国映画が好きでない。これは「洋画は実際の俳優のしゃべる声を聞いて、その微妙さを味わいたい」と思い、吹き替えよりも字幕を好む日本人にはわかりにくいかもしれないが、私はアメリカ人の映画のディスカッションサイトで「なんでこの映画、吹き替えじゃないの?字幕なんて面倒くさくて観る気もしない」と文句を言っているアメリカ人の投稿を何回か読んでいるので、そう思うのである。(今のところ)世界のナンバーワンであるアメリカ人は、世界中の人が英語を話すのが当然だと思っているという気持ちがどこかにあるのだろう。

ハリウッド映画は音楽を効果的に使う。この映画でも音楽は確かに美しいのだがスピルバーグは使いすぎているような気がする。今までずっと成功していたジョン・ウィリアムズとのコラボではあるが、音楽の力は認めるとしても、これは濫用というレベルに来ているのではないか。特に音楽をあまり使用しない非ハリウッド映画を見たあとでスピルバーグの映画を観ると「はい、ここで泣いてください」と言われているような気がして「Enough(やり過ぎ)!」と感じてしまう。しかし、兵士をバグパイプで送り出すシーンでは思わず鳥肌がたった。スピルバーグにまんまと嵌められたと思った一瞬であった。

またシンボル的な小細工が鼻につく。たとえば、主人公の少年の父はアル中だが、実はボーア戦争で名誉の負傷をしたということが明らかになる。その名誉のペナントを少年が馬に結びつけ、ペナントは友情の象徴として次々に馬の所有者の手で守られ、馬と共に少年のもとに戻ってくる。私はそのペナントを見るたびに「どうだ、すっごくカッコいいシンボルを考え付いただろう」という得意げなスピルバーグのドヤ顔がちらついてしまったのである。

聴衆の反応は「感激した。泣けた」というものと「小手先の映画の泣かせる技術に心が醒めた」との二つに分かれる映画ではあると思う。

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[映画]  戦場のアリア Joyeux Noël Merry Christmas (2005年)

1914年、クリスマス前夜フランス北部の塹壕で、フランス・スコットランド連合軍は旧フランス領を占拠し進撃して来たドイツ軍と、狭いノーマンズランドを挟んでで対峙していた。ドイツ軍に徴兵されその陣にいた国際的なオペラ歌手ニコラス・スプリンクを恋人のソプラノ歌手アナ(ダイアン・クルーガー)が訪ねてくる。クリスマス前夜、衛生兵としてスコットランドに奉仕していたパーマー神父がスコットランド陣営でバグパイプでクリスマスの曲を奏でると、ドイツ陣営のニコラスもクリスマス聖歌を歌い始める。フランス・スコットランド連合軍は思わず拍手を送り、ニコラスは中立地帯のノーマンズランドに立ち歌い続けた。それがきっかけになり、三国の将校は中立地帯で面会し、クリスマスイヴだけは戦闘を中止することを決定する。パーマー神父がクリスマスミサを行い、アナが聖歌を歌った。翌日も彼らは戦争を停止し、中立地帯に放棄された同胞の死体を埋葬し、サッカーを楽しみ、チョコレートとシャンペーンを分け合い、家族の写真を見せ合う。しかし、つかの間の友情を交換した彼らにも、戦いを開始しなければいけない時が来る。この友情の交流を知ったそれぞれの軍部や教会の上層部は怒り、友情を交わした兵士たちはその行為に対する厳しい結果を受け止めなければならなかった。

戦争中に敵国兵が友情を交わしたというのは本当に起こったのかと思われるかもしれないが、この映画は実際に起こった事実をいろいろ繋ぎ合わせて製作されたという。クリスマス休戦や敵国間での友情の交流は第一次世界大戦の公式の記録に残っていない。しかし西部戦線で生き残った兵士が帰還後、家族や友人に口承や写真で事実を伝えたのである。

1914年に実在のドイツのテノール歌手、ヴァルター・キルヒホフがドイツ軍に慰問に行き、塹壕で歌っていたところ、ノーマンズランドの反対側にいたフランス軍の将校がかつてパリ・オペラ座で聞いた彼の歌声と気付いて、拍手を送ったので、ヴァルターが思わず中立地帯のノーマンズランドを横切り、賞賛者のもとに挨拶に駈け寄ったことは事実であるし、独仏両軍から可愛がられていたネコが仏軍に逮捕されたことも事実である。このネコは後にスパイとして処刑されたそうだ。また敵軍の間でサッカーやゲームを楽しんだことも事実であるらしい。

このクリスマス停戦は第一次世界大戦が始まった直後のクリスマスに起こっている。第一次世界大戦は史上初の総力戦による世界大戦であり、誰もがその戦いがどういう方向に発展して行くか予想もつかず、最初は戦争はすぐ終わるという楽天的な気持ちが強かったようだ。しかし戦争が長引くにつれて危険な武器や毒ガスが使用され、また最初はのんびりした偵察のために使用されていた飛行機が恐ろしい戦闘機に変化していった。戦争が激しく残酷になるにつれてこの映画に描かれているようなクリスマス停戦が行われることは稀になっていったという。

彼らを瞬間的にでも結びつけたのは、音楽とスポーツ、そして宗教の力である。戦闘国の独仏英はみなキリスト教国で、この頃は人々の信仰も強く、クリスマスが本当に大切なものであったということも、クリスマス休戦の動機になっていたであろう。同じキリスト教国の国であるということで、敵国も理解しやすかったのであろう。もしこれがイスラム教徒とキリスト教徒、或いはイスラム教徒とユダヤ教徒との間の戦争であったなら、クリスマス休戦などは起こらなかったであろう。

第一次世界大戦で一番大きな政治的な変動を遂げたのはドイツである。当時ドイツはまだ帝国であり、臣民はドイツ皇帝兼プロイセン王ヴィルヘルム2世の名の下に戦ったのである。しかし大戦が続く中で国民の厭戦気分は高まり、1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起からドイツ革命が勃発し、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、これにより、第一次世界大戦は終結し、ドイツでは議会制民主主義を旨とするヴァイマル共和国が樹立された。

その後もドイツの政権は安定せず、敗戦後は戦勝国側からの経済的報復を受けドイツ国民は悲惨な生活を送っていた。その不満の中で1920年にナチスが結成され、それが第二次世界大戦に繋がっていくのである。映画の中では、ドイツ軍を率いたホルストマイヤー中尉はユダヤ人であった。クリスマス停戦を知った西部戦線の最高司令官であったヴィルヘルム皇太子は激怒し、ホルストマイヤー中尉の部隊を危険な東部戦線に送ってしまうが、その際にヴィルヘルム皇太子は中尉の胸にあるドイツ軍の鉄十字を自分の剣で突き「貴様は鉄十字に値しない」と怒鳴るが、それは20年後にドイツ市民権を剥奪され、ドイツ兵にも志願できず強制収容所に送られるユダヤ人の運命を暗示しているシーンであった。

この映画のメッセージを一言でいえば、「戦意は国家指導者によって形成されるものである」ということではないだろうか。この映画は英独仏の小学生が周辺の国に対する戦意を学校で愛国教育として叩き込まれるシーンから始まる。国民は敵国の兵士は顔のない獣だと思わされているから、戦争で戦えるのである。しかしクリスマスイブの夜の交流によって、初めて相手を人間と認識した兵士たちにとって、殺し合いは難しいものとなる。フランス軍を率いるオードゥベール中尉が、クリスマス停戦への非難を受けた時「ドイツ人を殺せと叫ぶ連中よりも、ドイツ兵の方がよほど人間的だ!」と反論する。また戦争に戻らなければならない兵士の「我々は(今日だけでも)戦争を忘れることができる。でも戦争は我々を忘れはしない」という言葉がいつまでも聴衆の心にのこるだろう。

この映画は美しい細部の描写が印象的な佳品なのだが、もし私が難点をつけるとしたら、オペラ歌手を演じたダイアン・クルーガーのあまりにも明らかな口パクだろう。彼女が兵士の前で歌う聖歌がこの映画の大きな転換点になるはずなのだが、歌っている彼女の体の震えもないし、口も平板にパクパクさせているだけで、素人目にも歌詞と彼女の口の動きが外れているのが明らかな瞬間が多すぎるのだ。美しい絵のような彼女の口だけがパクパクと切れたように動いているので、ここで映画の感動から冷めた聴衆も案外多いのではないか。ダイアン・クルーガーは確かに美しいがこの映画では本物のオペラ歌手、たとえばこの映画で実際に歌声を提供しているナタリー・デセイなどに任せた方がよかったのではないか。聴衆はダイアン・クルーガーの口パクより、むしろスコットランド軍のパーマー神父が奏でるバグパイプの演奏に感動するのではないか。『ムッソリーニとお茶を』でも、映画はナチスに占領されたイタリアの町を解放したスコットランド軍がバグパイプを弾きながら町に入ってくるところで終わる。バグパイプの音はなぜあれほど明るくて、楽天的で、悲しくて、感動的なのであろうか。

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[映画] ニュールンベルグ裁判 Judgment at Nuremberg (1961年)

ニュールンベルグ裁判は史実である。しかしこの映画は、史実の中の歴史的なエッセンスを基に物語を作成し、冷戦下のアメリカの良心という観点から、第二次世界大戦後の世界を描こうとした試みであるといえるだろう。

第二次世界大戦終了後、戦勝国である米英仏露の軍部指導者は、ドイツの戦争犯罪人を裁くためにニュルンベルクに集まった。1945年に開始された前期の裁判は戦争を導いたドイツの最高クラスの指導者を一方的に断罪し、厳しい判決が下されたが、この映画の舞台となった1948年のニュルンベルク継続裁判になると、裁判を取り巻く世界情勢が微妙に変わっていた。米英仏にとっての脅威はもはやドイツではなく、ソ連であった。ソ連軍はドイツ東部を占拠し、さらにドイツ全土の占拠を視野に置いていると思われた。米英仏はソ連がドイツを支配下に置けば、全ヨーロッパがなし崩しに共産化すると判断し、今や米英仏の関心は、ドイツ人を裁くよりドイツをソ連から守り、共産化されることを防ぐことであった。

映画はアメリカの地方裁判所の判事ヘイウッド(スペンサー・トレイシー)が、ニュルンベルク継続裁判の一つのケースの主任判事に任命され、ニュールンベルグに赴く所から始まる。彼が任命された理由は、このケースはドイツの最高クラスの法律家を裁くものであり、特に国際的に高名で敗戦当時はナチの法務大臣であったエルンスト・ヤニング博士(バート・ランカスター)が被告の一人であったので、誰もその裁判の判事になりたがらず、無名で実直なヘイウッド判事にその任務が押し付けられたのであった。

ヘイウッド判事とニュルンベルクに滞在しているアメリカの軍人たちは、ドイツの伝統とその文化の奥深さに感動する。戦後の貧しさの中でも人々は美味しいビールを飲み、酒場では美しい合唱を楽しみ、ピアノやオペラの演奏に心を震わせる。人々の心は優しく、「ドイツ人は世界が信じるような獣ではない」と一人一人が証明しようとしているかのようだ。戦勝国として入って来た軍人たちは、「僕たちは、まるで美しい宮殿に土足で踏み入るボーイスカウトのようなものだな」と自嘲してしまうのである。戦争さえなければドイツはアメリカ人にとっての文化的憧れであっただろうに。そんなヘイウッド判事や、検事を勤めるローソン大佐(リチャード・ウィドマーク)に国家のトップから、裁判を早々に切り上げて、ドイツを味方につけるために厳しい判決をくださないようにという暗黙のプレッシャーがかかってくる。

ローソン大佐を迎え撃つ被告の弁護士ロルフ(この映画でアカデミー賞主演男優賞を受賞したマクシミリアン・シェル)は鋭い理論でローソン大佐の主張を次々に論破していく。ローソン大佐はユダヤ人の強制収容所を解放した自分の経験から、ユダヤ人の連行を文書の上で承認した法律学者を徹底的に裁こうとする。反対にロルフは「ドイツと独ソ不可侵条約を結んだソ連、虐殺や不法占領を行ったソ連の戦争責任はどうなのか。共産主義を抑えるためにヒットラーに同意した英国のチャーチルの戦争責任はどうなのか」と激昂する。それは、ニュールンベルグ裁判で戦勝国の横暴を黙って耐えなければならなかったドイツ人の無念を代弁していたのである。

裁判の最大の焦点はヤニング博士がニュルンベルク法の基で犯罪を犯したかどうかであった。ニュルンベルク法はナチが作った法律で、ユダヤ人とドイツ人の交流を犯罪として定義している。ヤニング博士は判事として、少女イレーネ・ホフマン(ジュディ・ガーランド)と交際したという罪状でユダヤ人の老人を死刑に、その罪状を否定するイレーネを偽証罪で懲役に課していたのだ。

ヘイウッド判事は人々の予測に反して被告全員に有罪判決を下し、終身刑に課した。彼は検察側は実際の犯罪が行われたことを『beyond a reasonable doubt』まで証明し、被告たちの名による執行命令の文書がない限りはこの犯罪が行われなかったから、被告たちは実際に手を下さなかったが法的な共謀者であるという理論であった。これに対し、裁判の副審を勤めた米国人の判事は弁護士ロルフの理論に同意し、被告はドイツの国家法であるニュルンベルク法に従ったまでであり、もしこの法律に従わなければ被告は国家に対する謀反の罪を犯すことになったとし、主審であるヘイウッド判事の判決に反論を加えた。

ここには英米で行われている普通法(Common Law)と独仏で行われている成文法の解釈の対立という図式もみられる。ヘイウッド判事は普通法の国米国で法律を学んでいるから、裁判官による判例を第一次的な法源とし、裁判において先に同種の事件に対する判例がある時はその判例に拘束されるとする判例法主義の立場から有罪判決に至った。しかしもちろん英米にも成文法があるから、裁く領域に成文法が存在する場合には成文法の規定が普通法よりも優先する。成文法は基準がは明確だし、ナポレオン法典のように長期間模範になる法律もあるが、ニュルンベルク法はどうであるだろうか?狂った指導者が狂った成文法を作ることは可能であることを、ニュルンベルク法は示唆しているのではないだろうか。たとえば、米国でも新しい法律を作ることは可能である。しかし、その法律は議員の多数の賛成を得なくてはならないし、もしそれが憲法に反対していたら司法から否決されるのである。

ヘイウッド判事の有罪判決はドイツ人もアメリカ人も失望させた。人々は被告はニュルンベルク法に従っただけであり、責められるのは法律そのものだと信じていた。また同時期の他の裁判は概ね被告が無罪となり、たとえ有罪であったとしても刑が非常に軽かったからだ。ロルフはヘイウッド判事に面と向かい「被告は全員5年以内に無罪放免されるだろう。アメリカ人はきっと近い将来ソ連軍に不法裁判で裁かれるような事態に置かれるかもしれないから、せいぜい心せよ」という言葉を投げかけて去って行く。ヤニング博士の要望で個人として彼と対面したヘイウッド判事は「あなたは有罪だ。なぜならば、イレーネ・ホフマンの裁判に臨む前にあなたは既に有罪判決を決めていたからだ」と述べる。ヘイウッド判事も、無罪判決を下したら、自分の判決が判例となり、将来文書で死刑を宣告した人間は自分の判例を根拠にして無罪になるという拡大解釈が起こるのを防ぎたかったのであろう。

マレーネ・ディートリッヒがニュールンベルグ裁判で処刑された将軍の未亡人として出演している。彼女の夫は戦後すぐの戦勝国の集団リンチのようなニュールンベルグ裁判で有罪となったが、もし裁判が1948年に行われていたら無罪になった可能性もあると映画では示唆されている。ヘイウッド判事と友情を育てた夫人は、夫妻ともにヒットラーを憎み、夫はドイツ国民を守るために戦ったのであり、国民の大部分はナチが何をやっていたのかは知らされていなかったと述べ、ドイツ国民の魂をヘイウッドに伝えようとする。

マレーネ・ディートリッヒの生涯がこの将軍夫人のキャラクターを生んだと言えよう。ドイツ出身の彼女は渡米後、ユダヤ人監督スタンバーグとのコンビでハリウッドのトップスターになった。アドルフ・ヒトラーはマレーネが気に入っておりドイツに戻るように要請したが、ナチスを嫌ったマレーネはそれを断って1939年にはアメリカの市民権を取得したため、ドイツではディートリッヒの映画は上映禁止となる。その後彼女は身の危険を冒してまで、アメリカ軍人の慰問に尽くした。

戦後アメリカを訪問した女優の原節子はマレーネ・ディートリッヒに紹介された時の感想を次のように述べている。映画ではとても美しく見えるのですが、実際に会ったディートリッヒはさばさばとあっさりした人で、顔も平板で映画での怪しい美しさが感じられませんでした。綺麗な人という印象は全くありませんでした・・・・

マレーネ・ディートリッヒの美しさは、そのたぐい稀なプロフェッショナリズムと人生への決意から来ているのではないだろうか。ディートリッヒがこの映画で若く美しい未亡人を演じた時、彼女は既に60歳であったのだ。原節子ももちろん戦争中は(他の日本人がそうであったように)大変苦労したであろうが、マレーネ・ディートリッヒがどれだけのものを乗り越えて来たのかを考えることはなかったであろうと思わされるような彼女の発言であった。

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