[映画]  4ヶ月、3週と2日 4 Months, 3 Weeks and 2 Days (2007年)俺の笛を聞けIf I Want to Whistle, I Whistle (2010年)

2000年代に入ってからのルーマニア映画の活況は非常に目覚しい。毎年、何らかの映画が国際映画祭の最高賞を受賞しており、これらの動きはルーマニアのニューウェーブと言われている。今年はついにクリスティアン・ムンギウによる『汚れなき祈り“Dupa dealuri(Beyond the Hills)”』がアカデミー賞外国語映画賞部門でのショートリストにまで残り、最終候補ノミネーションにあと一歩まで来ている。もしノミネートされれば、ルーマニア映画界で初の快挙となるだろう。ルーマニアのニューウェーブというのは、2000年代から始まった国際的に注目され続けるルーマニア映画の総称に過ぎないが、社会性が強く、素人っぽくミニマリストの写実性という手法を取るということでは、ある種の共通性がある。社会主義の崩壊時に10代20代だった世代が今30代40代となり、西欧やアメリカの映画技術に影響され、新しい映画を作っている。

ルーマニアの映画は社会主義体制でほぼ壊滅してしまったので、若い世代である彼らの頭を抑える重鎮とか先輩の監督はいないので、彼らは比較的自由に活動ができる。彼らは感受性の強い十代で天地が引っ繰り返るような社会変化を経験し、その後の国家の再建の困難さも目撃しているので、表現したい題材には事欠かない。また全世界的に「今、ルーマニアの人々は何を感じ、考えているのか」という好奇心もあり、ルーマニアの映画に耳をすませている聴衆もいる。西欧の映画に関する情報もどんどん入ってくるし、EU加入後移動の自由も保証された。また世界的規模での名声を得た隣国トルコのヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督のようなロール・モデルも身近にいる。映画製作に対するすべての条件が熟してきたのだ。ルーマニアの映画がカンヌやベルリンの映画祭で大きな賞を受賞するたびに「国の名誉だ」という喜びの声が国内で沸き起こる。まるで、かつてオリンピックの体操競技で選手が金メダルを獲得した時のように。

『4ヶ月、3週と2日』は、ルーマニアのニューウェーブの中では国際的に最も成功した映画である。チャウシェスク大統領による独裁政権のルーマニアを舞台に、妊娠をしたルームメイトの違法中絶を手助けするヒロインの一日を描く。監督は『汚れなき祈り』で、2013年のアカデミー賞ノミネートに王手をかけているクリスティアン・ムンギウである。クリスティアン・ムンギウは1968年生まれであるから、まだ44歳であるが、経歴を考慮に入れるとルーマニアで最も成功している監督の一人だといえるだろう。

社会主義政権下のルーマニアでは人工妊娠中絶は非合法であった。ルーマニアの若いカップルは多くても2~3人くらいしか子供をほしがらず、人口減少を恐れたチャウシェスク大統領は1968年に、人工妊娠中絶を法律で禁止としたからである。その結果、非合法に危険を冒して秘密裏に妊娠中絶を行って死亡する女性もいた。『4ヶ月、3週と2日』はエリートであるはずの大学生の主人公が、ルームメートの中絶を助けるために飛び回る様子が描かれる。その友達が妊娠した理由やその相手は一切描かれず、親にも相談せず違法の医師を友人の口コミで捜して行く現実、荒涼とした通りを野良犬が歩き回る首都ブカレストの様子、タバコを現金代わりに持ち歩く主人公、質素なアパートの中に一歩入ると密かに贅沢を楽しんでいる(どうやら金持ちらしい)主人公の恋人の家族、もし主人公が妊娠したらどうしようかと真面目に考えていない主人公の恋人など、社会主義政権崩壊の直前のブカレストの知識人の生活も垣間見える。

『俺の笛を聞け』は新人フローリン・セルバンの監督、ベテランのカタリン・ミツレスクの脚色、プロデュースによる映画で2010年のベルリン映画祭において銀熊賞(審査員グランプリ)とアルフレッド・バウアー賞の2冠に輝いてる。カタリン・ミツレスクは1972年生まれなのでまだ40歳である。2004年に作成した『トラフィック』がカンヌで短編映画大賞を受賞し、この映画がルーマニアのニューウェーブの隆盛のきっかけになったといわれる。2006年の『The Way I Spent the End of the World』が国際的に大きな注目を浴びた。監督のフローリン・セルバンは1975年生まれ、アメリカを中心に活躍している。

『俺の笛を聞け』は非行少年更生施設に収容されている18歳の少年が主人公である。なぜ彼がここに収容されなければいけなかったのかに関する説明は一切ない。しかし、ルーマニアの人々は大人の育児放棄によって孤児院に引き取られる子供がチャウシェスク政権下ではたくさんいたということを知っている。これらの子供たちは「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれ、ストリートチルドレン化するなど、後々までルーマニアの深刻な社会問題となった。また、社会主義政権の崩壊後、現金収入を得るために自分の子供をルーマニアにおいてイタリアやスペインなどに出稼ぎに行く親が増えた。残された子供たちは何らかの手段で生きていかなくてはならず、そういった子供たちが犯罪を犯し、この映画の主人公のように少年刑務所に送られてきたのであろう。

『俺の笛を聞け』はハンドカメラを使い長いショットを取る。だから映像がぶれて、何となく素人が取ったドキュメンタリーのような印象を与える。フローリン・セルバンはアメリカの大学で映画学を専攻しているから、洗練された映画はたくさん観ているだろうし、作ろうと思ったらそれなりに洗練された映画を作れるだろうが、敢えてこういった素人的な、素材を生でぶつける手法を選んでいるように思われる。

ルーマニアには職業俳優もあまりいない。これらの映画に出演しているのは、全国的オーディションで選ばれた素人や、数少ない映画大学の学生たちである。しかし、中年にさしかかろうとしているカタリン・ミツレスクやクリスティアン・ムンギウによる俳優や映画人養成も始まるだろうし、ルーマニアのニューウェーブに新しい成熟が始まるのも時間の問題だと思われる。

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[映画]  キャラメル Caramel (2007年)

キャラメルはレバノンの首都ベイルートの下町の、とある美容室で働く3人の若い女性と、その顧客の中年の女優の卵、 近所に店を構える老年に差し掛かった仕立て屋の5人の女性の友情とそれぞれのロマンスを描く。美容室での友情といえばアメリカ映画の『マグノリアの花たち - Steel Magnolias』を思い出してしまうが、それとよく似た女性目線の映画である。なぜ美容室が女性の友情物語の舞台になるのだろうか?

まず美容室は女性だけの場所である。普段男性に気兼ねをしている女性も、男性の介入がないので、本音をぶちまけることができる。普段は親、夫、子供に尽くしている女性もここではかしづいてもらえ、自分が客として主人公になれる場所でもある。また美容師の方も男性に遠慮せず、自分が一番のプロフェッショナルになれる場所である。また客の女性は普段隠している自分の弱点、シワやシミや白髪や薄くなった頭を見せなくてはならない場所であり、自分の弱点を晒した美容師には、もう自分の私生活や弱みや悩みを隠す必要はないと感じ、ついつい本音を分かち合い、女同士の友情(sisterhood)が生まれてしまうのであろう。

日本人女性にとっても『髪は女の命』であろうが、中東の女性の髪への思い込みは格別なのではないだろうか。私が米国に住み始めた時、外国から来た女性たちが集まる英会話のクラスに出席していたことがあった。そこには私以外にロングヘアーの綺麗な若い日本女性、アラビア、エジプト、イランなどから来た何人かの女性たちがいた。ある日、その日本人女性が「私の髪の手入れは・・・」と話し始めると、それまで退屈そうに子供を抱きながら聞いていた中東の女性たちが突然自分の子供を放り出すほどの勢いでソファからたちあがり、「その秘密を教えて!!」と彼女に走り寄ったのである。結局彼女の美髪の秘訣は海藻を毎日食べることだと聞いて皆「な~んだ」とがっかりした顔をした。今でも、彼女らの生き生きした好奇心に満ちた目の光が突然消えた瞬間を忘れることができない。

日本人にとってアラブの国、中東はどれも似たり寄ったりで、女性はベールと長いすそで体を隠しているというイメージを抱きがちだが、中東の国々はそれぞれ独自の歴史と文化をもっている。トルコやイランは勿論独自の長い伝統と高い文化を持っているが、レバノンもそうである。地中海に面して北アフリカや南欧の国々と貿易をし、古来よりキリスト教徒が多く、また近年はフランスの支配下に置かれていたレバノンは南欧との関係が強い。特にこの映画の主人公の殆どはキリスト教徒なので、彼女たちはベールをかぶらず自分たちの美しさを存分に誇示しているかのようだ。

また人々はレバノンは戦火の国だと思いがちである。歴史的にそれは真実であるし、この映画の製作と前後した2006年にはレバノンとイスラエルの間で交戦が起こっている。しかし、この映画には戦火の匂いは全くない。主演、脚本、監督をした若くて美しいナディーン・ラバキーがこの映画を作った意図は「レバノンをただ戦争の国として見てほしくない。私たちは等身大の人間で、誰もが直面する愛の悩みを持ち、普通に生きているのだ。そんな私たちのありのままの姿を見てほしい。」ということであろう。確かにここでは、不倫、老いへの怖れ、社会から純潔を求められることへの負担、同性に対する憧れ、家族の面倒をみなければならない義務、結婚への不安など女性としての共通の悩みがある。しかしこの映画の中のレバノンの女性としてのユニークさは、キリスト教徒としてヨーロッパ文化とムスリム文化の狭間に置かれてどっちつかずの谷間にいることの葛藤、近隣のムスリム人との位置関係、またいつ再開するかもしれない市街戦への怖れなどが、背後に見え隠れしていることであろう。

レバノンの先住民族はヘブライ文字・ギリシャ文字・アラビア文字の基となったフェニキア文字を発明したフェニキア人である。その後この地域は7世紀に、東方からのアラビア人に征服された。その後ここを支配したトルコ帝国からは自治権を得、西方からのキリスト教の影響も受けるようになった。第一次世界大戦でトルコが負けた後、この地はサイクス・ピコ協定によりフランス委任統治領となった。フランスはチュニジアやアルジェリアの統治ではかなり苦労したが、キリスト教国であったレバノンは統治しやすい地域ではあった。この委任統治は1941年6月8日のレバノンの独立宣言とともに終了した。この独立は英国の支持を受け、平和的なものであった。その後金融・観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、レバノンの首都ベイルートはリゾート地としてにぎわい、『中東のパリ』と呼ばれるほどであった。

ヨルダン内ではキリスト教徒とイスラム教徒が何とか力関係のバランスを取っていたが、その微妙なバランスが崩れたのは、パレスチナ難民を匿っていた隣国のヨルダンがパレスチナ難民を追放したので、難民たちと過激派のPLOがレバノンに大挙流れ込んだのがきっかけである。1975年にかけて内戦が発生し、1982年にはレバノン国内のキリスト教徒と組んだイスラエル軍がレバノンに侵攻した。イスラエルに対抗するシリアや、イランの支援を受けた過激派のヒズボラなどの応戦と国際世論の反対で結局イスラエルは2000年にレバノンから撤退するのだが、その後も混乱は続き、レバノンは親米派、親シリア派、ヒズボラ容認派、否定派等複雑な派閥争いが続き国力が疲弊した。この映画が作成された2006年には、ヒズボラのテロ活動に怒ったイスラエルが報復のためにレバノンを攻撃するレバノン紛争が起こっている。結局イスラエルは国際連合安全保障理事会の停戦決議を受け入れて撤退し、シリアのレバノン支配の力はますます強まった。

監督のナディーン・ラバキーはこの映画では徹底的に『私は政治的ではない』という立場を貫いている。しかし、この映画の国際的な大ヒットで一躍有名になり、アラビアン・ビジネス誌の『世界で最もパワフルなアラブ人100人』で、女性のトップ5に選出されるまでになってしまった彼女はもはや『私は政治的ではない』に終始できる立場ではいられなくなったようだ。その後彼女はレバノンにおけるキリスト教徒とイスラム教徒の対立を描いた『Where Do We Go Now?』を製作した。この映画については、また別の記事で書いてみたいと思う。

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[映画]  カティンの森 Katyń (2007年)

現在のこの時点で「観て良かったと思う映画を一本だけ選ぶとしたら何か?」という問いに、私が迷い無く選ぶのがポーランド映画 『カティンの森 Katyń』である。映画としてもかなり高水準だが、この映画を観なければ決して知りえなかったであろう情報を提供してくれる。この映画に対して、心から感謝したい。

東のロシア、西のドイツに挟まれた‎ポーランドは、歴史的に両国の勢力争いの犠牲になるという悲劇を持つ。1939年9月、 ドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦が勃発した混乱を利用して、ソ連はポーランドの東部に侵攻した。同時に秘密裏に独ソ不可侵条約が結ばれ、ポーランドは、ドイツとソ連に分割占領されることになったのである。西からドイツ軍に追われた人々と、東からソ連軍に追われた人々は、ポーランド東部のブク川で鉢合わせになり、ソ連軍から逃げて来たポーランド人はドイツから逃げて来たポーランド人に危険だから西に戻れと言い、ドイツ軍から逃げて来たポーランド人は逆のことを言う。個々の人間が自分の運命を瞬間的に決定しなければいけなかった。

ポーランド政府はロンドンへ脱出し、ポーランド亡命政府を結成した。ポーランド軍人は速やかに独ソ両軍からの命令に応じ、ドイツ軍とソ連軍に平和的に名誉の降伏をした。ドイツ軍は国際法に則りポーランド兵を釈放したが、ソ連軍はそうではなかった。『カティンの森』はソ連軍に降伏したポーランド兵が辿った運命を描く。

1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランド亡命政府とソ連は条約を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、攻ナチのポーランド人部隊が編成されることになった。しかしその時点で捕虜になった兵士の90%以上が行方不明になっており、ロンドンのポーランドの亡命政府の追求に対し、ソ連側はポーランド兵士はすべてが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。

しかし1943年4月、不可侵条約を破ってソ連領に侵攻したドイツ軍は、元ソ連領のカティンの森の近くで、2万人近くのポーランド兵士の死体を発見した。ドイツは、これを1940年のソ連軍の犯行であることを大々的に報じた。その後ドイツが敗北し、大戦が終結した1945年以後、ポーランドはソ連の衛星国としてソ連の支配下に置かれた。ソ連はカティンの森事件は実はドイツ軍の仕業であったと反論し、大々的な反ナチキャンペーンを行い、その後ソ連支配下のポーランド人が事件の真相に触れることはタブーとなった。

この映画は、ソ連支配が始まった後、ナチスドイツに対する憎しみと身の安全の追求のため、人々がソ連に靡いて行く中で、カティンの森事件の被害者の親族で真相を明らかにしようとしてソ連占領軍に対抗した少数の人々の悲劇も併せて描く。

監督のアンジェイ・ワイダは父をカティンの森事件で虐殺された。彼は『地下水道』『灰とダイヤモンド』『大理石の男』などで世界的な名声を獲得したが、同時にその反ソ的姿勢から、ポーランド政府から弾圧を受けた。彼はカティンの森事件の映画化を50年以上の長きに渡って構想していたが、ベルリンの壁の崩壊以前ではそれは不可能であり、2007年に最終的にこの映画を作製した時は既に80歳であった。「カティンの森で何が起こったかを伝えるまでは死ねない」という怨念が伝わってくるような映画である。この映画で私たちが記憶しなくてはならないのは次の3点であろう。

まず犯罪である。戦争は人と人が殺しあうという異常な極限状態ではあるが、その中でも普遍的なルールがある。まず非戦闘要員(civilian)は絶対に意図的に殺害してはいけない。そしてたとえ戦闘要因であっても、降伏した兵士に対しては人間的な扱いをしなければならない。しかし、スターリンの指令の下で捕虜の収容を担当していた内務人民委員部(NKVD)はポーランドの兵士を個々に尋問し、すこしでも反共産主義の考えが感じられた兵士は容赦なく殺害したのである。

次は嘘である。ドイツがカティンの森での死体を発見した後、ジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査の依頼がなされたが、ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は調査団派遣を断念した。1943年4月24日、ソ連は同盟関係にあったポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求したがポーランド亡命政府はそれを拒否し、ついにソ連は亡命政府との断交を通知した。大戦に勝つためにソ連の助けが必要と信じる連合国軍は、ソ連を直接非難することは許されなかった。1944年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集するためにジョージ・アール大尉を密使に任命した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触して情報を収集し、カティンの森虐殺はソ連の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールはその後任務からはずされ、サモアの任務に更迭された。こんな同盟国のお国の事情を背景に、ソ連は虐殺はナチスドイツの許されざる犯罪であるという偽りの見解を50年に渡り維持し続けたのであった。

最後に私が強調したいのは、戦勝国の傲慢である。

1946年の、ニュルンベルク裁判においてナチスドイツの罪は裁かれた。戦勝国のソ連はこの機会を利用して、カティンの森での虐殺の首謀者としてドイツを告発しようとまでしたが、さすがにアメリカとイギリスはソ連の告発を拒絶した。その後この事件の責任について、西側でも東側においても議論が続けられたが、ポーランド国内では、支配者であるソビエト連邦に対する怖れにより誰も真相を究明することは許されなかった。この真相を問われることのない状態は1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで継続し、若い世代はカティンの森の虐殺があったということも知らされることはなかった。

カティンの森事件の被害者の人権が最終的に認められたのは、1989年のソ連の自由化開始後であった。1989年、ソ連の学者たちはスターリンが虐殺を命令し、当時の内務人民委員部長官ベリヤ等がカティンの森虐殺の命令書に署名したことを明らかにした。1990年、ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。1992年のソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最終的にカティンの森事件の公文書を公にし、ここで遂に50年に渡ったソ連の嘘が始めて公に証明されたのである。

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[映画]  ペルセポリス Persepolis (2007年)

英語で『ヤング・アダルト』という言葉がある。自分は子供ではないと思い始めているが、周囲からは大人とは認められていない時期で、自我の芽生え、進路の選択、異性への興味、大人や社会との葛藤に揺れる時期でもある。思春期という言葉と重なるが、ヤング・アダルトは、親の監督を離れて、無軌道に走ったり、羽目を外した異性交遊やドラッグにふけり、暴力、自殺、家出などコントロールのきかない生活態度を取る若者を指すために使われる場合が多い。

『ペルセポリス』はイラン出身の漫画家マルジャン・サトラピのヤング・アダルトの時期を描く自伝漫画の映画化作品である。大人になるのは結構辛いものだが、彼女の場合は成長期が全くイラン宗教革命とイラン戦争、その後の文化的抑圧と重なるので、『ペルセポリス』はかなり政治的な味わいを帯びてくるのだが、彼女は政治的な人ではない。「私はポリティックスには全く興味がないわ。ポリティックスが勝手に私を追いかけて来るのよ!」(”I am not interested in politics. Politics is interested in ME!”)という彼女の肉声が面白い。

マルジャン・サトラピは1969年にイランのテヘランに生まれた。彼女は前王朝カージャール朝最後の国王であるアフマド・シャーの曾孫である。彼女の祖父と叔父はアフマド・シャーにとって代わったパーレビ国王の政策に反対して投獄されていた。彼女の父も進歩的な考えを持ち、自由を抑圧するパーレビ国王に国民の大多数と共に反対運動を起こしていた。パーレビ国王が1979年1月に国外逃亡した喜びもつかの間、4月にイランは国民投票に基づいてイスラム共和国が樹立し、ホメイニー師が政権をとると共に、イランはパーレビ国王治世よりも更なる抑圧の政権下に移って行った。加えて1980年、長年国境をめぐってイランと対立関係にあり、かつ国内へのイラン革命の波及を恐れた隣国イラクがイランに侵攻して、イラン・イラク戦争が勃発した。戦場では若い兵士が戦線の最先端に置かれ『弾除け』として使われるという風評も伝わり、徴兵期の男子を持つ親で外国へ逃亡するものも多かった。

1983年、マルジャン・サトラピは両親の意向によって留学のためにオーストリアの首都ウィーンに単独で移った。これは戦争を避けるためと言うよりも、ムスリムの新体制では女性の結婚最低年齢は9歳に引き下げられたため、女児と無理やり結婚してその後性的虐待をしても罪にならなくなったので、彼女の両親は娘が合法レイプの犠牲者になるのを恐れたからである。しかし、彼女はオーストリアの生活には馴染めなかった。当時は国際的なイラン人のイメージは残酷な野蛮人であり、自分がそういう目で見られているのではないかと思い、また外見に神経質になる時期にヨーロッパ人の女の子と違う顔立ちや体型のイメージに苦しみ、親の監視もない中で自堕落な生活を送り、下宿を世話してくれる人たちとも次々に衝突し、遂に住む家もなく路上で寝、ゴミ箱をあさる日を送るようになってしまった。そんな生活の中で肺炎を患いホームシックにかかり、ついにイランに帰国することになった。

帰国後は鬱病にかかり、薬の大量服用で死の寸前まで行った。しかし、そのあと家族の「大学で学問をし、自立する女性になってほしい」という言葉に励まされて大学に入学する。短期間のイラン青年と結婚とその破綻の後、1994年に「今のイランはあなたを生かしてくれない」という両親の提案で彼女はフランスに渡るというところで映画は終わる。

叔父はイスラム政権下で他の自由主義者や社会主義者と共に処刑された。戦争に行った友人は手足を失って帰って来た。隣の家に住む友人はイラクからのミサイルに撃たれて死んだ。パーティーはイスラム政権下では非合法だったが、敢えてそれに参加し、その過程で一人の友人は警察に追われて死んだ。イスラムの女性らしからぬ振舞いで逮捕されると「罰金か、鞭打ちか」と言われ、大金を積んで難を逃れる。せっかく入った大学も、イスラム教の原理で運営されていて、喜びもない。悪者だと思っていたパーレビ国王の政権は叔父を投獄しただけだったが、ホメイニ師のムスリム政権は叔父を処刑した。何一つ社会はよくなっていないのだ。

そういう壮絶な青春を描いているのに、この映画は奇妙な明るさを失わない。映画が実際の俳優による演技ではなく、アニメーションであるというのもその一つの理由だろう。その画像は不思議なユーモラルな表現を保っている。しかし、この映画の底に流れている明るさは家族の愛から来ているのだろう。マルジャン・サトラピの両親は進歩的な人間だが、処刑された祖父や叔父と違い、政治的宗教的な抑圧の中でも何とか生き延びていく賢い処世術を身に着けている。しかし同時に娘に対しては、正しく生きること、上手に幸せを見つけること、自分の才能を信じそれを追求することを教えている。どんな手段を使ってでも我が子を危険から守ろうと心に決めているし、たとえ我が子が未熟さゆえに失敗したとしても、それを無条件で許し、支えていくことに徹底している。

そういう両親と祖母の心からの支えにより、マルジャン・サトラピは本当の大人へと育っていく。好奇心が強く、自分が思ったことを堂々と述べて周囲の気を揉ませ、困難にはめげて回復できないかもしれないほど落ち込んでしまう子供だったが、意外と機を見るのに敏で、ちゃっかりと周囲に目を配って生き延びて行く要領のよさもあった。そして、もう過去のことはくよくよしないと決めると、その瞬間に呆れるほど前向きで生きていく強い人間になっていくのである。オーストリアでは負け組みだった彼女はフランスでは大きく花開く。それはオーストリアとフランスの差であろうか。それとも、彼女がフランスでは本物の大人に成長したからであろうか。

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[映画]  ボーフォート -レバノンからの撤退- Beaufort (2007年)

私たちは皆、イスラエルと言う国名を知っているし、第二次世界大戦でヒトラー率いるナチがユダヤ人に何をしたかを知っているが、現在のイスラエルがどういう国なのか、イスラエルの中で何が起こっているのか、イスラエルと隣国のパレスチナ自治政府、エジプト、ヨルダン、レバノン、シリアはどういう関係なのかは、日本人にはちょっと理解しがたい複雑さをもっている。だから、この映画を見ても、レバノンの南にあるボーフォートの砦で若いイスラエル兵たちが何をしているのかがわかりにくい。映画の中で、イスラエルの兵士たちは誰をも攻撃していないのに、絶え間なくどこからかミサイルが飛んできて、次々と若い兵士は死んでいくのである。

映画の舞台となった2000年のずっと以前を振り返ってみないと、この映画の背景はわかりにくいだろう。中東戦争勃発以来、ヨルダンはイスラエルに追われたパレスチナの難民を積極的に引き受けていたが、第三次中東戦争後、より中立路線を貫くため、国内のパレスチナ難民を海外追放するよう方向転換した。そのパレスチナの移民はレバノンに移り、キリスト教徒とムスリムの微妙なバランスの下に成り立っていたレバノンの国政に大きな混乱をもたらすが、シリアがその中でレバノンを左右する影響力を持つようになった。

1982年、カーター政権の仲介で成立したエジプトとの単独和平で後ろを固めたイスラエルは、突如混乱するレバノンに侵攻し、レバノンの首都ベイルートを包囲する。その真の目的は、レバノンからシリアと他のアラブの影響を排除し、レバノンを親イスラエル国家として転換させることであり、カリスマ性があり、親イスラエル、反シリアのレバノンの若手指導者バシール・ジェマイエルにレバノンの政権を任せることであった。バシールは1982年8月の大統領選挙において大統領に当選したが、翌9月に彼は暗殺される。これを機にレバノンはさらなる内戦に突入していくことになる。ボーフォートは12世紀に十字軍が建立した歴史的な城砦であり、イスラエルは激戦の中でこの城砦をイスラエル配下に置く。

イスラエル軍侵攻を受けてヒズボラという軍事結社がレバノン内に結成された。これは急進的シーア派イスラム主義組織で、イラン型のイスラム共和制をレバノンに建国し、非イスラム的影響をその地域から除くことを運動の中心とした。反欧米の立場を取り、イスラエルの殲滅を掲げているが、これをイランとシリアが支援しているといわれている。一方スンニ派のサウジアラビア・ヨルダン・エジプトなどはヒズボラの行動を批判している。ヒズボラは1980年代以降国内外の欧米やイスラエルの関連施設への攻撃を起こしており、1983年のベイルートのアメリカ海兵隊兵舎への自爆攻撃、1984年のベイルートでのアメリカ大使館への自爆攻撃、1992年にはアルゼンチンのイスラエル大使館への攻撃を実行した。映画ではこのヒズボラがミサイルで遠隔からボーフォートのイスラエル軍を攻撃している。

冷戦下で、イスラエルをアラブ圏での反ソ連の拠点とする政略を取り、イスラエルを支持していたアメリカではあるが、1990年から世界情勢は変わり、今アメリカを脅かしているのはイラクだった。アメリカは、湾岸戦争へのシリア出兵の見返りとして、シリアにレバノンの内戦終結を一任する事となった。全世界からの批判の中で、イスラエルはレバノンからの撤退を進めた。2000年にはボーフォートはレバノン内で唯一のイスラエル拠点で監視所として機能してはいたが、イスラエル政府は遂にそこからの撤兵を決定する。

映画では、ここに送られたイスラエルの兵士は、十代で徴兵されたばかりで国際情勢もわかっていない若者が中心であるというように描かれている、撤退が決定しているので反撃も出来ず、司令部に撤退を懇願しても待てという返事ばかり。頼れる上官もいない中で仲間たちは次々に死んでいく。あと僅かで捨てる砦を何故俺たちは命を賭けて守っているのかという厭世気分、その若い兵士たちを統率するのはやはり若い司令官だが、その未熟な采配ぶりに不満を持つ兵士たち、イスラエルに戻り恋人と再会することを夢見る兵士たち、しかし何のかんのといってもお互いに友情を抱いて励ましあっている兵士たちをこの映画は描いている。

この映画の底を流れているのは、「たくさんの犠牲を払ったあの1982年の攻撃はなんだったのだろうか?」という問題提起である。世界はレバノンの混乱はすべてイスラエルのせいだと信じ、イスラエルの国際的立場は困難なものとなる。どこの国にも、歴史的な間違いだと他国から非難される暴挙、自分たちが振り返りたくない過去がある。ヒトラーのドイツ、フランコのスペイン、アルゼンチンのDirty War、日本の大東亜戦争などがその例である。たとえそれが歴史的な汚点であってもそれはもう起こってしまったことだし、その時点では最善の選択だと思って選んだ行為なのだ。祖国建国を第一の目的として奮闘してきたイスラエルの人々にとってレバノン内戦は大きな間違いだったかもしれない。しかし、複雑な力関係の中で自国の維持に全力を尽くすイスラエルの人々に、歴史から学んでこれからは最善の政策を取っていってほしい、それがこの映画を見たあとの率直な感想であった。

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[映画] 迷子の警察音楽隊 The Band’s Visit (2007年)

イスラエルの空港に、友好親善のコンサートのためにエジプトから送られた警察音楽隊が到着する。国を代表して送られた警察の音楽隊なのに、何となくおっとりした、たった8人のバンドメンバーで、何だかおもちゃの兵隊のようにみえる。護衛もマネージャーもいないということで、はてな(?)という感じがする。何かの間違いで送迎の車も来ないが、イスラエルに知る人もなく置き去りにされたとわかっても誰もあわてない。なぜ?

楽団長は、一番若いバンドメンバーの男(唯一若く、一番英語がうまいらしく、イケメンでさっそくイスラエルの女の子にモーションをかけている)に、コンサートの町に行く道順を捜させるが、この男の隊員がが目的地の町の名前の子音のp とbの一字微妙に違う場所へのバスを尋ねてしまったので、その間違ったバスから降りた楽団員たちは、砂漠の中のポツンとした、目的地とは全く違う集落に残されてしまうが、相変わらず楽団長を含めた団員たちはおっとりとした態度を崩さない。その集落の唯一の食堂らしき場所には、女性オーナーとそこで時間潰しをしている男Aと男Bがいる。オーナーから食事をご馳走された時、この村にはホテルもなければ最終バスはさっき彼らを置いていったバスだと知らされる。オーナーも男たちも団員がエジプトから来たということを知っても「あ、そう?」という感じで、そこには劇的な憎悪も政治的な議論もなく、そこの人々は団員たちよりももっとのんびりしている感じ。なかなか魅力的なオーナーの骨折りで、楽団長と若い団員は彼女の自宅へ、副団長らしき男と他の二人は男A の自宅へ、他の団員三人は男Bの場所で一夜をすごすことになる。

女性は、単調な暮らしの中で、文化国のエジプトから音楽家がやって来たことにちょっと興奮したのか、車でちょっとの距離の町に洒落た場所があるので一緒にいってみたないかという。おしゃれをした彼女が楽団長と来たのは、ハイスクールの食堂のような、がらんとただ広い殺風景な場所。これはジョーク?と思うがその食堂の端には、昔日本の大衆デパートの屋上に置いてあったような木馬があるので、やはりその場所は人々にとっては、心弾んで食事をする場所なのだろう。食事をしているうちに、楽団長はその女性は心の優しい女性だが、若いころは将来のことを建設的に考えず時間を過ごし、少し若くなくなった今周囲には自分にふさわしい男性がいなくなっているということに気づき、何か目にみえない寂しさを抱えている女性であることに気づく。楽団長も誰にもいえない悲しい家族の過去を抱えている。エジプトでは他の人には言えないことでも、何故かこの女性には素直に話しができてしまうのだ。

若い団員は同世代の男Bとその友達と一緒に、車で町へ遊びに行くので、興奮している。しかし男の子が一緒に連れて来た二人の女の子は今いち可愛くない。町のディスコに行ったものの、これこそ高校の体育館を5分の一にしたような狭さで、全然カッコよくない。男Bは女性経験もなく、誰にも相手にされないで傷ついている一緒に来た女の子を義理でもやさしくエスコートしてあげなきゃということも知らない。ここで若い団員が男Bの助っ人をせざるを得なくなる。

副隊長らが招かれた男A の家では、彼の両親と妻と彼の赤ちゃんが住んでいる。誰も楽団員がアラブ!!!の国から来たなどと眉を吊り上げず、自分たちの日常の毎日がどうであるかを淡々と語り始める。父親はなかなか洒落た男で、楽団員と歌を歌い瞬間でもそのディナーを楽しむのである。父親はまだ妻とのなり染めのロマンスを覚えているが、母親の方はもう「そうだったけ?」という感じ。彼女にとっては一年間も失業している息子の方が気になっているのだ。息子たちも恋愛で結ばれたらしいが、もうその情熱はさめているようで、いつそのお嫁さんが逃げていっても不思議ではない。もしそんなことが起こったら、彼らの赤ちゃんはどうなるのだろうか、とふと思わせる。最初はイスラエルに置き去りにされた楽団員、まるで星の王子様のように地球に舞い降りた彼らがどうなるだろうか、という感じで見始めた観衆も、いつか自然とイスラエルの小さな町に住む人たちの暮らしに対して関心が向いてくるようになってくるのである。

一夜明けて楽団員は感謝の思いをこめてこの町を去っていく。彼らはどうやら無事目的地に着いたらしく、群衆の前で演奏している団員を描いてこの映画は終わる。何も起こらなかったじゃないか、と言いたくなる人もいるだろうが、実はこの映画80分の短い中に数え切れない程の内容を散りばめた意外な秀作なのである。見る人の人生経験や、知識、教養あるいは興味でどのような解釈も取れるし、そのどれもが正しいのかもしれない。まるで一人一人の心を移す鏡のような映画である。

私もこの映画を見て色々な思いを持ったがその一つを書かせてもらうと、この映画の底を流れるのはアメリカのハリウッドの映画に対する知的批判であろう。ハリウッド映画が提供する、ロマンスと美貌のキャラクターの出会いと殴りあいとドラマチックな終末が必ずしも秀作の条件とはいえないじゃないかと監督は優しく語っているようだ。イスラエルの一部の人たちはハリウッドとのコネクションで、ドラマチックなホロコーストや中東の対立の巨大制作費の映画を作ってくれている。でもそれだけがイスラエルのすべてじゃないよ、と言いたいのではないか。イスラエルに住んでいる若者も、自分がどきどきするような結婚相手をみつけるのも大変だが、結婚できても、安定した生活が続くとも限らない。ただでさえ人生楽ではないのに、他国との紛争やテロがあるのは耐え難い。いろいろな考えの人がイスラエルに住んでいるだろうが、大多数の人はイスラエルという国以外には自分の住む国はないのが事実で現実だとわかっているのではないか。イスラエルの建国が一番正しい方法だったかどうかはわからないが、たくさんの人の尽力で、先住民を追放するという大きな犠牲を払って自国を得た彼らにとっては、過去はどうあろうとも、自分の国を最も他者の犠牲を少なくする中で守りたいと思うのが本当の気持ちではないか。そうでなければ、過去のいろいろな犠牲は何だったのかということになる。

私にもユダヤ人の親友がいる。彼女は非ユダヤ人と結婚し、プロフェッショナルな仕事を持ち、シナゴーグでの人間関係を楽しみ、異文化の友人たちとの友情を楽しみ、、民主党の大統領を支持し、毎年外国旅行に行き、退職後のための貯金もきっちり貯め、お金が余ればケニヤの女子の高等教育を支持する基金に寄付する。彼女にとってアメリカが唯一楽しく安全に住める国であるが、その彼女の子供がイスラエルに強い興味を持ち、遂にイスラエルに留学してしまった。彼女曰く「イスラエルに住みたいという気持ちを持つ子には育てたくなかったけど、行きたいというのを止めることはできないわ。実際住んでみると本当のイスラエルの姿がわかるでしょうから、これは彼にとっては必要な過程だと、自分を納得させているの。息子に対しては、心配な気持ち半分、立派な決心をしてくれたという誇りが半分ということかしら。」

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[映画] ヒトラーの贋札 Die Fälscher The Counterfeiters (2007年)

「ヒトラーの贋札」の原題は単に「贋物造り」という意味で、どこにもヒトラーという言葉はない。 しかしヒトラーという言葉は「独裁者」ひいては「権力を持たせると何をやらかすかわからない危険な男」という意味が込められているような気がする。この一言をこの映画の和訳につけることで、人々はこの映画の中の危険な匂いを感じ取るだろう。なんとも言えない名訳である。映画もナチスの暗黒時代に強制収用所に送られたユダヤ人の悲惨生存への戦いの経験を描いているのだが、その描き方はナチス(悪)対ユダヤ人(善)の明確な対立という単純なものではない。

主人公は天才的な贋札偽文書製作者のユダヤ人サロモン。ドル紙幣の贋作がばれて逮捕され、ユダヤ人であることから強制収容所に送られるが、そこでも絵画の才能が評価されてドイツ人の兵士から重宝がられる。やがて、その贋札造りを逮捕した優秀な警察官がナチ親衛隊の少佐に昇進され、サロモンに接近してくる。少佐は収容所に送られた囚人の中から、絵画、印刷技術、贋札造りの才能のある者を集めてイギリスなど連合国の貨幣を捏造し、連合国の経済的崩壊を画策するプロジェクトの指揮者となっていたのだ。少佐はサロモンをそのプロジェクトの技術リーダーに任命し、彼を優遇してこのプロジェクトを成功させようとしていた。

サロモンの矛盾はここから始まる。彼はどんなことであっても憎きナチスを助けることはしたくない。しかし、少佐に従わなければ自分と仲間の命は危ない。ユダヤ人の仲間も決して一枚岩とはいえず、少佐におもねる者、プロジェクトを成功させることにより自分たちの命が保障されると信じたい者、エリートである自分たちに与えらる特権と比較的安楽な環境に一時的に酔うもの、また印刷工ブルガーのように反ナチの反乱を起こそうと仕掛けるものもいる。その中でチームをまとめるのは容易なことではない。そして世界一模造が困難とされる英国証券の贋作にかかわる中で、次第に彼の贋作者としての誇りとパッションが生まれてくるのである。彼らの偽イギリス証券が完璧に英国銀行から本物として認められたことが発表されると一瞬(一瞬であるが)少佐とユダヤ人の囚人たちの間に「何か偉大なことを共に成し遂げた。」という共感の火花が飛び散るのであった。プロジェクトチームの囚人たちはそのご褒美として、卓球をして遊ぶことを許される。

しかし戦局は次第にナチに不利に動いていた。それを知っている少佐はスイスへの亡命を企て、サロモンに家族全員のスイスパスポートを偽造させ、「今は困難な時代だ。お互いに耐えて生き延びよう。」とサロモンに告げて去って行こうとする。この少佐は平和時に生きていたなら、職務に優秀な家庭的な良き父、夫、友人だったかもしれない。しかしサロモンにとっては、少佐は自分をこの難しい状況に陥れた男であり、プロジェクトチームの成功に感動して、思わず「はは~偽者作りはユダヤ人に勝るものはないな。」とからかう男である。平和時では何の繋がりも無かった男かもしれないが今の状況の中で、サロモンは少佐に対して屈折した行動にでてしまう。

ナチの収容所が連合国によって解放され、隣の敷地に収容されていた痩せこけたユダヤ人がサロモンの建物に押しかけてくるが、彼らはサロモンたちがナチに囚われた囚人だということを信じない。サロモンたちの健康状態があまりにもよかったからだ。サロモンたちは自分たちはナチ軍人の偽装ではなく正真正銘のユダヤ人であることを同胞たちに証明しなければいけなかった。また、収容所が解放された直後にサロモンの仲間の一人が自殺した。彼はナチの恐怖に戦うことが唯一の生きる理由だったのだが、今ナチが崩壊したあと何も心の支えになるものがなかったのだ。ナチの崩壊とともに何かが彼の中で壊れてしまったのだ。

この映画は気骨のある印刷工ブルガーの自伝を基に作成された。ブルガーとサロモンのその後の実際の人生の対比が面白い。ブルガーはユダヤ人のナチからの逃亡を助けるため彼らにカトリック洗礼証書を偽造したかどで、ナチスに逮捕され収容所に送られていたのだ。、解放後、彼は自らの体験を後世に伝えるためジャーナリストとなり、出版や講演を通じてファシズムを糾弾する活動を続けている。一方のサロモンは、大戦後も贋札造りを続け、国際的に指名手配される。彼は密かにウルグアイに逃げたともいわれるが、さらにブラジルに逃げそこで一生を終えたとも言われる。サロモンの詳しい人生は謎のままである。

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