[映画]  危険なメソッド A Dangerous Method (2011年)

私達は誰でも心理学者のフロイドとユングの名前は知っているし、フロイドの夢診断のことも知っている。しかし、二人の療法の詳細は心理学でも勉強しない限りはわかりようがないし、この二人の関係とか二人を生み出した当時の状況というのは案外知られていないのではないだろうか。この映画はフロイドとユングの友情とその決別、そして二人に師事した女性精神家医ザビーナ・シュピールラインとの関係を描く。

ザビーナはロシアの西端にあるロストフに住む富裕なロシア系ユダヤ人の家族に生まれたが、精神病を患い1904年にスイスのチューリヒ近郊のブルクヘルツリ精神病院に入院した。ここで彼女を治療したのが若い精神科医のユングであった。ユングはルター教会牧師の息子であり、富裕な出自の妻を持ち、真面目で身持ちの堅い、そして美しい風貌と知性に恵まれた男性だったが、同時に第六感的能力のような超自然的直感の鋭い男でもあった。彼は、ザビーナも自分のような鋭い直感を持ち、また非常に優秀な頭脳の持ち主であることがわかる。ユングの治療によりザビーナの病は治癒し、彼女は大学の医学部に進学し精神科医をめざすようになる。

ユングは、ジークムント・フロイドがザビーナの症状に似た患者を、当時革新的であった無意識の解明という観点から治療しているのを知り、1907年頃から親交を結ぶようになった。フロイトはユングのことが気に入り、自分の弟子で精神が病んでいるオットー・グロスの治療を依頼する。個人セッションで彼を治療しているうちに、オットーの退廃的な人生観は優等生で道徳的に一夫一妻制度に凝り固まっていたユングを激しく揺さぶり、ユングは自分に正直であろうとして、ザビーナへの愛を認め、彼女と愛人関係になる。またザビーナの卓越な知性はユングの理論に大きな影響を与えていく。

しかし1913年あたりから、ユングとフロイドは袂を分かつことになる。フロイトはユングの超能力への傾倒はオカルトであり、学問としての心理学から離れていくと怖れ、逆にユングは夢判断をすべて無意識の性への願望に結びつけるフロイドに疑いを持ち始める。それ以後二人は学者として敵対することになる。同時に精神科として成長したザビーナは愛人以上の関係をユングに求め始め、それが原因で二人は別れることになる。ザビーナがユングの後自分の師として選択したのは、フロイドであり、フロイドは自分とザビーナは同じユダヤ人なので、よく理解できると彼女に述べる。しかし、ユングがザビーナの後に選んだ愛人はやはりユダヤ人のトニ・ウルフであった。この映画はユングとフロイトが決別する第一次世界大戦前夜で終わっている。

フロイドがユダヤ人であったということが、ユングとフロイドの関係を興味深いものにしている。1911年にはフロイドとユングが中心になり国際精神分析協会が設立されたが、その初代会長になるのはフロイトでなくユングであるのは、ユダヤ人以外を会長に選ばなければならなかったからだといわれている。フロイトはアシュケナジー(東欧系ユダヤ人)であり、当時はアシュケナジーは大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ研究に勤しんでいた。

アシュケナジーとは、ユダヤ人の中でドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々を指す。もう一つのグループ、中東に居住していたユダヤ人はセファルディムと呼ばれる。アシュケナジーは当初は、ヨーロッパとイスラム世界とを結ぶ仲買商人だったが、ヨーロッパ・イスラム間の直接交易が主流になったこと、ユダヤ人への迫害により長距離の旅が危険になったことから、定住商人へ、さらにはキリスト教徒が禁止されていた金融業へと移行した。シェークスピアの『ベニスの商人』ではアシュケナジーの商人が登場する。アシュケナジーは1290年には英国から、1394年にはフランスから追放され、東欧へ移民して行った。彼らは神聖ローマ帝国では迫害されたが、ポーランド王国では既に1264年に「カリシュの法令」によりユダヤ人の社会的権利が保証されていたのでポーランドはユダヤ人にとって非常に住みやすい安全な国となった。経済的にもポーランド王国は専門職移民であるユダヤ人を経済的な利益があるとして歓迎したのである。ユダヤ人はポーランドを基点としてさらに東方のウクライナやロシアに移って行った。

1938年、アドルフ・ヒトラー率いるナチスがアシュケナジーの学者を精神科医の学会から追放した時、ユングは学会の会長であり、自分が永世中立国の住民であるという立場を生かし、ドイツ帝国内のアシュケナジー医師を受入れ身分を保証することを決定し、フロイトに打診した。しかし、フロイトは「自分の学問の敵であるユングの恩義を’受け入れることは出来ない」と言って援助を拒否した。フロイト自身はその直後にロンドンに亡命したが、亡命できなかったアシュケナジーの医師たちは仕事を失い、大部分は強制収容所のガス室に送られ殺されたのである。

ザビーナについては、彼女は1912年、ロシア系ユダヤ人医師パヴェル・ナウモーヴィチ・シェフテルと結婚し、ベルリンで暮らした。第一次世界大戦中はスイスで暮らしたが、ロシア革命後の1923年、ソヴィエト政権下のロシアに帰国し、モスクワにて幼稚園を設立した。しかし1942年に故郷ロストフにて、侵攻したナチの手で殺害された。

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