[映画]  太陽の雫 Sunshine (1999年)

『太陽の雫』は、19世紀のオーストリア=ハンガリー帝国時代から1956年のハンガリー動乱までのハンガリーの歴史を、5世代に渡る、あるユダヤ人一家を中心に描く歴史大河ドラマである。

この映画の魅力は、ハンガリーの歴史をわかりやすく描いていることである。一家の第一世代はオーストリア=ハンガリー二重帝国の田舎の村の居酒屋のオーナー。彼が若くして死んだあと長男(第二世代)がブタベストの工場に出稼ぎに出て、家伝の薬草酒のレシピを用いた酒メーカーのオーナーとして大成功する。その息子(第三世代)は法学者となり、ユダヤ系の苗字をハンガリー風の苗字に変え、皇帝に忠実な裁判官となる。しかし、ハンガリーが第一次世界大戦で敗北したあとハンガリー・ソビエト共和国が誕生すると、彼は戦犯として自宅監禁になり失意のうちに世を去る。

ハンガリー・ソビエト共和国はルーマニアの介入で打倒され、王政が復古するが、第一次世界大戦や、その後のハンガリーの共産党を打倒したルーマニアにより、国土の大半を失ったハンガリーは苦い思いでナチス政権に近づいて行く。第二次世界大戦では失地回復のため、枢軸国に加わったハンガリーも、1944年に枢軸国からの離脱を望むようになるが、ナチスドイツ軍に阻止されてしまう。第四世代は、フェンシングのナショナル・チャンピオンになり、ベルリンオリンピックの金メダリストにもなる。彼は1936年のベルリン・オリンピックに出場資格を得るためにカトリックに改宗した。しかし彼は結局強制収容所に送られて殺害されてしまうのだが。

命からがら強制収容所から戻って来た第五世代はソビエト連邦の後押しで成立したハンガリー人民共和国で秘密警察に参加し、ナチスに加担した人間の告発を始める。しかし、彼の仕事は次第に反スターリン派の愛国者を告発することに変質していく。1956年のハンガリー動乱の勃発で反ソビエト連邦軍の演説をした彼は逮捕され投獄された。釈放して家に戻った彼は今や一家の唯一の生き残りであった。彼は自分の苗字を再び元のユダヤ系の苗字に戻し、ユダヤ人として生きて行こうと誓う。

この映画でもう一つ面白いのは、なぜハンガリーのユダヤ人がひたひたと押し寄せるナチスの反ユダヤ主義を感じつつも、逃げずにハンガリーに留まったかをうまく説明していることである。反ユダヤ主義は裕福で社会的地位の高かったユダヤ人の特権を部分的に抑圧する法改正で始まったが、第一次世界大戦で皇帝のために戦った兵士とその家族にはその法は適用されなかった。また国威高揚に貢献した者、例えばオリンピックのメダリスト等もその例外の対象となった。つまりこの一家には反ユダヤ法は適用されなかったのだ。そんな状況で、すべての財産を捨てて言葉もわからない異国に逃亡しなければならない理由はなかった。しかし、この映画は、なぜ結局すべてのユダヤ人が強制収容所に送られてしまうようになってしまったのかについては、一言も説明していないが。

壮大なテーマを描いた力作であるにも拘わらず、この映画は名作或いは偉大な映画とはみなされないような気がする。なぜこの映画が名作になれなかったのかを、私なりに考えてみたい。

まず最初の理由は、第三、四、五世代(この三人はすべて英国の俳優レイフ・ファインズによって演じられている)の主人公の描かれ方である。この三人は権力志向、上昇志向が強くて、それを得るためには苗字を変えたり、宗教を変えたりという努力をする。しかし、女性に対する愛はあまり無い男たちである。女性からの熱烈なアタックで、「だめ、だめ」と言いつつも結局情欲におぼれてしまい関係を持つが、最後にはその女性の誘惑を「お前のせいで、自分の人生が破壊された」と冷たく非難する男である。彼らが相手にした女性も、自分の妹として育てられた女性(第三世代)、自分の兄の妻(第四世代)、自分の上司である冷徹なスターリン主義者の妻(第五世代)とすべて背徳というか危険な匂いが漂う関係である。女性が好きな男性のタイプは「実力はあるが、権力べったりではなく、女性を心から愛し、その愛を貫く」というものであろう。この映画の主人公はすべてその逆を行き、背徳とか、肉体だけの関係などという女性の最も嫌いな匂いをぷんぷんさせているので、女性の感情を逆撫でするのは無理もなかろう。しかし、映画の聴衆の50%は女性なのであるから、女性の支持を失ったらこわいのである。

この人物描写は、ホロコーストという重いテーマを描く映画としては、かなり危険なやり方である。下手をすれば、「なるほど、ホロコーストが実際にあった事実ということは認めましょう。でも、それを起こした際には、ユダヤ人にも責任があったのではないのですか?」という非常に危険な議論を起こしかねないのである。もちろん、誰だって完璧無欠の聖人君子であるはずはない。しかし、これだけの重いテーマを描くのなら、それなりの注意深さも要求されるのではないだろうか。

この映画の作者であり監督でもあるのは「メフィスト」でアカデミー外国語賞を受賞するなど、ハンガリーを代表する映画人である、サボー・イシュトヴァーンである。彼については2006年に、1956年のハンガリー動乱の後にスパイとして、仲間の監督や俳優に関するレポートを書いていたことが報道された。彼は最初はそれを否定していたが、結局後にそれを事実として認めることになるのだが、彼の周囲には彼を擁護する人が多かったという。ハンガリー動乱の後の異様な政治的締め付けを受け、警察国家となったハンガリーで生き延びることは容易でなかったに違いない。そういう残酷な時代だったのである。

もう一つの理由は、この映画は五世代の一家の流れを3時間で追う大河ドラマなので、個人の描写が表層的になり、事件の一つ一つが継ぎはぎな印象を受けることである。しかし、そのモデルになった人々は非常に魅力的である。

ハンガリーがフェンシングに強く、その金メダリストの中にユダヤ人がいたのは事実である。アッティラ・ペッチョーは1928年のアムステルダムオリンピックと1932年のロサンジェルスオリンピックでサーベルの団体戦で優勝している。アンドレ・カボスは1932年のロサンジェルスオリンピックではサーベルの団体戦で、1936年のベルリン・オリンピックではサーベルの個人戦と団体戦両方で金メダルを獲得している。二人ともナチス政権化で強制収用所に送られて死亡している。この映画の第四世代の男は、アンドレ・カボスがベルリンオリンピックの個人戦で優勝したことと、アッティラ・ペッチョーが収容所で同胞のハンガリー人に非常に残酷な手法で処刑されたことを基にして描かれているように思われる。

また第五世代の男の上司は実在の人物ライク・ラースローをモデルにしている。彼はユダヤ人の共産党主義者で、アウシュビッツから奇跡的に生還し母国ハンガリーの復興に全力をつくしたが、スターリン主義者に嫌われ1949年に処刑された。その後、ハンガリー動乱で一時名誉回復されたが、その後ハンガリーは動乱の鎮圧と共に警察国家として暗黒期に移行していくのである。

English→

[映画]  The Way I Spent the End of the World、 Cum mi-am petrecut sfârşitul lumii(2006年)日本未公開

この映画は、ルーマニアの首都ブカレストに住む17歳のエバの1989年の人生のスケッチである。1989年はルーマニアでは共産党書記長のニコラエ・チャウシェスクが処刑され、共産主義独裁政権が倒された年であるが、この映画は、反抗的で無表情で無愛想で、なげやりでいい加減にみえる(しかし外見は可愛らしくて、ボーイフレンドと話す時だけはちょっと笑顔をみせる)エバが、社会主義政権の有力者の息子アレクサンドラと付き合いつつも、ニコラエ・チャウシェスク暗殺未遂の容疑で両親が行方不明になっているアンドレーにも興味を示し、二人でドナウ川を渡ってユーゴスラビアへの亡命を企む。結局エバは「や~めた」と言って川を横断するのを中断し、一人でブカレストに帰って来て、怒った両親から、一家の立場を安全にするためにアレクサンドラともっと仲良くしてほしいと頼まれる。エバはアレクサンドラが最近購入したぼろアパート(しかしルーマニアの水準では高級アポートかもしれない)に目を奪われる。結局二人は何となく男と女の関係になってしまい、帰宅したエバは得意満面で「私たち婚約したわ!!」と宣言するのだが、その直後に流血革命が起こり、それまで鬱屈として体制の言いなりになっていたかに見える大人たちが、突然嬉々として破壊活動を始める。この映画は流血革命のあと上流階級から滑り落ちたアレクサンドラの一家、無事ユーゴスラビア経由でイタリアに辿りついたアンドレー、得意満面に国際路線の客船搭乗員としてキャリアを追求するエバを短く描いて終わる。

エバは最初から最後まで無表情で傲慢で、彼女の内面は全く描かれていない。政権の中枢を象徴するアレクサンドラと反体制の象徴のアレックスを行き来し、双方のハンサムな若者をそれなりに好きなのだから、ティーンネージャーの愛とはこういうものだろうと思わせる。ソ連の衛星国の中でも後進国のルーマニアの荒涼とした様子、首都ブカレストでさえ荒れ果てており、両親が何をしているのかわからないが、いつも暗鬱な顔をして疲れていて、子供に対する関心もない。暮らし向きは悪くないはずだが、家の中も荒れ果てている感じだし、食事もスープとパンだけという粗末さだ。政治議論は全くなく、政治に係わることも恐れている大人たちだが、その荒廃した日常生活の描写が、行き着く所まで行き着いたルーマニアの独裁社会主義政権の停滞の実態を表し、説明の言葉も必要ない。

ルーマニアの映画界は1980年後半から新しい活動の兆しをみせ、2000年代にはカンヌ映画祭を中心に注目を浴びるようになった。そのテーマは社会主義国から自由経済国家体制への移行や、チャウシェスク体制の批判が中心であるが、編集未完成のようなドキュメンタリー風のミニマリストの作品が多いようだ。これを「新鮮」というか、「アマチュアリズム」というかは議論の分かれるところであるが、洗練された映画技巧を誇るポーランドやチェコやハンガリーの映画を観たあとでは、ルーマニアの映画はまだこれからだという感じがする。カンヌでルーマニア映画が一時もてはやされ、この映画でエバを演じたドロティア・パトレは主演女優賞までもらっているが、これはルーマニアに対する応援という西欧諸国の気持ちもあるのだろう。この映画もストーリが唐突であり、冬と夏が何回も繰り返されるので何年かにわたってのお話だと思っていたら、たった一年である。そのへんの正確さに期すという態度はない。またエバを演じるドロティア・パトレが老け顔で30歳くらいに見え、母親を演じる若作りの女優と全く似ていないし、二人は姉妹か友達という感じに見える。確かに両女優とも結構美人なのだが、これでいいのだろうかと思ってしまう。何となく気分のままに、細かいことに拘らず作った映画という感じで、世界には凝りに凝って作る監督が多い中で、さてルーマニアの映画はこれからどういう方向に行くのだろうかと思わされる。

1989年というのは、中国で天安門事件が起こり共産主義の徹底が強化された年であるが、東欧では比較的平和的に共産主義独裁国家が倒された年でもある。1978年にポーランド出身のヨハネ・パウロ2世がローマ教皇に就任した時は、誰もこれが冷戦の終結に繋がる一歩だとは思わなかっただろうが、実際にヨハネ・パウロ2世が冷戦の終結になした貢献は偉大なものなのではないか。ポーランド人は何か心の中で信じるもの、精神的な希望を感じたのである。同時に現実的でカリスマのある労働運動の指導者レフ・ヴァウェンサ(日本ではワレサと呼ばれた)議長の登場である。彼が『連帯』という言葉で風向きを変えようとした時、東欧を見つめる世界の大半の人間は「ああ、またハンガリー動乱やプラハの春が今度はポーランドで繰り返されるのか」と思っただろう。しかし、ヴァウェンサの態度は異なっていた。彼は非常に二枚腰で柔軟であり、モスクワの反応を用心深く確認しながら一進一退で、非暴力を主張し穏健に辛抱強くポーランドの民主化を進めて行ったのだ。

ハンガリーも同じ「大人の国」であった。もとから、ハンガリーは自国はオーストリアのような精神の先進国であるという自負があった。1985年年にソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ政権が始めた「ペレストロイカ」でソビエト連邦が持っていた東側諸国の共産党国家に対する統制、いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」が撤廃されると、ハンガリーは巧みにこの動きを利用して、1989年5月にハンガリーとオーストリア間の国境を開放した。6月にはポーランドで選挙によって非共産党政権が、そして10月にはハンガリーでも非共産党政権が樹立された。

ハンガリー・オーストリア国境を東ドイツ市民が大挙して集団越境し、オーストリア経由で西ドイツに亡命することが可能になった今、ベルリンの壁の存在意義は喪失した。11月10日にベルリンの壁は破壊されたのである。それはチェコスロバキアやルーマニアにおいて、民主化を要求する市民たちを大いに励ました。チェコスロバキアでは11月17日にビロード革命と呼ばれる無血革命が起こった。しかしルーマニアでは独裁者ニコラエ・チャウシェスクの処刑という血生臭い結果となった。

ニコラエ・チャウシェスクは1967年から1989年までの22年間ルーマニアの独裁者であった。最初はプラハの春の鎮圧に反対してソ連支援の軍隊を出すことを拒絶したり、 ユーゴスラビアと共に親西側の態度を表明し、IMF やGATTに加入し西側経済にも同調し、イスラエルをソ連衛星国の中で唯一承認して外交関係を立ち上げ、東側諸国が軒並みボイコットした1984年のロサンゼルスオリンピックにおいても、ルーマニアは唯一ボイコットをせず参加した。ニコラエ・チャウシェスクは西側諸国では非常な好印象を持たれていたし、国民の支持も高かったのである。しかし残念ながら、権力の座に長くいすぎたようである。彼は次第にルーマニアの国家体制を北朝鮮の朝鮮労働党や中国共産党の方向に向けようとし始めた。

ニコラエ・チャウシェスクの不人気を決定的にしたのは、彼の経済政策の失敗である。西側諸国から人気のあったルーマニアであるから、西側からの資金援助を得ることは容易であったが、これは両刃の刃であった。ルーマニアはその多額の融資の返還に苦しみ、国内経済を犠牲にしルーマニア人の生活が大変貧窮したのである。国内では食糧の配給制が実施され、無理な輸出が優先されたのでルーマニア国民は日々の食糧や冬の暖房用の燃料にも事欠くようになり、停電が頻繁になった。この辺はこの映画でも描かれている。

2012年の「中東の春」ではTwitterによる交信がリアル・タイムで機能し、革命を推進したが、1989年の「東欧革命」ではテレビが大きな役割をしめている。ルーマニアの国民はテレビを通じてハンガリーで、ポーランドで、チェコスロバキアで、東ドイツで何が起こっているかを知ることができた。この様子もこの映画で詳しくうかがうことができる。

English→

[映画] The Last Days (日本未公開)1998年

『The Last Days』はShoah 財団の財政援助で作成された、ホロコーストの生き残りの人たちの証言のドキュメンタリーの一つで、これはハンガリー系ユダヤ人でホロコーストから生還した5人の証言である。5人の証言者の一人は後に米国の下院議員に選挙されたトム・ラントスである。

Shoah財団は、スティーヴン・スピルバーグが『シンドラーのリスト』でアカデミー賞を受賞したのを契機に設立した財団であり、ホロコーストの生存者及び関係者の証言を記録し、その結果を次ぎの世代に伝えることを目的にしている。Shoah とはヘブライ語でホロコーストを意味する。スティーヴン・スピルバーグの祖先は17世紀あたりにオーストリアに住んでいたらしいが、自分たちをウクライナ系ユダヤ人と呼んでいる。彼の一族は早くからアメリカに移民しており、ホロコーストとは無縁である。また彼の家族はユダヤ人の多いニューヨークではなくオハイオ州とかアリゾナ州という田舎で暮らしているので、彼はアメリカでのユダヤ人のコミュニティーとはあまり縁がなかったようだ。しかし、『シンドラーのリスト』の成功により、ホロコーストは彼のライフワークの一つになった。彼はユダヤ人のみならず、奴隷で連れてこられたアフリカ系のアメリカ人や同性愛者の権利などにも深い関心があるようだ。

ホロコーストの生還者はすでに非常な高齢であり、彼らの証言は何らかの形で残されるべきであるし、「ホロコーストのことは戦時中聞いたこともなかった」或いは「ホロコーストは史実ではない」と主張する人が多数いる中で、それを事実だと証明するのが彼のミッションなのだろう。骨と皮までに痩せこけた収容所のユダヤ人の写真や、非常に大規模な収容所の建物を実際に見せられると、映画とは違う現実感がある。あれだけの広大な施設を設計した人、構築した人、管理した人がいるはずで、それに対する予算もあったはずだ。予算なしにはいかなるプロジェクトもなりたたないからである。

このドキュメンタリーは、ホロコーストの実態を5人の視点から描いているが、なぜヨーロッパで第二次世界大戦中にあれだけ大規模なユダヤ人狩りが起こったかについては、説明がない。これは彼らにもわからない謎なのだ。5人は非ユダヤ人の隣人や友人たちに囲まれ、社会的に成功している両親の愛にはぐくまれ、少しづつ厳しくなって行く反ユダヤ的法的規制も戦時の緊急の一時的なもので、戦争さえ終わればまた元の幸せな日常に戻れると信じていた。チェコ映画の『Protektor』やポーランド映画の『ソハの地下道』には、死を覚悟して自分たちを匿ってくれる人の努力にも拘わらず、「もうこんな汚い不便な生活はイヤ!!」と怒って、自分からユダヤ人の収容所に自発的に入った女性たちが登場する。すべてではないが、ヨーロッパでは裕福なユダヤ人が多かったし、その家庭で育った女性は何一つ不自由のないお嬢様お坊ちゃまだったのだろう。彼女たちには収容所の先に何があるかの予測がつくわけではないし、同じユダヤ人に囲まれている方が安全だし、外の空気も吸えるし、楽だと思ったのかもしれない。殆どのハンガリーのユダヤ人は、強制収容所は強制労働をさせられる所で、同胞のハンガリー人が戦争で苦労している時は自分も働くのは当然だと思い、収容所に行くことに納得したのではないか。しかし、彼らは、自分たちがトイレもない家畜専用の輸送列車で何日もかかってアウシュビッツに送られ、そこで自分たちが愛する祖国の政府からの命令でどんな目にあうかなどとは想像もつかなかったであろう。

ドイツに占領されて、大戦勃発の比較的初期からユダヤ人をアウシュビッツなどの収容所に送ったポーランド、チェコ、フランスなどと違い、ハンガリーではユダヤ人狩りが始まったのは遅く、1944年、ドイツの敗北が決定的になったころであった。ハンガリーはドイツの同盟国であり、ユダヤ人にとって比較的安全な地域であった。『この素晴らしき世界』にもでてくるように、お金をもらってチェコやポーランドのユダヤ人をハンガリーに逃亡させるビジネスをしている人もいた。命からがら逃亡して来たそんなユダヤ人がポーランドの収容所で何が起こっているかを説明しても、ハンガリー国籍のユダヤ人はまさかドイツ政府がそんなことをするわけがない、と半信半疑だったという。彼らはポーランドやチェコ或いはソ連国籍のユダヤ人と違い、ハンガリー政府が自分たちを守ってくれると信じていたのだ。

しかし、ハンガリー人の間での反ユダヤ人感情は1920年から30年代にかけて次第に強まっていったようだ。ハンガリーのユダヤ人は全人口の5%にすぎなかったが、彼らの大半は富裕な階層であった。1921年にブダペストの株式上場のメンバーの88%、為替ブローカーの91%はユダヤ人であった。ハンガリーの産業の50%から90%はユダヤ人が所有しているとも言われていた。ハンガリーの大学生の25%はユダヤ人の子弟であり、エリート校のブダペスト工業大学の学生の43%はユダヤ人の子弟であった。ハンガリーの医師の60%、弁護士の51%、民間企業のエンジニアと化学者の39%、雑誌編集者の29%はユダヤ人であったといわれている。ナチスやそれと共同するハンガリー政府はは生活苦にあえいでいる下層階級の不満の捌け口を、こういったエリートで裕福であった少数民族のユダヤ人への憎しみの気持ちに向けたのではないだろうか。

後に米国の下院議員になったトム・ラントスは収容所からすぐに脱出して、ラウル・グスタフ・ワレンバーグの隠れ家に逃げ込み、そこから反ナチスの地下活動を行った。ワレンバーグはスウェーデンの外交官で、外交官特権を利用して自分の事務所に逃亡して来たユダヤ人を匿った。一説によると彼の努力で10万人のユダヤ人が救出されたという。しかし、彼はドイツ撤退後に進駐してきたソ連軍の事務所にユダヤ人の戦後の安全について話し合いに行ったきり、行方不明となってしまった。彼は、危険を顧みず戦時中にユダヤ人を救ったとしてイスラエル政府のヤド・ヴァシェム・ホロコースト記念館から「諸国民の中の正義の人(Righteous Among The Nations)」賞を送られている。一説では、ワレンバーグはアメリカのスパイとみなされてソ連軍に会談に行った際に即逮捕され、その直後にボルシェビキの強制収容所で死亡したという。ゴルバチョフが政権を取ってから、こうした記録が次第に公表されるようになったのである。

ドイツ占領下のポーランドでは、ユダヤ人を支援した場合、支援を提供した本人だけでなくその一家全員、時には近所の人々も全て死罪とされたが、多くのポーランドがその危険を顧みずユダヤ人を救うことを選んだ。6135人のポーランド人が「諸国民の中の正義の人」賞の受賞者が出ている。日本からは外交官であった杉原千畝がただ一人この賞を受賞している。

English→

[映画] 暗い日曜日 Gloomy Sunday – Ein Lied von Liebe und Tod (1999年)

舞台はナチスの影が忍び寄る1930年代後半のハンガリー・ブダペスト。ラズロは高級レストランを経営するユダヤ人。美貌のウェイトレスのイロナとは「大人の仲」である。彼らはレストランのピアニストとしてアンドラーシュを雇ったが、会った瞬間にアンドラーシュとイロナの間に恋の火花が飛び交う。しかしイロナはラズロと別れることもできない。またラズロとアンドラーシュの間にも友情が育つので、三人は奇妙な三角関係に陥る。またドイツ人の若者ハンスはイロナに横恋慕するのだが彼女に拒絶されて自殺をはかる。彼を救ったのはラズロであった。

アンドラーシュは彼女のために『暗い日曜日』という曲を作曲して、その歌をイロナへの誕生日プレゼントとして贈る。この曲はラズロの力添えでレコードとして発表され大ヒットするのだが、その曲を聴きながら自殺する人々が続出した。やがて、ハンスがナチスの幹部としてブダペストに戻ってきたことにより、イロナとラズロとアンドラーシュの運命は暗転する。

この映画は単に甘ったるい作り事ではなく、一部事実に基づいている。映画の中で流される『暗い日曜日』は、1930年代にハンガリー人の作曲家シェレッシュ・レジェーにより作曲され、それに歌詞をつけたのは、彼がピアニストとして働いていたレストランのオーナーのヤーヴォル・ラースローであった。またこの曲を聴いて自殺する人が続出するという都市伝説までできた。イギリスやアメリカの放送局では一時放送禁止曲に指定されたこともある。またシェレッシュ・レジェーもこの映画の中のアンドラーシュのように自殺している。

この曲を聴いて自殺するというのは、都市伝説に過ぎないと思うが、この曲は世界大恐慌、第一次世界大戦の敗北、そしてナチスの支配という暗い30年間を送ったハンガリー人の気持ちの暗さを反映しているのではないか。

ハンガリーは19世紀後半からオーストリアとオーストリア=ハンガリー二重帝国を形成し、経済的にも文化的にも世界のトップに躍り出たが、第一次世界大戦で破れ、オーストリアとも切断され、領土の半分を奪われ屈辱的な経済制裁を受けなければならなかった。1920年に結ばれたトリアノン条約により、ハンガリーは二重帝国時代の王国領のうち、面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残されることになった。国家としてこれ以上の屈辱があるだろうか?一方古来より領土争いなどでライバルであったチェコや北方のポーランドが共和国として独立し、この世の春を謳っている時だった。その苦い気持ちから、ハンガリーはドイツを結んで枢軸国の一員となった。ドイツの支持を追い風に1939年のスロバキア・ハンガリー戦争で領土を回復したし、ポーランドやチェコが後に辿ったドイツの一部となる、つまり地図上から国が消えてしまうという運命からは免れることができたが、ハンガリーの国民の大半は次第に枢軸国から脱退することを願うようになっていた。しかし、その時はすでに手遅れで、どうにもならなかったのだが。

結局枢軸国は第二次世界大戦で負けるのだが、一時はトルコ、ブルガリア、ルーマニア、チェコ、ポーランドの東欧とオランダ、ベルギー、ノルウェイ、フランスの北部までを支配し、スペインと英国以外はすべて枢軸国の支配化になっていた時期があった。スペインは参戦こそしなかったがドイツの『親友』であったから、中立のソ連を含めて英国以外のヨーロッパが殆どヒットラーの支配下に墜ちた時期もあったのである。

この映画は、単なるソープ・オペラだと思っていた。ソープ・オペラとは『昼メロ』とでも訳すべきか。洗剤会社が主婦の購買層をターゲットにして、昼に流す甘ったるいロマンティックな連続メロドラマのスポンサーになったことから、安っぽいメロドラマのことをソープ・オペラと言う。しかし、この映画は知性を売り物にする(はずの)映画批評家の仲で異常に評判がいい。何故なのだろうかと思って見てみてわかったのだが、この映画は宝塚の劇なのである。宝塚のショーの切符を買う時に、知的な批評や歴史的な事実の再現、或いは変な芸術至上主義を期待して買う人はいないだろう。2時間美しいものにうっとりして、楽しくすごせればそれでいいのだ。この映画はまさにそれである。

しかし、この映画はただ甘いだけでなく苦い汁もあり、結構食えない映画なのである。映画の中で一番憎むべき人物、自分が愛するイロナの体当たりの懇願も無視して、自分の命の恩人のラズロをユダヤ人収容所に平気で送ってしまうハンス。彼はユダヤ人を楽々助けれる状況にいたのである。事実数多くのユダヤ人を大金や大量の宝石などをもらって国外逃亡させている。その時に「何かあったら、私がたすけてあげたと証言してほしい」とダメ押しまでしているのである。いわば、『シンドラーのリスト』のシンドラーのような男である。スピルバーグの映画では英雄として描いていても、同じ人物を別の角度から見ると結構醜いですよ、という感じである。彼はナチスのSSであったにもかかわらず、ユダヤ人を助けた英雄だということで戦後も生き抜き、非常に成功した実業家として妻と共にブダペストに観光旅行で戻ってくる。

イロナは3人の男から愛されて、その3人を上手に操っている。まあ本人はそれが愛であるから、操るなどとはゆめゆめ思ってもいなかったのだろうが。アンドラーシュが自殺した後は彼の巨額のロイヤリティーは彼女のもとに譲られることになった。またラズロは自分の店を守るために、収容所に送られる前にイロナに店の権利を譲り、イロナはその伝説的なレストランを自分のものにするのである。またアンドラーシュは美男で天才的なピアニストではあるが、金に対する理解力もあって、金の交渉など現実的な面でも結構長けているのである。この映画ではそうした財政的な議論がちゃんと描かれている。ただ甘く切なく哀しいだけの映画ではないのである。

一番の極めつけはイロナの子供の育て方である。アンドラーシュとラズロが死んだあと、彼女が妊娠しているということが描かれる。アンドラーシュの子供であってほしいのだが、彼が死んだのはちょっと早すぎる感じである。イロナの子供は母を助けてずっとレストランの経営をしているので、聴衆は彼がラズロの子供だという印象を受ける。しかし一番の可能性があるのはこれがハンスの子供であるということだ。そうなるとイロナがその子供を育てたやり方がまことに見事である。最後に聴衆はハンスに裏切られて死んだラズロの恨みをやっとイロナが果たすのを目撃するのだが、もしイロナの子供の父親がハンスであるとしたら、これは結構恐ろしい復讐である。言葉は悪いが「たいしたタマだ」と言いたくなるのである。

English→