[映画] ジャッカルの日 The Day of the Jackal (1973年)

これは、とにかく面白い映画である。系統としては、007・ジェームズ・ボンドシリーズ 或いはジェイソン・ボーン三部作、ドラゴンタトゥーの女と似ているのだが、その面白さが桁外れである。現代の映画産業界は、コンピューター・グラフィックや派手なアクションや爆破シーンを取り入れまくっても、40年たってもまだこの映画を超えられていないような気がする。『ジャッカルの日』は「黒澤明が選んだ映画100本」の中にも入っている。黒澤はこんな映画が作りたかったんだろうな、と思わせるような完璧な映画である。彼の技術力では、もちろんこのレベルの映画を作ることは可能だったとは思うが、残念ながら黒澤はフレデリック・フォーサイスによって書かれた原作のような優れた「原石」を見つけることができなかったのだろう。この映画の監督は、『山河遥かなり』『真昼の決闘』『地上より永遠に』 『尼僧物語』『 わが命つきるとも』『ジュリア』などで何度もアカデミー賞にノミネートされ、結局生涯に四つのアカデミー賞を獲得したフレッド・ジンネマンである。

この映画は、ジャッカルというコードネームの殺し屋が、フランスのドゴール大統領を暗殺を企むというものである。歴史を知っている聴衆は、当然ながらそんなことが現実に起こらなかったということを知っている。しかし、聴衆は最後の最後まで手に汗を握り、この映画に振り回されてしまうのである。実在の著名なプロフェッショナルな暗殺者たちが愛読し実際に参考にしたという話まで報道された原作を基にしたこの映画は、1960年代のフランスを巡る世界情勢を非常によく描いている。また、この映画の前半に描かれているドゴール大統領の暗殺未遂事件は史実である。史実とフィクションを巧みに組み合わせて行くこの映画には不思議な説得力がある。最初はジャッカルの視点で描かれるので、聴衆はジャッカルが何をしているのかがわかるし、ジャッカルのクールな魅力につかまれてしまう。しかし、後半からジャッカルを追う刑事の視点に移って行き、ジャッカルがどこに隠れて何を考えているのがわからなくなってしまい、映画の中の不安度が増して行く。まったくお見事である。褒めても褒めたりない映画に出会った思いである。

第二次世界大戦では、フランス北部はドイツに占領され、南部のヴィシー政権はドイツの傀儡政権とみなされていた。にもかかわらずフランスが第二次世界大戦の敗戦国ではなく戦勝国に分類されたのは、イギリスに亡命したシャルル・ド・ゴール率いる自由フランスが連合国に参加し、反ドイツ、反ヴィシーとして戦ったからである。しかし第二次世界大戦の疲弊でフランスは列強国としての地位は崩れかけており、戦前の植民地体制を維持するのが困難となってきた。アルジェリアの情勢が危機に陥った1954年に、フランスはベトナムから撤退して、そのフォーカスをアルジェリアに向けようとした。

アルジェリアでは19世紀よりフランスの植民地化が進んでおり、そうしたアルジェリアの植民者はピエ・ノワールと呼ばれた。第二次世界大戦では、アルジェリアはヴィシー政府を支持したが、1942年の連合国軍のトーチ作戦が発動し、アメリカ合衆国軍とイギリス軍が上陸すると、アルジェリア提督はシャルル・ド・ゴールの自由フランスを支持し連合国に加わり、パリ解放までアルジェに自由フランスの本部が置かれた。このようにアルジェリアはフランスにとって非常に大切な土地となった。多くのアルジェリアの現地人が愛国心に燃えて、フランス軍にフランス志願兵として参加したのである。

第二次世界大戦後、1954年にアルジェリア独立を求めてアルジェリア戦争が起こったが、これは非常に泥沼の、フランス世論を真っ二つに割る戦争となった。った。フランス人入植者ピエ・ノワールの末裔はアルジェリアの独立に反対し、フランスの栄光を願う右派世論を味方に付けた。また当時は過激な暴力行為をとるアルジェリア民族解放戦線(FLN)に対する恐れや反感もフランス人の中に根強かった。しかし度重なる戦争の結果厭戦世論も強く、アルジェリアの独立を認めたほうが結局はフランスのためだという意見も強かった。現地のアルジェリア人の間でも、親仏派と独立派との厳しい対立があった。この政治不安の中で第二次世界大戦後に樹立された第四共和制が倒され、シャルル・ド・ゴールが大統領に就任したことにより第五共和政が開始された。

シャルル・ド・ゴールは強い栄光のフランスを象徴する人物であり、アルジェリアの軍人や植民者たちは、ドゴールが自分たちの味方になってくれると期待したが、ドゴールは逆にアルジェリアの民族自決の支持を発表した。1961年の国民投票の過半数もそれを支持し、1962年に戦争は終結してしまった。現地軍人や植民者らは大混乱のうちにフランスに引き揚げ、逃亡することができなかったアラブ人の親仏派の多数は虐殺された。アルジェリアの独立に反対する勢力は戦争中に秘密軍事組織OASを結成してアルジェリアでテロ活動を続けており、またフランスでも政府転覆を狙って対ドゴールのテロ活動を行った。軍人ジャン=マリー・バスチャン=チリーによるドゴール暗殺計画が失敗し、彼が銃殺刑されることから、この映画は始まる。その後ドゴール政権はOASをあらゆる手を用いて追い詰めていくのである。

しかし、ドゴールにも新しい敵が生まれていた。学生や労働者を中心とした左翼運動であり、彼らが起こした1968年の五月革命を抑えるために、軍部の力が必要となり、ここで彼は逮捕・逃亡していたOASの主要メンバーたちへの恩赦を行うのである。

完璧で、褒めても褒めたりない映画と前述したが、この映画には一つ欠点がある。この映画はアメリカ映画であり、登場人物がフランス人を含めて皆英語を話すのである。この映画はオーストリア、スイス、イギリス、イタリア、フランス、デンマークなどヨーロッパの多くの国を移動するのだが、すべての主要登場人物が英語を話すので一体今どこの国にいるのかわからなくなってしまう。私はアメリカの映画が英語に固執する理由が今もってわからないのである。

English→

[映画]  レ・ミゼラブル Les Misérables (2012年) 

ヴィクトル・ユーゴーの原作を基にしたヒットミュージカルの映画化『レ・ミゼラブル』はなかなかの出来である。映画ならではのコンピュータ;グラフィックによる当時のパリの町並みの再現、汚い歯並びや汚れた服を強調した登場人物のクローズ・アップ、斬新なアングルの美しい絵画的なシネマトグラフィー。そして演技派俳優による心のこもった歌唱。ラッセル・クローやアン・ハサウェーなどの俳優たちは勿論歌も立派に歌えるのだが、俳優ならではの陰翳のある歌い方をしていて、これが単なるミュージカルの二番煎じではないことを証明している。『レ・ミゼラブル 』はナポレオン1世が敗北した1815年に出獄したジャン・ヴァルジャンが、1830年に起こったブルジョワによる七月革命の後の1832年の六月暴動とそれが鎮圧されて王政復古が起こるのを目撃し、年老いて1833年に死亡するまでの18年間を描く。

ジャン・ヴァルジャンの養女コゼットの夫になるマリウスが作者ヴィクトル・ユーゴーの投影であるということはよく言われるが、このマリウスという男がよくわからない。裕福な祖父に反抗して六月暴動に参加したはずだが、同志が全員死亡してもジャン・ヴァルジャンに救出され祖父の援助でコゼットと豪華な結婚式をあげ、めでたしめでたしとなる。マリウスのモデルになったと言われるヴィクトル・ユーゴーはどういう人物だったのだろうか。彼のどの部分がマリウスに投影しているのだろうか。

ブルボン王朝及び貴族・聖職者による圧制に反発したブルジョワジーに率いられた民衆が1789年7月14日にバスティーユ牢獄を襲撃したことにより始まったフランス革命は、1792年にルイ16世を処刑したあたりから次第に過激化し、第一次共和制の恐怖政治に発展して行った。この混乱の中で人民の心をつかんだのはナポレオン・ボナパルトであり、1799年のブリュメールのクーデターによりナポレオンは執政政府を樹立し独裁権を掌握した。1804年に彼は帝政を樹立した(第一帝政)。

ヴィクトル・ユーゴーは1802年に共和派でナポレオン軍の軍人である父と、熱烈な王党派である母の間に生まれた。両親は当然ながら大変不和であり、それが彼の青年時代に暗い影を投げることになる。ヴィクトル・ユーゴーは別居が続いた両親の関係上、その幼少時代の大半を母と過ごすことになる。1814年のナポレオン1世の没落で父はスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に降格されてしまう。

ナポレオン1世の失脚後、ウィーン会議で、フランス革命を否定して、すべての体勢をフランス革命以前の状態を復活させ、大国の勢力均衡を保つことが図られた。英・独(オーストリアとドイツ)仏・伊(及びバチカン)・ロシアの五大国でヨーロッパの体勢を決めるというこのウィーン会議の精神は結局 第二次世界大戦まで続いたのである。フランスではルイ16世の弟であるルイ18世がフランス国王に即位した。ルイ18世はフランス革命の最中に兄を捨てドイツに亡命し、その後も諸国を転々としてフランス共和制への攻撃を主張していた。彼は1815年にナポレオンが一旦エルバ島を脱出して復権するとまた亡命するが、ナポレオンの最終的失脚にともなって復位した。ルイ18世の死後、弟のシャルル10世(彼もフランス革命勃発と共に兄のルイ16世を捨ててロンドンに亡命していた)が即位し、亡命貴族への補償を行うなどさらに反動政治を推し進めた。

この王政復古の時期はヴィクトル・ユーゴーにとっては家族に集中する時であった。母の死後1821年に幼馴染のアデール・フシェ(彼女はコゼットのモデルであるといわれる)と結婚し、1823年には長男、1824年には長女が生まれ、1825年にはレジオン・ドヌール勲章という最高勲章を受け、準貴族待遇を受けるようになる。また少年時代は疎遠であった父との仲も親密になっていき、それまで嫌っていたナポレオン1世に対しても理解を深めるようになり、ナポレオン1世を次第に尊敬するようになる。1826年には次男、1828年には三男が、1830年には次女が生まれる。彼はルイ18世から年金をもらっていたので、生活はかなり裕福であったが、作家としての成功も既に始まっていた。

シャルル10世は反動的な政治を行い、言論の自由を認めず、ブルジョワジーの大部分に選挙権も与えないなど中産階級の利益を守らなかったので中産階級、知識人そして貧しい労働者が不満を持ち始めた。また後にフランスの汚辱であり将来に渡り政治的負債となるアルジェリア侵略まで始めてしまった。こういった愚策の繰り返しが1830年のブルジョワジーに主導された七月革命勃発の原因となった。ヴィクトル・ユーゴーは保守的な貴族ではあったが、一方では尊敬されている知識人であり、自分の親友の文学者たちが七月革命の中心人物なので自分の立場は安全だとわかっていたし、シャルル10世は愚王だと思っていたので、七月革命にも反対の立場は取っていなかった。七月革命では、革命軍を鎮圧しなければならないはずの政府軍にすら鎮圧軍の意欲はなく、シャルル10世は慌てて外国から傭兵を雇わなければならないほどであった。このフランス七月革命は、1830年7月27日から29日までのわずか三日間の革命であった。この革命はシャルル10世が亡命し、開明的で自由主義に理解があるという名声のあったブルボン家の遠縁にあたるルイ・フィリップ1世を王位につけ、立憲君主国を樹立する(七月王政)ということで収拾された。ルイ・フィリップ1世は1797年から1799年までアメリカ合衆国に住み、アメリカ独立運動を助けたという経験もあり、人民からの期待も高かった。

ルイ・フィリップ1世はブルジョワジーに大変人気のある王であった。ヴィクトル・ユーゴーもルイ・フィリップ1世を「万事に優れている完璧な王である」と絶賛しており、1845年にはついに彼はルイ・フィリップ1世から子爵の位を授けられた。彼は永久貴族になったことで政治活動にも興味を示すようになった。彼にとっては理解のあるルイ・フィリップ1世のような英君を理性的な知識人がサポートする七月王政が理想の体制であったようだ。

しかし、ヴィクトル・ユーゴーとマリウスには決定的な相異がある。マリウスは共和派の秘密結社ABC(ア・ベ・セー)の友に所属する貧乏な弁護士という設定になっている。ブルジョワ出身の彼は幼い頃に母を亡くし、母方の祖父に育てられたが、17歳のとき、ナポレオン1世のもとで働いていた父の死がきっかけでボナパルティズムに傾倒し、王政復古賛成派の祖父と対立して家出していた。マリユスが『レ・ミゼラブル』で参加したのは、七月革命ではなく、その2年後に起こった六月の暴動である。六月暴動(1832年)はより過激な学生と労働者による蜂起であったが、僅か二日間で鎮圧されてしまった。

フランスでは政治の体制は次第にブルジョワジー対労働者という図式に移行していた。1948年の労働者や農民主導の二月革命により、ルイ・フィリップ1世は退位しイギリスに亡命し、七月王制は終わりを告げる。フランスでは、王制は撤廃され、1848年憲法の制定とともに共和制(第二共和政)に移行した。この年の6月にやはり六月蜂起と呼ばれる労働者の反乱が起こっているので、上述した1832年の六月暴動と混乱してしまいそうになる。結局11月に大統領選挙が行われ、ナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルトが大統領に選出された。その後、ルイ・ナポレオン・ボナパルトは、自身を皇帝にして(ナポレオン3世)1852年にフランス第二帝政を開始するのである。

ルイ・フィリップ1世がイギリスへ亡命した後ですら、ヴィクトル・ユーゴーはあくまで、ルイ・フィリップの嫡孫である幼いパリ伯を即位させるべきだと主張したほどである。第二共和制で次第に独裁化していくナポレオン大統領には常に強力な反対者であったユーゴーは、1851年のナポレオンのクーデターの後にナポレオンに弾圧されるようになり、命の危険を感じたユーゴーはベルギーへと亡命することになり、ベルギーの首都ブリュッセルからナポレオンへの批判を開始することになった。しかしベルギーにも弾圧の手が伸び、彼はさらにイギリスの辺境の島に身をひそめることになる。この時期に六月暴動の挫折を記録した『レ・ミゼラブル』を執筆し、それが全世界的なベストセラーとなった。

1870年に勃発した普仏戦争はフランスの大敗北に終わり、セダンの戦いでプロイセン王国の捕虜となったナポレオン3世は失脚した。これによってユーゴーは帰国を決意し、19年ぶりに祖国の土を踏むこととなったが、彼を待っていたのは、彼を世界的文豪或いは国民的英雄として熱狂的に歓迎するフランスの国民であった。

普仏戦争を収拾するために臨時政府が成立したが、この政府がビスマルク率いるドイツ政府に対して屈辱的な講和予備条約を結んだ。それに激怒した民衆が蜂起して、社会主義政権を標榜するパリ・コミューンの成立が宣言された。このコミューンの政策には労働条件の改善など社会政策的な要素が含まれており、世界初の社会主義政権と言われたが、パリ・コミューンの指導者は内部対立を収拾することもできず、すぐに政府軍によって鎮圧された。コミューン参加者の多くが射殺ないしは軍事法廷によって処刑された。パリ・コミューンの鎮圧は、多くのフランス国民にとっては政治的安定をもたらすものとして受け入れられた。

19世紀のヨーロッパ諸国では、王党派、ブルジョアを中心とする共和派、軍部政権、マルクス主義の影響を受けた労働者・プロレタリアートの武力闘革命による階級闘争主義が思想的な争いを繰り返したが、ユーゴーの目指したものは王制と共和制の中間、開明的な国王を賢いブルジョアが理性的な憲法と普通選挙で支持するものであっただろう。これは隣国の英国が追求したものと同じであり、七月革命の犠牲を経て誕生した七月王制が彼にとっては理想の政権であっただろう。しかし、その後の亡命生活を経て、ユーゴーの政治観も深まったのであろう。貧困にあえいでいるレ・ミゼラブル(貧しき人々)を救わずして理想国家は作りえないということを心から感じたのだろう。だから。七月革命をただのばら色の栄光と描かず、六月暴動の陰翳を『レ・ミゼラブル』に入れたところにこの物語の深さがあるのだろう。

ユーゴーは1885年5月22日、パリにて84歳で逝去した。国民の英雄、文豪としてパンテオンへ敬意を持って埋葬されたのである。

English→

[映画] 僕の村は戦場だった Ivan’s Childhood(1962年)

この映画は、ロシアの作家ヴァドミール・ボゴモロブの短編小説『イワン』を、アンドレイ・タルコフスキー監督が映画化したものである。第二次世界大戦の独ソ戦によって両親を含めた家族をすべて失って孤児となった12才の少年イワンが、ドイツに対する憎しみの中でパルチザンに、そして後に偵察兵としてソ連軍に参加し、結局ナチスに処刑されてその短い一生を終える。特にドラマティックなストーリーの展開はないのだが、少年の記憶に残る平和な日々の詩情豊かで美しい回想シーンと、少年の前に広がる戦争の厳しい現実をくっきりとしたコントラストで描いていく。

この映画の特徴はオブジェ(物体)の美しさである。実際の戦闘のシーンとかドイツ兵は一切出てこず、それらは線香花火のような光や銃声だけで象徴的に表現される。水、闇、光、ランプ、廃墟、沼、浜辺、井戸、馬、白樺、鳥、林檎などそれぞれのオブジェが効果的に、時には奇抜な位置で配置され、人々の動きが意外な角度から映される。

スターリンが1953年に死亡して、当時のソ連支配化の人々にようやく安らぎの心が生まれ、西側の文化がソ連に急速に流れ込んで来て、大学では新しい映画論や芸術論が紹介され、新しい世代の映画人が育ちつつあった時代にこの映画は作られた。アンドレイ・タルコフスキーもそう言った戦後の新世代の若者の一人であった。彼はアメリカかぶれと批判されるまでに、アメリカの現代文化に興味があり、ジャズに傾倒し、また当時の西側諸国での大監督と言われていたジャン=リュック・ゴダール、黒澤明、フェデリコ・フェリーニ、オーソン・ウェルズ、イングマール・ベルイマンなどを熱心に研究していたという。

この映画はストーリーや主題よりも、むしろ斬新なオブジェや撮影角度に拘っているように見受けられるが、これは当時フランスで湧き上がりつつあったヌーヴェルヴァーグ「新しい波」の影響をもろに受けているといえるだろう。ヌーヴェルヴァーグはフランスの映画評論家を中心として50年代にフランスで起こった映画運動で、既存の映画監督を「つまらない」と酷評した評論家たちが、「俺たちがもっと面白い映画を作ってやろうじゃないか」という意気込みで始めた映画創作活動であり、フランソワ・トリュフォーとジャン=リュック・ゴダールがその中心人物であった。

戦争の爪あとが厳しく残るフランスでは50年代、60年代には、戦争を起こした大人とかエスタブリッシュメントに対する反抗の姿勢が強かった。政治的には共産主義、思想的にはサルトルが率いる実存主義或いはそれに続く構造主義、映画ではヌーヴェルヴァーグ、そして多くの文化領域で新しい動きが勃興しつつあった。何と無しに退廃的な気持ち、エロティシズム、破壊的な行為、解決のない虚無的な気持ちなどが、新しいテーマであった。60年代における日本でのフランス文化の影響は多大なものがあり、日本でも「日本ヌーヴェルヴァーグ」というグループが生まれたが、その代表的な映画監督は、大島渚、篠田正浩、今村昌平、羽仁進、勅使河原宏、増村保造、そして蔵原惟繕などである。彼らは、青少年の非行、犯罪、奔放な性、社会の片隅に生きる女たち、底辺の人間たちなど、それまでの映画ではあまり対象にならなかったテーマを抉るようになり、またわかりにくい聴衆を突き放すような映画を作り、聴衆は彼らを「芸術家」とみなすようになった。

その当時は新鮮だったヌーヴェルヴァーグの映画だが、今見るとどうであろうか。その斬新さは次々と後から来る監督たちに模倣されてしまい、今では誰もが使う手法になってしまっているから、現代の聴衆にとってはどうしてヌーヴェルヴァーグの映画が革命的だといわれたのかわからないかもしれない。また現在サルトルやフランソワ・トリュフォーの名前を知っている人間がどれだけいるだろうか?現代の若者にとっては、「Sarutoru,who?」(去る取るなんて人、いたっけ?)であろうが、サルトルの名前はその響きの面白さから(猿とる)、60年代の日本でもテレビでコメディアンにギャグの一部として彼の名前が使われていたこともあるくらい、日本でも名前が知られていたのだ。今から60年前に新鮮な手法や思想を追求したというのは確かに偉大なことだと思うし、彼らの手法が現代の映画でまだメインストリームの手法として生きているということは、結局ヌーヴェルヴァーグの核心は現代まで生きていると言えるのではないだろうか。私たちは今でも「フランス映画は難解で、観る人間の心を冷たく突き放す」と一般論を述べる。現代のフランス映画はヌーヴェルヴァーグ的でないトーンが多いが、それでもやはり多くのフランス映画はヌーヴェルヴァーグの精神を基調にしている。ヌーヴェルヴァーグは戦後のフランス映画の基調を決めてしまうほどの影響力があったといえよう。

この『僕の村は戦場だった』という映画は、アンドレイ・タルコフスキーが多分意図していなかったであろう面白い問題点を結果として提起しているように思われる。

イワンは戦争孤児で、家族を殺されたことをきっかけにイノセントな少年から虚無的な少年に変わってしまう。彼が信じるものは『憎しみ』の感情だけである。もう何が起こってもこわくない。ドイツ兵は憎いが、ドイツ人だろうがロシア人だろうが、大人はもう誰も信用できない。この戦争を起こしたのは大人なのだから。

イワンは戦争で殺されたが、もし彼が生き残っていたらどんな若者になっていただろうか?もしかしたら、自分の上の世代の人間を憎む人間になっていたかもしれない。戦争の残酷な影響を受けたドイツやフランスでは50年代から60年代にかけて反体制運動が激しく巻き起こっていた。それらの中心になっていたのは、戦争時に子供だった世代であり、その世代が戦後生まれの新しい世代にエスタブリッシュメントを憎む気持ちを伝えたのだ。その未来を予感させるような、イワンを演じる少年のイノセントで幸せな笑顔から、暗い憎しみの表情への変化が非常に印象的な映画だった。

English→

[映画] サラの鍵 Sarah’s key (2010年)

『サラの鍵』のテーマは二つある。一つはフランスでユダヤ人狩りが起こったという事実を知らせたいという使命感、そしてもう一つは過去の事実が現在でどういう意味を持っているのかという問いである。だから映画は1942年と現代を行き来し、最後にそれが繋がるようになっている。

サラはドイツ占領下で、ナチスに協力するヴィシー政権が統治するパリに住む10歳の女の子。ある日、仏警察がユダヤ人である彼女たちの家族を逮捕しにやってくるが、サラはとっさに気転をきかせて弟のミシェルをクローゼット(物置や押入れのような空間)に隠して鍵をかけ、「すぐに帰って来るから絶対に外にでないように」と言い聞かせて、自分は両親と共に連行される。強制連行させられたユダヤ人は猛暑の中、ヴェロドローム・ディヴェール(屋内自転車競技場)に押し込められトイレにも行かせてもらえない。そしてそこから仮収容所へ、そして最終的にはアウシュビッツに送られたのだ。サラは収容所から逃げ出し、弟をクローゼットから出すために鍵を持ってパリへ戻ろうとする。

ジュリアはフランス人と結婚してパリに住む有能なアメリカ人ジャーナリスト。1942年に起きたヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件(略称としてヴェルディヴ事件と呼ばれることが多い)のことを記事にするようにという仕事をもらうが、その調査の過程で自分の夫の家族が所有しているアパートメントにユダヤ人が住んでいたということを発見する。そしてそのアパートメントに住んでいた両親はアウシュビッツで死んでいるが、その子供たちセラとミシェルはそこで死亡してはいないということを知り、その子供たちがどうなっているのかを調べようとする。しかし、そうすることにより夫の家族たちを苦しめることになってしまう。夫の祖父は空き屋になったサラのアパートメントをタダのような値段で手に入れ、誰も生還しなかったのでその家族は何も知らずにそのアパートメントで平和に暮らしてきたのだ。

フランス人がユダヤ人を強制連行してアウシュビッツに送ったという事実は、長い間公にされていなかった。しかし1995年に大統領に当選したシラクが大統領就任直後に、第二次世界大戦中フランス警察が行ったユダヤ人迫害事件であるヴェルディヴ事件に対して、初めてフランス国家の犯した誤りと認めたのである。しかしシラク大統領が公に認めるまでこの事件を知らなかった国民が大半だったという。

ヴィシー政権下は1940年7月に1927年からのフランスへの帰化人の手続きを見直すため委員会を結成して過去の帰化人の調査を行い、この結果、ユダヤ人を含む15,000人のフランス国籍を無効とすることを提言し、引き続きフランス内のユダヤ人の社会的階級を低下させ、市民権を剥奪することを可能にする法律を可決した。この結果ヴィシー政権はユダヤ系のフランス市民の安全には責任がなくなり、ユダヤ人を強制収容所や絶滅収容所に合法的に送ることが可能になった。同じ種類の法律は、その後アルジェリア、モロッコ、チュニジアといった当時のフランス植民地にも適用された。

これが、「悪いのはすべてナチスなんだから、占領されたフランス人には責任がない!!」といえないのは、これらの法律がナチス・ドイツから強制されることなくヴィシー政権が自発的に採択したという証拠があるからだろう。

僅か70年前に国が真っ二つに別れて対立したという事実は、フランス人にとってはもう触れられたくない暗い過去なのではないだろうか。だからナチスに協力してフランスの北半分を統治したヴィシー政権は、本当のフランスではないと思いたいし、その政権がナチスに協力して行ったユダヤ人狩りに対しては「ヴィシー政権のやったことに責任は取れない」と言いたくなるのではないか。ヴィシー政権に対抗して、イギリスに亡命して対独徹底抗戦を貫いたド・ゴール(1959年から大統領1969年まで大統領)にとっては、自分の敵であるヴィシー政権がやったことに対するお詫びなどはできないのである。

ドゴールの後を継いだポンピドゥー大統領(1969年から1974年まで大統領)もミッテラン大統領(1981年から1995年まで大統領)もレジスタンスの闘士であり、やはり自分が過去に対する贖罪をする立場にはないと思っていたようだ。結局フランスの責任を始めて認め、「守るべき国民を敵に引き渡した」と謝罪したのは保守派のシラク大統領(1995年から2007年まで大統領)であった。

同じく保守派でまたユダヤ系であるサルコジ大統領(2007年から2012年まで大統領)は、反ユダヤ主義は糾弾したが、この事件をフランス政府の犯罪として認めるのには否定的であった。しかしサルコジを破って大統領に当選した左派オランド大統領は、左翼大統領として初めてヴェルディヴ事件を国家の罪と認めたのである。

この映画は、弾圧を乗り越えたユダヤ人がその後どう生きていったか、という問いを描いている。たとえ連合軍が勝利して戦争が終わったという所で映画が終わったとしても、釈放されたユダヤ人の人生はそこでは終わらないのである。サラがその後どうなったかを辿るのは悲しい旅である。弟を救うということだけを心の支えにして生き延びてきたサラの心は突然折れてしまう。サラの周囲には心優しい暖かい人々がたくさんいる。しかし、その愛もサラを救えなかったのである。そういう意味では救いのない悲しい映画なのだが、この映画を見終わって聴衆に救いがあるのは、ジュリアの探求の旅が、一見ジュリアの夫の家族やサラの家族に思い出したくない過去をほじくり返される苦痛を伴うのだが、やはり知ってよかったと家族がその苦い汁を飲み干すところが描かれていることだろう。またジュリアの旅は単なる他人の真実の探索ではなく、自分の人生の探索という結果になったということかもしれない。

English→

[映画] 戦火の馬  War Horse (2011年)

『戦火の馬』は、1982年に出版されたマイケル・モーパーゴによる児童小説を基にして、2007年からニック・スタフォードの脚色により戯曲化されロンドンの劇場で好評を得ていた『軍馬ジョーイ』を、スティーヴン・スピルバーグ監督により2011年に映画化されたものである。映画のロンドン・プレミアでは、ケンブリッジ公爵ウィリアム王子とキャサリン妃が出席した。スティーヴン・スピルバーグの絶妙な語りと、どこで泣かせるかを完璧に心得たツボを抑えた演出、そして最初から最後まで計算され尽くした美しい画像は、黒澤明の力量を彷彿させる。

この映画は戦争用に売られた馬を通じて、その持ち主のイギリスの小作農家の少年、馬に乗って戦死する英軍将校、脱走兵として処刑されるドイツの少年兵たち、戦火でドイツ軍に親を殺され自分の農場を略奪されるフランス人の少女とその祖父、そしてその他の戦争に翻弄される英独仏の人々を描く。言い換えると、馬という美しい動物を最大限に利用して観客を引っ張り、人々が都合よく登場しては殺される映画である。

この映画で一番興味深いと思ったのは、騎兵隊が第一次世界大戦を最後として消滅して行く、つまり馬が戦争の役に立たなくなったという背後には戦争の技術の革命があるというメッセージである。スピルバーグは別にそれを伝えるためにこの映画を作ったわけではないだろうが。

歴史上、騎兵は戦術的に重要な兵種と考えられてきた。高速度で馬と共に移動できるし攻撃性も強いので、奇襲・突撃・追撃・背面攻撃・側面攻撃・包囲攻撃など、幅広い用途に使われた。また敵陣の偵察などにも効果的に活用された。19世紀前半のナポレオン戦争時代に、騎兵は全盛を迎え、戦場を駆け抜けて突撃する騎兵隊はナポレオンの勝利に大きく貢献した。しかし1870年に起こった普仏戦争ではフランス騎兵隊がプロイセン軍の圧倒的火力の前に全滅し、フランスはプロイセン軍に敗北を遂げる。

この背後にあるのは新しい武器の導入である。南北戦争(1861年から1865年)あたりから、機関銃やライフルの使用が始まり、それから身を守るために塹壕が掘られ、戦争は個人戦から、集団による打撃戦へと変化していった。突撃してくる馬は相手側による格好の射的となり、また狭いノーマンズランドに対峙して持久戦に持ち込むという地形の中でもはや馬が闊歩する時代ではなくなった。馬を維持するコストを考えると、騎兵は勝率効果の低い高コストの戦術となってしまったのだ。英軍を率いる将校たちは貴族の出身で、近代戦や機関銃に対する知識は叩き込まれていても、心の奥底ではまだ古い時代の騎士が馬に乗って名誉を重んじて勇敢に戦うことに憧れる精神が残っており、この映画では、騎兵で奇襲をかけた英軍が、徹底的に近代化したドイツ軍の機関銃に壊滅されるということがリアルに描かれている。

馬と象とラクダは古来から人類の友人であり、貴重な労働を提供してくれる存在だった。高い知能を持ち、一度飼い主と信頼尊敬の関係を築くと忠誠に尽くしてくれる。しかしただ穏やかなだけではなく、怒ると信じられないような強さも見せる。人類にとって、馬そして犬は永遠に友人であり続けるだろう。この映画を観て、主人公の馬に泣かされた人も多いだろうが、私は最初から最後まで醒めた気持ちを感じざるを得なかった。その理由を述べてみよう。

まず、馬を前面に押し出すために使われる登場人物の描き方が浅いというか不可解である。少年の親は、馬の購買を競っている自分の地主に負けたくないという意地で、大金を叩いてこの馬を買うが、借金が払えなくなるという状況に追いやられ、腹立ち紛れに自分が買った馬を射殺しようとする。この無茶苦茶な馬の紹介シーンが最初にでてくるので、その後はいかに馬が美しい演技をしても同感ができなくなってしまうのである。この馬は軍部に理不尽に徴収されたのではなく、父親が自分の借金の穴を埋めるために自ら軍に売りに行くのである。これは一例であるが、とにかく登場人物の描き方が浅い。ノーマンズランドを挟んで敵対する英独軍の兵士が馬を助けるために一時仲良くなるというシーンは『戦場のアリア』を彷彿させるが、『戦場のアリア』ではそれが映画の主題であるからその顛末を丁寧に描いているが、『戦火の馬』では映画の数多いエピソードのてんこ盛りの一つに過ぎず、とにかく唐突な感じがするのである。たくさんの負傷兵をかかえている野戦病院は人間の負傷兵で溢れかえっているが、軍医が「馬を助けるために出来る限りの手を尽くそう」というくだりでは、涙がでてくるより「ウ~ム、何故?」と思ってしまった。

次にこの映画では英独仏の登場人物が皆英語をしゃべるので、話のわけがわからなくなる時がある。ドイツ兵の将校のドイツ語の掛け声にあわせて行進する兵士が英語でしゃべっているので、捕虜になった英兵?と思ったらドイツ兵である。フランスの農場を略奪する軍隊も英語を話すので、英軍が味方のフランス人を虐待しているの?とびっくりするが、これはどうあってもドイツ軍という設定でなくてはならないのだろう。スピルバーグが全員に英語を話させているのは、アメリカでのこの映画の興行の成功を狙ったからに違いない。アメリカ人は字幕のある外国映画が好きでない。これは「洋画は実際の俳優のしゃべる声を聞いて、その微妙さを味わいたい」と思い、吹き替えよりも字幕を好む日本人にはわかりにくいかもしれないが、私はアメリカ人の映画のディスカッションサイトで「なんでこの映画、吹き替えじゃないの?字幕なんて面倒くさくて観る気もしない」と文句を言っているアメリカ人の投稿を何回か読んでいるので、そう思うのである。(今のところ)世界のナンバーワンであるアメリカ人は、世界中の人が英語を話すのが当然だと思っているという気持ちがどこかにあるのだろう。

ハリウッド映画は音楽を効果的に使う。この映画でも音楽は確かに美しいのだがスピルバーグは使いすぎているような気がする。今までずっと成功していたジョン・ウィリアムズとのコラボではあるが、音楽の力は認めるとしても、これは濫用というレベルに来ているのではないか。特に音楽をあまり使用しない非ハリウッド映画を見たあとでスピルバーグの映画を観ると「はい、ここで泣いてください」と言われているような気がして「Enough(やり過ぎ)!」と感じてしまう。しかし、兵士をバグパイプで送り出すシーンでは思わず鳥肌がたった。スピルバーグにまんまと嵌められたと思った一瞬であった。

またシンボル的な小細工が鼻につく。たとえば、主人公の少年の父はアル中だが、実はボーア戦争で名誉の負傷をしたということが明らかになる。その名誉のペナントを少年が馬に結びつけ、ペナントは友情の象徴として次々に馬の所有者の手で守られ、馬と共に少年のもとに戻ってくる。私はそのペナントを見るたびに「どうだ、すっごくカッコいいシンボルを考え付いただろう」という得意げなスピルバーグのドヤ顔がちらついてしまったのである。

聴衆の反応は「感激した。泣けた」というものと「小手先の映画の泣かせる技術に心が醒めた」との二つに分かれる映画ではあると思う。

English→

[映画]  戦場のアリア Joyeux Noël Merry Christmas (2005年)

1914年、クリスマス前夜フランス北部の塹壕で、フランス・スコットランド連合軍は旧フランス領を占拠し進撃して来たドイツ軍と、狭いノーマンズランドを挟んでで対峙していた。ドイツ軍に徴兵されその陣にいた国際的なオペラ歌手ニコラス・スプリンクを恋人のソプラノ歌手アナ(ダイアン・クルーガー)が訪ねてくる。クリスマス前夜、衛生兵としてスコットランドに奉仕していたパーマー神父がスコットランド陣営でバグパイプでクリスマスの曲を奏でると、ドイツ陣営のニコラスもクリスマス聖歌を歌い始める。フランス・スコットランド連合軍は思わず拍手を送り、ニコラスは中立地帯のノーマンズランドに立ち歌い続けた。それがきっかけになり、三国の将校は中立地帯で面会し、クリスマスイヴだけは戦闘を中止することを決定する。パーマー神父がクリスマスミサを行い、アナが聖歌を歌った。翌日も彼らは戦争を停止し、中立地帯に放棄された同胞の死体を埋葬し、サッカーを楽しみ、チョコレートとシャンペーンを分け合い、家族の写真を見せ合う。しかし、つかの間の友情を交換した彼らにも、戦いを開始しなければいけない時が来る。この友情の交流を知ったそれぞれの軍部や教会の上層部は怒り、友情を交わした兵士たちはその行為に対する厳しい結果を受け止めなければならなかった。

戦争中に敵国兵が友情を交わしたというのは本当に起こったのかと思われるかもしれないが、この映画は実際に起こった事実をいろいろ繋ぎ合わせて製作されたという。クリスマス休戦や敵国間での友情の交流は第一次世界大戦の公式の記録に残っていない。しかし西部戦線で生き残った兵士が帰還後、家族や友人に口承や写真で事実を伝えたのである。

1914年に実在のドイツのテノール歌手、ヴァルター・キルヒホフがドイツ軍に慰問に行き、塹壕で歌っていたところ、ノーマンズランドの反対側にいたフランス軍の将校がかつてパリ・オペラ座で聞いた彼の歌声と気付いて、拍手を送ったので、ヴァルターが思わず中立地帯のノーマンズランドを横切り、賞賛者のもとに挨拶に駈け寄ったことは事実であるし、独仏両軍から可愛がられていたネコが仏軍に逮捕されたことも事実である。このネコは後にスパイとして処刑されたそうだ。また敵軍の間でサッカーやゲームを楽しんだことも事実であるらしい。

このクリスマス停戦は第一次世界大戦が始まった直後のクリスマスに起こっている。第一次世界大戦は史上初の総力戦による世界大戦であり、誰もがその戦いがどういう方向に発展して行くか予想もつかず、最初は戦争はすぐ終わるという楽天的な気持ちが強かったようだ。しかし戦争が長引くにつれて危険な武器や毒ガスが使用され、また最初はのんびりした偵察のために使用されていた飛行機が恐ろしい戦闘機に変化していった。戦争が激しく残酷になるにつれてこの映画に描かれているようなクリスマス停戦が行われることは稀になっていったという。

彼らを瞬間的にでも結びつけたのは、音楽とスポーツ、そして宗教の力である。戦闘国の独仏英はみなキリスト教国で、この頃は人々の信仰も強く、クリスマスが本当に大切なものであったということも、クリスマス休戦の動機になっていたであろう。同じキリスト教国の国であるということで、敵国も理解しやすかったのであろう。もしこれがイスラム教徒とキリスト教徒、或いはイスラム教徒とユダヤ教徒との間の戦争であったなら、クリスマス休戦などは起こらなかったであろう。

第一次世界大戦で一番大きな政治的な変動を遂げたのはドイツである。当時ドイツはまだ帝国であり、臣民はドイツ皇帝兼プロイセン王ヴィルヘルム2世の名の下に戦ったのである。しかし大戦が続く中で国民の厭戦気分は高まり、1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起からドイツ革命が勃発し、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、これにより、第一次世界大戦は終結し、ドイツでは議会制民主主義を旨とするヴァイマル共和国が樹立された。

その後もドイツの政権は安定せず、敗戦後は戦勝国側からの経済的報復を受けドイツ国民は悲惨な生活を送っていた。その不満の中で1920年にナチスが結成され、それが第二次世界大戦に繋がっていくのである。映画の中では、ドイツ軍を率いたホルストマイヤー中尉はユダヤ人であった。クリスマス停戦を知った西部戦線の最高司令官であったヴィルヘルム皇太子は激怒し、ホルストマイヤー中尉の部隊を危険な東部戦線に送ってしまうが、その際にヴィルヘルム皇太子は中尉の胸にあるドイツ軍の鉄十字を自分の剣で突き「貴様は鉄十字に値しない」と怒鳴るが、それは20年後にドイツ市民権を剥奪され、ドイツ兵にも志願できず強制収容所に送られるユダヤ人の運命を暗示しているシーンであった。

この映画のメッセージを一言でいえば、「戦意は国家指導者によって形成されるものである」ということではないだろうか。この映画は英独仏の小学生が周辺の国に対する戦意を学校で愛国教育として叩き込まれるシーンから始まる。国民は敵国の兵士は顔のない獣だと思わされているから、戦争で戦えるのである。しかしクリスマスイブの夜の交流によって、初めて相手を人間と認識した兵士たちにとって、殺し合いは難しいものとなる。フランス軍を率いるオードゥベール中尉が、クリスマス停戦への非難を受けた時「ドイツ人を殺せと叫ぶ連中よりも、ドイツ兵の方がよほど人間的だ!」と反論する。また戦争に戻らなければならない兵士の「我々は(今日だけでも)戦争を忘れることができる。でも戦争は我々を忘れはしない」という言葉がいつまでも聴衆の心にのこるだろう。

この映画は美しい細部の描写が印象的な佳品なのだが、もし私が難点をつけるとしたら、オペラ歌手を演じたダイアン・クルーガーのあまりにも明らかな口パクだろう。彼女が兵士の前で歌う聖歌がこの映画の大きな転換点になるはずなのだが、歌っている彼女の体の震えもないし、口も平板にパクパクさせているだけで、素人目にも歌詞と彼女の口の動きが外れているのが明らかな瞬間が多すぎるのだ。美しい絵のような彼女の口だけがパクパクと切れたように動いているので、ここで映画の感動から冷めた聴衆も案外多いのではないか。ダイアン・クルーガーは確かに美しいがこの映画では本物のオペラ歌手、たとえばこの映画で実際に歌声を提供しているナタリー・デセイなどに任せた方がよかったのではないか。聴衆はダイアン・クルーガーの口パクより、むしろスコットランド軍のパーマー神父が奏でるバグパイプの演奏に感動するのではないか。『ムッソリーニとお茶を』でも、映画はナチスに占領されたイタリアの町を解放したスコットランド軍がバグパイプを弾きながら町に入ってくるところで終わる。バグパイプの音はなぜあれほど明るくて、楽天的で、悲しくて、感動的なのであろうか。

English→

[映画]  パリ20区、僕たちのクラス The Class Entre les murs (2008年)

この映画はパリで中学校の教師であったフランソワ・ベゴドーが自身の経験を基にして書いた小説『壁の間でEntre les murs』を映画化したもので、フランソワ・ベゴドーが脚本も書き、映画の中で自分自身(教師役)を演じている。彼は本職の教師のほかにロックミュージシャンや作家、ロック評論家としてのキャリアもあるが、脚本家としてセザール賞を受賞し、作品がカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞し、またアカデミー賞にもノミネートされたことにより、映画人というキャリアも加わったようだ。彼は本が売れた後に教師を辞めて、今は執筆と映画関係の仕事をしているようだ。

様々な国・地域からの移民が共存するパリ20区の、多種多様な人種が入り乱れるある中学校のクラス。この映画はフランソワが率いるクラスの一年間を、主に教室の中で起こったことを中心に描く。フランソワは、大部分がフランス語を母国語としない生徒たちを相手に、正統なフランス語を教えようとする国語教師である。子どもたちのフランス語の力は、日常会話は問題ないが、動詞の活用は不正確だし、文語で主に使われる接続法の活用や、抽象的な単語は十分な理解が出来ない。また生徒たちの中には黒人系の移民の子が多いのだが、彼らの母国はアフリカのマリであったり、モロッコであったり、カリブ海の国であったりと様々で、その文化背景は多様で、単に『移民の子』とか『黒人の移民』とはいえない。そんな子供たちの間で小さな諍いが頻繁に起こる。

錚々たる映画祭で最高の評価を受けた映画だし、学園モノということで、熱血教師や感動的ドラマだと期待して観るとちょっと勝手が違う。この映画は理想的な教育を論じているのでもないし、子供や教師への賛歌でもないし、移民の子供たちを描く社会ドラマでもない。そういう論調を期待すると肩透かしをくらうような映画である。いろいろな問題が次から次へと起こり、フランソワはそれに対して彼なりに真摯に対応するが、問題をうまく解決できるわけでもない。あれこれ出来事が起きて、生徒と教師、父兄と教師、教師間でたくさんの議論や会話がある中で一年が終わる、ただそれだけである。ではこの映画は一体何なのかという話になるだろう。

まず、なぜフランソワ・ベゴドーが原作の『壁の間でEntre les murs』を書いたのか。それは彼の教師という職業の現状に対するやるせなさである。誰でも生きていくためには、何らかの仕事が必要であり、彼にとっては教師がそれであった。彼の両親も教師であったので、教職は身近な職業であっただろう。しかし、教師はフランスでは経済的に恵まれてはおらず、一生懸命やっても生徒や親からは感謝されず、毎日生徒の口答えに反応することで、日が過ぎていく。彼は生徒が好きだし、自分の仕事に熱意を持っているようであるが、それでも彼の言葉を借りれば、教職は『一番悲しい仕事』として位置づけられている。中学校の教師というのは、大変な重労働である。教師を軽蔑する人はいないであろうし(と信じたい)、誰かが中学校の教師をしなければならないとは皆思っているだろう。しかし、自分から進んで中学校の教師になろうという人間は案外少ないのではないだろうか。大切な仕事だということは認めていても、嬉々としてその職に応募する人は案外少ないというのは問題である。

ではなぜローラン・カンテ監督はこの本を映画化したかったのか。フランソワ・ベゴドーもそうだが、ローラン・カンテの両親も教師である。彼は教育者というものを直接知っていたし、彼は教育が子供を現実の世界に送るための準備の場所であるという意味で重要な役割を持たなければいけないことを認めていたが、同時に教育のシステムが機能しない場合もあり、たくさんの生徒がそのシステムの中から落ちていく現実も知っていた。理論的に教育の現状を考えていたローラン・カンテにとって、現場から子供の眼と教室の息吹を具体的に伝えてくれるフランソワ・ベゴドーの本は彼の創造心を刺激してくれ、彼が教育に関する映画を作る大きな動機になったのではないだろうか。ローラン・カンテの主題は「子供にチャンスを与えなければならない教育がなぜ選り分けの場所になっているのか」というものであろう。その例は単なる事故で同級生を傷つけた男子生徒が、たまたま教師の間で問題児として見られていたので退校処分を受ける例や、あまり勉強のできない女子生徒が「絶対に職業高校なんかに行きたくない」と呟くシーンに表現される。フランスの教育制度は正確にはわからないが、成績が悪くて送られる職業高校は生徒にとって希望のないデッドエンドのようなのである。

最後に、この淡々としたドキュメンタリー風の地味な作品が何故満場一致でカンヌ映画祭のパルム・ドールを受賞するほどの圧倒的な評価を受けたのか。それはこの映画が、あまり映画にならないが大切な主題を正直に謙虚に描いているからであろう。国民の誰もが何らかの教育を受け、教育は大切だが現状では完璧に教育のシステムが働いていないということは知っているが、教育問題はドラマチックな作品を作るのは難しいのであまり映画にならない。たまになったとしてもそれは熱血教師が異例の影響を教師に与えるという例外的なケースを劇的に描くことが多い。ここはオーディションで選ばれたパリの下町の普通の子供たちと本職の先生が演技を超えたリアルな態度で現実を描く。それがなぜか説得力がある。

この映画は教育の問題提起であり、この映画の中の子役俳優たちはそれなりに問題児を演じているはずなのだが、映画に出演している子供たちの眼はきらきら輝いている。きっと映画製作に主役として携わるうちに「あ、こんなに面白いことがあったのか!」「自分が主役になって、自分の頭と心を使うことがこんなに楽しいことだったのか!」ということを感じ始めたのだろう。だから、問題児を演じている子供たちも皆可愛らしい。監督としてはそれはちょっと予定外のことだったのかも知れないが、この子供たちの明るさが映画を見たあとでの爽やかさを生み出しているともいえるのかもしれない。

English→

[映画] コーラス The Chorus Les choristes (2004年)

世界的指揮者ピエール・モランジュはニューヨーク公演中に母が死んだという知らせを受け、急遽フランスに帰国する。母の葬儀の後、ペピノと言う男が訪ねてくる。ペピノはピエールと同じ学校に行き、そこでクレマン・マチューという教師に教えを受けたという設定が知らされたあと、映画は50年前に戻る。

第二次世界大戦後まもない1949年、クレマン・マチューは戦争孤児や問題児を集めたFond De L’Étang(池の底)と呼ばれる寄宿舎に舎監として赴任する。そこでは厳格な体罰で子供を抑えようという方針の校長のもとで、子供と教師の間で反抗と厳罰が繰り返されており、子供は将来の目的や夢を伸ばすことも教えられていなかった。音楽家であったマチューはコーラスを通じて、子供と心を通わせ、その中で子供に規律の態度と音楽の楽しさを教えて行った。マチューは、問題児として見られているピエールが、奇跡のような「天使の歌声」を持っていることに気が付き彼の才能を伸ばそうとする。

校長は生徒に対する愛は全くなく、孤児院を経営することで名声や叙勲を狙っている男だった。大量の金が学校の金庫からなくなっているのを発見した彼は、一番の不良少年であるモンダンが盗んだのだと思い、拷問に近い取調べをした後、罪を認めない彼を放校にしてしまう。後にモンダンは復讐のために寄宿舎に放火するが、その時たまたまマチューが全生徒を連れて遠足に行っていたので死者はいなかった。しかし生徒を建物以外に連れ出すのは校則違反だとし、校長はマチューを罷免してしまい、生徒たちにも彼に別れを言うことを許さなかった。

マチューは結局1人寂しくその寄宿舎を去って行き、生徒も彼がその後どうなったのかは知る由もなかったのに、何故ペピノがその後のマチューの人生を知っていたかという理由が、映画の最後の最後で明かされる。非常に感動的な終幕であった。

不良少年が音楽の力でそうも簡単に更生するなんてあり得るかと思われる方もいるかもしれないが、この映画に出てくるのは心の狂った悪童たちではない。この寄宿舎にいるのは、大部分は戦争で親を失った孤児たちか、或いは、夫を戦争で失い終日働かなければならない貧しい母を持つ子供たちである。ここにいる子供達は生きるために店からパンを盗んだこともあるかもしれないが、根本は心寂しく、生き方の方向を教えられていない子供たちである。いたずらもするが、それは自分の軽はずみないたずらが結果としてどれだけ恐ろしいものになるかを両親からきちんと教えられていないからである。いたずらの後で、ひどい体罰を校長から受け、彼らは段々心を閉ざし、ますます悪い行動に出てしまう。大金を金庫から盗んだのはモンダンではなかった。その少年はふと空気船が買いたいと思い立ちお金を盗んでしまうのだが、そのお金をただ自分の秘密の隠し場所に置いたあと、そのお金をどうするということもないのである。

またマチューが接していたのは、変声期前の時期の子供たちである。天使の声のようなボーイソプラノを生み出す本当に短期間の奇跡的な期間にマチューから歌う喜びを教えられた彼らはまだ幼く、父性の愛を求めており、反抗するといっても知れたもので、マチューの慈愛に素直に応えられる年代であった。

ピエールはその才能を発見され、奨学金で高名な音楽学院に進学し、世界的な指揮者となった。彼はマチューのことや、寄宿舎のことは遠い昔のこととして忘れていたが、ペピノからクラス写真を見せられてそれらを懐かしく思い出す。ピエールの人生を見ていると、成長の過程で、特に人間を形成している若い時代によき師に出会うことがどんなに大切なのかということを思い知らされる。マチューとピエールが接した時期は比較的短時間で、マチューはピエールを特別扱いしたわけではない。しかしマチューに出会うことがなければ、ピエールは決して世界的な音楽家にはなれず、下手をすれば刑務所に入るような人生を送っていたのかもしれないのだ。大人になってから自分の小学校の先生に再会するということは、滅多にないだろう。子育てやキャリアの追求に多忙な時に、自分の小学校の先生のことなどは完全に忘れているが、自分の親が死んで、人生は無限ではないとわかり始めた年齢の頃、ふと昔の先生のことを考え、名前は忘れているかもしれないが、その顔や優しくしてもらった思い出を心に浮かべることは案外多いのではないだろうか。

この映画はあの『アメリ』の歴史的なヒットを抜き、フランス映画史でナンバーワンの大ヒットになり、フランス人の7人に1人がこの映画を見たという。製作はフランスの国際的名優(そして美男俳優である)ジャック・ペラン、監督は彼の甥のクリストフ・バラティエ、そして子供時代の可愛らしいペピノを演じたのは、ジャック・ペランの三男マクサンス・ペランである。ジャック・ペランは老境に達したピエールも演じている。ジャック・ペランはあの不朽の名作 ‎『Z』の製作も行い、それでアカデミー賞を獲得している。俳優として成功するのも難しいのに、歴史に残る『Z』と『コーラス』という映画を製作したジャック・ペラン、一体どういう星の下に生まれてきたのだろうか。

English→

[映画] Outside the Law Hors-la-loi (日本未公開)(2010年)

2006年にアカデミー賞最優秀外国語賞候補にノミネートされた名作 『デイズ・オブ・グローリー』の成功の後で、夢よもう一度という感じで作られた続編の『Outside the Law』は、残念ながら前作には全く及ばぬ出来であり、柳の下に二匹のドジョウはいなかったようだ。

監督は前作と同じラシッド・ブシャール、『デイズ・オブ・グローリー』でカンヌ最優秀男優賞を受賞した兵士役の3人の俳優が前作と同じ役名(メサウード、アブデルカダ、サイード)で出てくるが、続編では3人はアルジェリア出身の兄弟という設定である。前作でちょっと癖のあるマーチネス軍曹をやった俳優はその3人を追うフランスの捜査官として出演する。ただ1人前作の主要人物で同じくカンヌで最優秀男優賞を取ったヤッシール役のサミー・ナセリだけは出演していない。実は彼は『デイズ・オブ・グローリー』の出演の前後から、コカイン所持などを含めて何回か法律に触れ有罪判決を受けていたが、2009年には遂にナイフでの傷害罪を起こして逮捕されているので、そのせいであろう。

顔立ちも体型も違う3人の俳優が同じ部隊の兵士なら説得力もあるが、兄弟を演じるのはどうも違和感がある。いろいろな事件が降りかかって来るのも、同じ部隊の兵隊なら納得だが、3人の兄弟に次から次へと降りかかってくるのもあまりにも偶然すぎる。また、この映画は第二次世界大戦前から1962年の長い年月を2時間で描くので、今一つ上滑りで、掘り下げ方が浅いという印象を受ける。『デイズ・オブ・グローリー』の成功のあと、ラシッド・ブシャール監督はもっとエンターテインメントの要素を強くして、アクションシーンを投入することで興行的な成功も狙っているかのようだ。事実、この映画にはハリウッドの伝説的な映画『ゴッドファーザー』の影響が強く感じられる。しかしそのアクションシーンもなぜか今一つである。ハリウッド映画にもいろいろ批判があるだろうが、ハリウッドもいたずらにそのアクション映画のテクニックを育ててきたわけでない。アクションシーンでは、ハリウッドにはまだまだ及ばないというのを見せ付けられたような気がする。

この映画はアルジェリアの村で、3人の兄弟の父が所有する土地がフランス人と連帯するアルジェリア人に奪われて、一家で故郷を去るところから始まる。映画自体はフィクションであるが、実際にあった事件を背景に取り入れており、その例の一つがセティフの虐殺である。1945年5月8日、ドイツ降伏の後、アルジェリア人がフランス軍事基地のあるセティフ及び近隣で独立を要求してデモが行われたが、警察が介入する中でそのデモが暴動に姿を変えその鎮圧の過程で多数の人 間が殺害された。映画では、兄弟の父はその中で殺害され、次男のアブデルカダが逮捕されフランスの刑務所に送られる。

長男のメサウードはフランス軍兵士としてベトナムに出兵する。映画ではベトナムに送られたのは主にフランス植民地の兵士であると描かれている。実際に当時フランスは第一次インドシナ戦争を戦っていたが、その主力であるモロッコやアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人達の士気は低く、厭世気分が強かったらしい。結局フランスは1954年のジュネーヴ協定によりベトナムから手を引くことになる。

三男のサイードは自分たちの土地を奪ったアルジェリア人の地主を殺害し、母を連れて兄が囚われているパリに渡り、そこで酒場とボクシングのジムを始め、金儲けに専念する。やがて長男がベトナムから帰還し、次男が釈放され家族がようやくランスで再会する。

次男のアブデルカダと長男のメサウードは、パリでアルジェリア民族解放戦線(FLN)に参加したが、二人はメサウードが第二次世界大戦におけるレジスタンス運動やベトナム戦争で出会ったアルジェリア人で、今はフランス政府内部で働いている旧戦友を利用して、政府関係者を暗殺して行く。FLNの動きが過激になって行くにつれて、二人の行動もどんどん暴力的になって行く。

『デイズ・オブ・グローリー』の成功のあとたくさんの人々がラシッド・ブシャール監督に映画の中の人物はその後どうなったのか、と尋ねるので監督は続編を作成することにしたという。しかしこの映画は、FLNの暴力を否定しているのか、肯定しているのかわからない。多分否定しているのであろうが、暴力的なシーンを見続けるのはたまらない気持ちになる。またアルジェリアの将来に対する希望が見えない映画であった。素晴らしい名作の待望の続編が非常に暴力的で、見たあとで気持ちが暗くなるような作品であったことは残念であるが、これは独立に多大な犠牲を払い、現在でも政情不安定が続くアルジェリアの悲しい現実を投影しているのかもしれない。また、この映画の内容は歴史的に公平ではないと多くの人が抗議したという。いろいろな意味で賛否両論の映画だったようだ。この映画もアカデミー賞最優秀外国語賞候補にノミネートされた。

English→