[映画] Three Monkeys (日本未公開)(2008年)

トルコという国名を知っていてもそこから来た人、そこに住む人と直接会った経験のある人は意外と少ないかもしれない。私は運よく何人かのトルコ人と友達になることができた。彼らにより、私なりのトルコという国に対するイメージができたような気がする。

トルコ人は非常に親日的である。実際に日本人に会ったことのない若い子でも、親とかメディアとか社会一般から日本人は立派な民族だと教えられている。欧米人は日本人と’中国人の区別がつかない人が大半だが、実際に日本人に会ったトルコ人は「中国人と日本人の区別はすぐつく」という。日本人はトルコ人はイスラムやアラブの文化圏だと思い勝ちだが、彼らにとって一番文化的に近い国はギリシャである。「ヨーロッパやアメリカの人間はギリシャ人を古代文化の創設者として尊敬するが、僕たちは野蛮なイスラム人だと下に見ている」という不満も聞いた。国民はイスラム教徒が大部分だが、圧倒的多数のトルコ国民にとってイスラム教はもはや生活の中での大きな役割を占めていない。むしろ、一部の狂信的イスラム教者が台頭して政治をコントロールするようになるのを恐れている。

イラン、イラク、シリアといった国に隣接するので、そのへんは賢くこれらの国を刺激しないように友好的な態度を保つ努力をしているが、やはりトルコとしてはヨーロッパやアメリカと仲良くして、彼らの基準で生きていきたいというのが本音ではないだろうか。トルコはイランと共にイスラム圏の中でアラビア語を第一言語にしない数少ない国なのである。

既に経済的・政治的にもヨーロッパの一員として積極的に参加し、コペンハーゲン基準ではヨーロッパに分類されている。トルコ政府の公式見解では自国をヨーロッパの国としており、サッカー協会やオリンピック委員会などではヨーロッパの統一団体に属し、NATO、欧州評議会、西欧同盟、南東欧協力プロセス、南東欧協力イニシアティヴ、欧州安全保障協力機構など諸々のヨーロッパの地域機関に加盟しており、ヘルシンキ宣言にも署名し、現在欧州連合(EU)へ加盟申請中である。数年前にトルコ人の友人との間でトルコのEU申請が話題になったが、ヨーロッパ人の間ではやはり、イスラム国家ということでトルコへの警戒心が非常に強く、簡単にどんどんEU加盟をゆるされる東欧の国とは待遇が違うとこぼしていた。今イスタンブールが東京と共に2020年のオリンピック開催地の最終候補地に残っている。これはトルコ人がトルコが美しく立派な国家であることを示す絶好の機会であるはずなのだが、どうも隣国のシリアの不穏な動きがマイナスに働きそうで、残念である。実際に現時点では、シリアの行動を認めないトルコはシリア国境で局地的にシリアと小競り合いが起こっている。これはトルコの求めるものではないであろうに。

このThree Monkeysを作成したヌリ・ビルゲ・ジェイランはトルコを代表する監督であり、過去何作もベルリン国際映画祭賞やカンヌ国際映画祭グランプリを受賞している。特にこのThree Monkeysはカンヌ国際映画祭 監督賞も受賞しているという国際的なスーパースターであるが、その作品はすべて日本未公開であるのが非常に残念である。また監督自身も50代半ばにしてなかなかの美男子であり、日本に招いたら人気を呼びそうなのだが。

政治家セルヴェットは選挙運動に疲れて車を運転中に誤って通行人をひき逃げしてしまう。スキャンダルを恐れた彼は、自分のもとで働く運転手のエユップを言いくるめて、金銭を見返りにセルヴェットの起こしたひき逃げ事件の罪を押し付け、エユップは刑務所に入ることになった。エユップが刑務所に入っている間に彼の妻ハジェルはセルヴェットと親密な関係になってしまう。この情事は息子に感づかれてしまい、またハジェルがセルヴェットとの関係に本気になってしまったことで、彼らの人生が恐ろしい方向に歪んでしまうというのがThree Monkeysのあらすじである。

この映画を見て面白いと思ったのは、この映画は非常にウェットである。欧米の映画で見慣れているような、動物的なカラッとした暴力的なところが全くない。家庭の危機を描いているのに登場人物が声を荒らげたり暴力を振るったりすることもない。皆何か心の中で感情を抑えて悲しそうなのである。また皆それなりに不幸なのだが、それは自分の愚かな選択の積み重ねであり、誰1人として建設的な解決策を出そうとしていない。「悲しいの?みんなあなたのせいでしょう」と声をかけたくなるのである。携帯電話の着信の音楽も悲しげである。何故か日本の演歌に似ている。演歌の源泉は韓国だとよく言われるが、遠い源泉は案外トルコじゃないのかと思ったりもする。とにかくウェットで悲しいトーンが最初から最後まで漂う。この監督が欧米に人気があるのは、この哀調が非常にユニークだからだろう。それは欧米人が日本に感じるものと似ているのだろうが、この映画はもっと鬱々と悲しい。

もう一つヌリ・ビルゲ・ジェイランの名声を生んだのはその画像の美しさであろう。映画は大部分がイスタンブールのはずれの貧しい地域の貧しいアパートを撮っているのだが、そのシネマトグラフィーが恐ろしく美しい。これは実際に見てもらわないとわかってもらえないだろう。日本未公開というのは重ね重ね残念である。

特筆するほどの内容もなく淡々とした語りの映画であったが、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の作品をもっと見てみたいと思った。不思議な魅力があるのである。

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[映画]  パリ20区、僕たちのクラス The Class Entre les murs (2008年)

この映画はパリで中学校の教師であったフランソワ・ベゴドーが自身の経験を基にして書いた小説『壁の間でEntre les murs』を映画化したもので、フランソワ・ベゴドーが脚本も書き、映画の中で自分自身(教師役)を演じている。彼は本職の教師のほかにロックミュージシャンや作家、ロック評論家としてのキャリアもあるが、脚本家としてセザール賞を受賞し、作品がカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞し、またアカデミー賞にもノミネートされたことにより、映画人というキャリアも加わったようだ。彼は本が売れた後に教師を辞めて、今は執筆と映画関係の仕事をしているようだ。

様々な国・地域からの移民が共存するパリ20区の、多種多様な人種が入り乱れるある中学校のクラス。この映画はフランソワが率いるクラスの一年間を、主に教室の中で起こったことを中心に描く。フランソワは、大部分がフランス語を母国語としない生徒たちを相手に、正統なフランス語を教えようとする国語教師である。子どもたちのフランス語の力は、日常会話は問題ないが、動詞の活用は不正確だし、文語で主に使われる接続法の活用や、抽象的な単語は十分な理解が出来ない。また生徒たちの中には黒人系の移民の子が多いのだが、彼らの母国はアフリカのマリであったり、モロッコであったり、カリブ海の国であったりと様々で、その文化背景は多様で、単に『移民の子』とか『黒人の移民』とはいえない。そんな子供たちの間で小さな諍いが頻繁に起こる。

錚々たる映画祭で最高の評価を受けた映画だし、学園モノということで、熱血教師や感動的ドラマだと期待して観るとちょっと勝手が違う。この映画は理想的な教育を論じているのでもないし、子供や教師への賛歌でもないし、移民の子供たちを描く社会ドラマでもない。そういう論調を期待すると肩透かしをくらうような映画である。いろいろな問題が次から次へと起こり、フランソワはそれに対して彼なりに真摯に対応するが、問題をうまく解決できるわけでもない。あれこれ出来事が起きて、生徒と教師、父兄と教師、教師間でたくさんの議論や会話がある中で一年が終わる、ただそれだけである。ではこの映画は一体何なのかという話になるだろう。

まず、なぜフランソワ・ベゴドーが原作の『壁の間でEntre les murs』を書いたのか。それは彼の教師という職業の現状に対するやるせなさである。誰でも生きていくためには、何らかの仕事が必要であり、彼にとっては教師がそれであった。彼の両親も教師であったので、教職は身近な職業であっただろう。しかし、教師はフランスでは経済的に恵まれてはおらず、一生懸命やっても生徒や親からは感謝されず、毎日生徒の口答えに反応することで、日が過ぎていく。彼は生徒が好きだし、自分の仕事に熱意を持っているようであるが、それでも彼の言葉を借りれば、教職は『一番悲しい仕事』として位置づけられている。中学校の教師というのは、大変な重労働である。教師を軽蔑する人はいないであろうし(と信じたい)、誰かが中学校の教師をしなければならないとは皆思っているだろう。しかし、自分から進んで中学校の教師になろうという人間は案外少ないのではないだろうか。大切な仕事だということは認めていても、嬉々としてその職に応募する人は案外少ないというのは問題である。

ではなぜローラン・カンテ監督はこの本を映画化したかったのか。フランソワ・ベゴドーもそうだが、ローラン・カンテの両親も教師である。彼は教育者というものを直接知っていたし、彼は教育が子供を現実の世界に送るための準備の場所であるという意味で重要な役割を持たなければいけないことを認めていたが、同時に教育のシステムが機能しない場合もあり、たくさんの生徒がそのシステムの中から落ちていく現実も知っていた。理論的に教育の現状を考えていたローラン・カンテにとって、現場から子供の眼と教室の息吹を具体的に伝えてくれるフランソワ・ベゴドーの本は彼の創造心を刺激してくれ、彼が教育に関する映画を作る大きな動機になったのではないだろうか。ローラン・カンテの主題は「子供にチャンスを与えなければならない教育がなぜ選り分けの場所になっているのか」というものであろう。その例は単なる事故で同級生を傷つけた男子生徒が、たまたま教師の間で問題児として見られていたので退校処分を受ける例や、あまり勉強のできない女子生徒が「絶対に職業高校なんかに行きたくない」と呟くシーンに表現される。フランスの教育制度は正確にはわからないが、成績が悪くて送られる職業高校は生徒にとって希望のないデッドエンドのようなのである。

最後に、この淡々としたドキュメンタリー風の地味な作品が何故満場一致でカンヌ映画祭のパルム・ドールを受賞するほどの圧倒的な評価を受けたのか。それはこの映画が、あまり映画にならないが大切な主題を正直に謙虚に描いているからであろう。国民の誰もが何らかの教育を受け、教育は大切だが現状では完璧に教育のシステムが働いていないということは知っているが、教育問題はドラマチックな作品を作るのは難しいのであまり映画にならない。たまになったとしてもそれは熱血教師が異例の影響を教師に与えるという例外的なケースを劇的に描くことが多い。ここはオーディションで選ばれたパリの下町の普通の子供たちと本職の先生が演技を超えたリアルな態度で現実を描く。それがなぜか説得力がある。

この映画は教育の問題提起であり、この映画の中の子役俳優たちはそれなりに問題児を演じているはずなのだが、映画に出演している子供たちの眼はきらきら輝いている。きっと映画製作に主役として携わるうちに「あ、こんなに面白いことがあったのか!」「自分が主役になって、自分の頭と心を使うことがこんなに楽しいことだったのか!」ということを感じ始めたのだろう。だから、問題児を演じている子供たちも皆可愛らしい。監督としてはそれはちょっと予定外のことだったのかも知れないが、この子供たちの明るさが映画を見たあとでの爽やかさを生み出しているともいえるのかもしれない。

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[映画]  バーダー・マインホフ 理想の果てに The Baader Meinhof Complex Der Baader Meinhof Komplex (2008年)

1960年から1970年代は、米ソの冷戦、ベトナム戦争、パレスチナ難民問題、文化大革命、 アルジェリアの独立、‎南米のDirty War、ケネディ大統領やキング牧師の暗殺と世界的な動乱の時代であったが、ドイツの赤軍がヨーロッパでテロを起こしていたということを覚えている人が現代ではどれくらいいるだろうか。1970年前後には、20代のドイツの若者の三分の一はドイツ赤軍に共感を抱いており、その若者の反乱は西ドイツ政府にとっては大きな脅威となっていた。その赤軍を支持していた若者は今60代から70代になっているはずだ。この映画『バーダー・マインホフ 理想の果てに』は正義感の強い高等教育を受けた若者が60年代に理想に燃えて左翼運動に走り、70年代には非暴力で行くか、武装闘争で行くかで方針の分裂が起き、過激派の赤軍がどんどん暴力集団に変貌していく過程を描いている。映画では描かれないが80年代にはベルリンの壁が倒れ、結局社会主義は統治の原理としては失敗であったことを人々は知ることになる。

この映画は10年に渡る長い期間の中での数多くの赤軍の若者とそれに対抗する当局者たちを描いているので、とにかく次から次へと暴力的行為が起こり、1人1人の描かれ方が浅い。また事実をドキュメンタリータッチで羅列しているだけで、一番大切な「なぜ60年代のドイツの若者が赤軍派武装集団に入ったり、それを支持したのか。なぜそれだけ支持されていた赤軍が崩壊したのか」ということは描かれていない。またドイツの歴史をあまり知らない人間、ドイツのような発展国に過激派が存在したことを覚えていない人間にとって、この映画は少々わかりづらい。映画は聴衆が歴史を知っていることを前提として、詳細を全く説明をしてくれないからである。この映画の背景を少し調べてみた。

映画は1967年、イランのシャーが西ベルリンを訪ねたことから始まる。シャーの独裁から逃亡したイラン人や学生を中心とした平和的抗議デモは、学生が警官に射殺させたことを機に暴動化する。ウルリケ・マインホフは高名な左翼ジャーナリストであったが、その事件にショックを受け、さらに過激な思想に走っていく。夫も左翼的雑誌の編集者であったが、彼は暴力的行為には反対しており、二人は離婚する。

グドルン・エンスリンは牧師の娘で、頭脳明晰な優等生であった。ドイツの最高学府のベルリン自由大学で博士号の取得をめざしており、婚約者の父で元ナチ党員の遺稿を出版しようとしていた。彼女の父は社会問題に理解のある牧師で、彼女も穏健な議会改良主義を信じていたが、アンドレアス・バーダーと出合ったことで人生が変わる。彼女は婚約者との間にできた子供を放棄して、アンドレアスと出奔する。

アンドレアス・バーダーは高校を退学して、あらゆる犯罪を繰り返していた男であった。高学歴の人間が多い過激派の中で異色の存在であったが、その強いカリスマで、グドルン・エンスリンと共に過激派をテロ行為や犯罪行為に導いていく。

エンスリンとバーダーはデパートの放火で逮捕された。マインホフは投獄されたエンスリンを取材に行き、彼女と意気投合する。マインホフとエンスリンそしてバーダーを中心としてバーダー・マインホフ・グループが結成され、それが後に赤軍に発展する。彼らはヨルダンに当時本拠を置いていたパレスチナ解放ゲリラのゲリラ訓練所に滞在し軍事訓練を受けた後、次々とテロ活動や資金稼ぎの銀行強盗に成功し、西ドイツ政府の大きな脅威となっていく。マインホフ、エンスリンそしてバーダーを含む赤軍派の指導者たちは1971年に逮捕されたが、彼らは、赤軍派の弁護士のクラウス・クロワッサンとジークフリート・ハーグの面接を通じて、獄中からの赤軍派の活動家を指導し、彼らが二世三世の赤軍兵士として育って行く。

次世代の赤軍派はどんどん過激化し、バーダーたちの保釈を求めて、誘拐やハイジャックなどを起こす。バーダーたちの保釈を求めたテロとして有名なのは、1972年のミュンヘンオリンピックの選手村でのイスラエル人選手の誘拐と殺害、1975年のスウェーデンのドイツ大使館の占拠と爆破、1977年のジークフリート・ブーバックとユルゲン・ポントの暗殺事件、実業家ハンス=マルティン・シュライヤーの誘拐と殺害、ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件などがある。1970年代後半には赤軍の暴力度は頂点に達し、一連のテロ行為は『ドイツの秋』と呼ばれ、赤軍は国民からの最後の支持も失っていった。誘拐に失敗して殺害されたドレスナー銀行の頭取ユルゲン・ポントはそのテロに加担した赤軍派のメンバー アルブレヒトの父の友人であり、アルブレヒトの名付け親でもあった。この赤軍派と提携して戦ったのが、ヨルダンを追放されてレバノンに移りさらに過激化していた、パレスチナの武装集団『黒い九月』であった。

ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件犯のリーダーである『黒い九月』の兵士は西ドイツ政府に対し、赤軍派第一世代メンバー11人の釈放と現金1500万米ドルを要求した。パレスチナ人が難民になってから、国際世論、特にアラブ諸国はパレスチナ人とその解放戦線に対しては同情的であったが、この時から風向きが微妙に変わって来た。パレスチナ解放戦線は既にヨルダンとシリアからの支持を失っていた。ハイジャック機はラルナカ(キプロス共和国)、バーレーン、ドバイを転々とし、ドバイから先はアラビア半島のどの空港からも着陸の許可は下りなかった。、燃料が尽きたハイジャック機は結局南イエメンのアデンに不時着したのちソマリアのモガディシュに到着し、ここでドイツ政府機関に鎮圧される。このハイジャックの失敗の直後、獄中にいた赤軍派の第一世代は自殺を決行する。

戦後の新しい世代は第二次世界大戦後、親の世代が残した課題、あるいは親の世代が作り出した問題を当時の希望の星であった左翼思想により解決しようとしたのであろう。最初は理想から始まったこの動きも次第に暴力か非暴力かという選択に迫られていく。暴力に訴える方が解決策としては一見手っ取り早いかもしれないがそれは永続しない解決だった。

この映画の監督はウーリ・エーデル、ウルリケ・マインホフを演じたのは『マーサの幸せレシピ』(これはキャサリン・ゼタ=ジョーンズ主演で『幸せのレシピ』としてハリウッドでリメイクされた)、『善き人のソナタ』に出演したマルティナ・ゲデックである。この映画はアカデミー賞最優秀外国語映画賞にノミネートされたが、結局日本から出品された『おくりびと』が最優秀映画賞を受賞した。

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[映画] 戦場でワルツを Vals Im Bashir Waltz with Bashir (2008年)

2007年のイスラエル映画 『ボーフォート -レバノンからの撤退』とこの映画を併せて見ると、複雑なレバノン戦争の内情がよりよく理解できるだろう。『戦場でワルツを』はレバノン戦争の始まり、『ボーフォート -レバノンからの撤退』は2000年のイスラエルのレバノンからの最終撤退を描いている。

1982年、イスラエル軍は、隣国レバノンに攻め入った。その戦略的な意図は、レバノン内にある大規模なパレスチナ難民キャンプが反イスラエルのテロリストたちの隠れ場所になっているので、そのテロリストたちを根絶するためであった。またレバノンでは、キリスト教徒ファランヘ党がシリアの支援を受けていたイスラム勢力と対立していたが、イスラエルはそのファランヘ党のカリスマ的指導者バシールを擁して、親イスラエル政権をレバノンに設立することも意図していた。しかしそのバシールはレバノンの大統領選に当選したものの、直後に暗殺されてしまう。ファランヘ党は、この暗殺はパレスチナ・ゲリラの仕業とみなし、サブラ・シャティーラの難民キャンプでのパレスチナ人の大虐殺を実行する。イスラエルは長い間その虐殺の首謀者として世界の非難を浴びていたが、この映画はそれに対して新しい視点を当てている。

この映画の主人公であり監督でもあるアリ・フォルマンは当時19歳。イスラエル軍としてこのレバノン侵攻に従軍していた筈だが、時の記憶がまったくないと気付くところから、映画は始まる。当時行動を共にしていた何人かの戦友や上官、虐殺直後の現場を報道したジャーナリストなどにインタビューすることにより、記憶は次第に戻って来るが、自分は現場で見たあまりの恐怖で記憶を失ったことがわかってくる。

アリ・フォルマン監督は自分のメッセージを非常に率直に端的に表現している。曖昧でどっちつかずで、聴衆の映画のメッセージの受け止め方は人によって異なるということになるのを全力で防ごうとしているかのようだ。この映画には彼の「これだけはどうしても伝えて、わかってもらいたい。」という熱い情熱というか使命感がある。

メッセージの第一は、イスラエルのバシールを擁したレバノンへの内政干渉は間違いだったということである。この映画の原題は『バシールと踊るワルツ』である。ワルツはダンスの一種だが、『下心を持って誰かと結託する』という隠れた意味を持って使われることもある。イスラエルとしては、バシールによる親イスラエル国家を確立することで、イスラエルの平和を守ろうと意図したのだろうが、この内政干渉の失敗は、その後30年に渡る世界の対イスラエル不信感を生み、それはイスラエルにとって大きな負債となった。

メッセージの第二は、殆どのイスラエルの兵士たちはサブラ・シャティーラの虐殺には加担しておらず、何が起こったのかも知らなかったことだ。これを、『イスラエル人の自己弁護だ』と一概に非難できるだろうか。芸術家として自分が知っている真実を世に知らせないのなら、レバノン戦争で死んだ人々の死、それがパレスチナの難民であっても、若きイスラエルの兵士であっても、彼らの死は犬死になるのである。アリ・フォルマン監督はどちらが正義だとは語っていない。彼は映画の中で、イスラエルのコマンダーは何が起こったかを知っていたが、敏速にそれを止めようという行為に出なかったということも告発しているのである。彼の本当の意図は、過去に何が起こったのか正しく知り、理解することから正しい未来が始まるということなのだ。

メッセージの第三は、心からの反戦思想である。監督は19歳の時徴兵されてレバノンに送られた。周囲にたくさんの戦友がおり、タンクの中で守られていると確信し、美しい国レバノン、魅力的な都ベイルートに行けることにわくわくしていた。しかしその『ワクワク』感は戦争が始まった瞬間に打ち砕かれてしまう。それでも若者のロマンティシズムはまだ消えず、ここで死んだら自分を振った恋人に「どうだ、おまえが捨てた男は可愛そうに戦死したんだ」と復讐できるのだ、とさえ思う。そんな若者の感情がどんなに馬鹿げていたのか、という苦々しい監督の心が伝わってくる。

第四のメッセージは、第三のメッセージと関連しているが、他国へ侵略するのがいかに愚かで勝ち目のないことかということだ。監督は命からがらでレバノンから逃げ帰るのだが、故国イスラエルでは自分が死にかけたし、大勢の難民が殺戮されたのに、同年代の戦争に行かなかった若者は、ロック音楽に酔い、酒場で踊り、人生を楽しんでおり、「戦争?それって何?」という感じなのである。それは、ベトナムや、イラクや、アフガニスタンで地獄を見て帰国したアメリカ兵やソ連兵が感じる、どうしようもない疎外感と失望感と同じである。人々は他国が自国に攻め込んで来たら、全力で抵抗する。しかし、自国が他国で何をしているかは殆どわからなく、共感することも難しいのだ、たとえどんなに強力な軍隊が疲弊した他国に侵略しても、やはり他国に入って行くのは恐怖であるし、誰からの支持も得られない。結局それは絶対に勝てぬ戦いなのだ。

この映画はアニメーション・ドキュメンタリーである。この主題を描くには選択肢のない選択のメソッドだと思う。現情勢ではレバノンでのロケを敢行するのは不可能であろうし、30年前のベイルートを再現するのも無理であろう。破壊前のベイルートは美しい、誰でもがすぐわかる有名な観光都市であり、どこかで再現しても、それが嘘であるということはすぐにわかってしまう。しかしアニメーションでよかった。実際に起こったことはあまりにも恐ろしいからである。また美しい音楽が宝石のように、大切な場所に効果的に散りばめられている。

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