[映画] 屋根裏部屋のマリアたち Les Femmes du 6ème étage (2011年)

何気なく、何も知らず選んだ映画がこんなに楽しいものだったとは!!! ストーリーが、映像が、俳優が、そして映画の中の会話がおいしくて、見ているうちにこちらもお腹がすいて来てしまった。

1960年代のパリ。フランコの抑圧下の貧しいスペインからパリに移り住んで、フランスの裕福層のメイドとして暮らしているスペインの女性たち。彼女たちは、異国でお金を稼げるだけ稼いで、自国の貧しい実家へ仕送りをし、お金が貯まれば晴れて母国へ帰りたがっている者が大半だ。故郷に残した家族、村の人たちとの繋がり、空気に流れる暖かさ、食べなれた食事が懐かしく、パリでも同国人のメイドたちと助け合い、日曜日には必ず教会に行き、帰郷できる日を待ち望んでいる。しかし、たとえ故郷が恋しくても、フランコ 恐怖政治が終わらない限りは帰らないと心に決めている者も少数派ではあるがいるのである。

マリアは、若く美しく賢く敬虔で有能なスペイン人のメイド。雇い主の裕福な主人と、彼の妻のお気に入りでもあるが、彼女はなんとなく訳ありなところがあるのが、話の進行と共に明らかになってくる。主人の妻は、貧しい田舎娘から結婚によって上層階級にのし上がったため、自分に自信がなく、表面的なパリの社交界に溶け込もうと浮ついた努力を重ねている。彼女の主人は富、仕事、家族などほしいものは全部手に入れて、自分の人生に満足しているのだと自分自身に思わせようとしていた、、、そう、マリアに会うまでは。

ネタばれになるので二人がどうなるかはここでは書かないが、主人は金持ちの息子であっても上流階級に窮屈さを感じ、田舎出の女性に安らぎを感じ、なんとなく現在の妻と結婚してしまった男。マリアは生まれ持った気品と気丈さがあり、身分差に卑屈にならない本当の自信を持った女性。マリアはどう生きていっても自分と自分の愛する人を幸せにできる人だし、主人も必要となれば余分なものは手放す潔さを意外と持ち合わせているようで、見る側としても主人とマリアがどうにかして幸せになってほしいとつい思ってしまう。

マリアを演じるナタリア・ベルベケは、顔が小さく姿勢がよく、何となくバレーリーナのよう。「美人じゃなきゃいけないが、美人すぎてもいけない。」という監督の厳しい審査眼にかなっただけの女性である。1975年にアルゼンチンに生まれたが幼少時にアルゼンチンの「汚い戦争」と呼ばれる政治弾圧のため、家族と共にアルゼンチンを逃げ出し、スペインに移ったと言う過去を持つ。

脱線するが、ウッディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」は同じ頃公開された同じくパリを舞台とする映画である。その映画では、すべてのシーンは典型的な絵葉書のようであり、彼はその絵葉書シーンを貼り付けることにより、力まかせにパリを描こうとしているが、映画が描くのは、相変わらずニューヨーカーの彼のメンタリティーであり、全くパリの匂いや粋、生活感が欠如している。対照的に「屋根裏部屋のマリアたち」はパリを舞台にしているのに、パリらしい風景が出てこないのだ。出稼ぎスペイン人にとっては、仕事場と市場と教会と自分の屋根裏部屋が日常のほとんどなのだろう。観光シーンを訪ねるのがパリで生きることではない。マリアと彼女の仲間たちにとっては自分の周囲にあるものがリアリティーであり、そういう意味では彼女たちは一瞬でも本当にパリに生きているのではないだろうか。

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[映画]  瞳の奥の秘密 El secreto de sus ojos (2009年)

2009年のアカデミー賞外国語映画賞を獲得したアルゼンチン映画の佳品。

2000年代初頭の現在と25年前(1970年代)のアルゼンチンの世界が交錯する。アルゼンチンの国民、特に労働者階級に圧倒的な人気のあったペロン大統領が1974年に心臓病で急死すると、大統領を継いだ彼の妻イザベルは反対派に対する弾圧を開始する。この状況は彼女がクーデターによりビデラ将軍に追い払われたことで解決するものではなく、反対派に対する弾圧虐殺はビデラが大統領になるとさらに悪化するのであった。こうしてアルゼンチンは「汚い戦争」と呼ばれる内乱に突入していくのである。この映画はそういった状況には直接触れていないが、その社会的背景を理解することなくしてこの映画を理解はできないであろう。

この映画を貫くテーマは、「人間で唯一変わらないのはその心の中に燃える情熱である」ということである。25年前ブエノスアイレスの刑事裁判所の捜査官であったベンハミンは、銀行員の若妻の殺人事件の捜査を任されるが、被害者と共に写真にいつも写っている若者の瞳の奥に隠される危険な情熱の塊をみる。彼がそれに気づいたのは、彼自身もいつも瞳の奥で美しい上司イレーネを見つめ続けていたからである。その写真の中の男性が容疑者なのだが、彼は果たしてどこに潜んでいるのか?ベンハミンの腹心の部下は「人間で唯一変わらないのはその中に燃える情熱である」とベンハミンに説き、何と二人はその説に基づき容疑者を逮捕することに成功する。

しかし、ベンハミンと彼を信じる美しい上司イレーネは容疑者を野に放たざるを得なくなる。その理由は上記の政治的理由からである。実直な操作を続けたベンハミンの身に危険が迫る。上流家庭の出身であるイレーネの身の安全は保たれるがベンハミンは身を守るためにブエノスアイレスを離れなくてはいけなくなる。

25年後、社会も安定し、今は初老に差しかかったベンハミンは25年前に閉じられた若妻殺人ケースを調べるため、そして今は検事に出世しているイレーネに会いたいがためにブエノスアイレスを訪れる。相変わらず美しく、優しく愛情に満ちた心でベンハミンを迎えるイレーネ。そしてベンハミンの思いは妻の殺人犯の告発に全力を尽くしていた夫に至る。彼はどのようにして、妻を失った苦しみを乗り越えているのだろうか。そしてあの殺人犯は今どうしているのだろうか。まだ生きているのだろうか?それとももう死んでいるのか? その謎を解くのはやはり、「人間で唯一変わらないのはその心の中に燃える情熱である」というテーマである。その言葉に従ったベンハミンは銀行員の夫と殺人犯の意外な人生を発見するのである。そしてまた彼の心の中に消すこともできず燃え続いてるイレーネへの思いを発見するのであった。

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[映画] エビータ Evita (1996年)

これは1996年に公開された映画であり、一応アカデミー賞に幾つかノミネートされ(歌謡賞受賞)、エバ(エビータEvita)を演じたマドンナはゴールデングローブ賞の主演女優賞も受賞しているのだから、それなりに評価されている映画ではあるのだろうが、なんと16年間も誰一人として、この映画を私に推薦してくれた人はいなかった。何も期待せずに見て本当に足元をすくわれるほどびっくりした。素晴らしい映画なのだ。何が素晴らしいといえば、当たり前すぎるかもしれないが、マドンナの歌唱力が圧巻なのである。しかし面白いことに、マドンナは主人公のエバ役をやりたくてやりたくて、一生懸命自分を売り込んだのだが、映画会社側には冷たくあしらわれ、製作者は他の女優を捜し続けていた。結局他の女優がみな都合がつかずにしかたなく(?)エバ役は最終的にマドンナに落ち着いたという。しかし、私はマドンナ以外の女優がエバの役を彼女ほど見事に演じられたとは思わない。その理由を述べてみよう。

第一に、これはミュージカルであるから、エバを演じる女性は演技ができる歌手か、或るいは歌が歌える女優でなければならない。エンタテインメントの三要素は「歌って踊って演技ができる」であるが、そこはそこ、ポリティックスが働き、アメリカの芸能界では「歌と演技」が絶対的な権威を持ち、踊りの政治力は弱い。であるから、バレーの吹き替えをやってもらった ナタリー・ポートマンはアカデミー賞がもらえるが、歌の吹き替えをやってもらったオードリー・ヘップバーンのマイフェアレディーはアカデミー賞の候補にもなれない。逆に映画の中で自力で歌ったリース・ウィザースプーン(ヲークザライン、君に続く道)やシシ・スペイセック(歌え!ロレッタ愛のために)は軽々とアカデミー賞を取ってしまうというわけだ。それだけハリウッドやブロードウェイでは歌唱力が尊重される。

第二に、この映画はエバが20代の時を描くわけだから、カメラのクローズアップに耐えられるためにも、現実的であるためにも、エバ役は20代或いは30代前半の女性が望ましい。ブロードウェイのEvitaの舞台で圧巻のエバを演じていた舞台俳優パティ・ルポンは映画の製作時に47歳であったから、彼女はなんとエバ役ではなく、エバの老母役!!!をオファーされたという。パティが断ったのは言うまでもない。

第三に、エバの持つ美貌と気品と野心と野外バルコニーという広大な設定でも小さくならないふてぶてしい強烈な存在感が無くてはならない。20代の女優ではちょっときついかもしれない。

以下は監督や製作者が真剣にエバ役を交渉した女優たち。

メリル・ストリープ 彼女は映画の製作時には40代半ばであった。
ライザ・ミネリ メリル・ストリープより更に3歳年上。
バーバラ・ストライサンド ライザ・ミネリより更に4歳年上。
シャー ライザ・ミネリと同い年。
グレン・クロース メリル・ストリープより更に2歳年上。
オリビア・ニュートンジョン メリル・ストリープより1歳年上
ミシェル・ファイファー マドンナと同い年。映画製作時には30代半ば。

というわけで第二の条件を満たすのはマドンナとミシェル・ファイファーだけであり、演技がそこそこだがカリスマのある歌手マドンナを選ぶか、歌が結構歌え、演技派の定評があり美しいミシェルを選ぶかということになる。最後の決め手となったのは二人の間のやる気の差だろう。ミシェル・ファイファーはちょうど結婚や子育てが面白くなりかけた時で、スタッフが必死で実際のエバが暮らした官邸でのロケの権利を勝ち取ったにもかかわらず、アルゼンチンまでロケに行くことに難色を示した。ミシェル・ファイファーは私生活でも恵まれすべてのほしいものを手にいれたという穏やかさをいつも発している。やはり野心家のエバを演じる女優は、誰よりもgo-getter (ほしいものは何でも手に入れたい人)のマドンナに勝る女優はいないだろう。彼女の歌もすばらしいが踊りもタンゴの精髄を捉えて素晴らしい。

また狂言回しのチェ・ゲバラらしき男を演じるアントニオ・バンデラスの歌と踊りも素晴らしい。彼は自分が上手であると誇ることなく自然体で踊り歌っているのである。

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[人] ペロン大統領 (1895-1974)

1946年にアルゼンチンの大統領に当選したファン・ペロンの妻が誰であったか、結構混乱しやすい。実はペロンの妻として良く知られている女性は二人いるからだ。

最初に大統領に当選した時、ペロンは元女優のエバと共に選挙戦を戦い、当選後に彼女と結婚している。エバはブロードウェイのミュージカルEvitaに主人公として描かれている女性で、国民にも深く愛された。エバにはペロンの副大統領になる野心もあったが、結局彼女は癌のために、1952年にこの野望をとげることなく33歳の若さで逝去した。アルゼンチンは第二次世界大戦で中立を守ったことで、食物を両陣営に売ることにより得た富を蓄積しており、ペロンはこの富を自分を支持する労働組合にばらまき労働者階級の圧倒的な支持を得たが、戦後アメリカやカナダが復興し食物の輸入に参入すると、アルゼンチンの貿易は急激に不振となる。カリスマ的人気のあったエバの死後ペロンに対する批判が高まり、1955年の海軍のクーデターでペロンは亡命を余儀なくされた。亡命先はフランコ将軍の独裁化にあったスペインであった。ミュージカルEvitaは映画化され、歌手のマドンナがエバを演じた。

ペロンは亡命先のスペインで、ナイトクラブの歌手をしていたイザベルと再婚する。ペロン亡命後もアルゼンチン内でのペロン支持者は国政に強い影響を持ち続け、左派と右派が激しく対立する中で、ペロンはこの対立を収める唯一の可能性のある政治家としてアルゼンチンに帰国するように招請され、帰国後の選挙で再び大統領に選ばれた。ペロンは妻のイザベルを副大統領に任命したが、彼は一年後の1974年に急死してしまう。ペロンの死後、イザベルが大統領に昇格するが、国内は大きく揺れ、イザベルは反政府派及び人権活動家などを容赦なく投獄殺害する。1976年にイザベルは陸軍軍人ホルヘ・ラファエル・ビデラによって起こされたクーデターで失脚しスペインに亡命する。このビデラ大統領も政敵や人権活動家などの拉致拷問虐殺を行い、彼らの時代は「汚い戦争」と呼ばれている。この時代を間接的に描いたアルゼンチン映画の秀作の一つに 「瞳の奥の秘密」がある。

ビデラ政権で閣僚であったホルヘ・ソレギエタの娘マクシマ・ソレギエタがオランダのウィレム・アレクサンダー皇太子と恋に落ちたことで、オランダ国民は皇子が大量虐殺者の政府高官の娘と結婚することには大反対であったが、マクシマの父ソレギエタが虐殺には直接関係していないことが証明されたため、二人は2001年に正式婚約することが可能になり、翌2002年に二人は結婚した。アルゼンチンとヨーロッパは遠いようで近いのである。

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