[映画] 真昼の決闘 High Noon (1952年)

ニュルンベルグ裁判』の監督スタンリー・クレイマーによる製作、『ジャッカルの日』のフレッド・ジンネマンによる監督、ゲイリー・クーパーとグレイス・ケリーの主演という豪華な布陣で作成された『真昼の決闘』は,厳格な意味で西部劇とか決闘物というジャンルに入らないのではないか。ここに出てくる保安官は無敵のヒーローではなく、初老にかかり、結婚を契機に銃を使って金を稼ぐ生活から足を洗おうとしている男である。なぜ彼が決闘に引き込まれたかと言うと、結婚式を挙げて東部の町に旅立とうとしている矢先に、自分が昔逮捕した悪漢がちょうど釈放されて、「お礼参り」に自分を刑務所に送った人間、多分保安官とか町の法廷の判事など、を殺害しに正午に町の駅に到着する汽車に乗ってやって来るという知らせを受けたからである。

もちろん、保安官はそのまま東部に旅立ってもよかったのだが、町へ戻ってその悪漢と3人の仲間たちと対決することを選ぶ。彼の妻は父と兄を殺され、暴力を絶対否定するクエーカー教徒に改宗しており、もし夫が決闘の道を選ぶのなら、自分一人で東部へ旅立つと言う。まだ後任の保安官も到着していないので、彼は町民に一緒に闘ってくれるよう頼むが、副保安官や前任の先輩保安官や町長や町の人々は皆尻ごみをして味方についてくれない。判事は「よそへ行っても仕事がみつかるだろう」とさっさと逃げ出してしまう。町を平和に保ってくれて「最高の保安官だ」と賞賛していた人々も「現金が流通するためには、或る程度の悪が必要だ。保安官はそれを根こそぎにしてしまった」と言ったりもする。「どうして、この町に戻ってきたのだ。そのまま東部に行ってしまえばよかったのに」という非難の中で、彼はただ一人4人と対決せざるを得ず、遺書を書いて悪漢が乗ってくる真昼の汽車を待ち、孤独な戦いを始めるのである。

映画は85分の長さだが、この映画は10時40分頃に始まるという設定で、つまり実際の時間と同時進行で物語が進むのである。決闘シーンは最後の5分だけで、それも単調なものである。映画の殆どは保安官と町民の話し合いである。初老に差し掛かり俳優としてのピークを越えたゲイリー・クーパー演じる保安官が、よろよろと人通りのない町並みを一人で歩く姿が遠目に映されるのは、なんとも切ない。

この映画が作られたのは1952年であるが、その時は米国では「赤狩り」の真っ最中であった。「赤狩り」とは共和党右派のジョセフ・マッカーシー上院議員が中心となって、共産党員、および共産党シンパと見られる人々を排除する政治的活動であり、マッカーシーに協力した代表的な政治家には、リチャード・ニクソンとロナルド・レーガンなどがいる。ハリウッドは左翼思想の人間が多いとみなされ、そのターゲットの一つになった。『真昼の決闘』の脚本を担当したカール・フォアマンも共産党員とみなされ非米活動委員会に尋問された。彼は自分が戦前に一時期共産党に入党していたのは認めたが、現在では全く関係が無いと主張した。尋問での一番の恐怖は、共産党のシンパである人の密告を強制されることであった。それを拒否したカール・フォアマンは身の危険を感じて英国に逃亡した。同じく「赤狩り」の告発のために米国を追放された映画人としては、チャップリンもいる。

カール・フォアマンはのちに英国の名監督デイビッド・リーンのもとで働くようになり、デヴィッド・リーン監督の『戦場にかける橋』で第30回アカデミー脚色賞を受賞したが、公開当時は赤狩りによってフォアマンの名前が出されることがなく、デイビッド・リーンが脚本賞を受賞した。カール・フォアマンの死後初めて彼の名がクレジットとして認められ、彼は死後ようやくオスカーを授与されることになった。

似たようなことは『ローマの休日』の脚本家ドルトン・トランボにも起こった。ドルトン・トランボは赤狩りで追放されていたので友人のイアン・マクレラン・ハンターの名前を借りて仕事をせざるを得ず、ハンターの名義で『ローマの休日』の脚本を執筆した。この映画は大成功で、事情を知らない映画芸術科学アカデミーは、ハンターにアカデミー脚本賞を与えてしまったのである。1990年代になってからアカデミーは、冷戦期の「赤狩り」などに起因する間違いを正すことに決めた。その一つとして、ドルトン・トランボの名誉回復があった。トランボはすでに1976年に亡くなっていたが、アカデミーは1993年にトランボに改めてアカデミー賞を贈ることを決めた。しかし、ハンターに贈られたオスカー像をハンターの息子が引き渡すことを拒否したため、トランボの未亡人に渡されたオスカー像は、改めて別途作られたものとなった。冷戦期にはいろいろ恐ろしいことが米国でも起こっていたが、これらが最終的に見直されたのは、12年ぶりに民主党から政権をとったクリントン大統領の治世期であった。クリントン期前と後では、アメリカはかなり違う国家であると言えよう。それは時代の流れである。

「赤狩り」はハリウッドにも大きな恐怖を巻き起こしたが、その中で密告という司法取引を行い自分の制作活動を保証してもらった人々もたくさんいる。現代では、その例としてエリア・カザン、ゲイリー・クーパー、ウォルト・ディズニーなどがあげられている。

『真昼の決闘』は賛否両論(「心理考察を含んだ深みのある批評的西部劇だ」とか「アメリカが心に描く正義を否定する売国奴的弱虫の映画」)に分かれつつもアカデミー賞作品賞の最有力候補であったが、『地上最大のショウ』に敗退して受賞にはいたらなかった。これは「赤狩り」の真っ只中でリベラル派として有名だったフレッド・ジンネマン監督とカール・フォアマン脚本による作品に票を投じるのをアカデミー会員がためらったためと言われている。この映画には「赤狩り」時代の沈鬱さが漂っているが、「赤狩り」体制への批判というのは言いすぎであろう。「赤狩り」否定が起こり始めるのが1950年代後半、「赤狩り」否定の精神を芸術として表現できるのは1970年代、その犠牲者への公的な名誉回復が起こるのは1990年代を待たなければならなかったのである。

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[映画]  灰とダイヤモンド Ashes and Diamonds、Popiół i diament (1958年)

この映画は非常にわかりにくい映画である。原作は、ポーランド共産党お墨付きの共産党指導者賞賛の文学であるが、映画化に当たりワイダ監督は主人公の共産党指導者を脇役にして、原作ではほんの端役にすぎない、暗殺を企むゲリラの若い男性を主人公にしている。その若い男はへんてこりんな眼鏡をかけた「チャラ男」であるが、灰にまみれたダイヤモンドのような酒場の女の子と、お互い家族をドイツ兵に皆殺しされたという境遇であるとわかり恋に落ちるあたりから、眼鏡をはずすと、なんとなくジェームズ・ディーンに似ている孤独な美青年に変貌していく。映画がわかりにくいのは、舞台となった時代の政治的状況の複雑さもあるだろうし、検閲を通るために余分な会話を避け、メタフォーを多様していることもあるだろう。

images1共産党政権下のポーランドではもちろん映画の厳しい検閲があった。この映画は、原作の主人公が脇役になっている以外は当局お墨付きの原作に忠実だし、最後にその青年がゴミ捨て場で灰のように死んでしまうのは「は~は~は~、共産党に逆らうとこうなるんだ」という戒めのようでもある。しかし検閲側は何かこの映画に不穏なものを感じ、この映画を許可するかどうか真剣にモスクワと話し合ったという。結局、何一つ具体的に咎めるものがないので検閲に通ったが、この映画のプロデューサーが身の危険を冒してこの映画をベネチア映画祭に提出し、西欧からの圧倒的な評価を得たことにより、共産党政権も「何かわからないが、この映画には反体制の思いがこめられている」と感じたらしい。これ以後、すでに当局から睨まれていたワイダ監督は完全にブラックリストに入れられることになる。

第二次世界大戦下のポーランドの状況はワイダ監督の「カティンの森」に描かれている。政治体制の違いはあっても彼の姿勢は60年間全くぶれていないし、彼は亡命という道も選ばず不遇の時期をポーランドで乗り越える。道理で尊敬されているわけだ。

この映画で共産党の政治家の命を狙っているゲリラは、反独のパルチザンのグループの一員である。なぜ、ドイツに反抗した彼らが、ドイツを追撃したソ連寄りの共産党員を暗殺しようとしているのか、というのは当時の情勢がわからないと理解しにくいだろう。

1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦は独ソ不可侵条約を結んだが、その中の秘密条項には、ドイツとソビエトによるポーランドの分割も含まれていた。翌9月1日、ドイツ軍とスロヴァキア軍が西から、17日にはソ連軍が東からポーランド侵攻を開始した。ポーランド政府はロンドンに亡命し「ポーランド亡命政府」を打ちたて国内のパルチザンを指導するようになる。。ポーランド亡命政府にとって、ソ連は自国をドイツと共に侵略した憎い国であったが、独ソのどちらかを選ばなくてはならず、英国と同盟しているソ連を選ばざるをえなかった。しかしポーランドはカティンの森事件のこともあり、ソ連を信頼してはいなかったのである。

ソ連は、ロンドンのポーランド亡命政府とは別に、自分たちの言いなりになる共産主義者による傀儡政権樹立をを樹立し、英国の支援をうける亡命政府側主導のパルチザンとは敵対した。第二次世界大戦は結局、英独ソの対立であったが、ポーランドでは地理上最もその本当の対立構造が明らかになったのである。ポーランド亡命政府の指示の基に国内のパルチザンは何回か対独蜂起を起こすが、その中でも1944年6月に起こったワルシャワ蜂起がもっとも大掛かりなものであった。これはどちらかというとソ連から呼びかけられた蜂起であったが、肝心な時にソ連軍は蜂起軍への援助を停止した。結局、ドイツ軍とパルチザンの蜂起軍との戦いになった。ヒトラーは、ソ連赤軍がワルシャワを救出する気が全くないと判断し、蜂起軍の弾圧とワルシャワの徹底した破壊を命じたのである。蜂起軍はワルシャワ市民の圧倒的な支持を受け善戦したが、結局蜂起に失敗してしまう。蜂起軍の多くは死亡したが、生き延びたものは地下水道を通って逃亡したのである。ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは破壊され、これ以後蜂起参加者はテロリストとみなされ、パルチザン・市民約22万人が処刑された。蜂起が収まった後、1945年1月にソビエト赤軍はようやく進撃を再開して廃墟のワルシャワを占領した。その後、ソビエト赤軍はパルチザン幹部を逮捕し、ポーランドの独立を願うパルチザンを弾圧して行くのである。

『灰とダイヤモンド』は、1945年にドイツが降伏した後、ポーランドのある町に占領司令官として赴任してくるシチューカ書記を、天涯孤独のパルチザンのマーチェクが指令を帯びて暗殺を企む四日間をえがいている。英米仏の連合国にとってドイツの降伏は幸せな日の第一歩であったが、ポーランドにとっては、次に何が来るかわからない不吉な前兆であったのである。

images2ワルシャワ蜂起の失敗のあとで、英国に支援されるパルチザンはやっと本当の敵はソ連であると認識するようになり、ソ連を攻撃の目標としていた。数少ない生き残りの反共パルチザンは森に潜み、ソ連に対する抵抗をしていたが、もうソ連がポーランドの支配者になるということは明らかになりつつあったので、それは空しい抵抗であった。ワイダ監督の念頭にあったマーチェクのイメージは「理由なき反抗」で世界的なスターになったジェームズ・ディーンであり、マーチェクを演じたズビグニェフ・ツィブルスキにジェームズ・ディーンを研究するように要求している。事実この映画が成功した後でズビグニェフ・ツィブルスキは「ポーランドのジェームズ・ディーン」と呼ばれるようになった。ジェームズ・ディーンとズビグニェフ・ツィブルスキは同世代であり、ジェームズ・ディーンは24歳で交通事故死しているがズビグニェフ・ツィブルスキも39歳で事故死している。和製ジェームズ・ディーンと言われた赤木圭一郎も21歳で交通事故で夭折している。

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[映画] 日はまた昇る  The Sun Also Rises (1957年)

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『日はまた昇る』という邦題は、「人生苦しいけれど、明日は素晴らしい日が待っているよ。」といった復活を期待するという意味に取られがちな日本語訳であるが、実際は第一次世界大戦後の何とも言えない気持ちの空白期に「あ~今日も飲んで、食べて、恋して終わった。何も新しいことはない。こんな自分に関係なく地球は回っていて、明日もまた何事もなく太陽が昇るんだな~」という変わらぬ日常生活に対するやるせなさを表している。

ヘミングウェーは第一次世界大戦で傷ついた肉体と精神をアメリカの田舎生活の中でなかなか理解してもらえず、自分の第二の故郷になったイタリアに移り住もうとするが、友人に「どうせヨーロッパに行くのなら、文化の中心のパリに行け」とアドバイスされ、駐在記者の仕事を見つけてパリに住む。そこには自分と同じように、大戦で何らかの傷を受け、人生を変えられてしまった若者たちがたくさんいた。「日はまた昇る」は、自分の投影である主人公が仲間たちとスペインのパンプローナへ闘牛とお祭を見物に行き、闘牛という競技の美しさに魅了されるという物語である。

正直いってこの映画は、闘牛シーンと牛を町の通りに雄牛を放すシーン以外は、全く映画としての魅力に欠けているのだが、やはり一番の問題は20代の迷える若者たちを演じる俳優たちが皆40代の役者であるということだろう。原作では主人公たちは、若くて、何となく失望していて、何をしたらいいかわからなくて、恋をするのが『フルタイム・ジョブ』(それだけが全て)であるような生活を送っている。それに対してそれを演じる俳優たちは、ハリウッドでも成功し、ポケットにもお金がたくさん詰まっており、撮影がおわったら家族や友達と一緒に楽しく食事でもしようという態度が顔もにありありと出ており、生活や将来に対する不安など何も感じられない。ホルモンに突き動かされて、衝動的に恋をしてしまう自分を止められない若者を演じている俳優に「いい年をして何バカなことやってるの」と言いたくなるような映画なのが残念である。

ヘミングウェーほどアメリカの良さを感じさせる作家はいないだろう。アメリカの原点である「正直さ、実直さ、勤勉さ」を象徴するイリノイ州の生まれ。イリノイ州出身の政治家はアブラハム・リンカーン、ヒラリー・クリントンそしてオバマ大統領であるといえば、イリノイ人の価値観がわかるだろう。ヘミングウェーは美男子で正義感が強く、誰にでもわかる簡潔な英語で気持ちを表現する文体を確立させた。健康な体を持ち、スポーツが好きで、特に狩猟、釣り、ボクシングを好んだ。健康な男だが、繊細な気持ちや頽廃感も理解する幅広い人間性を持っていた。

彼の人生観を決めてしまったのは第一次世界大戦の経験である。アメリカのある世代にとってベトナム戦争がそうであったように、彼のすべての問題意識は第一次世界大戦に始まり、第一次世界大戦に終わる。その後の第二次世界大戦も彼にとっては第一次世界大戦ほどのインパクトを持たない。彼が一番戦争というものを理解でき、それに影響を受ける10代後半に起こった戦争が第一次世界大戦だったからだ。アメリカにとっても、ヘミングウェーは1950年代以前の『古き良きアメリカ』を象徴する作家でもあった。

アメリカの映画を見ていると、1950年代以前と1970年以降では映画が全く違っているのに気づく。1950年以前の映画は『絵空事の学芸会』のようで、現代的なテーマとの共通性はない。しかし1970年代に作られた映画、たとえばゴッド・ファーザーとかディア・ハンターのような映画は今見ても、現代に繋がる何かがあり、そのテーマが古くなっていないことに驚かされる。その1950年と1970年の間に横たわる1960年代は、ケネディ大統領とキング牧師の暗殺、ベトナム戦争の悪化、ウオーター・ゲート事件があった。その後で、もはやアメリカは同じではなかったのだ。ヘミングウェーは1961年に自殺しているが、それは『古き良きアメリカ』の終焉を象徴しているように思われる。たとえ彼が生き続けたとしても、第一次世界大戦を知っているヘミングウェーがベトナム戦争によって深い影響を受けたとは思えない。

ヘミングウェーがこよなく愛した闘牛はスペインの国技であったが、牛を殺すということに対する動物愛護の反対派の影響もあり闘牛の人気は落ち始めた。1991年にカナリア諸島で初の「闘牛禁止法」が成立し、2010年7月には反マドリッドの気が高いカタルーニャ州で初の闘牛禁止法が成立、2011年にはカタルーニャ最後の闘牛興行を終えている。スペインの国民の75%は闘牛には興味がないと答えており、いまやスペイン人はサッカーに熱狂する。かつては、田舎をライオンや象を連れてまわり、動物を実際に見たことのない人々を喜ばせていたサーカスも、動物の愛護運動の反対で斜陽化し、2011年には英国最後となるサーカス象が正式に引退を迎え、新しい住処となるアフリカのサファリパークに移送されたということがニュースになった。スペインの国王ファン・カルロス一世は2012年、非公式で訪れていたボツワナで、ライオン狩りをしていたことが大きく報道され、国王自身が世界自然保護基金の名誉総裁の職にあったにも関わらず、動物のハンティングを行ったことについて世界的な批判を受けることとなり、その基金の名誉総裁を解任されるに至った。現在最も人気のあるスポーツはサッカーとか、バスケットボールとか、テニスとか、陸上競技であり、ボクシングや狩猟を趣味とする人間は減っているだろう。日はまた毎日同じように昇っているのだが、やはり時代は変わっているのである。

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[映画] 武器よさらば A Farewell to Arms (1957年) 

ヘミングウェーイが、第一次世界大戦の1917年に赤十字のボランティアとして、イタリアに赴いた若き日の自分の経験を基にして1929年に出版した小説を、ハリウッドが2度映画化している。最初は1932年にゲイリー・クーパー主演で、そして戦後のハリウッドの隆盛の中での華々しいリメークは1957年ロック・ハドソンが主役を演じている。

イタリアは第二次世界大戦ではドイツと組んだが、第一次世界大戦では連合国側の一員としてフランス、英国、ロシア、米国と組んで、オーストリア、ドイツ、トルコの枢機国側と戦った。ヘミングウェーイを投影する主人公ヘンリーはイタリア軍の負傷者を戦場から病院へ運搬する救急車の運転手を務めるアメリカ軍兵士である。ドイツとオーストリア軍は軍事的には優位でありイタリアは常に枢機国軍からの脅威にさらされるが、それは「ドイツがひたすら軍備増強をはかっていた間にイタリアは民主主義の建設に専心していたから」であり、共和制と民主主義を誇りを持って守ろうとするイタリア人をヘミングウェーイは、この『武器よさらば』の中で好意的に描いている。しかし時間の経過と共に、第二次世界大戦前夜にドイツと組んでファシスト国家への道を走り続けたイタリア。イタリアをずっと見守っていたヘミングウェーイに取って、「あのイタリアはどこへ行ってしまったのだろう?」という思いが後に湧いてきたのではないか?ムッソリーニが大変人気があった第一次世界大戦後でも、ヘミングウェーイはムッソリーニを警戒していたという。イタリア警察軍が、スパイ容疑をかけられた同胞のイタリア人を緊急尋問し、弁護も許さず次々と容疑者を射殺していく。主人公は命からがらそこから脱出し脱走兵になるのだが、その尋問のシーンはイタリアが後どのような道を辿って第二次世界大戦に突入したかを象徴している。

1957年のリメークの映画に話を戻そう。ロック・ハドソンはなんとなくロンドン・オリンピックの金メダル水泳選手のライアン・ロクテに似ていて「プリティー・フェイス」という感じだが、ヘミングウェーイの知性とか荒削りのたくましさは出せていない。負傷した彼を看護して恋に落ちる看護婦を演じるジェニファー・ジョーンズはエリザベス・テーラーとオードリー・ヘップバーンを足して2で割って間延びをさせたような顔つきだが、エリザベス・テーラーのような鋭い目の力もないし、オードリー・ヘップバーンのような可憐な初々しさもない。ジェニファー・ジョーンズはこのキャラクターを演じるのに、よく言えば色っぽすぎるというか、正直いって清潔感がない。またオンスクリーンでは「狂ったように恋をする」はずの二人だが全く二人の間にはスクリーンでのスパークがないので、二人の戦場での恋にもドキドキという感動は湧いてこない。

傷病兵が山積みになるはずの病院の大部屋には、いつまでたっても主人公ひとりががらんとした大部屋に横たわっているだけで、「他の傷病兵はどうしたの?」と聞きたくなるし、たくさんの病人の世話で忙しいはずの看護婦も一日中イタリアの町を駆け回って主人公が好きなアメリカ食を探し回るというていたらく。主人公は誰も邪魔しない専用(に見える!!!)病室でひたすら「♪ふ~たり~のために~、せ~かいはあるの~♪」というが如く愛を育て、それに気づいた婦長に「そんなことができるくらい元気なら戦場に戻りなさい!!!」と命令される始末である。この婦長は二人の愛を妨げる超悪役なはずなのだが、彼女がまともな人間に見えるほど、二人はだらしない。戦争がどうなっているかは全くお構いなく、世界が都合よく自分の周りを回っているという感じで映画は終わってしまう。

ヘミングウェーイは自分の映画がハリウッドで映画化されるたびに、自分の小説の中の政治的なテーマは骨抜きにされ、単なる恋愛物語にされてしまうことに失望していたと伝えられているが、彼の怒りは全くもっともだと思わされるような映画であった。ハリウッドの聴衆者たちも馬鹿ではない。驚くほどの予算をかけて現地のロケもいれて作成した豪華絢爛なリメークであるが、興行的には失敗で、多数のアカデミー賞部門にノミネートされた1932年の映画に比べて評価も全く低かったという。この映画は当時大女優だったジェニファー・ジョーンズが恋人のチャールズ・ヴィダー監督に「あ~たしも、武器よさらば、やってみたい。」とお願いして自分主演で作らせた映画だそうだ。ヘミングウェーイがこの映画を見たかどうか、見てもどう思ったのかわからないが、何となく彼が気の毒になるような映画であった。

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[映画] 戦争と平和 (1956年)

1812年のナポレオン率いるフランス軍の帝政ロシア侵攻を縦糸に、ロシア貴族の三つの家族を含む500人の人物を横糸に、文豪トルストイが1865年から1869年にかけて執筆した大河ドラマを基にして、1956年にハリウッドが全力をあげて製作したドラマである。

4巻にも渡る長い小説を、他はできるだけ省いて、ベズコフ伯爵の庶子であるピエール (ヘンリー・フォンダ)、彼の無二の親友アンドレイ公爵(メル・ファーラー)、そしてロストフ伯爵家の娘ナターシャ(オードリー・ヘップバーン) の三人の愛情の縺れを中心に描いているのだが、それでも3時間以上の長さになり見ていて退屈してくる。スクリーンからはハリウッド臭の香水がぷんぷんと漂い、ロシアの大地の香りはどこに行ったの?という感じである。しかしこの映画をぶちこわしているのは、ファンには申し訳ないが、オードリー・ヘップバーンの大根女優ぶりではないだろうか?

咲き初めた花のようなナターシャを演じるには、オードリー・ヘップバーンはいささか年を取りすぎているが、可憐な感じを出そうとして、ただ落ち着きなく動き回ってキャンキャンと可愛い声を出している感じ。アンドレイ公爵とは広大なロシアの大地で知り合ったはずなのだが、映画では退屈な舞踏会での二人の出会いとなり、誰も相手にされずにふて腐れているナターシャにアンドレイ公爵が踊りを申し込むと彼女はいっぺんに有頂天になり、アンドレイ公爵と結婚すると言い出す始末。アンドレイ公爵が戦地に赴いたのちは、ピエールの妻ヘレーネの兄アナトールに誘惑されて、いとも簡単にその誘惑に落ち、駆け落ちを企てる。結局アンドレイ公爵もアナトールも失った後、再び自分の前に現れたピエールを見ると「ふふふ」といとも簡単にくっついて映画は終わるというわけだ。ピエールを演じるヘンリー・フォンダもあまりにも美男子すぎて、ついついなぜナターシャはこんなハンサムなピエールがそばにいるのに、無視をしていたのと思ってしまう。原作は実は「ナターシャは若いがゆえに、自分の魅力にも気づかず、何が人生で大切なのかまだわかっていない。しかし、戦乱の困難を乗り越えて行くことで、階級を越えて人々を助けることに意義を見出し、強く美しい大人の女に成長し、今まできがつかなかったピエールの心の真実に気がつき、愛が芽生える。」と言う深いトーンであることを祈りたい。そうでなければ、どうしてトルストイの原作が不朽の名作として残っているのだろうか?しかし残念ながら、このハリウッド映画はひたすら軽いのである。

閑話休題、あるアメリカ人の男子学生が、女性の魅力を三人の女優に象徴させて表現していた。彼にとっては三大女優はグレース・ケリー(美しさ)、マリリン・モンロー(セクシーさ)そしてオードリー・ヘップバーン(可憐さ)であるそうで、話を聞いていたほかの男性もいたく同意していた。この三女優はいみじくも同世代であり、グレース・ケリーとオードリー・ヘップバーンは同い年、マリリン・モンローは二人より3歳年上である。時代を虜にした同世代の女性は他にも『美人』の代名詞ともなったエリザベス・テイラー(二人より3歳年下)や大統領の妻ジャックリーン・ケネディー(二人と同い年!!!)そして大輪の花ソフィア・ローレン(二人より5歳年下)などがいる。エリザベス・テイラーが人間味、ジャックリーン・ケネディーが権力、ソフィア・ローレンがたくましさを象徴するとしたら、これらの同世代の6人の女優は女性の魅力を違った角度からきらきらと表現してくれているともいえるだろう。

グレース・ケリーとジャックリーン・ケネディーに関して、面白い話を聞いた。二人が偶然おなじ晩餐会に出席したことがあったそうだ。グレース・ケリーはどこに行っても男性の関心を引き続けていたが、その晩だけはすべての男性がジャッキーに群がり、誰もグレースに興味を持つ男性はいなかった。グレースは悔しさのあまり洗面所に篭り、一晩中泣いていたそうだ。私は後彼女がモナコ大公との結婚を決意したのも、その晩餐会の悔しい思い出が一役買っていたのではないかとさえ思っている。

話が脱線したが、この6人の女優もソフィア・ローレンを除いてすべてもうの世の人ではない。「戦争と平和」の映画から話題がずれたが、この6人が活躍した時代は戦後まもない活気あふれたハリウッドであり、この映画もその谷に咲いたあだ花ともいえるのである。

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