[映画] ペレ Pelle the Conqueror (1987年)

この映画はブラジルの往年の名サッカー選手ペレのお話ではない。これは、デンマークの共産主義者でプロレタリア作家でもあるマーティン・アンダーソンによって1906年から1910年までに出版された4部作の小説のうちの一つ『勝利者(征服者)ペレ』を原作とし、1987年に映画化されたものである。

少年ペレは父に連れられて祖国スウェーデンを離れ、スウェーデンと目と鼻の先にあるデンマーク領のボーンホルム島に移住し、ある大きな農場で、牛小屋で牛と共に住みながら牛の世話をするという仕事にありつく。そこでの生活は過酷を極め、何か人生の希望が芽生えるとそれがすぐ挫折するということの連続で、映画には最初から最後まで半永久的な絶望感が溢れている。そして最後に、もう人生の希望を諦めた父を残し、ペレが一人新天地を求めて農場を脱出するところで終わる。冷たい風と凍った海の画像を二時間半見せ続けられて、寒々とした気持ちで映画館を出る人が多いのでは、と思わせる映画である。異国でお金もない少年が、家族も友人もいない、下手をすると一晩で凍死しかねない寒い国でこれからどうして生きていくのかと思わせる。原題は『勝利者(征服者)ペレ』だそうだが、一体何が勝利なのだろうか、と皮肉な気持ちになってしまう。

この映画は「深刻なテーマなのだから、いい映画なんでしょう」と頭で納得し、はらはらさせる展開と美しいシネマトグラフィーで何とか2時間半を乗り切り、「アカデミー最優秀外国語賞とカンヌ最高賞を受賞している数少ない外国映画なんだから、きっと名作なんでしょう」と思い込まされ、でも誰かに目をまっすぐに覗かれて「本当にこの映画が好き?心から感動した?」と聞かれたら、「実はあまりこの映画は好きではなかった」と答えてしまいそうな映画である。

何がいけないかと言えば、登場人物の描き方の画一性と矛盾である。画一性については、同じころの農場労働者の生活を描いたハネケ監督の『白いリボン』と比べてみればいい。『ペレ』では、悪いのはすべて農場主に依頼され農場主を管理する中間管理職のマネージャーである。マネージャーは雇用人にろくに満足な食事も与えず、雇用人を精神的肉体的に虐待する。農場主は経営をそんな鬼のようなマネージャーにまかせっきりで、遊び歩いている。とにかく、支配階級は一律に醜くて、残酷なのである。反対に『白いリボン』を見ていると、経営者は小作農に思いやりがあるわけではないが、自分の農場の生産性を高めるためあらゆる努力をしており、小作農が健康で生産的であるために気を配っている。小作農たちも身分の格差は苦々しく思いつつも、自分たちに仕事をくれ、家族を食べさせてくれる領主は、好きではないにしても尊敬できる存在であり、その領主がいなくなったりすれば自分たちの明日がどうなるかわからないという不安もある。いわば共生共存の関係なのである。また『白いリボン』では、小作農たちが純真無垢な存在だとは一言も言っていない。支配階級は一律に悪で、労働者は常に被害者であると訴える『ペレ』は、死ぬまでマルクス主義と共産主義を信じて疑わなかった作者マーティン・アンダーソンの気持ちを受け継ぎ、やはり階級闘争の理論で貫かれているのである。

人間の描き方の矛盾といえば、主人公のペレは勤勉で性格がいい子なので、結構農場の大人には好かれているが、自分よりももっと貧しい少年を「お金をあげるから、鞭で打たせろ」などといって、その子を自分が飽きて鞭打つのが面倒になるまで、結構厳しく打ちまくっているので、これを見て気持ちが悪くなる聴衆もいるのではないか。その貧しい子は貧しいなりに牛の扱い方をペレに教えてくれたりする、優しい生活力のある子である。その子がいつのまにか、白痴的な少年に描かれ始めている。また、映画の中での子供同士のいじめが凄惨である。私は結構北欧の映画は見ている方だと思うが、その中には子供同士のいじめのシーンが意外に多い。もちろん、子供の世界でのいじめは場所と時間を超えて常に存在するものなのかもしれない。しかし、なぜこれほどまでに、映画を作るときに「いじめ」を前面に押し出す必要があるのだろうか。また、農場労働者の生活の汚さを2時間半見せられてちょっと気持ちが暗くなる。ペレと父は自分たちの大便の排泄まで牛小屋でやり、夜はその横の小部屋で寝るのである。教会用の一張羅以外は着替えもあまりなく、洗濯もしていない服をいつも着ている。よく、伝染病や感染症にかからないものだと思う。移民だから、彼らは特別虐待されてでもいるのだろうか。

ペレは農場主の夫人に気に入られ、マネージャーになる訓練を受けるポジションに抜擢される。聴衆はようやくペレとその父が幸せになれるのかとほっとするが、ペレは父の「これでようやくお前も楽な仕事につけた。口先で労働者にああしろ、こうしろと言うだけでいいんだからな。ありがたいことだ。」という言葉を聴いたあと、そのポジションを受け入れるのをやめて農場から逃亡することを決心する。つまり、ここで示唆されているのは、「醜い搾取階級に入ることをやめて、闘うことを決心したペレは本当の意味で征服者であり、勝利者であるのだ」というメッセージではないのだろうか。そこには、苦しいけれどまじめに仕事を成し遂げて、一歩ずつ人生の階段を登っていくというメッセージはない。一歩下がってこの悲惨さが現実だったと認めたとしても、社会福祉のモデル国となった1987年のデンマークやスウェーデンでこの階級闘争の映画を作る今日的価値は一体なんなのだろうと思ってしまう。

「征服者」という意味には、農場でペレを可愛がってくれた同僚の労働者のエリックがいつも言っていたように、「まずアメリカに移民して、それから世界を征服するんだ」という言葉によっているのかもしれない。18世紀から19世紀にかけて起こった産業革命に続き、西ヨーロッパでは一連の農業技術上の改革が起こり、貨幣経済が浸透し、ヨーロッパの社会体制にも大きな変化が起こっていた。自給自作の自営農であった者たちの多くは、自営農から賃金労働者に転落した。貧富の差がますます厳しくなり、アイルランド人、ドイツ人、スカンジナビア人、イタリア人などがどんどん新天地アメリカへの移民をしていた。これは政治的迫害で移民したフランス人やドイツ人、宗教的迫害で移民したロシア系ユダヤ人とはちょっと異なる理由かもしれないが、それらの移民は皆、閉塞し始めたヨーロッパにない可能性を求めて新天地をめざしたのである。

島を飛び出したペレのその後を、同時代を生きた同年代の同じく架空の人物『タイタニック』のジャック・ドーソン(レオナルド・ディカプリオが演じた)と重ね合わせることもできるだろう。ジャック・ドーソンは1912年に20歳で、アメリカでの活躍を夢見て、タイタニックに搭乗した。彼は、アメリカ移民を夢見る二人のスウェーデン人と競ったポーカー・ゲームで競り勝って、タイタニック号の無料搭乗券切符を手にしたのである。

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[映画] 愛と哀しみの果て Out of Africa (1985年)

『愛と哀しみの果て』はアイザック・ディネーセンにより1937年に出版された『アフリカの日々』を基にしている。アイザック・ディネーセンは男性の名だが、実は本名がカレン・ブリクセンという女性である。彼女は男女二つの名前を使い分け、デンマーク語と英語でたくさんの本を出版しており、アカデミー外国語映画賞を受賞した『バベットの晩餐会』の原作者でもある。『愛と哀しみの果て』はアカデミー賞の作品賞を受賞しているが、映画の作り方は完璧ではなく、人間関係の説明がないので原作を読んでいないと取り残されてしまうことがあるし、ちょっと映画が冗長すぎる嫌いがある。しかしケニヤの映像は素晴らしいし、映画の稚拙さを補って余りある原作の魅力というか素晴らしさを感じてしまう。

『アフリカの日々』は基本的には彼女の自叙伝である。映画では冒険好きでデンマークに物足りない裕福な家の出身の女主人公(1885年生まれ)が、没落した男爵の息子と身分と財力を交換するような結婚をして、新天地のケニヤに旅立つ。実際、カレン・ブリクセンも1913年にスウェーデン貴族のブロア・ブリクセンと結婚し、翌年ケニアに移住している。映画通り夫婦でコーヒー農園を経営するが、まもなく結婚生活が破綻し、離婚後は単身でコーヒー園の経営を続けるが失敗し、1931年にデンマークに帰国した。

カレンの夫となるブロア(ブリクセン男爵)は1886年生まれのスウェーデン貴族である。彼はカレンとは遠縁に当たる。彼には一卵性双生児の兄がおり、映画ではこの兄が実はカレンの恋人であったという設定になっている。この双子の兄は1917年に飛行機事故で死亡した。コーヒー農園の資本はすべてカレンの両親から出資されていたので、離婚に際しコーヒー農園はカレンの所有となり、ブロアはサファリ・ツアーの会社を始める。20世紀初頭のヨーロッパの貴族は、経済力と母国の帝国主義の成功の追い風をうけ、起業に情熱を燃やすものが多かったようだが、何かこれは現代の起業家の精神に似ているものを感じる。ブロアの会社の顧客には、英国の皇族や貴族がたくさんいたという。彼は、カレンとの離婚後、1936年に探検家のエバ・ディクソンと結婚した。1938年にエバが死亡したので、ブロアはスウェーデンに帰国し、そこで没した。

ブロアとの離婚後、カレンが親しくなったのがデニス・フィンチ・ジョージア候である。彼は1887年に非常に由緒ある名門貴族の家に生まれた。23歳の時にケニヤの西部に土地を買い、そこを基にして、共同出資者と狩猟会社を始めた。彼もブロアと同じ貴族起業家であり、同じ境遇にある名門貴族出の起業家のバークレー(コール候)とも親しく付き合っていた。この4人が映画の主要人物である。1925年にカレンとブロアが離婚した後、デニスはカレンと親しくなり、やはり自分が始めたサファリ会社の仕事の合間にカレンのコーヒー園でカレンと時間を過ごすことになった。彼のサファリ会社の顧客もやはり、英国の王族や名門貴族が多かった。登場人物はすべて貴族階級の青年たちなのだが、ハリウッドの人気俳優が演じる彼らは、なんとなく金鉱で一儲けしてやろうというアメリカのカウボーイにしか見えないのが、ちょっと残念だが。

映画では、カレンとデニスが破局したのは、デニスが結婚という関係を望まなかったこと、そして別の女性が現れたからだということになっているが、それも事実らしい。1930年からデニスはベリル・マッカムという牧場経営者と親しくなり、二人で飛行機の操縦も学び、ケニヤ中を飛び回り始めた。結局デニスは、カレンが農場を閉じてデンマークに帰国しようと決心した時に飛行機事故で死亡してしまう。

この映画の素晴らしさは、当時のヨーロッパの支配階級出身の伸び伸びとした、怖いものなしの若者の開拓者精神を生き生きと描いていることだ。しかし同時にその特権はいつまでも続かないだろう、という予兆のようなものも漂っているのが見事だ。この映画では、自分の特権を顧みずアフリカに飛び出して、自らの手を汚して自分の運命を試す若者の勇気というものを感じるのだが、それだけ帝国主義というものが健在だったのだろう。この時はヨーロッパの帝国主義の最後の閃光だったのかもしれないが。

カレンは不実な夫により梅毒を移されてしまい、それで一生苦しみ、また全財産を投資したコーヒー農場も失敗してしまうのだが、誰を批判もせずすべてを受け入れて生きていく。その生き方が見事である。この精神は『バベットの晩餐会』にも感じられるものである。ここには作者の人間性が自ずとにじみ出ているのであろうか。

カレンはケニヤの原住民、たとえばキクユ族、マサイ族、ソマリ族などの違いを細かに観察している。当時のケニヤの植民者はキクユ族を利用してケニヤの殖民をすすめている。キクユ族は農耕に順応し、首長が白人入植者に友好政策を取り、白人に土地を奪われた後そこでの小作労働や家内労働に従事した。また、若者はミッション系の学校で教育を受けたので、英語も堪能になった。カレンの言葉を借りれば、キクユ族は「反抗心を持たず、羊のように我慢強い土地の人たちは、権力も保護者もないまま、自分たちの運命に耐えてきた。偉大なあきらめの才能によって、今もなお彼らは耐えている」と描写されている。ソマリ族は、すでにムスリムに改宗しており、植民者はソマリ族はいつ反抗するかわからないと警戒しており、キクユ族のような信頼を感じていなかった。マサイ族は狩猟民族であることを諦めず、孤高の道を選んでいた。映画では、キクユ族の人間でさえ、マサイ族は得体の知れない不気味な民族で、彼らを恐れていたことを描いている。

ケニヤ独立の中心となったのは、植民者のことを経験と勉強により理解していたキクユ族であった。ケニヤ独立の動きはすでに1919年にキクユ人のハリー・ツクがナイロビで東アフリカ協会を立ち上げるなどの形で起こっていた。1924年には青年層を中核とするキクユ中央協会(KCA)が成立し、植民地政府と同調する首長勢力と対決し、そのKCAの急進派の動きが1952年のマウマウ戦争に発展し、これにより白人入植者が撤退し始める。民族主義・独立の動きはケニア・アフリカ民族同盟 (KANU) に結集されて行き、ケニヤの独立が達成されたのは1963年であった。

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[映画] モントリオールのジーザス Jesus of Montreal(1989年)

『モントリオールのジーザス』は、『アメリカ帝国の滅亡』や『みなさん、さようなら』を監督したドゥニ・アルカン監督の作品で、この三つを一緒にして彼の三部作とも言われている。『モントリオールのジーザス』はカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞しているものの、アカデミー賞外国語映画賞候補になった『アメリカ帝国の滅亡』やアカデミー賞を受賞した『みなさん、さようなら』に比べると日本での知名度は今一歩で、DVDの入手も困難になっていると聞く。三作とも非常に佳品なのだが、私の好みでは『モントリオールのジーザス』が頭一つ抜きんでている感じである。キリスト教を知的に解釈して、魅力的な登場人物がユーモラスに愛を語っているし、ストーリー展開も面白く、映画自体も芸術的である。結構日本人の感性にふんわりと訴えるものがあるような気がするのだが。

モントリオールに代表されるケベックはカナダの中でも特殊な存在である。もともとフランス領であるから、現在でも公用語は英語と仏語であり、宗教はカトリックである。カナダ連邦政府に対する反発が強く、選挙で独自の社会主義体制を確立した。最近まで結構暴力的な反カナダ独立運動があったし、現在でもケベック独立派と中央政府残留派がけっこう同じくらいの勢力で拮抗している。私の友人のケベック人の弁護士さんも、彼が小さい頃は自分の近所は貧しくて暴動が結構起こっていたと言っていた。

ドゥニ・アルカンに代表されるケベックの知識人は、まずカトリックの影響から抜け出す精神的革命を行い、その革命の支えとしてマルクス主義を選んだ。しかし、彼らも次第にマルクス主義に幻滅を感じる始める。その幻滅は『みなさん、さようなら』に出てくる社会主義の精神で経営されていて、官僚主義で病人を助けることは二の次で、病人が常に廊下に溢れている病院に象徴されている。

『モントリオールのジーザス』は、キリスト教という宗教団体の権威に対する批判であが、そのトーンは非常にスマートでなおかつ爽やかで愛らしさに満ちている。映画の中で二本劇中劇があり、劇中劇の量は映画の全体量の三分の一くらいである。最初の劇中劇があまりにも馬鹿馬鹿しく退屈なので映画を見ることをやめようとしてしまったくらいだが、このつまらなさは、つまらない芸術作品を作って「どうだ、お前にこのすごさがわかるか」と傲慢に笑う一部のあまり才能のない芸術家へのドゥニ・アルカンなりの批判だと理解したい。二本目の劇中劇は非常に美しく、思わず引き込まれてしまった。

この映画は、才能に溢れた、しかしメイン・ストリームの商業主義に興味がなく、アンダー・グランドの演劇活動をしている俳優のダニエルが、大きなカトリック教会の神父からジーザスの生涯を描く演劇を教会で演じてほしいと頼まれたことから始まる。神父は「好きなようにやってくれればいいから」と非常に協力的で物分りがよさそうで優しそうな人である。ダニエルは、自分の演劇学校の先輩でホームレスのシェルターで働いている女性、ポルノ映画の吹き替えをしている男優、気難しそうで自分の気に入った作品にしか出ない男優、体を売り物にする安っぽいコマーシャルに出ていて「演技なんかできるわけがない」と軽蔑されている若い女優をリクルートして、すばらしい舞台を作ってしまい、聴衆や批評家から絶賛される。彼に協力した俳優たちも自分たちがこれほどの才能があるということに初めて気づいて、興奮し幸福に浸る。

しかし、ダニエルのジーザスの解釈が、「ローマ人の兵士とマリアの間に生まれた、心が強く優しい男」であるというところから神父はカトリック教会の上司から圧力がかかり、自分の地位が危うくなるのではないかと心配し、その劇の続演を中止しようとする。その中で、一見まともに見える神父の俗物性がどんどん明らかになっていく。映画は、劇をやめさせようとする教会側とそれに反対する観衆の間に起こった暴動が悲劇に続いて行く中で幕が閉じる。

ダニエルは、ジーザスが現代に生まれていたらどんな人間だったか、ということの象徴であるだろう。冒頭のつまらない芸中劇に出演した俳優が、自分が誉めそやされている時にダニエルを指差し「私より優れた俳優がそこにいる」と言うのは、洗礼者ヨハネがジーザスの到来を預言したことを思わせる。4人の俳優たちが自分の仕事を投げ打ってダニエルに協力したのは、当時の信者たちが自分の所有物を捨ててジーザスのもとに走ったのに似ている。特に「お前の演技力は尻だけ」と軽蔑されていたコマーシャル専門の女優が、自分を尊敬を持って扱ってくれたダニエルに絶対の愛を捧げるのは、マグダラのマリアを思わせる。ダニエルの死んだ瞬間の姿は十字架に架けられたジーザスそのものである。ジーザスが起こした、死人を蘇らせたり盲目の人間に視力を与えたりという奇跡もダニエルの死後実際に起こる。また有能な弁護士がダニエルの死後、ダニエルに従った二人の男優に接近して「ダニエルの偉業を伝える劇団を作ろう」と話しかける場面がある。この二人の男優はジーザスの使徒たとえばパウロやペテロの象徴であろう。「商業主義ではなく、ダニエルが目指した聴衆との直接の交流のある劇団ならやってもいい」と答える二人はジーザスの心を受け継いで行こうと謙虚な心を表しているが、彼らの目の中には「まんざらでもないな」と光るものが一条ある。これは、謙虚な気持ちで出発したキリスト教会がその後ローマ帝国からの公認と共に大きな政治的団体に堕落していったキリスト教会を予兆させるものであろうか。

とにかく、面白く心に響く映画だった。最初の2分で映画を見るのをやめないでよかった・・・

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[映画]  バベットの晩餐会 Babettes gæstebud、 Babette’s Feast(1987年)、ラヴェンダーの咲く庭で Ladies in Lavender (2004年)

最近立て続けに非常によく似た映画を二本観た。『バベットの晩餐会』と『ラヴェンダーの咲く庭で』である。『バベットの晩餐会』は1871年のパリーコミューン事件前後の50年に渡る時期を描くし、映画『ラヴェンダーの咲く庭で』は1936年の英国を舞台にしており、『バベットの晩餐会』より約20年後に作られているので、映画として大成功だった『バベットの晩餐会』の物まねなのだろうか、とも思ったが、この二つの映画が描く時代の精髄とか、映画の精神の色彩があまりにも似ている。二つの映画から受ける印象は20世紀初頭の北欧の空気なのである。

調べてみると『バベットの晩餐会』の原作者カレン・ブリクセンは1885年に生まれて1962年に没しており、『ラヴェンダーの咲く庭で』の原作者ウィリアム・ジョン・ロックは1863年生まれで1930年に没している。同世代とは言わないが、同時代に生きている。道理で、その感性が似ているはずだ。『ラヴェンダーの咲く庭で』は原作の時代を20年間新しくしているが、実際の原作は1916年に出版されており、『バベットの晩餐会』の原作よりも若干早い時期に出版されている。つまりこの映画が表現している時代の空気は、第一次世界大戦前のまだ帝国主義が健在なヨーロッパで、その経済的な繁栄は楽しみつつも、北欧の田舎で政治的な荒波には揉まれておらず、隣人の共同体がしっかりして、人々が善意でお互いを助け合っていた、よき時代のヨーロッパの心なのである。カレン・ブリクセンもウィリアム・ジョン・ロックもそういった時代は近い未来に消え去るだろうという予感は感じていたのであろう。何か儚さの予感のようなものを感じさせる。原作は読んでいないので、この二つの映画を比較して、その相似点と相違点を書いてみたい。

まず映画として似ているのは、両方とも父親の死後独身で同じ家に暮らしている仲のいい老姉妹の物語である。二人が暮らしているのは北海に沿った海辺の美しい寒村である。『バベットの晩餐会』ではデンマークのユトランド半島、『ラヴェンダーの咲く庭で』は英国という設定であるが、映画の風景は全くそっくりである。女中が買い物籠をさげて丘を下りて、漁師が浜辺に乗りつけた小船に魚を買いに行くという毎日も似ている。毎日判で押したような、父を懐かしみ日々の無事を感謝していく姉妹の生活が、漂流者のような芸術的な異邦人(『バベットの晩餐会』ではパリの一流レストランの女シェフだったバベット、『ラヴェンダーの咲く庭で』ではミステリアスなポーランド人の天才バイオリニストのアンドレー)の出現で生活が一気に活気つき、姉妹は半ば忘れかけていた自分の若かりし頃を振り返るというのも似たテーマである。

作者として似ているのは、カレン・ブリクセンもウィリアム・ジョン・ロックもアフリカで長い間生活していたということだ。ウィリアム・ジョン・ロックは英国人だが2歳の時にトリニダード・トバゴに移住し、1881年にケンブリッジ大学に入学するために英国に帰国した。一方カレン・ブリクセンはデンマーク人であるが、1913年に父方の親戚のスウェーデン貴族のブロア・ブリクセンと結婚し、翌年ケニアに移住した。夫婦でコーヒー農園を経営するが、まもなく結婚生活が破綻して離婚し、1931年にデンマークに帰国した。アフリカ在住時代の思い出を綴った『アフリカの日々(Out of Africa)』が 『愛と哀しみの果て』として映画化され、アカデミー作品賞を受賞した。『バベットの晩餐会』はアカデミー賞外国語映画賞を受賞している。

それでは相違点は何か。原作を読んでいないので、映画化されたものだけに関していえば二人の姉妹の過去の振り返り方の差である。『バベットの晩餐会』では、姉妹の心には過去に対する後悔は全くない。美しい姉妹だから思いを寄せる男性はたくさんいたが、独身を保ったのは村で教会を立ち上げた父を助けるためであり、年老いて信者が老人ばかりになり傾きかかった教会を死ぬまで維持しようと心に決めている。何も欲はないし自分から求めるものはないが、人生の果てで自分に思いを寄せてくれた男たちの暖かい魂が姉妹を守ってくれているかのようだ。パリ・コミューンで家族全員を虐殺されて身寄りのなくなったバベットをパリからデンマークに送ってくれたのも、姉妹に想いを寄せた男なのである。バベットも姉妹のもとで暮せることを感謝して、ずっと姉妹と人生を共にしようとする。信じる心があり欲のない人間が得ることのできる静かな幸せを『バベットの晩餐会』は描いている。

『ラヴェンダーの咲く庭で』は逆に漂流した若くて魅力的な男性によって、姉妹のの妹の方の老女が自分の中に隠されていた異性への欲望に気づく物語である。若者は漂流して死にかかった自分を助けてくれた老女に感謝の気持ちを持ち、母を慕うのに近い気持ちで老女を慕うのであるが、やはり恋愛感情を持つのは自分の年に近い若い女性であるし、自分のキャリアに対する野心もあり、片田舎にくすぶっていることはできない。妹は「あの人が手に入らないなんて、人生不公平!!と嘆く。他人から見たら滑稽でグロテスクに見える老女の感情も、老女からみれば真剣で尊い感情なのだ。

映画としては『バベットの晩餐会』の方がはるかに優れており、『バベットの晩餐会』は多分映画史に残るだろう。悔やまない、妬まない、受け入れる、感謝するという、幸せを得るための心構え、言うのは容易いがなかなか身についてくれない人生態度を、年老いてなお美しい女優たちが示してくれる。

『ラヴェンダーの咲く庭で』で老姉妹を演じているのがジュディ・デンチとマギー・スミスである。アカデミー賞受賞者で英国女王から女爵士を授けられた彼女たちは勿論大女優である。しかし『ラヴェンダーの咲く庭で』の姉妹たちは原作ではずっと若く、原作の精髄は、40代のもはや若いとはいえないが、まだ十分女性である独身の女性が、若い男性に恋心を触発され、自分の失われた青春時代を渇望する物語である。監督のチャールズ・ダンスも、40代の女性の心の翳りと発揚を70代のジュディ・デンチとマギー・スミスに演じさせることの懸念はあったが、「まあ、彼女たちは女神に近い名優だからできるだろう」と思って二人をキャストしたという。これは演技というものを冒涜しているアプローチだと思う。極端にいえば役柄は黒木瞳か松島菜々子の年代だけど、まあ神に近い名優だから70代の杉村春子や山田五十鈴が黒木瞳を演じられるだろう、と言っているようなものである。

70代の彼女たちが40代を演じるのはちょっと無理だから、映画は結局老女の物語になってしまっている。映画を見ている人が、主人公は実は40代だと理解するのはまず不可能だろう。というわけで、映画は、70代の女性が嫉妬混じりに20代の男性を家の中に拘束し、同年代の女性との交際を妨げ、いつまでも繋ぎとめておこうと企む(というか淡い希望を持つ)というものになっている。ジュディ・デンチとマギー・スミスへの尊敬が、結果としてこんな映画になってしまったのは皮肉である。

原作は読んだことがないが、私としての『ラヴェンダーの咲く庭で』の主人公のイメージは、何らかの理由で独身である、若いともいえないが老境でもない40代の女性が、自分の子供ほど若くないが、かといって自分の相手としても社会的には受け入れられない年下の男性へ惹かれていく想いを抑制する「つかの間の緊張の美」である。彼女が独身であったのは、自分のふさわしい世代の男性が戦死して数が少なくなっているとか、出会いの機会がなかったとか何か社会的な理由があるような気がする。何歳になっても人を想う気持ちがあってもいいが、40代女性を70代のの女優が演じることにより、原作の精神が変わってしまったように想われる。つまり、この映画の原作は時代背景こそ似ていても全く異なった女性の心を描いたのだが、『ラヴェンダーの咲く庭で』の二人の女優の名演のために映画が結果として似てしまったということらしい。

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[映画]  存在の耐えられない軽さ The Unbearable Lightness of Being (1988年)

『存在の耐えられない軽さ』は、1968年に起きたソ連軍のチェコ自由運動の弾圧(プラハの春事件)の後フランスに亡命した作家ミラン・クンデラによる同名の小説・・・チェコスロバキアのプラハの春を背後に、激動の中で異なった運命を辿る四人の男女の運命を描く・・・の映画化である。

トマシュはプラハに住む若くてハンサムで優秀な外科医である。女性を愛し、女性に愛され、複数の女性と気軽に交際する男であるが、トマシュが自分を理解してくれる女性として認めて交際しているのは画家のサビーナだけであった。ある日、執刀のために小さな温泉のある村に行ったトマシュは、そこでテレサという娘に出会う。テレサはトルストイを愛読する文学少女であるが、その心を理解してくれる友人はだれもその村にはいないと思っていた。自分を待つトマシュがたくさんあるベンチの中で自分がいつも座っているベンチに座り自分を待っていてくれたこと、そしてトマシュにプラハの文化を感じ取ってトマシュに夢中になり、彼を追ってプラハに来てしまいう。独身主義であるかに見えたトマシュもテレサに惹かれて二人は結婚してしまう。

テレサはサビーナの影響を受け、写真家になろうとするが、時を同じくして、チェコに育ちつつある自由への渇望を弾圧するためにソ連軍が侵攻して、多くの人間が殺害される。サビーナ、トマシュとテレサはジュネーブに亡命する。テレサは、危険を冒して自分が撮影したソ連軍の弾圧の写真をスイスの雑誌社に見せるが、スイスでは人々はもうプラハの春事件には飽きており、もっと面白い写真を持って来いと言われてしまう。サビーナは真面目で良心的な大学教授ハンスと出会う。テレサは自分はサビーナやトマシュのように他国で強く生きていける人間でないと思い、チェコに戻ってしまう。そこでトマシュはサビーナのいる自由の国スイスに留まるか、抑圧があるがテレサが住む自分の故国チェコに帰るかの決断に迫られることになる。トマシュはチェコに戻ることを選ぶが、再入国の際にパスポートを取り上げられてしまい、それは再び自由圏に戻ることの許されない片道行路であったのだ。

トマシュがスイスにいる間にソ連軍の弾圧が成功して、プラハは全く違う街になってしまっていた。トマシュは反共産党分子であるとして外科医の仕事を剥奪され、清掃夫として生計を立てるようになる。テレサはプラハの変貌を嘆いて落ち込んでしまい、自殺まで考えてしまう。ふたりは田舎へ移住し、そこでの暮らしに馴染み、つつましいながら本当の幸福を探し当てるのだが、その瞬間に悲劇が起こる。

この映画の魅力は、トマシュとテレサそしてサビーナとハンスの人間性と関係が非常に精巧に美しく、説得力に満ちて描かれていることだろう。

トマシュとサビーナが会う時は必ず鏡が使われる。これはトマシュとテレサそしてサビーナとハンスの関係をうまく象徴している。四人の関係を私なりの絵で描けば、トマシュとテレサがベッドで寝ていて、その隣に大きな鏡がある。トマシュがその鏡を覗くとそこにはトマシュではなくサビーナが映っている。そしてサビーナの隣にはハンスが横たわっている。トマシュが鏡に近づくとサビーナも近づく。トマシュが鏡から遠ざかるとサビーナも遠ざかる。しかしトマシュは鏡を打ち破ってサビーナの元に行く必要はない。トマシュとサビーナは、魂で結びついた男と女のシャム双生児なのである。彼らは離れていようが、お互い他の人と一緒にいようが、心では永遠に結びついているのである。

しかし、トマシュが本当に愛しているのはテレサだけである。テレサはすべてを明るく照らす太陽のようで、彼女がいる限りは世界も他の女性も美しく見えるのであるが、彼女がいなくなると、世界が暗黒になり、他の女性はトマシュの視界には全く入って来なくなってしまう。トマシュは限りなく軽いが、ぶれない男である。プラハの春の前、浮き浮きと政治を語っていた友人に彼は「自分は全く政治には関心がない」と述べる男であった。しかしソ連の弾圧の中で、急に保身を図り、密告をし、自分が何を感じ叫んでいたかを隠す人々の中で自分を全く変えようとしないトマシュは反体制派として弾圧されてしまうのである。しかし、自分が愛していた仕事を奪われた後でも彼は相変わらずふわふわと軽く、しかしぶれずに生きていくのである。

テレサは都会で軽く生きている(ように見える)トマシュやサビーナに影響されて、自分もそうなろうと努力し、いろいろと実験してみるが、それで幸せにはなれず、結局自分は大地に根付いて生きて行く人間だとわかる。しかし、彼女は何気ない瞬間に、自分で意識せず非常に性的な魅力を体現する女性で、トマシュはそこに心底惹かれていく。

サビーナはトマシュに瓜二つの心を持っているのだが、トマシュが手術の刀を持っているのに対し、絵筆で世を渡っていく女性である。女なので、男よりももっと流浪に対して、肝がすわっている。自分がこの広い地球のどこで死んでしまうのかわからないが、野垂れ死にする直前まで絵筆を持って全力で生きまくってやる、という態度である。良心的で道徳的なハンスは、自分と全く違うサビーナにどうしようもなく惹き付けられてしまう。

私はたまたまこの『存在の耐えられない軽さ』と村上春樹の小節を基にした『ノルウェイの森』を同じ時期に見たのだが、この二つの映画が全く同じ時期(1960年後半)を背景に、非常に似たテーマを描いているのに、その描写と解決が根本的に違うのが面白いと思った。

『ノルウェイの森』では平和で、戦争に駆り出される怖れもなく、自由と身の安全と暮らして行けるお金を保証されている日本の社会で、何故か閉塞感を感じている若者たちが、社会主義こそが世を救う希望の光だと信じて学生運動に熱中している。もちろん村上春樹の投影である主人公はそんな同世代の若者の動きには共感できないのだが、彼の周りではやたらと友人たちが自殺して行く。その自殺する若者たちは、親の愛情もあるし、恵まれた環境に育っているのだが、まるでストッキングの穴がじわじわと広がって行くのを毎日ジクジクと見ているように、何かに拘って重く生きて行く。そして自殺してしまうのだ。主人公もそれに影響されてしまうが、放浪しまくって、泣きまくって、鼻水を出しまくって、大げさな人生の探求の果てに「僕は生きるんだ」と決意する。

『存在の耐えられない軽さ』では、言論の自由を奪われ経済的にも不公平な社会で生きる若者にとって、社会主義は悪であり、若者はチェコが自由主義の国になることを渇望している。トマシュはジクジクと拘る人間ではない。だから軽いのだが、彼は体制や他人を批判はしても非難することはない。そして、まるで白鳥が波立つ湖の上で、波浪にも影響されず静かに浮いているように生きていく。そして静かに自分の幸せを見つけるのである。ジュネーブでサビーナと二人きりで会った時、サビーナは更に西側に移住することを、トマシュはチェコに戻ることを決めているが、二人はそれは口に出さない。突然サビーナが「これが私たちが会える最後の時間になるかもしれない」と呟くと、トマシュは表情を1ミリ変えただけで「そうかもしれない」と頷く。それが永遠の別れである。しかし『存在の耐えられない軽さ』では誰も自殺しない。それぞれが全力を尽くして難しい時代を生きていくのである。

どちらの映画でもビートルズの曲が非常に重要な役割を帯びて流される。しかしビートルズの曲が若者に示すものが、二つの映画では全く違う。『存在の耐えられない軽さ』ではビートルズの曲は自由への憧れと渇望を象徴するものであるが、『ノルウェーの森』では正体のわからないメランコリーの象徴なのである。

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[映画] アメリカ帝国の滅亡  The decline of the American Empire (1986年)

『アメリカ帝国の滅亡』とは大仰なタイトルであるが、これはこの映画監督のドゥニ・アルカンが歴史を専攻し、ローマ帝国などの歴史に詳しいので、自分の主張を歴史的な表現に託したからであろう。この題が何を意味するかは、映画をぱらっと観ただけでは明らかではない。極端に言えば、この映画を一回観ただけではこの映画が何を言いたいのかわかりにくい。もし映画の意図がわからなければ、観た人はイラつくだろう。事実、そういう鑑賞後の感想もいくつか読んだ。

ドミニクはケベックの大学の 歴史学科の学部長であり、最近著書を出版し、現代(80年代)に顕著な個人的レベルの幸福を追求しようとする動きは、国家が衰退するのに比例して起こっているという学説を提唱した。彼女の学部のティーチング・アシスタント(日本でいえば非常勤講師のような立場)のダイアンは放送局のアルバイトで彼女のインタビュー番組の司会者を務めている。彼女はその幸福の追求の具体例として、知識階級の自由奔放な生活態度、従来の性道徳からの開放、結婚しない女性の増加などを挙げた。彼女は勿論独身、ダイアンは女の子を連れて離婚している。

ドミニク率いる歴史学科の教官たちはメンバーの1人の家にディナーを楽しむために集まった。教授のレミ、ピエール、クロードと大学院生のアランは男性軍、女性軍はドミニクとダイアンに加えて学部生のダニエールとレミの妻のルイーズだ。インテリであるレミ、ピエール、クロード、ドミニクとダイアンはああでもない、こうでもないという大口の議論をしている。レミはルイーズと結婚しているが、浮気の限りを尽くしている。ピエールは結婚していたが、自由がほしくて離婚し、今はダニエールと付き合っている。クロードはゲイである。ダイアンが他の4人が順調にキャリアを伸ばしているのに、自分は離婚や子育てに時間を潰して大したキャリアを持っていないのを嘆くと、ルイーズは子供を持ったということが一番の人生の成功だと慰める。ルイーズは調子に乗って、子供を持たないドミニクやピエールやクロードはキャリアで成功していても、何か大切なものが欠けていると言い出し、その3人特にドミニクをいらいらさせる。

ディナーもたけなわになり、メンバーはドミニクのインタビューの続きを聴く。彼女はマルクス・レーニン主義が崩壊した後、人々を導く原理はなく、原理を失った社会は崩れていくのみだと続ける。すると、インテリの声高い議論に参加していなかったルイーズが無邪気に「どうして生きている今が悪いと言えるの。案外私たちは科学が発達した素晴らしい、新しい時代に生きているのかもよ」と堂々と反論をした。ドミニクはそれを自分の学問に対する侮蔑と、キャリアを優先して寂しい人生を送っているという自分の個人攻撃と受け取って、自分はルイーズの夫のレミともピエールとも関係があったということを暴露してしまう。おまけにレミが、上司である自分のような知的で権力のある女性と関係を持つのに興奮したという残酷なおまけ付で。ルイーズはダイアンも夫のレミと2年間の関係があったということを知ってショックを受けてしまう。

この映画の99.9%は会話で、その95%は各々の性生活の冒険の自慢話であるので、映画のフォーカスがそちらに行きがちだが、この映画のフォーカスはちょっと違うところにあるような気がする。一言でいえば、それまでの価値観が崩れた人間の迷いである。その価値観とは何かというと、ケベックの社会で大きな影響力を持っていたカトリック教会である。もう一つは50年代60年代の青年たちを魅了したマルクス・レーニン主義である。歴史を専攻した者にとってマルクス主義は大きな光だったと思う。それが80年代になって崩れてしまったのだ。その結果が80年代に蔓延する個人レベルでの幸福の追求や自己愛、例えば結婚よりも自由恋愛を選び、家族や子供は自分の自由を奪う厄介な存在だという傾向になるとドミニクは説いている。またそう言った開放感が異人種間の男女の接触やゲイに対する容認という80年代の新しい文化を作り出したのかもしれない。

このアイディアは1986年の時点では非常に新鮮だったらしく、この映画は高い評価を得る。しかし監督のドゥニ・アルカンは時代と共に成長しているらしく、17年後にこのテーマの続編『みなさん、さようなら』を作っている。その映画に関してはまた別の記事で語ってみようと思う。

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[映画]  ミッシング Missing (1982年)

この映画は1973年、チリの軍事クーデター直後の混乱の中で失踪したアメリカ人ジャーナリスト チャールズ・ホーマンの行方を追う父と妻が、チャールズはクーデターの背後にあったCIAの係わりを知ったために処刑されたのではないかという結論に至るまでの数日間の首都サンチエゴでの捜索を描いている。

チャールズ・ホーマンは実在の人物で、1942年生まれなので、1946年生まれのクリントン大統領やブッシュ大統領(息子)とほぼ同世代である。この世代はアメリカの団塊の世代として、ベトナム反戦運動やヒッピー運動に深く影響を受けた世代である。映画では、チャールズ・ホーマンは好奇心は強いがちょっと軽はずみな児童文学作家として描かれているが、実際のチャールズ・ホーマンはハーバード大学を卒業後、しっかりとジャーナリズムの訓練を受けたライターであった。この映画はトム・ホーサーがチャールズ・ホーマンの死を調査して1978年に出版した本を基にしている。

米ソ対立による世界的冷戦の中、チリでは長い間、伝統的保守層や軍部の右翼と人民戦線系の左翼が対立を続け、社会不安が続いていた。軍部の中でもチリ陸軍司令官のレネ・シュナイダーは進歩派であり議会制度による民主主義を掲げていたが、1970年にそのシュナイダーは反シュナイダー派の軍部により暗殺された。彼の暗殺によって国民の軍部に対する怒りが爆発し、左翼と右翼の間で浮動票となっていた人々が左翼に投票することを選んだので、人民戦線系サルバドール・アジェンデが大統領に当選し、チリ史上初の自由選挙による社会党政権が成立した。

アメリカはこの社会党政権に大きな脅威を抱き、CIAもアジェンデ政権を打倒する姿勢を見せ、合衆国などの西側諸国は経済封鎖を発動、彼らはチリ国内の反共的である富裕層の反政府ストライキも援助した。またアジェンデ政権の急激な農地改革や国営化政策により、インフレが進行し、物資が困窮し、社会は混乱した。しかしアジェンデ政権はこれらの混乱は反対派の陰謀であると説き国民の団結を図ることに成功し、1973年の総選挙で、人民連合は更に得票率を伸ばした。

1973年9月11日に、アウグスト・ピノチェト将軍が陸海空軍と警察軍を率いて大統領官邸を襲撃した。アジェンデ大統領はクーデター軍と大統領警備隊の間で砲弾が飛び交う中、最後のラジオ演説を行なった後、自殺した。これがチリ・クーデターである。チリ・クーデターの結果、クーデターの首謀者であったピノチェト将軍が大統領に就任し、チリはピノチェト大統領による軍事独裁下に置かれることになった。その後16年の長きに亘る軍事政権下で、数千人から数万人の反体制派の市民が投獄・処刑された。

1973年 クーデターが起こった時、チャールズ・ホーマンはたまたま美しい保養地のビニャ・デル・マールに滞在していたが、そこでは実は密かにクーデターの計画がなされていた。ビニャ・デル・マールでチャールズ・ホーマンが誰とコンタクトをし、何を知ったのかは不明だが、9月17日、彼は突然クーデター派のチリ軍部に逮捕され、首都サンチアゴの国立競技場に拉致された。クーデター後、競技場は臨時の刑務所として使用されていたのだ。彼はそこで拷問を受け、処刑されたと伝えられる。アメリカ人なのに彼が反クーデターの犯罪者として処刑されるには、CIAの隠れた同意があったはずだというのが、この映画の主張である。彼の死体を競技場の壁に埋めたと主張するチリ当局に対して、ホーマンの家族は死体引渡しを求めた。実際に死体が米国の妻のもとに届けられたのは6ヶ月後で、その時は死体の腐敗が激しく、本人と判断するのが不可能だったいう。ホーマンの妻は後にDNA鑑定を依頼し、その死体がホーマンのものではなかったことを知った。

ホワイトハウスは、社会主義の脅威から南米を守る砦としてピノチェト将軍を支持していたが、1989年の ベルリンの壁の崩壊冷戦が終わった時点で、反人権的独裁国家を支持する理由がもうないと判断し、最終的には米国は1990年にピノチェトの軍政を切り捨てる方向に移った。

チャールズ・ホーマンの誘拐と処刑はニクソンが大統領であった時に起こっている。その後ホワイトハウスは一貫して、CIAのチリクーデター介入を否定してきたが、クリントン政権は隠された秘密公文書を調査し、1999年に初めてCIAがチリのクーデタに参与していたことを認め、証拠文書を公開した。チャールズ・ホーマンの死についてもクリントン下の政府関係者は「非常に残念なことだ」と述べ、駐チリアメリカ大使館がクーデター後の大混乱の中、アメリカ市民を守ろうと全力を尽くしたのは事実だが、ホーマンに関してはその必死の努力が及ばなかった可能性があることを示唆している。

チャールズ・ホーマンの未亡人、ジョイス・ホーマンは2001年にチリの法廷にアウグスト・ピノチェトに対して夫の殺人の罪で訴訟を起こした。その裁判の調査過程で、チャールズ・ホーマンはチリの民主制を追及し、軍部の反対派に暗殺された進歩派軍人レネ・シュナイダーの生涯を調査していたことがわかり、レネ・シュナイダーを暗殺したアウグスト・ピノチェト派にそれを嫌われ殺害された可能性が示唆された。2011年にチリ政府は退役海軍軍人レイ・デイビスをチャールズ・ホーマンに対する殺人罪の判決を下した。

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