[映画]  バベットの晩餐会 Babettes gæstebud、 Babette’s Feast(1987年)、ラヴェンダーの咲く庭で Ladies in Lavender (2004年)

最近立て続けに非常によく似た映画を二本観た。『バベットの晩餐会』と『ラヴェンダーの咲く庭で』である。『バベットの晩餐会』は1871年のパリーコミューン事件前後の50年に渡る時期を描くし、映画『ラヴェンダーの咲く庭で』は1936年の英国を舞台にしており、『バベットの晩餐会』より約20年後に作られているので、映画として大成功だった『バベットの晩餐会』の物まねなのだろうか、とも思ったが、この二つの映画が描く時代の精髄とか、映画の精神の色彩があまりにも似ている。二つの映画から受ける印象は20世紀初頭の北欧の空気なのである。

調べてみると『バベットの晩餐会』の原作者カレン・ブリクセンは1885年に生まれて1962年に没しており、『ラヴェンダーの咲く庭で』の原作者ウィリアム・ジョン・ロックは1863年生まれで1930年に没している。同世代とは言わないが、同時代に生きている。道理で、その感性が似ているはずだ。『ラヴェンダーの咲く庭で』は原作の時代を20年間新しくしているが、実際の原作は1916年に出版されており、『バベットの晩餐会』の原作よりも若干早い時期に出版されている。つまりこの映画が表現している時代の空気は、第一次世界大戦前のまだ帝国主義が健在なヨーロッパで、その経済的な繁栄は楽しみつつも、北欧の田舎で政治的な荒波には揉まれておらず、隣人の共同体がしっかりして、人々が善意でお互いを助け合っていた、よき時代のヨーロッパの心なのである。カレン・ブリクセンもウィリアム・ジョン・ロックもそういった時代は近い未来に消え去るだろうという予感は感じていたのであろう。何か儚さの予感のようなものを感じさせる。原作は読んでいないので、この二つの映画を比較して、その相似点と相違点を書いてみたい。

まず映画として似ているのは、両方とも父親の死後独身で同じ家に暮らしている仲のいい老姉妹の物語である。二人が暮らしているのは北海に沿った海辺の美しい寒村である。『バベットの晩餐会』ではデンマークのユトランド半島、『ラヴェンダーの咲く庭で』は英国という設定であるが、映画の風景は全くそっくりである。女中が買い物籠をさげて丘を下りて、漁師が浜辺に乗りつけた小船に魚を買いに行くという毎日も似ている。毎日判で押したような、父を懐かしみ日々の無事を感謝していく姉妹の生活が、漂流者のような芸術的な異邦人(『バベットの晩餐会』ではパリの一流レストランの女シェフだったバベット、『ラヴェンダーの咲く庭で』ではミステリアスなポーランド人の天才バイオリニストのアンドレー)の出現で生活が一気に活気つき、姉妹は半ば忘れかけていた自分の若かりし頃を振り返るというのも似たテーマである。

作者として似ているのは、カレン・ブリクセンもウィリアム・ジョン・ロックもアフリカで長い間生活していたということだ。ウィリアム・ジョン・ロックは英国人だが2歳の時にトリニダード・トバゴに移住し、1881年にケンブリッジ大学に入学するために英国に帰国した。一方カレン・ブリクセンはデンマーク人であるが、1913年に父方の親戚のスウェーデン貴族のブロア・ブリクセンと結婚し、翌年ケニアに移住した。夫婦でコーヒー農園を経営するが、まもなく結婚生活が破綻して離婚し、1931年にデンマークに帰国した。アフリカ在住時代の思い出を綴った『アフリカの日々(Out of Africa)』が 『愛と哀しみの果て』として映画化され、アカデミー作品賞を受賞した。『バベットの晩餐会』はアカデミー賞外国語映画賞を受賞している。

それでは相違点は何か。原作を読んでいないので、映画化されたものだけに関していえば二人の姉妹の過去の振り返り方の差である。『バベットの晩餐会』では、姉妹の心には過去に対する後悔は全くない。美しい姉妹だから思いを寄せる男性はたくさんいたが、独身を保ったのは村で教会を立ち上げた父を助けるためであり、年老いて信者が老人ばかりになり傾きかかった教会を死ぬまで維持しようと心に決めている。何も欲はないし自分から求めるものはないが、人生の果てで自分に思いを寄せてくれた男たちの暖かい魂が姉妹を守ってくれているかのようだ。パリ・コミューンで家族全員を虐殺されて身寄りのなくなったバベットをパリからデンマークに送ってくれたのも、姉妹に想いを寄せた男なのである。バベットも姉妹のもとで暮せることを感謝して、ずっと姉妹と人生を共にしようとする。信じる心があり欲のない人間が得ることのできる静かな幸せを『バベットの晩餐会』は描いている。

『ラヴェンダーの咲く庭で』は逆に漂流した若くて魅力的な男性によって、姉妹のの妹の方の老女が自分の中に隠されていた異性への欲望に気づく物語である。若者は漂流して死にかかった自分を助けてくれた老女に感謝の気持ちを持ち、母を慕うのに近い気持ちで老女を慕うのであるが、やはり恋愛感情を持つのは自分の年に近い若い女性であるし、自分のキャリアに対する野心もあり、片田舎にくすぶっていることはできない。妹は「あの人が手に入らないなんて、人生不公平!!と嘆く。他人から見たら滑稽でグロテスクに見える老女の感情も、老女からみれば真剣で尊い感情なのだ。

映画としては『バベットの晩餐会』の方がはるかに優れており、『バベットの晩餐会』は多分映画史に残るだろう。悔やまない、妬まない、受け入れる、感謝するという、幸せを得るための心構え、言うのは容易いがなかなか身についてくれない人生態度を、年老いてなお美しい女優たちが示してくれる。

『ラヴェンダーの咲く庭で』で老姉妹を演じているのがジュディ・デンチとマギー・スミスである。アカデミー賞受賞者で英国女王から女爵士を授けられた彼女たちは勿論大女優である。しかし『ラヴェンダーの咲く庭で』の姉妹たちは原作ではずっと若く、原作の精髄は、40代のもはや若いとはいえないが、まだ十分女性である独身の女性が、若い男性に恋心を触発され、自分の失われた青春時代を渇望する物語である。監督のチャールズ・ダンスも、40代の女性の心の翳りと発揚を70代のジュディ・デンチとマギー・スミスに演じさせることの懸念はあったが、「まあ、彼女たちは女神に近い名優だからできるだろう」と思って二人をキャストしたという。これは演技というものを冒涜しているアプローチだと思う。極端にいえば役柄は黒木瞳か松島菜々子の年代だけど、まあ神に近い名優だから70代の杉村春子や山田五十鈴が黒木瞳を演じられるだろう、と言っているようなものである。

70代の彼女たちが40代を演じるのはちょっと無理だから、映画は結局老女の物語になってしまっている。映画を見ている人が、主人公は実は40代だと理解するのはまず不可能だろう。というわけで、映画は、70代の女性が嫉妬混じりに20代の男性を家の中に拘束し、同年代の女性との交際を妨げ、いつまでも繋ぎとめておこうと企む(というか淡い希望を持つ)というものになっている。ジュディ・デンチとマギー・スミスへの尊敬が、結果としてこんな映画になってしまったのは皮肉である。

原作は読んだことがないが、私としての『ラヴェンダーの咲く庭で』の主人公のイメージは、何らかの理由で独身である、若いともいえないが老境でもない40代の女性が、自分の子供ほど若くないが、かといって自分の相手としても社会的には受け入れられない年下の男性へ惹かれていく想いを抑制する「つかの間の緊張の美」である。彼女が独身であったのは、自分のふさわしい世代の男性が戦死して数が少なくなっているとか、出会いの機会がなかったとか何か社会的な理由があるような気がする。何歳になっても人を想う気持ちがあってもいいが、40代女性を70代のの女優が演じることにより、原作の精神が変わってしまったように想われる。つまり、この映画の原作は時代背景こそ似ていても全く異なった女性の心を描いたのだが、『ラヴェンダーの咲く庭で』の二人の女優の名演のために映画が結果として似てしまったということらしい。

English→

[映画] シリアの花嫁 The Syrian Bride (2004年)

『シリアの花嫁』はイスラエルが中心となり製作され、イスラエル人のエラン・リキルが脚本と監督を、パレスチナ人のスハ・アラフが脚本を担当し、俳優たちはパレスチナ系のイスラエル人を多用している。リキル監督は、イスラエル人としての視点から、国際的な映画聴衆を念頭に置いてこの映画を作っているように思われる。換言すれば、この映画はタイトルに『シリア』という言葉こそあれ、イスラエル人の想いを世界に伝えたいと思って作られた映画なのである。

この映画の舞台となっているのは、イスラエル、レバノン、ヨルダンおよびシリアの国境が接するゴラン高原の中のドゥルーズ派信徒の村である。イスラム教には大きく分けてシーア派とスンニー派の対立がある。スンニー派が多数派であり、シーア派の信者はイスラム教徒全体の10%から20%であると推定されている。シーア派はその発生以来、原則として多数派のスンニー派に対し少数派の立場にあり、多数派の攻撃から身を守るためシーア派の信徒は山岳地帯など外敵が容易に侵入できない地域に集団を形成することが多かった。シーア派が国内で多数派を維持している国はイランだけであるが、イラク、レバノン、イエメン、パキスタンなどでは比較的シーア派の信者が多いといわれている。時間の経緯と共にシーア派は更に細分化が進み、ドゥルーズ派はシーア派の一分派から更に分派したものだが、教義からみてシーア派とも異なることが多く、イスラム第三の宗派と呼ばれることもあるし、多くのイスラム教徒からドゥルーズ派はイスラムではないと言われることもある。

この地は政治的にも複雑である。1967年に起こった第三次中東戦争(六日戦争)はイスラエルとエジプト・シリア・ヨルダン・イラクの間に起こった戦争で、奇襲攻撃に成功したイスラエルは短期間のうちにヨルダン領のヨルダン川西岸地区、エジプト領のガザ地区とシナイ半島、シリア領のゴラン高原を占領して勝利した。ゴラン高原は1981年以降は民政化に置かれ、イスラエルはこの地のシリア人でイスラエル市民権を望む者には市民権を与えることになった。だが住民のシリアへの帰属意識が強いため、イスラエル市民権の申請をしない人々が多く、その結果彼らは無国籍となる。結婚などの理由でゴラン高原からシリアに出た人間は、一旦国境を越えると自動的にシリア国籍が確定するため、今度はイスラエル占領下にある自分の村へ帰れなくなるのである。国際世論はイスラエルのゴラン高原占拠を認めていないが、イスラエルはゴラン高原が戦略的に重要であり、またそこにあるガラリア湖が水源として貴重なのでゴラン高原を放棄しようとはしない。

六日戦争が急に起こりあっという間にイスラエルの勝利で集結してしまったので、ゴラン高原の住民の中には家族と離れ離れになってしまった者もいるだろう。この映画では、父ハメッドは親シリアの活動家であり、イスラエルの刑務所から仮釈放されたばかりという設定。三人いる息子の一人はシリア在住で、ゴラン高原に帰ることはできないので、話をしたい時は、軍事境界線をはさんだ「叫びの丘」と呼ばれる至近距離で拡声器を通じて家族と交信する。

ハメッドの長男はロシア留学中に知り合った女医と結婚したという理由で、村のドゥルーズ派の長老たちから宗教的に追放され、ハメッドからも勘当されている。長女はハメッドが選んだ男と結婚したが保守的なその夫から心が離れており、自立を求めてイスラエルの大学で学ぼうという意思を固めている。彼らの長女は親イスラエル派の家族の息子と恋仲である。次女は親戚で今シリアで人気のある俳優と結婚が決まり、シリアに出国の予定だが、一旦国境線を出てしまうと二度と家族のもとに戻ってこれないので、この結婚に迷いを感じている。次男は無国籍というパスポートを使用して、イタリアやフランスを飛び回ってビジネスをしている。次女やもう一人の息子と違い、交通の自由がある。長男も妹の結婚式のため一時ロシアから戻ってきたわけだから、交通の自由が認められているようだ。彼は結婚したので、ロシアのパスポートを持っているのかもしれないが、つまり一度国境を越えたら戻れないというのは、シリア国境に限られているようだ。

この映画は次女の結婚式が行われた一日の顛末を描く、劇中のテレビ報道では現アサド大統領の就任を伝えているので、物語は西暦2000年の出来事だということがわかる。映画の中でシリア人たちはアサド大統領の就任に興奮し、国民はアサド大統領は父や兄に比べたら、教育を受けた心の穏やかな人間だという期待を持って喜んだように描かれている。誰もその時点でアサド大統領が後に米国のメディアで「世界最悪の独裁者」ランキングの中の一人に選ばれるようになるとは思いもしなかっただろう。

この映画は家族愛をやるせなく描いた佳品である。しかしこの映画で一番印象に残ったのは、イスラエル人の映画に対する想いである。この映画ではイスラエルのゴラン高原占領の過去には全く触れず、現在のゴラン半島に住む人々の暖かい人間性を人種を超えて描く。登場するイスラエル人は善人でも悪人でもなく、自分の責任を淡々と果たす、ごく普通の等身大の人間である。国際世論で非難されることの多いイスラエルではあるが、そこに住むと決意した者にとっては、国際世論でイスラエルが肯定的に見られ、自分たちの支持が得られるように努力したいというのは悲願であろう。映画はそんなイスラエル人にとって、イスラエルの現状や自分たちの感情や考えを世界に伝える最善の媒体である。『戦場でワルツを』を製作したアリ・フォルマン監督も「イスラエルでは完全な表現の自由がある。何を言っても許されるのだ」と述べている。イスラエルの政府も映画人の活動を支援しているようだ。またユダヤ系のアメリカ人が多く活動しているハリウッドとの技術交流もあるだろう。イスラエルの映画活動は盛んであり、多くの秀作を生んでいる。何のかんの言っても、映画は国際的に非難されがちなイスラエル人が声をあげて自己主張でき影響を与えることができる数少ない機会なのである。

長女を演じた美貌の女優ヒアム・アッバスはイスラエル出身のパレスチナ人で、主にヨーロッパで活躍している。彼女はインタビューに答えて、「過去に何があったのかに執着しても何もうまれない。これからどうして生きていくかが大切なこと」とはっきり述べている。花嫁の父ハメッドを演じたパレスチナ人マクラム・J・クーリも思慮を重ねた結果イスラエル国籍を取得している。イスラエルは彼を尊敬し、クーリはイスラエルを代表する俳優として活躍している。イスラエルは自分を選んでくれた人に報いたいのである。

過去の歴史にこだわるのも一つの行き方であるが、前向きに中東の平和を考えるのもまた一つの行き方である。イスラエル国民は一人でも自分たちの立場を理解してくれる人が増えることを心から願っているのだろう。イスラエルの活発な映画界の背景にはそんな希望があると思う。

English→

[映画]  ヒトラー 〜最期の12日間〜 Der Untergang Downfall (2004年)

この映画は、ヒトラーの個人秘書として、ドイツ・ベルリンの総統官邸の地下壕で彼と生活を共にし、彼が自決するまで身近に仕え、彼の遺書をタイプしその死を目撃したトラウドゥル・ユンゲの回顧録を基にして作られた。

ヒトラーは1930年からずっと二人の秘書を使用していたが、1937年あたりから多忙になったので、ゲルダ・クリスティアンという女性を第三秘書として採用した。この女性は大変な美貌の持ち主だったという。クリスティアンは国防軍参謀本部のエックハルト・クリスティアン空軍少佐と結婚するために1942年から長期休暇を取ったので、彼女の代わりに採用されたのが、トラウドゥル・ユンゲであった。映画では美貌の女優がユンゲを演じ、ヒトラーは候補者がたくさんいる中で人目で彼女を気に入って採用したように描かれている。彼女はナチス生誕の地でありナチス活動の本拠地であったミュンヘンの出身だったので、それも一つの理由だったのかもしれない。ベルリンは共産主義に対する共感の強い地域で、歴史的にナチスが選挙で苦戦していた地域であった。クリスティアンが結婚休暇から復帰した後もユンゲはヒトラーの秘書として留まり、忠実なヒトラーの側近となった。

アドルフ・ヒトラーが総統官邸の中庭に地下壕を設置させたのは1935年のことである。その後1943年には、戦況が著しく悪化したので、防御機能を高めた新たな総統地下壕が建造され、二つの地下壕は階段で接続された。地下壕は攻撃にも耐えられるよう厚さ4メートルものコンクリートによって造られ、約30の部屋に仕切られていた。大戦末期の1945年1月からヒトラーはここでの生活を始めた。ヒトラーと愛人のエヴァ・ブラウン、ナチスナンバー2のゲッベルスとその家族、有力な親衛隊幹部、そして秘書と料理人がここに居住した。ヒトラーはベルリン市街戦末期の1945年4月30日にここで自殺した。

ヒトラーの死後、彼女は逃亡中連合軍に逮捕されたが、深く調査されることもなく、すぐ釈放されたという。その後も「私は何も知らなかった」という主張を続けているので、彼女の回想記から歴史上驚くべき真実は期待できないだろう。また、一番年少の秘書として知りえた政治的情報などは大したことではないだろう。もし彼女の視点で映画を作るなら「ヒトラーは優しい上司」であるし、ヒトラーのお気に入りの彼女をちやほやした将校たちは「素敵な叔父様たち」になるだろうし、安全な地下壕でワインを飲み、美味しい食事をとり、朝寝坊して夕方から映画を観る生活は捨てがたい、という映画になってしまうかもしれない。

ヒトラーが戦局の悪化に伴い4人の秘書に退去を命じた時も年配の二人の秘書は逃亡したが、ユンゲとクリスティアンは「最後まで総統と生死を共にする」といい、その命令を拒んでいる。ユンゲは後に「なぜそのような決断をしたのかわからない」と述べているが、やはり死の実感のない若さで、「いざとなれば死んでみせる」といった若気の至りと言うか純粋さが50%、そしてまさかこの全治全能で今まで自分に心地よい環境を与えて自分を守ってくれた男が負けるわけはないという若さゆえの愚かさが50%であったのだろう。保護者も友人もいない戦火のベルリンに一人放り出されるより、慣れ親しんで自分を守ってくれる(と思っている)人々に囲まれていた方がずっと安全だと感じられたのであろう。

ナチスの真実を知らず、外で苦しんでいた市民の生活も知らなかった彼女の視線を映画として生かすとしたら、彼女なりの若い女性のカンのよさであろう。秘書として誰にも愛想よく振舞っていても、彼女は誰が自分の上司のヒトラーに忠誠で誰が裏切るだろうということを上目遣いにじっと観察している。この映画は40%は彼女の視点に立って、絶対権力が倒れ命の危険にさらされる人間がどう行動するかを描いている。それだけでは不十分なので当時のナチスの人物像を歴史に基づいて付け加えたのが30%、それだけでもまだ十分ではないので、戦争に苦しんでいる市民の生活も加えている。だからこの映画に主人公はいないし、語り手の目線もあちこちにぶれる。ユンゲは顔を出すだけで、重要な役割は果たさない。映画の三分の二は自分の側近に失望したヒトラーが怒鳴ることに終始するから、ヒトラーが主人公なのかと思うとそうではない。この映画の本当の深さはヒトラーの死後から始まる。権威が喪失した後、人はどうするかというのを短い期間で生き生きと描いているのだ。ヒトラーに殉死した者もいる。逃亡して連合軍に逮捕され裁判で処刑された者もいる。逃亡を企てて国家に対する裏切り者として同僚に処刑されたものもいる。また共産主義であるという理由でソ連軍が入ってくる前に一般市民を見せしめに処刑したものもいる。将校はヒトラーが厳禁した喫煙をおおっぴらに始め、残り少ないワインを飲み干して酩酊した。逃亡を企てた者は南部のアメリカ軍が占拠していた地域を目指して逃げた。彼らにとっての一番の恐怖はソ連軍に逮捕されることであった。

ナチスについての詳しい知識の全くなかった私にとってこの映画は情報の宝庫であったが、その中でも一番印象に残ったのは、「ああ、やはりヒトラーは自決したのだな」ということであった。これは当たり前のことではあるが、やはり巷には『義経・ジンギスカン』都市伝説というものがある。ヒトラーは自殺せず、誰かが身代わりになり、アイデンティティーがわからないように、死体をガソリンで焼いた、ヒトラーは秘密の抜け道からこっそり抜け出したと。あんな強欲な男が簡単に死を選ぶわけはないと。

しかしヒトラーが自分の死体を焼いてもらいたかったのは、死を偽造するためではなく、自分の死後自分の体が広場に晒されたり(ヒトラーはムッソリーニがパルチザンによって無残に処刑され広場に晒されたことを知っていた)自分の服が博物館に展示されるのを防ぐためであるとこの映画は語っている。彼にとっては『誇り』が一番大切だったのである。自分の恥が晒されるのが一番怖いことだったのである。側近の一部が「国民のために、手遅れになる前に無条件降伏をするべきだ」と提言すると、それは恥になるので絶対に許せない。提言をした人間は危うくのところで射殺されそうになる。或いはそう提言して実際に処刑された人もいるのではないかと思わせるような迫力であった。彼は『市民』とか『国民のため』という観念を失っていた。映画では「市民、特に女性と子供を守らなければ」と提案する将校に「本土決戦になっている今、市民という概念は存在しない」と言い切っているのである。そこには「自分はどうなってもいいから、国民だけは助けてあげたい」とか「自分の間違いに対する裁きは受けるが、自分の命令に従った国民は罰しないでほしい」という心はない。どのようにして、自分の『名誉』を守って死ぬかということで頭が一杯なのである。

確かに逃亡用の地下道はあったらしい。ヒトラーの最後の命令の死体消却を完了したオットー・ギュンシェ親衛隊少佐はヴィルヘルム・モーンケ大佐に従い、ユンゲとクリスティアンを連れて地下道を通って逃亡を企てたが結局逃亡しきれなかった。クリスティアンは逃走を諦め、ギュンシェ少佐とモーンケ大佐と行動を共にする。映画は彼らがソ連軍に逮捕されるところは描かず、ユンゲが自転車に乗ってミュンヘンに脱走するシーンで映画は終わる。

映画ではクリスティアンは小さい役しか与えられていないし、彼女に対する情報はゼロに近い。クリスティアンはその後苦労してアメリカ占領地域に逃げ出すのだが、ギュンシェ少佐とモーンケ大佐はソ連軍に連行され、それぞれ東ドイツとソ連で10年間服役している。クリスティアンはギュンシェ少佐のことを『生涯の親友』と呼んでいたそうだ。彼女は戦争後まもなく夫と離婚し、その10年後に釈放されたギュンシェ少佐との再会を果たしている。

English→

[映画] コーラス The Chorus Les choristes (2004年)

世界的指揮者ピエール・モランジュはニューヨーク公演中に母が死んだという知らせを受け、急遽フランスに帰国する。母の葬儀の後、ペピノと言う男が訪ねてくる。ペピノはピエールと同じ学校に行き、そこでクレマン・マチューという教師に教えを受けたという設定が知らされたあと、映画は50年前に戻る。

第二次世界大戦後まもない1949年、クレマン・マチューは戦争孤児や問題児を集めたFond De L’Étang(池の底)と呼ばれる寄宿舎に舎監として赴任する。そこでは厳格な体罰で子供を抑えようという方針の校長のもとで、子供と教師の間で反抗と厳罰が繰り返されており、子供は将来の目的や夢を伸ばすことも教えられていなかった。音楽家であったマチューはコーラスを通じて、子供と心を通わせ、その中で子供に規律の態度と音楽の楽しさを教えて行った。マチューは、問題児として見られているピエールが、奇跡のような「天使の歌声」を持っていることに気が付き彼の才能を伸ばそうとする。

校長は生徒に対する愛は全くなく、孤児院を経営することで名声や叙勲を狙っている男だった。大量の金が学校の金庫からなくなっているのを発見した彼は、一番の不良少年であるモンダンが盗んだのだと思い、拷問に近い取調べをした後、罪を認めない彼を放校にしてしまう。後にモンダンは復讐のために寄宿舎に放火するが、その時たまたまマチューが全生徒を連れて遠足に行っていたので死者はいなかった。しかし生徒を建物以外に連れ出すのは校則違反だとし、校長はマチューを罷免してしまい、生徒たちにも彼に別れを言うことを許さなかった。

マチューは結局1人寂しくその寄宿舎を去って行き、生徒も彼がその後どうなったのかは知る由もなかったのに、何故ペピノがその後のマチューの人生を知っていたかという理由が、映画の最後の最後で明かされる。非常に感動的な終幕であった。

不良少年が音楽の力でそうも簡単に更生するなんてあり得るかと思われる方もいるかもしれないが、この映画に出てくるのは心の狂った悪童たちではない。この寄宿舎にいるのは、大部分は戦争で親を失った孤児たちか、或いは、夫を戦争で失い終日働かなければならない貧しい母を持つ子供たちである。ここにいる子供達は生きるために店からパンを盗んだこともあるかもしれないが、根本は心寂しく、生き方の方向を教えられていない子供たちである。いたずらもするが、それは自分の軽はずみないたずらが結果としてどれだけ恐ろしいものになるかを両親からきちんと教えられていないからである。いたずらの後で、ひどい体罰を校長から受け、彼らは段々心を閉ざし、ますます悪い行動に出てしまう。大金を金庫から盗んだのはモンダンではなかった。その少年はふと空気船が買いたいと思い立ちお金を盗んでしまうのだが、そのお金をただ自分の秘密の隠し場所に置いたあと、そのお金をどうするということもないのである。

またマチューが接していたのは、変声期前の時期の子供たちである。天使の声のようなボーイソプラノを生み出す本当に短期間の奇跡的な期間にマチューから歌う喜びを教えられた彼らはまだ幼く、父性の愛を求めており、反抗するといっても知れたもので、マチューの慈愛に素直に応えられる年代であった。

ピエールはその才能を発見され、奨学金で高名な音楽学院に進学し、世界的な指揮者となった。彼はマチューのことや、寄宿舎のことは遠い昔のこととして忘れていたが、ペピノからクラス写真を見せられてそれらを懐かしく思い出す。ピエールの人生を見ていると、成長の過程で、特に人間を形成している若い時代によき師に出会うことがどんなに大切なのかということを思い知らされる。マチューとピエールが接した時期は比較的短時間で、マチューはピエールを特別扱いしたわけではない。しかしマチューに出会うことがなければ、ピエールは決して世界的な音楽家にはなれず、下手をすれば刑務所に入るような人生を送っていたのかもしれないのだ。大人になってから自分の小学校の先生に再会するということは、滅多にないだろう。子育てやキャリアの追求に多忙な時に、自分の小学校の先生のことなどは完全に忘れているが、自分の親が死んで、人生は無限ではないとわかり始めた年齢の頃、ふと昔の先生のことを考え、名前は忘れているかもしれないが、その顔や優しくしてもらった思い出を心に浮かべることは案外多いのではないだろうか。

この映画はあの『アメリ』の歴史的なヒットを抜き、フランス映画史でナンバーワンの大ヒットになり、フランス人の7人に1人がこの映画を見たという。製作はフランスの国際的名優(そして美男俳優である)ジャック・ペラン、監督は彼の甥のクリストフ・バラティエ、そして子供時代の可愛らしいペピノを演じたのは、ジャック・ペランの三男マクサンス・ペランである。ジャック・ペランは老境に達したピエールも演じている。ジャック・ペランはあの不朽の名作 ‎『Z』の製作も行い、それでアカデミー賞を獲得している。俳優として成功するのも難しいのに、歴史に残る『Z』と『コーラス』という映画を製作したジャック・ペラン、一体どういう星の下に生まれてきたのだろうか。

English→