[人] ムッソリーニ首相 (1883-1945)

mussoliniベニート・ムッソリーニは、社会主義と無政府主義と共和主義を信じた父を持ち、彼自身も、王室打倒とイタリア統一を成功させたガリバルディを賞賛し、スイスに移ったのちは、スイスに亡命していたレーニンと懇意になり、レーニンからドイツ語とフランス語を学び、お互いを尊敬し合う関係を築くようになった。彼は、若いころはカール・マルクスの思想に心酔し階級闘争を肯定していた。スイスから帰国後はイタリア社会党に入党したが、彼は第一次大戦に参戦を主張し、中立を掲げる社会党から除名させれた。レーニンは、イタリア社会党が優秀で将来性のあるムッソリーニを除名したことに大変失望したという。

第一次世界大戦に志願し戦争から戻ったムッソリーニは、1921年には英国からの支援を受けファシスト党を形成し、社会党や共産党との武力衝突を繰り返した。英国やアメリカも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称え、1920年代前半のアメリカの新聞も彼を好意的に報道していた。ウィンストン・チャーチルも最初はムッソリーニのことを「偉大な指導者の一人」と高く評価していた。しかしアーネスト・ヘミングウェイは比較的初期からムッソリーニに懸念を抱いていた。アドルフ・ヒトラーとの個人的な感情は、ヒトラーは最初はムッソリーニを尊敬していたが、ムッソリーニはヒトラーを嫌っていたと言われる。その後の独伊関係の進展により、ムッソリーニとヒトラーの関係は次第に良好となったが、イタリアの第二次世界大戦の中での劣勢が明らかになるとムッソリーニに対するヒトラーの態度は次第に冷淡になって行った。

ムッソリーニは、イタリア語に加えて英独仏語に堪能であったほか、哲学から芸術にまで通じた教養人であったと言われている。第二次世界大戦でのイタリア敗戦後、彼は中立国のスイスに向かい、そこからさらにもう一つの中立国で、フランコ将軍が統治するヨーロッパで唯一ファシスト政権が継続しているスペインへ向かう計画であったとされている。しかし、スイスへ逃亡途中、パルチザンに見つかり、愛人のクラレッタペタッチとともに銃殺刑に処され、彼の遺体はミラノのロレート広場に晒された。その遺体は広場の屋根にロープで吊り下げられたが、これはファシスト政権が政治犯に行っていた街頭での絞首刑と同じスタイルで、ファシスト政権に対するパルチザンからの報復の意味合いがあった。政権期を通じて私腹を肥やすことに興味を持たなかったムッソリーニは、死後に殆ど資産を残さなかったとも言われている。イタリア国内でのムッソリーニの死後の評価はドイツにおけるヒトラーほど憎まれておらず、幾分に悪いイメージもあるものの、マフィアを徹底して弾圧したり、積極的な雇用政策を進めた事から比較的に好印象を持たれているということだ。

ムッソリーニは自分の父親の愛人であるアナ・グイーディの娘であるラケーレ・グイーディと長い交際期間があり、1910年にラケーレとの間に娘のエッダをもうけた。1915年にはラケーレとの最初の結婚式を市庁舎で行ったが、ムッソリーニが政治家として有名になった後、1925年に彼女との2度目の結婚式をカトリック式で挙げた。

しかし2005年に出版されたマルコ・ゼーニの著作によれば、ムッソリーニは1909年にジャーナリストの職を得てトレントに移り、そのトレント滞在期に同地出身であったイーダ ・ダルセルと知り合い、1914年に彼女と結婚したという可能性が発見された。生活に困っていたムッソリーニは、社会主義者の理想に燃えるムッソリーニを支持するイーダからの財政的支援を得ており、1915年にイーダとの間に長男アルビーノをもうけたらしい。この結婚がなぜ2005年まで公式に知られていなかったかというと、ムッソリーニ政権はイーダ ・ダルセルとムッソリーニに関する公式文書をすべて破壊し、二人の間の往復書簡も可能な限り消滅させたからであると言われている。イーダもアルビーノも精神病院の中で死亡し、特に26歳という若さで死んだアルビーノは殺された可能性も示唆されている。この状況は映画 『愛の勝利を - ムッソリーニを愛した女』でも描かれている。

これが事実なら、ムッソリーニはラケーレとは昔からの付き合いがあったのに、1909年から1915年まではイーダとも関係をもっていたらしいということになる。もしイーダとの結婚が正式なものであり、正式な離婚がなされていないなら、ムッソリーニは重婚の罪を犯したことになる。どちらにせよムッソリーニは1915年あたりに社会主義者である自分を理解して愛してくれたイーダを放棄し、ラケーレを妻として選んだことになる。複雑な経歴の持ち主のムッソリーニであるが、第一次世界大戦のあたりから、公私ともに大きな転換期を迎えたということであろう。

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[映画] 愛の勝利を - ムッソリーニを愛した女 Vincere (2009年)

ベニート・ムッソリーニについては、イタリアの独裁者であり、1945年にパルチザンに殺害されて,今までパルチザンを逆さり等の形で虐殺してきた彼への報復のために、死後公共の場に逆さづりにされたということくらいしか知らなかったが、この映画は、実はムッソリーニは重婚者であったという彼の知られざる一面を描いている。実在の女性イーダ ・ダルセルは、若き日の野心満々のムッソリーニと恋に落ち、駆け出しのジャーナリストである彼を財政的にも支えた最初の『妻』として息子を生みながら、その存在はムッソリーニの率いる政府によって完璧に隠蔽消却され、結局彼女は精神病院に送られそこで死亡し、息子も精神病院に送られ26歳で死亡した。彼女がムッソリーニと正式結婚していたかの証明はないというクレジットで映画は終り、イーダが本当にムッソリーニと結婚していたのか、或いは単に彼女が精神を病んでムッソリーニの妻であるという幻影を持ったにすぎなかったのかは曖昧にされている。

2005年にジャーナリストのマルコ・ゼーニが自分の調査に基づいて『La moglie di Mussolini』と『L’ultimo filò』の二冊の本を出版してイーダ ・ダルセルの存在を明らかにし、それを基にしたテレビドキュメントも放映されたことによってイーダの存在が明らかにされ、イタリア国民の間に大きな衝撃を与えた。2009年には彼女の人生はイタリア映画の巨匠マルコ・ベロッキオ監督によって映画化され、その映画は全世界に大きな反響を呼んだ。インタビューに答えてマルコ・ベロッキオは何故イーダについての映画を撮ろうとしたのか?という質問に次のように答えている。

「それは、イーダのことが全く知られていなかったからです。私自身も偶然知ったほどです。ドキュメンタリーを見たり、新聞を読んだりしているうちに偶然知り得たわけですが、彼女の本当にプライベートの部分は歴史家たちにも全く知られていなかったことで、最近になってようやく浮上してきたのです。私は自分でファシズムについてよく知っているつもりでいたのに、『えっ、こんなことがあったのか!』というほど興味を掻き立てられ、こうして映画を作るまでになったのです。」

博識のイタリア人である彼が知らなかったことを私が知らなかったのは当然であろう。マルコ・ベロッキオ監督はムッソリーニをファシストと描くこと事態には興味が無く、彼の映画作成の情熱はイーダという権力に屈さぬ強い女性が真の『勝利』を勝ち取ろうとしたことに焦点をあてているようだ。彼は次のようにも語っている。

「私がこの女性を映画を作りたかった理由はごくシンプルだ。イーダ・ダルセルはヒーローだからだ。私はファシスト政権の悪にハイライトを当てたり、それを暴露することには興味はなかったんだ。だが、イーダという女性は、どんな妥協もしようとしなかった。そのことにとても胸を打たれた。何年もの間、彼女は完全に独りぼっちだった。統帥に対してだけでなく、おそらく自分では気づかないで、あるいは不本意ながらも、イタリア国民のほとんど全員を敵に回したのだ。彼女はまだ無名だったその若き日のムッソリーニに心底ほれ込んだ。他の誰からも相手にされなかった彼を、彼女は愛した。無一文になり、非難され、侮辱された彼を彼女は庇ったのだ。その後、立場は逆転する。統帥となった彼を誰もが愛するようになると、彼女は締め出され、誰もが彼女に背を向けた。だが、まだ無謀な恋から抜け出せず、誰が有利かに気づけなかった彼女は、イタリア全体を敵に回した。」

「当時のイタリアはファシスト主義を掲げ、ムッソリーニの天下だった。統帥に立ち向かった勇気と、妥協を拒絶し、最後まで反逆者であったイーダという女性の人生を考えると、ギリシャ神話に登場するアンティゴネーのような悲劇のヒロインたちを連想させると共に、アイーダのようなイタリアのメロドラマのヒロインを彷彿とさせるんだ。その意味では、この映画もまた、一人の無名のイタリア人女性の精神的な強さを描いたメロドラマでもある。彼女はどんな権力にも屈せず、ある意味では、実際に勝ったのは彼女だ。彼女には、世間に向かって訴えるだけの強さと勇気と、ある意味の愚かさがあった。それゆえに、私にとって彼女のストーリーには歴史的な価値がある。」

「現代の私たちから見ると、ファシズムは馬鹿馬鹿しく、不条理で笑ってしまうようなものだが、彼女の人生を知ることにより、ファシズムは笑い話ではなく、残酷な独裁政治だということを思い出さざるをえない。その狂気の策略を実行するためなら、その邪魔になる者は誰でも迷わず踏みつぶし、無数の罪なき人々の命を犠牲にした体制なのだということを。」

マルコ・ベロッキオ監督の意図はシンプルであるが、彼の意図はこの映画によって観客に正しく伝わるであろうか?映画では彼女が本当にムッソリーニの妻であったかどうかは曖昧にされ、観客には、彼女が狂気と幻想の中で死んのだかも知れないとも思わせる。もしそうなら2時間もかけて延々と『確実さ』のない映像を見続けた観衆は、一体何のために自分はこの狂気とつきあっているのかとも思ってしまう。もし監督がイーダの勝利を描きたいのであれば、この曖昧な描き方は目的を果たすためのベストの手法でないのかもしれないと私は思う。もし、現代のイタリアが人が、『ファシズムは馬鹿馬鹿しく、不条理で笑ってしまう』という位言動の自由が許されているとしたら、なぜもっと権力によって消滅され、暗殺されたかもしれない母と子の生涯を史実に基づいて明示しないのだろうか。確かにこの映画の映像は魅惑的で、無声映画と現実の繋がりなど映画の芸術性を狙う意欲は見られるが、真の無名の英雄に献辞を贈るのならもっと効果的な別の映画が作れたのではないかという気がするのである。この映画を見終わったあと、事実を誰にでもシンプルに伝わるような素直な映画を作ることが、野に捨てられた無名の英雄に対する最大の敬意ではないのだろうかと思わずにはいられなかった。

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[映画] クィーン The Queen (2006年)

今年はエリザベス女王の在位60年の式典とロンドンオリンピックがあり、英国民にとっては思い出深い年になったと思う。過去60年間は誰にとっても激動の時であっただろうが、特に女王にとっては、第二次世界大戦からの復興、英国病からの回復、冷戦、IRAの反乱、フォークランド戦争、対イラク、対アフガニスタン戦争、英連邦内の軋轢等数々の困難を越えての60年の治世であった。

この映画は1997年のダイアナの突然の死に際して、エリザベス女王が取った決断を描いている。「国民のプリンセス」として深く敬愛されたダイアナの死に対し、女王は、王室を去った女性の死は「プライベートマター」であるとして、彼女の死後もバルモラルの別荘にこもり続けたが、その態度は「王室の冷たさ」と国民の目に映り、国民の王室支持率は、突然過半数を割ってしまった。保守党政権を倒して新たに政権をとったブレア首相は、ダイアナに対する親愛を自分の支持に結びつける機敏な動きを取るが、同時に、女王にこれ以上王室がダイアナ無視し続けるのは王室に対するダメージになると忠言する。かつて保守党のサッチャー首相が公席で衣装かぶりをするのを怖れ「女王陛下は何をお召しになりますか?」と訪ねた時、きっぱりと「臣下の衣装には興味がない!」と述べ、王室と臣民の差を明らかにさせた位の女王であるから、なぜ離婚して王室を去っていった女性を王室の一員として扱わなければならないのか納得できない。しかし、心の底からダイアナを悼む国民を目の当たりにして、父ジョージ六世が即位した瞬間から、自分の一生は24時間365日国民に奉げると決意した女王は、もしダイアナの死は真の王妃の死であると国民が望むことなら、自分が今まで信じて来たことを変えてもいいと決意するのだ。

バッキンガム宮殿の前でに積まれたダイアナへの花束の山を見ている女王に一人の少女が花束を差し出す。「ダイアナ妃へのお花を私が奉げてあげましょうか?」と花束の山を見る女王に対して少女はきっぱりと「いいえ!!!」と答える。驚く女王にその少女は美しい瞳で、「この花はあなたに奉げたいのです。」と答える。その時の女王の感動の表情、女王と女王を演じる女優ヘレン・ミランが魔法のように融合した瞬間であった。テレビの実況で、国民に王室からのダイアナの死の追悼を述べる女王は、一人の暖かい義母であり、ダイアナの王子を心配する祖母であることを国民に強く印象付け、それをきっかけに国民の女王に対する敵意は解けていくのであった。

エリザベス女王の世代に取って、皇太子妃は他国の王家の娘か、最低でも英国の貴族の娘であるべきだった。チャールズ皇太子がカミラと恋仲であった時も、カミラは英国の上流階級の出ではあるが、最高位の貴族の出ではないということで反対にあい二人の結婚はかなわなかった。ダイアナは名門中の名門スペンサー家の娘であり、若くて早速王子を二人生むという快挙を成し遂げたという点では完璧な皇太子妃であったが、結局いろいろな理由で離婚ということになった。離婚協議中の泥沼劇と離婚後のダイアナの奔放な行動は、女王にとって「王室に泥を塗った」行為と移ったであろう。その中で女王も、もはや皇太子妃を階級で選ぶ時代は過ぎたということを、学んだであろう。英国の親戚筋にあたるヨーロッパの若い世代の皇太子のお妃はほとんど平民で、離婚経験のある者、大麻喫煙の経験のある子連れ、麻薬王の元愛人、政府高官の元愛人、南米の独裁虐殺者の内閣の要人政治家の娘、アジア系やブラックの血の入った女性など、女王の世代では考えられないような女性たちなのであるが、彼女たちはそれなりに国民の支持を受け、公務もてきぱきと行っているのである。

女王はずっとカミラに好感を持っていたそうだ。カミラは「ダイアナを追い出した憎むべき醜い女性」として長く国民から嫌われていたが、一言も自分を弁護することはなく、チャールズに従い大変な激務である公務を黙々と果たし続ける彼女を見て、「公務に対する責任感があるし、私!私!という野心もない。これだけの困難を乗り越えてチャールズに添い続けるのは、もしかしたら真実の愛というものなのかも知れない」と国民の見方も変わり始めた。カミラが訪米した際アメリカのジャーナリストは次のように書いている。「素顔のカミラは想像していたよりもずっと美しいし、優しさのこもったユーモアに溢れている。彼女をみていると、もしダイアナが生きていたら、カミラのように自然に美しく年を取るのは案外難しかったのではないかとすら思わさせるものがあった。」

ダイアナの忘れ形見ウィリアム王子の永年の恋人ケイト・ミドルトンもなかなか女王の結婚の同意がえられなかった。ケイトの家は一代で成しあがった富豪の家で、父親はまあ中流階級といえるが、母親は労働階級出身で野心たくましい印象を与え、また母方の叔父は麻薬の所持販売で逮捕されたという過去もある。しかし女王の懸念は、大学卒業後も働かずウィリアムからの結婚を待っているだけだとからかわれている彼女の評判にあり、ウィリアムに真剣に「彼女は健康なのに、なぜ働かないのか?」と訪ねたこともあるという。結局二人の間には一番大切なもの、愛と信頼があると確信した女王は二人の結婚を承認したわけだが、ウィリアムの妻になったケイトは、公務もきちんとこなし国民の人気も絶大なものがある。

エリザベス女王の人気は衰えることをしらず、ロンドンオリンピックの開会式でもボンドガールとしてヘリコプターから飛び降りて、開会式に臨席する(とみえる演出であるが)というセレブリティーまがいのことをやってしまったが、これも国民のためならば、オリンピックの成功のためならばという女王の意図であろう。これからもずっと長生きをしてほしい女王であるが、彼女の逝去の際は国民は深い悲しみに襲われるだろう。しかしその悲しみはダイアナの死と異なり、彼女の永年の国民への奉仕への感謝と、次世代への希望が込められたものになることは間違いない。

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