[人] スロボダン・ミロシェヴィッチ大統領 (1941-2006)

かつて存在したユーゴスラビア連邦(ユーゴ)は、「7つの国境(西にイタリア、北にオーストリアとハンガリー、東にルーマニアとブルガリア、南にアルバニアとギリシャ)、6つの共和国 (セルビア、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ  、マケドニア、モンテネグロ)、5つの民族(セルビア人、クロアチア人、スロべニア人、ボシュニャク人或いはムスリム人、アルバニア人)、4つの言語(セルビア語、クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語)、3つの宗教 (ギリシャ正教、カトリック、イスラム教)、2つの文字(ラテン文字、キリル文字)、1つの国家(ユーゴスラヴィア連邦)」と称されていた。この呼称が示すように、ユーゴは民族構成が大変複雑な多民族国家であった。この地域はオーストリアとトルコ、後にはナチスドイツとその周辺国とソ連に囲まれその力関係の犠牲になった地域でもあり、一発触発の情勢は『バルカンの火薬庫』とも呼ばれた。

1918年にセルビア王国を主体としたセルブ・クロアート・スロべーヌ王国がこれらの民族をまとめる王国して成立し、1929年ユーゴスラビア王国に改名された。1945年からはチトーに率いられた社会主義体勢が確立され、ユーゴスラビア連邦人民共和国と改称された。カリスマ的魅力でユーゴを一つにまとめていたチトーの死後、1990年近くになると、ソ連国内におけるゴルバチョフ指導による民主化が進み、ユーゴを構成する各国ではチトー時代の体制からの脱却に対する要求が強まった。

ユーゴの中心勢力であったのはセルビアであったが、1991年に文化的・宗教的に西側に近いスロベニアが独立を達成する。スロベニアに次いでマケドニアが独立、ついで歴史を通じてセルビアと最も対立していたクロアチアが激しい戦争を経て独立した。続いてボスニア・ヘルツェゴビナも1992年に独立した。セルビアはモンテネグロと組み1992年にユーゴスラビア連邦共和国を結成した。2003年にユーゴスラビア連邦共和国は緩やかな国家連合に移行し、国名をセルビア・モンテネグロに改称したため、ユーゴスラビアの名を冠する国家は無くなった。2006年にモンテネグロが独立して国家連合も解消された。

スロボダン・ミロシェヴィッチは、1941年にベオグラード近郊の町で生まれた。ベオグラード大学法学部卒業後、1978年に、ベオグラードの共産主義者同盟幹部となった。セルビア民族主義者中で圧倒的な人気を獲得したが、一方では自身の権力強化のために、セルビア民族主義を国民に扇動したと批判もされている。1987年にイヴァン・スタンボリッチが辞任したのを受けて、セルビア共和国幹部会議長に就任した。1990年には新設のセルビア共和国大統領に就任。大統領になってからは、情報・治安機関を使って政敵や野党勢力の動向監視や民主化運動を容赦なく弾圧していた。

1991年にはスロベニア・クロアチア・マケドニア共和国独立に、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナ独立運動に軍事介入した。クロアチとボスニア・ヘルツェゴビナが独立後も、両国には少数派住民として セルビア人が住み続けてきた。この二国のセルビア民族主義者は、セルビア人がクロアチア人やボスニアのムスリム人によって排除されることをおそれ、彼らに抵抗するために「自治区」を結成し、自らの民族自決を掲げてクロアチア及びボスニア・ヘルツェゴビナからの独立運動を起こしたが、スロボダン・ミロシェヴィッチ大統領率いるセルビア共和国はその動きを支援した。

一方セルビア内のコソボ自治区は、本来アルバニア人が多数派にもかかわらず少数派のセルビア人に支配されていた。1982年、スイスに在住していたアルバニア人が「コソボ共和国社会主義運動」という左翼的な組織を設立し、コソボでもその影響を受けアルバニア人の独立運動が強まっていった。コソボの独立を阻止したいセルビアはクロアチア、ボスニアでの紛争の結果大量に発生したセルビア人難民の居住地としてコソボを指定した。この結果コソボの民族バランスは大きくセルビア人側に偏ることになった。

1995年のデイトン合意によってクロアチア、ボスニア紛争が一旦落ち着いた後の90年代後半に入ると、実力をもってセルビアから独立することを主張するコソボ解放軍が台頭するようになった。コソボ解放軍は勢力を増し、ユーゴスラビア(セルビア)の警察官やセルビア人の一般住民を攻撃、殺害したり、セルビア人女性を強姦するという事件が報告されるようになった。また、ドイツの新聞「Berliner Zeitung」(1999年3月4日付け)が入手した秘密文書によると、コソボ解放軍が資金を集めるためにアフガニスタン産のヘロインなどの違法麻薬の販売を行ったと言われている。コソボ地方の4分の1の地域では、ユーゴスラビア政府が統治できず、コソボ解放軍が完全に支配するようになった。その結果、コソボのセルビア住民がそれらの地域から逃げ始めた。隣国のアルバニアでは社経済的な混乱に陥っていたが、コソボ解放軍は混乱したアルバニアに自由に出入りし、セルビア側の追っ手を回避、戻って来る時にはアルバニア国内で流出した武器やアルバニアでリクルートした兵士を連れて帰ってくることができた。翌1998年になるとセルビアとしてもコソボ解放軍に対して対応をせざるを得なくなってきた。セルビアは大規模なゲリラ掃討作戦を展開し、セルビア警察特殊部隊によってコソボ解放軍幹部が暗殺されるなどコソボ全土にわたって武力衝突が拡大することになった。これがコソボ紛争の始まりである。

この中で、戦闘員ではないアルバニア人が攻撃を受け、多くのアルバニア人が隣接するマケドニア共和国やアルバニア、モンテネグロなどに流出し、ボスニア戦争に続き、セルビア側の「非人道的行為」が再びクローズアップされるようになった。国連やEUは、セルビアとコソボの間に立って調停活動を行うことになった。1999年3月からは、NATOが国際世論に押されてセルビアに対する大規模な空爆を実施するに至った。この空爆は約3ヶ月続き、国際社会からの圧力に対抗しきれなくなったセルビアはコソボからの撤退を開始、翌年までに全ての連邦軍を撤退させた。これによってコソボはセルビア政府からの実効支配から完全に脱することになった。代わって国連の暫定統治機構である国際連合コソボ暫定行政ミッション(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo: UNMIK)が置かれ、軍事部門としてNATO主体の国際部隊(KFOR)が駐留を開始した。それ以降、主にセルビア系住民が多数を占める限られた一部の地域と一部の出先機関を除いて、セルビア政府による実効支配は及ばなくなった。

しかし、セルビア側が撤退しUNMIKの管理下に入った後も、コソボ解放軍の元構成員によって非アルバニア人に対する殺害や拉致、人身売買が行われたり、何者かによって爆発物が仕掛けられたりといった事件が起こり、事態が完全に収まったとはいえない。加えて、多くのセルビア正教会の聖堂が破壊され、迫害を恐れた非アルバニア人がコソボを後にする事例が多く発生している。

2000年、ユーゴスラビア連邦大統領選挙は国民による直接投票となったが、スロボダン・ミロシェヴィッチは選挙不正に怒った国民の抗議行動により退陣し、連邦大統領の座をセルビア民主野党連合のヴォイスラヴ・コシュトニツァに譲った。その後、コソボ紛争でのアルバニア人住民に対するジェノサイドの責任者として人道に対する罪で起訴され、2001年5月に職権濫用と不正蓄財の容疑で逮捕された。同年7月に彼が国連旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(オランダ・ハーグ)に身柄を移送され、以降人道に対する罪などで裁判が行われた。これには前セルビア共和国幹部会議長イヴァン・スタンボリッチ殺害の容疑も含まれている。体調の不具合という理由とまた容疑事実の立証が困難だったため、裁判は長引いた。2006年3月11日朝、スロボダン・ミロシェヴィッチは収監中の独房で死亡しているのが発見された。死因は心臓発作とされている。

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[映画] 善き人のためのソナタ Das Leben der Anderen The Lives of Others (2006年)

レーニンは嘗て「ベートーベンのソナタを聴いてしまったら、革命を続けるのが困難になるだろう。」と述べたそうだが、これはそのソナタを聴いてしまった男の物語である。

1984年の東ベルリン。国家保安省(シュタージ)のヴィースラー大尉は有能な手腕で知られる諜報局員。彼は、反体制の疑いのある劇作家ドライマンとその恋人の舞台女優クリスタを監視するよう命じられる。盗聴器を彼らが住むアパートにしかけたが、その盗聴の活動の過程で実はその盗聴はクリスタを自分のものにしようとする芸術大臣がその目的を果たすために始めたものだとわかる。ドライマンの弾くソナタに心を揺さぶられるヴィースラー。慎重に反体制派から一歩自分を離していたドライマンだが、親友で政府から弾圧されていた作家が『善き人のためのソナタ』という題の草稿を残して自殺したあと、東ベルリンの実態を明らかにする記事を西側で出版しようとする。また芸術大臣から疎まれ窮地に陥ったクリスタはドライマンの秘密を当局に告げるスパイに変身する。二人に盗聴を通じて共感を覚え始めたヴィースラーは、自分の知った情報を基にドライマンとクリスタを助けようとするが、クリスタは自殺してしまい、自分も疑いをかけられて閑職に追いやられてしまう。

ベルリンの壁が崩壊してしばらく立ち、ドライマンは自分が実は当局に盗聴されていたことを発見し、その盗聴の記録からクリスタが自分のスパイであったことを知る。しかしコードネームでしかわからない諜報の責任者は、自分が西側で出版された体制の暴露記事の作者であることを示す証拠をを何一つ当局に報告していなかった。ドライマンは始めてその無名の諜報員が自分を守ってくれたことを知るのだ。更に何年か後、今はてひっそりと暮らすヴィースラーはドライマンが最近『善き人のためのソナタ』と題する本を出版したことを知る。本屋でその本の扉を開いたヴィースラーは「感謝をこめてこの本を奉げます」という献辞が自分に向けられたものであることがわかることで映画は終わる。

ヴィースラーを演じるウルリッヒ・ミューエは最初は制服に身を包んだ剃刀のような男として登場するが、盗聴をしているうちに、次第に冴えないズボン姿の剥げの普通の叔父さんに変身している所が見事。素晴らしい主題、演技力、映像、音声、サスペンスが「完璧な映画」を作り上げているが、もしこの映画に対する批判があるとすれば次のようなものであろう。

映画の中の歴史的な不正確さが非難の対象になるかもしれない。国家保安省(シュタージ)には、ヴィースラー大尉のような人間味のある人物を生み出す素地はなかっただろう。諜報員の中でもお互いの監視と責任の分担が行われ、一人の諜報員が誰かを助けるなどということは不可能であっただろう。たとえヴィースラーのような人間味のある諜報員がいたとしても、それがばれたらその罰則は「退屈な仕事をして20年暮らす」などという生易しいものではなかったということは容易に推測される。脚本と監督を担当したフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクはインタビューでこう語っている。「国家保安省(シュタージ)のことを調べれば調べるほど、実態を正直に書くのはあまりにも残酷であるということがわかり、敢えて残酷なシーンを作らないということに徹底したのです。」確かに、このシーンで残酷なのは、クリスタの死だけであるが、それも事故死なのか、自殺なのかはっきりしない描き方である。この映画は事実を残酷なまでに描くのと、その残酷さを抽象的にとどめるのと、どちらが聴衆に対してインパクトが強く、そのテーマがより長く人の心に残るのかという、決して結論のでない芸術のあり方に対する議論を含むものであろう。

ヴィースラーを演じるウルリッヒ・ミューエは東ドイツでも評価されていた舞台俳優だが、反政府デモや体制批判の劇にも従事した。最初の妻舞台演出家アンネグレット・ハーンとの間に二児を設けたが、のちに彼女と離婚して女優のイェニー・グレルマンと1984年に結婚した。しかし、後に彼は自分の同僚の演劇人4人と妻のイェニー・グレルマンが当局のスパイとして自分の情報を当局に流していたことを知り1990年に妻と離婚する。その後1997年に女優のズザンネ・ロータと再婚する。

『善き人のためのソナタ』は2007年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したが、その直後にミューエは急遽ドイツに戻り胃癌の手術を受けたなければならなかった。『善き人のためのソナタ』により数々の賞を受けたがその名声のさなか、彼は54歳の若さでこの世を去った。

2006年、『善き人のためのソナタ』の関連本に収録されたインタビューの中で、ミューエは映画のストーリーと同様に、旧東ドイツ時代に元妻のグレルマンが国家保安省(シュタージ)の非公式協力者で「HA II/13」というコードネームのシュタージ職員と接触しており、自分は妻に監視されていたと告白した。これに対して元妻のグレルマンは、自分が気付かないうちに非公式協力者としてミューエの情報源にされており、結果的にシュタージに協力した形になっただけだったと反論、この本の出版差し止めをベルリン地方裁判所に申し立てた。裁判所はこの申し立てを認めて本の出版を差し止めるとともに、ミューエの控訴を退け、ミューエに対して今後彼女をシュタージの元非公式協力員呼ばわりすることを禁止した。直後にグレルマンは病死、一年後にミューエも亡くなった。また三度めの妻ロータは2012年に51歳で死亡している。三人とも本当に若死になのである。

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