[映画] 戦火の馬  War Horse (2011年)

『戦火の馬』は、1982年に出版されたマイケル・モーパーゴによる児童小説を基にして、2007年からニック・スタフォードの脚色により戯曲化されロンドンの劇場で好評を得ていた『軍馬ジョーイ』を、スティーヴン・スピルバーグ監督により2011年に映画化されたものである。映画のロンドン・プレミアでは、ケンブリッジ公爵ウィリアム王子とキャサリン妃が出席した。スティーヴン・スピルバーグの絶妙な語りと、どこで泣かせるかを完璧に心得たツボを抑えた演出、そして最初から最後まで計算され尽くした美しい画像は、黒澤明の力量を彷彿させる。

この映画は戦争用に売られた馬を通じて、その持ち主のイギリスの小作農家の少年、馬に乗って戦死する英軍将校、脱走兵として処刑されるドイツの少年兵たち、戦火でドイツ軍に親を殺され自分の農場を略奪されるフランス人の少女とその祖父、そしてその他の戦争に翻弄される英独仏の人々を描く。言い換えると、馬という美しい動物を最大限に利用して観客を引っ張り、人々が都合よく登場しては殺される映画である。

この映画で一番興味深いと思ったのは、騎兵隊が第一次世界大戦を最後として消滅して行く、つまり馬が戦争の役に立たなくなったという背後には戦争の技術の革命があるというメッセージである。スピルバーグは別にそれを伝えるためにこの映画を作ったわけではないだろうが。

歴史上、騎兵は戦術的に重要な兵種と考えられてきた。高速度で馬と共に移動できるし攻撃性も強いので、奇襲・突撃・追撃・背面攻撃・側面攻撃・包囲攻撃など、幅広い用途に使われた。また敵陣の偵察などにも効果的に活用された。19世紀前半のナポレオン戦争時代に、騎兵は全盛を迎え、戦場を駆け抜けて突撃する騎兵隊はナポレオンの勝利に大きく貢献した。しかし1870年に起こった普仏戦争ではフランス騎兵隊がプロイセン軍の圧倒的火力の前に全滅し、フランスはプロイセン軍に敗北を遂げる。

この背後にあるのは新しい武器の導入である。南北戦争(1861年から1865年)あたりから、機関銃やライフルの使用が始まり、それから身を守るために塹壕が掘られ、戦争は個人戦から、集団による打撃戦へと変化していった。突撃してくる馬は相手側による格好の射的となり、また狭いノーマンズランドに対峙して持久戦に持ち込むという地形の中でもはや馬が闊歩する時代ではなくなった。馬を維持するコストを考えると、騎兵は勝率効果の低い高コストの戦術となってしまったのだ。英軍を率いる将校たちは貴族の出身で、近代戦や機関銃に対する知識は叩き込まれていても、心の奥底ではまだ古い時代の騎士が馬に乗って名誉を重んじて勇敢に戦うことに憧れる精神が残っており、この映画では、騎兵で奇襲をかけた英軍が、徹底的に近代化したドイツ軍の機関銃に壊滅されるということがリアルに描かれている。

馬と象とラクダは古来から人類の友人であり、貴重な労働を提供してくれる存在だった。高い知能を持ち、一度飼い主と信頼尊敬の関係を築くと忠誠に尽くしてくれる。しかしただ穏やかなだけではなく、怒ると信じられないような強さも見せる。人類にとって、馬そして犬は永遠に友人であり続けるだろう。この映画を観て、主人公の馬に泣かされた人も多いだろうが、私は最初から最後まで醒めた気持ちを感じざるを得なかった。その理由を述べてみよう。

まず、馬を前面に押し出すために使われる登場人物の描き方が浅いというか不可解である。少年の親は、馬の購買を競っている自分の地主に負けたくないという意地で、大金を叩いてこの馬を買うが、借金が払えなくなるという状況に追いやられ、腹立ち紛れに自分が買った馬を射殺しようとする。この無茶苦茶な馬の紹介シーンが最初にでてくるので、その後はいかに馬が美しい演技をしても同感ができなくなってしまうのである。この馬は軍部に理不尽に徴収されたのではなく、父親が自分の借金の穴を埋めるために自ら軍に売りに行くのである。これは一例であるが、とにかく登場人物の描き方が浅い。ノーマンズランドを挟んで敵対する英独軍の兵士が馬を助けるために一時仲良くなるというシーンは『戦場のアリア』を彷彿させるが、『戦場のアリア』ではそれが映画の主題であるからその顛末を丁寧に描いているが、『戦火の馬』では映画の数多いエピソードのてんこ盛りの一つに過ぎず、とにかく唐突な感じがするのである。たくさんの負傷兵をかかえている野戦病院は人間の負傷兵で溢れかえっているが、軍医が「馬を助けるために出来る限りの手を尽くそう」というくだりでは、涙がでてくるより「ウ~ム、何故?」と思ってしまった。

次にこの映画では英独仏の登場人物が皆英語をしゃべるので、話のわけがわからなくなる時がある。ドイツ兵の将校のドイツ語の掛け声にあわせて行進する兵士が英語でしゃべっているので、捕虜になった英兵?と思ったらドイツ兵である。フランスの農場を略奪する軍隊も英語を話すので、英軍が味方のフランス人を虐待しているの?とびっくりするが、これはどうあってもドイツ軍という設定でなくてはならないのだろう。スピルバーグが全員に英語を話させているのは、アメリカでのこの映画の興行の成功を狙ったからに違いない。アメリカ人は字幕のある外国映画が好きでない。これは「洋画は実際の俳優のしゃべる声を聞いて、その微妙さを味わいたい」と思い、吹き替えよりも字幕を好む日本人にはわかりにくいかもしれないが、私はアメリカ人の映画のディスカッションサイトで「なんでこの映画、吹き替えじゃないの?字幕なんて面倒くさくて観る気もしない」と文句を言っているアメリカ人の投稿を何回か読んでいるので、そう思うのである。(今のところ)世界のナンバーワンであるアメリカ人は、世界中の人が英語を話すのが当然だと思っているという気持ちがどこかにあるのだろう。

ハリウッド映画は音楽を効果的に使う。この映画でも音楽は確かに美しいのだがスピルバーグは使いすぎているような気がする。今までずっと成功していたジョン・ウィリアムズとのコラボではあるが、音楽の力は認めるとしても、これは濫用というレベルに来ているのではないか。特に音楽をあまり使用しない非ハリウッド映画を見たあとでスピルバーグの映画を観ると「はい、ここで泣いてください」と言われているような気がして「Enough(やり過ぎ)!」と感じてしまう。しかし、兵士をバグパイプで送り出すシーンでは思わず鳥肌がたった。スピルバーグにまんまと嵌められたと思った一瞬であった。

またシンボル的な小細工が鼻につく。たとえば、主人公の少年の父はアル中だが、実はボーア戦争で名誉の負傷をしたということが明らかになる。その名誉のペナントを少年が馬に結びつけ、ペナントは友情の象徴として次々に馬の所有者の手で守られ、馬と共に少年のもとに戻ってくる。私はそのペナントを見るたびに「どうだ、すっごくカッコいいシンボルを考え付いただろう」という得意げなスピルバーグのドヤ顔がちらついてしまったのである。

聴衆の反応は「感激した。泣けた」というものと「小手先の映画の泣かせる技術に心が醒めた」との二つに分かれる映画ではあると思う。

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[映画]  戦場のアリア Joyeux Noël Merry Christmas (2005年)

1914年、クリスマス前夜フランス北部の塹壕で、フランス・スコットランド連合軍は旧フランス領を占拠し進撃して来たドイツ軍と、狭いノーマンズランドを挟んでで対峙していた。ドイツ軍に徴兵されその陣にいた国際的なオペラ歌手ニコラス・スプリンクを恋人のソプラノ歌手アナ(ダイアン・クルーガー)が訪ねてくる。クリスマス前夜、衛生兵としてスコットランドに奉仕していたパーマー神父がスコットランド陣営でバグパイプでクリスマスの曲を奏でると、ドイツ陣営のニコラスもクリスマス聖歌を歌い始める。フランス・スコットランド連合軍は思わず拍手を送り、ニコラスは中立地帯のノーマンズランドに立ち歌い続けた。それがきっかけになり、三国の将校は中立地帯で面会し、クリスマスイヴだけは戦闘を中止することを決定する。パーマー神父がクリスマスミサを行い、アナが聖歌を歌った。翌日も彼らは戦争を停止し、中立地帯に放棄された同胞の死体を埋葬し、サッカーを楽しみ、チョコレートとシャンペーンを分け合い、家族の写真を見せ合う。しかし、つかの間の友情を交換した彼らにも、戦いを開始しなければいけない時が来る。この友情の交流を知ったそれぞれの軍部や教会の上層部は怒り、友情を交わした兵士たちはその行為に対する厳しい結果を受け止めなければならなかった。

戦争中に敵国兵が友情を交わしたというのは本当に起こったのかと思われるかもしれないが、この映画は実際に起こった事実をいろいろ繋ぎ合わせて製作されたという。クリスマス休戦や敵国間での友情の交流は第一次世界大戦の公式の記録に残っていない。しかし西部戦線で生き残った兵士が帰還後、家族や友人に口承や写真で事実を伝えたのである。

1914年に実在のドイツのテノール歌手、ヴァルター・キルヒホフがドイツ軍に慰問に行き、塹壕で歌っていたところ、ノーマンズランドの反対側にいたフランス軍の将校がかつてパリ・オペラ座で聞いた彼の歌声と気付いて、拍手を送ったので、ヴァルターが思わず中立地帯のノーマンズランドを横切り、賞賛者のもとに挨拶に駈け寄ったことは事実であるし、独仏両軍から可愛がられていたネコが仏軍に逮捕されたことも事実である。このネコは後にスパイとして処刑されたそうだ。また敵軍の間でサッカーやゲームを楽しんだことも事実であるらしい。

このクリスマス停戦は第一次世界大戦が始まった直後のクリスマスに起こっている。第一次世界大戦は史上初の総力戦による世界大戦であり、誰もがその戦いがどういう方向に発展して行くか予想もつかず、最初は戦争はすぐ終わるという楽天的な気持ちが強かったようだ。しかし戦争が長引くにつれて危険な武器や毒ガスが使用され、また最初はのんびりした偵察のために使用されていた飛行機が恐ろしい戦闘機に変化していった。戦争が激しく残酷になるにつれてこの映画に描かれているようなクリスマス停戦が行われることは稀になっていったという。

彼らを瞬間的にでも結びつけたのは、音楽とスポーツ、そして宗教の力である。戦闘国の独仏英はみなキリスト教国で、この頃は人々の信仰も強く、クリスマスが本当に大切なものであったということも、クリスマス休戦の動機になっていたであろう。同じキリスト教国の国であるということで、敵国も理解しやすかったのであろう。もしこれがイスラム教徒とキリスト教徒、或いはイスラム教徒とユダヤ教徒との間の戦争であったなら、クリスマス休戦などは起こらなかったであろう。

第一次世界大戦で一番大きな政治的な変動を遂げたのはドイツである。当時ドイツはまだ帝国であり、臣民はドイツ皇帝兼プロイセン王ヴィルヘルム2世の名の下に戦ったのである。しかし大戦が続く中で国民の厭戦気分は高まり、1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起からドイツ革命が勃発し、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、これにより、第一次世界大戦は終結し、ドイツでは議会制民主主義を旨とするヴァイマル共和国が樹立された。

その後もドイツの政権は安定せず、敗戦後は戦勝国側からの経済的報復を受けドイツ国民は悲惨な生活を送っていた。その不満の中で1920年にナチスが結成され、それが第二次世界大戦に繋がっていくのである。映画の中では、ドイツ軍を率いたホルストマイヤー中尉はユダヤ人であった。クリスマス停戦を知った西部戦線の最高司令官であったヴィルヘルム皇太子は激怒し、ホルストマイヤー中尉の部隊を危険な東部戦線に送ってしまうが、その際にヴィルヘルム皇太子は中尉の胸にあるドイツ軍の鉄十字を自分の剣で突き「貴様は鉄十字に値しない」と怒鳴るが、それは20年後にドイツ市民権を剥奪され、ドイツ兵にも志願できず強制収容所に送られるユダヤ人の運命を暗示しているシーンであった。

この映画のメッセージを一言でいえば、「戦意は国家指導者によって形成されるものである」ということではないだろうか。この映画は英独仏の小学生が周辺の国に対する戦意を学校で愛国教育として叩き込まれるシーンから始まる。国民は敵国の兵士は顔のない獣だと思わされているから、戦争で戦えるのである。しかしクリスマスイブの夜の交流によって、初めて相手を人間と認識した兵士たちにとって、殺し合いは難しいものとなる。フランス軍を率いるオードゥベール中尉が、クリスマス停戦への非難を受けた時「ドイツ人を殺せと叫ぶ連中よりも、ドイツ兵の方がよほど人間的だ!」と反論する。また戦争に戻らなければならない兵士の「我々は(今日だけでも)戦争を忘れることができる。でも戦争は我々を忘れはしない」という言葉がいつまでも聴衆の心にのこるだろう。

この映画は美しい細部の描写が印象的な佳品なのだが、もし私が難点をつけるとしたら、オペラ歌手を演じたダイアン・クルーガーのあまりにも明らかな口パクだろう。彼女が兵士の前で歌う聖歌がこの映画の大きな転換点になるはずなのだが、歌っている彼女の体の震えもないし、口も平板にパクパクさせているだけで、素人目にも歌詞と彼女の口の動きが外れているのが明らかな瞬間が多すぎるのだ。美しい絵のような彼女の口だけがパクパクと切れたように動いているので、ここで映画の感動から冷めた聴衆も案外多いのではないか。ダイアン・クルーガーは確かに美しいがこの映画では本物のオペラ歌手、たとえばこの映画で実際に歌声を提供しているナタリー・デセイなどに任せた方がよかったのではないか。聴衆はダイアン・クルーガーの口パクより、むしろスコットランド軍のパーマー神父が奏でるバグパイプの演奏に感動するのではないか。『ムッソリーニとお茶を』でも、映画はナチスに占領されたイタリアの町を解放したスコットランド軍がバグパイプを弾きながら町に入ってくるところで終わる。バグパイプの音はなぜあれほど明るくて、楽天的で、悲しくて、感動的なのであろうか。

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[映画] ニュールンベルグ裁判 Judgment at Nuremberg (1961年)

ニュールンベルグ裁判は史実である。しかしこの映画は、史実の中の歴史的なエッセンスを基に物語を作成し、冷戦下のアメリカの良心という観点から、第二次世界大戦後の世界を描こうとした試みであるといえるだろう。

第二次世界大戦終了後、戦勝国である米英仏露の軍部指導者は、ドイツの戦争犯罪人を裁くためにニュルンベルクに集まった。1945年に開始された前期の裁判は戦争を導いたドイツの最高クラスの指導者を一方的に断罪し、厳しい判決が下されたが、この映画の舞台となった1948年のニュルンベルク継続裁判になると、裁判を取り巻く世界情勢が微妙に変わっていた。米英仏にとっての脅威はもはやドイツではなく、ソ連であった。ソ連軍はドイツ東部を占拠し、さらにドイツ全土の占拠を視野に置いていると思われた。米英仏はソ連がドイツを支配下に置けば、全ヨーロッパがなし崩しに共産化すると判断し、今や米英仏の関心は、ドイツ人を裁くよりドイツをソ連から守り、共産化されることを防ぐことであった。

映画はアメリカの地方裁判所の判事ヘイウッド(スペンサー・トレイシー)が、ニュルンベルク継続裁判の一つのケースの主任判事に任命され、ニュールンベルグに赴く所から始まる。彼が任命された理由は、このケースはドイツの最高クラスの法律家を裁くものであり、特に国際的に高名で敗戦当時はナチの法務大臣であったエルンスト・ヤニング博士(バート・ランカスター)が被告の一人であったので、誰もその裁判の判事になりたがらず、無名で実直なヘイウッド判事にその任務が押し付けられたのであった。

ヘイウッド判事とニュルンベルクに滞在しているアメリカの軍人たちは、ドイツの伝統とその文化の奥深さに感動する。戦後の貧しさの中でも人々は美味しいビールを飲み、酒場では美しい合唱を楽しみ、ピアノやオペラの演奏に心を震わせる。人々の心は優しく、「ドイツ人は世界が信じるような獣ではない」と一人一人が証明しようとしているかのようだ。戦勝国として入って来た軍人たちは、「僕たちは、まるで美しい宮殿に土足で踏み入るボーイスカウトのようなものだな」と自嘲してしまうのである。戦争さえなければドイツはアメリカ人にとっての文化的憧れであっただろうに。そんなヘイウッド判事や、検事を勤めるローソン大佐(リチャード・ウィドマーク)に国家のトップから、裁判を早々に切り上げて、ドイツを味方につけるために厳しい判決をくださないようにという暗黙のプレッシャーがかかってくる。

ローソン大佐を迎え撃つ被告の弁護士ロルフ(この映画でアカデミー賞主演男優賞を受賞したマクシミリアン・シェル)は鋭い理論でローソン大佐の主張を次々に論破していく。ローソン大佐はユダヤ人の強制収容所を解放した自分の経験から、ユダヤ人の連行を文書の上で承認した法律学者を徹底的に裁こうとする。反対にロルフは「ドイツと独ソ不可侵条約を結んだソ連、虐殺や不法占領を行ったソ連の戦争責任はどうなのか。共産主義を抑えるためにヒットラーに同意した英国のチャーチルの戦争責任はどうなのか」と激昂する。それは、ニュールンベルグ裁判で戦勝国の横暴を黙って耐えなければならなかったドイツ人の無念を代弁していたのである。

裁判の最大の焦点はヤニング博士がニュルンベルク法の基で犯罪を犯したかどうかであった。ニュルンベルク法はナチが作った法律で、ユダヤ人とドイツ人の交流を犯罪として定義している。ヤニング博士は判事として、少女イレーネ・ホフマン(ジュディ・ガーランド)と交際したという罪状でユダヤ人の老人を死刑に、その罪状を否定するイレーネを偽証罪で懲役に課していたのだ。

ヘイウッド判事は人々の予測に反して被告全員に有罪判決を下し、終身刑に課した。彼は検察側は実際の犯罪が行われたことを『beyond a reasonable doubt』まで証明し、被告たちの名による執行命令の文書がない限りはこの犯罪が行われなかったから、被告たちは実際に手を下さなかったが法的な共謀者であるという理論であった。これに対し、裁判の副審を勤めた米国人の判事は弁護士ロルフの理論に同意し、被告はドイツの国家法であるニュルンベルク法に従ったまでであり、もしこの法律に従わなければ被告は国家に対する謀反の罪を犯すことになったとし、主審であるヘイウッド判事の判決に反論を加えた。

ここには英米で行われている普通法(Common Law)と独仏で行われている成文法の解釈の対立という図式もみられる。ヘイウッド判事は普通法の国米国で法律を学んでいるから、裁判官による判例を第一次的な法源とし、裁判において先に同種の事件に対する判例がある時はその判例に拘束されるとする判例法主義の立場から有罪判決に至った。しかしもちろん英米にも成文法があるから、裁く領域に成文法が存在する場合には成文法の規定が普通法よりも優先する。成文法は基準がは明確だし、ナポレオン法典のように長期間模範になる法律もあるが、ニュルンベルク法はどうであるだろうか?狂った指導者が狂った成文法を作ることは可能であることを、ニュルンベルク法は示唆しているのではないだろうか。たとえば、米国でも新しい法律を作ることは可能である。しかし、その法律は議員の多数の賛成を得なくてはならないし、もしそれが憲法に反対していたら司法から否決されるのである。

ヘイウッド判事の有罪判決はドイツ人もアメリカ人も失望させた。人々は被告はニュルンベルク法に従っただけであり、責められるのは法律そのものだと信じていた。また同時期の他の裁判は概ね被告が無罪となり、たとえ有罪であったとしても刑が非常に軽かったからだ。ロルフはヘイウッド判事に面と向かい「被告は全員5年以内に無罪放免されるだろう。アメリカ人はきっと近い将来ソ連軍に不法裁判で裁かれるような事態に置かれるかもしれないから、せいぜい心せよ」という言葉を投げかけて去って行く。ヤニング博士の要望で個人として彼と対面したヘイウッド判事は「あなたは有罪だ。なぜならば、イレーネ・ホフマンの裁判に臨む前にあなたは既に有罪判決を決めていたからだ」と述べる。ヘイウッド判事も、無罪判決を下したら、自分の判決が判例となり、将来文書で死刑を宣告した人間は自分の判例を根拠にして無罪になるという拡大解釈が起こるのを防ぎたかったのであろう。

マレーネ・ディートリッヒがニュールンベルグ裁判で処刑された将軍の未亡人として出演している。彼女の夫は戦後すぐの戦勝国の集団リンチのようなニュールンベルグ裁判で有罪となったが、もし裁判が1948年に行われていたら無罪になった可能性もあると映画では示唆されている。ヘイウッド判事と友情を育てた夫人は、夫妻ともにヒットラーを憎み、夫はドイツ国民を守るために戦ったのであり、国民の大部分はナチが何をやっていたのかは知らされていなかったと述べ、ドイツ国民の魂をヘイウッドに伝えようとする。

マレーネ・ディートリッヒの生涯がこの将軍夫人のキャラクターを生んだと言えよう。ドイツ出身の彼女は渡米後、ユダヤ人監督スタンバーグとのコンビでハリウッドのトップスターになった。アドルフ・ヒトラーはマレーネが気に入っておりドイツに戻るように要請したが、ナチスを嫌ったマレーネはそれを断って1939年にはアメリカの市民権を取得したため、ドイツではディートリッヒの映画は上映禁止となる。その後彼女は身の危険を冒してまで、アメリカ軍人の慰問に尽くした。

戦後アメリカを訪問した女優の原節子はマレーネ・ディートリッヒに紹介された時の感想を次のように述べている。映画ではとても美しく見えるのですが、実際に会ったディートリッヒはさばさばとあっさりした人で、顔も平板で映画での怪しい美しさが感じられませんでした。綺麗な人という印象は全くありませんでした・・・・

マレーネ・ディートリッヒの美しさは、そのたぐい稀なプロフェッショナリズムと人生への決意から来ているのではないだろうか。ディートリッヒがこの映画で若く美しい未亡人を演じた時、彼女は既に60歳であったのだ。原節子ももちろん戦争中は(他の日本人がそうであったように)大変苦労したであろうが、マレーネ・ディートリッヒがどれだけのものを乗り越えて来たのかを考えることはなかったであろうと思わされるような彼女の発言であった。

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[映画]  カティンの森 Katyń (2007年)

現在のこの時点で「観て良かったと思う映画を一本だけ選ぶとしたら何か?」という問いに、私が迷い無く選ぶのがポーランド映画 『カティンの森 Katyń』である。映画としてもかなり高水準だが、この映画を観なければ決して知りえなかったであろう情報を提供してくれる。この映画に対して、心から感謝したい。

東のロシア、西のドイツに挟まれた‎ポーランドは、歴史的に両国の勢力争いの犠牲になるという悲劇を持つ。1939年9月、 ドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦が勃発した混乱を利用して、ソ連はポーランドの東部に侵攻した。同時に秘密裏に独ソ不可侵条約が結ばれ、ポーランドは、ドイツとソ連に分割占領されることになったのである。西からドイツ軍に追われた人々と、東からソ連軍に追われた人々は、ポーランド東部のブク川で鉢合わせになり、ソ連軍から逃げて来たポーランド人はドイツから逃げて来たポーランド人に危険だから西に戻れと言い、ドイツ軍から逃げて来たポーランド人は逆のことを言う。個々の人間が自分の運命を瞬間的に決定しなければいけなかった。

ポーランド政府はロンドンへ脱出し、ポーランド亡命政府を結成した。ポーランド軍人は速やかに独ソ両軍からの命令に応じ、ドイツ軍とソ連軍に平和的に名誉の降伏をした。ドイツ軍は国際法に則りポーランド兵を釈放したが、ソ連軍はそうではなかった。『カティンの森』はソ連軍に降伏したポーランド兵が辿った運命を描く。

1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランド亡命政府とソ連は条約を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、攻ナチのポーランド人部隊が編成されることになった。しかしその時点で捕虜になった兵士の90%以上が行方不明になっており、ロンドンのポーランドの亡命政府の追求に対し、ソ連側はポーランド兵士はすべてが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。

しかし1943年4月、不可侵条約を破ってソ連領に侵攻したドイツ軍は、元ソ連領のカティンの森の近くで、2万人近くのポーランド兵士の死体を発見した。ドイツは、これを1940年のソ連軍の犯行であることを大々的に報じた。その後ドイツが敗北し、大戦が終結した1945年以後、ポーランドはソ連の衛星国としてソ連の支配下に置かれた。ソ連はカティンの森事件は実はドイツ軍の仕業であったと反論し、大々的な反ナチキャンペーンを行い、その後ソ連支配下のポーランド人が事件の真相に触れることはタブーとなった。

この映画は、ソ連支配が始まった後、ナチスドイツに対する憎しみと身の安全の追求のため、人々がソ連に靡いて行く中で、カティンの森事件の被害者の親族で真相を明らかにしようとしてソ連占領軍に対抗した少数の人々の悲劇も併せて描く。

監督のアンジェイ・ワイダは父をカティンの森事件で虐殺された。彼は『地下水道』『灰とダイヤモンド』『大理石の男』などで世界的な名声を獲得したが、同時にその反ソ的姿勢から、ポーランド政府から弾圧を受けた。彼はカティンの森事件の映画化を50年以上の長きに渡って構想していたが、ベルリンの壁の崩壊以前ではそれは不可能であり、2007年に最終的にこの映画を作製した時は既に80歳であった。「カティンの森で何が起こったかを伝えるまでは死ねない」という怨念が伝わってくるような映画である。この映画で私たちが記憶しなくてはならないのは次の3点であろう。

まず犯罪である。戦争は人と人が殺しあうという異常な極限状態ではあるが、その中でも普遍的なルールがある。まず非戦闘要員(civilian)は絶対に意図的に殺害してはいけない。そしてたとえ戦闘要因であっても、降伏した兵士に対しては人間的な扱いをしなければならない。しかし、スターリンの指令の下で捕虜の収容を担当していた内務人民委員部(NKVD)はポーランドの兵士を個々に尋問し、すこしでも反共産主義の考えが感じられた兵士は容赦なく殺害したのである。

次は嘘である。ドイツがカティンの森での死体を発見した後、ジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査の依頼がなされたが、ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は調査団派遣を断念した。1943年4月24日、ソ連は同盟関係にあったポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求したがポーランド亡命政府はそれを拒否し、ついにソ連は亡命政府との断交を通知した。大戦に勝つためにソ連の助けが必要と信じる連合国軍は、ソ連を直接非難することは許されなかった。1944年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集するためにジョージ・アール大尉を密使に任命した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触して情報を収集し、カティンの森虐殺はソ連の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールはその後任務からはずされ、サモアの任務に更迭された。こんな同盟国のお国の事情を背景に、ソ連は虐殺はナチスドイツの許されざる犯罪であるという偽りの見解を50年に渡り維持し続けたのであった。

最後に私が強調したいのは、戦勝国の傲慢である。

1946年の、ニュルンベルク裁判においてナチスドイツの罪は裁かれた。戦勝国のソ連はこの機会を利用して、カティンの森での虐殺の首謀者としてドイツを告発しようとまでしたが、さすがにアメリカとイギリスはソ連の告発を拒絶した。その後この事件の責任について、西側でも東側においても議論が続けられたが、ポーランド国内では、支配者であるソビエト連邦に対する怖れにより誰も真相を究明することは許されなかった。この真相を問われることのない状態は1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで継続し、若い世代はカティンの森の虐殺があったということも知らされることはなかった。

カティンの森事件の被害者の人権が最終的に認められたのは、1989年のソ連の自由化開始後であった。1989年、ソ連の学者たちはスターリンが虐殺を命令し、当時の内務人民委員部長官ベリヤ等がカティンの森虐殺の命令書に署名したことを明らかにした。1990年、ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。1992年のソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最終的にカティンの森事件の公文書を公にし、ここで遂に50年に渡ったソ連の嘘が始めて公に証明されたのである。

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[映画] BIUTIFUL ビューティフル (2010年)

スペインのバルセロナ、移民たちが暮らす貧しい地域に住むウスバルは、非合法移民に仕事を与え仲介料を受けるという中で、非常に貧しい生活を送っていた。また彼は死者の魂と語ることができるという能力を持っていたので、霊媒師としてお葬式で死者との会話を親族に頼まれることもあった。妻は病的な躁鬱症で子供を育てることが出来ず、ウスバルは妻と別居して2人の幼い子供たちと暮らしていた。そんな中、彼は末期ガンであり、もう余命が幾ばくもないと宣告される。ウスバルは、セネガルからの非合法移民で夫は強制送還され、乳飲み子と暮らしているイゲーとひょんなことから共同生活を始めることになる。心優しく子供の面倒をみて自分の看病もしてくれるイゲーに心を許したウスバルは、全財産をイゲーに与え、自分の死後子供の面倒を見てくれと頼む。この映画はイゲーがそのお金を手にセネガルに帰国しようとこっそりアパートを出た日にウスバルが死ぬというところで終わっている。

映画の最後は非常に曖昧である。イゲーは結局帰って来たともとれるし、イゲーは帰ってこず「私、今帰って来たわ」という彼女の声はウスバルの幻想とも取れるし、娘がイゲーに代わって返事をしているようにも見える。穿った解釈をすれば、大金を持ったイゲーは強盗に殺されて亡霊だけが帰って来たようにも取れる。この映画を議論しているディスカッションサイトを覗いてみると、人々は次のように論議している。「結局イゲーは帰って来たの?」「あの人いい人だったから、金を持ち逃げしたなんて悲しいな」「イゲーの声はウスバルの幻想だよ」「いや、監督のインタビューでは彼女は帰ってきたと言っている」「え、そう?それならうれしいな」「いや~、あれで全財産を持ち逃げされたら救いが無いからな~」

何と優しい会話であろうか。監督のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥもきっとたくさんの瞳が潤んだファンから同じことを何回も聞かれたのだろう。監督として、これだけ聴衆の心を取り込んだ映画を作れたということは何と監督冥利に尽きることだろう。私もイゲーは結局ウスバルのところに帰ってきたと思う。

バルセロナは今ロンドンに次いで世界で(パリやニューヨークを押さえて!!)2番目にファッショナブルな街だと言われているそうだ。ウディ・アレンの「それでも恋するバルセロナ」は観光客から見る美しい表の顔を描いているが、この映画はその裏の顔を描いている。バルセロナは古来カタルーニャ人の住む地域であり、マドリッドを中心とするスペイン人とは対立関係にあった。フランコはカタルーニャ文化を崩壊させるため、スペイン人のカタルーニャ地方への移住を推奨し、そこではカタルーニャ語を話すことを禁じたという。カタルーニャ人の中でも更に底辺の人間はバルセロナの場末に押し込められ、その人々は「チャルネゴ」と呼ばれるようになった。ウスバルは「チャルネゴ」であり、彼の父はフランコの政策に反対して命が危なくなり、国外逃亡し、若くしてメキシコで死んだという設定である。

この映画は、ガンという病気と、最底辺の生活という暗いテーマを描くのだが、その暗さに拘わらず共感できることがたくさんあり、見終わったあとも何か一筋の希望がある。というのも、ウスバルが非常に心の美しい愛情深い人間に描かれているからだ。しかし、彼は完璧な人間ではない。題名がBeautiful ではなく Biutiful になっているのは、彼が完璧に美しい人間になるには何かが欠けているからである。何が欠けているかというと、「賢さ」である。彼は最悪の環境で生きている中国人の移民に同情してストーブを買ってあげるが、安物のストーブから出るガスで、結局その大部屋に住んでいる中国人の移民は皆死んでしまう。裏社会で金を稼いでいるので、銀行に預金するでもなく、ガンになっても保険はないし、貧しい子供の死後をどうするかという決断もできず、安心して死ぬこともできない。頼れる人は他人のイゲーしかおらず、彼女には全財産を与えてしまう。しかし、この「賢さ」とか「処世術」とかは親から、社会から学ぶものである。ウスバルにこういった叡智を授けてくれる両親がいないのは、フランコの抑圧の結果だとも言えるし、「チャルネゴ」として差別されている限りは教育も満足に受けられないだろうし、まともな職にもつくことができないだろう。悪いシステムの中での悪循環である。この映画は愚かでも美しい心のウスバルを描くことで間接的に社会のシステムを批判しているかのようだ。ウスバルが死人と交流できるというのも、彼が純粋だが教育がないということの極端な結果かもしれない。

スサンネ・ビア監督の『アフター・ウェディング』を観た時は、監督はガンを物語りの狂言回しの知的道具として使っているという印象を受けて、その映画は好きになれなかった。しかし、この『BIUTIFUL』の中でのガンの扱い方には納得が行った。監督のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは死というものを心で感じて理解している人なのだと思った。ウスバルの霊媒師仲間の女性がウスバルに「あなたは死んでいく。身の回りの整頓をしなさい」と静かに語るシーンが印象的である。人は皆自分が死ぬとは思っていないが、たいていの場合は死は突然にやって来る。しかしガンでの死は静かに時間をかけてやって来る。死の準備が出来、自分の人生を振り返る時間が与えられるのである。そして現在ではガンはもはや『死に至る病』ではない。ガンからの生還は可能なのである。私は、アメリカで暮らしているが、ガンから生還した人に何人も出会ったが、多くの人が「ガンを患ったことは、一番幸運なことだった」と言う。私はその気持ちが100%理解できる。

イニャリトゥ監督の映画は全作観ているが、彼の心の根底にあるセンチメントは日本人にも分かり合える『一期一会』とか『輪廻』である。人々はこの世では意外な所で無限に繋がっており、その出会いから人生が展開していくというのが彼の思いであろう。だから、人間の繋がりは国境を越えて拡がって行くものである。その現世での精神の交流が死後にはどうなるかということは、彼は語っていない。しかし、彼は、心というものは、自分が死んだ後でも、子供や新世代の人間に受け継がれていくと信じているのではないか。だから、次の世代のために生きることは、自分のために生きることでもある。

イニャリトゥ監督はメキシコ出身だが、現在は家族と共にロサンゼルスに住んでいる。別にそれは祖国メキシコに対する裏切りでも何でもなく、仕事の関係、そして最近特に治安が悪くなっているメキシコで子供を育てることへの不安、或いは二カ国に住むことによって自分が複数の眼を持てるという環境が好きなのかもしれない。私がイゲーが結局戻ってきたと思うのも同じ理由からである。彼女は夫が強制送還された時に、夫から、お前は絶対にセネガルに帰ってくるな、ここで子供と頑張れと言われている。子供はスペイン生まれなので、スペイン人だし、子供の母親として彼女もスペインに滞在できる。セネガルに帰っても貧困生活が待っているだけで、最下層としてのバルセロナの生活は、それに比べたら楽なものであるし、子供の将来の希望もある。親としての決心なのである。

この映画は2010年のアカデミー最優秀外国語賞をスサンネ・ビア監督の『未来を生きる君たちへ』と競って負けた。スサンネ・ビア監督は「人間ってちょっとした小さいことで、復讐心を抱いちゃうでしょ。それが面白いな~と思ってこの映画を作りました」と言っている。アカデミー賞を取れなかったから、この映画が『未来を生きる君たちへ』より劣っているなんていうことは全くない。少なくとも、イニャリトゥ監督は「面白いな~と思ってこの映画を作りました」とは言わないだろう。

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[映画] Three Monkeys (日本未公開)(2008年)

トルコという国名を知っていてもそこから来た人、そこに住む人と直接会った経験のある人は意外と少ないかもしれない。私は運よく何人かのトルコ人と友達になることができた。彼らにより、私なりのトルコという国に対するイメージができたような気がする。

トルコ人は非常に親日的である。実際に日本人に会ったことのない若い子でも、親とかメディアとか社会一般から日本人は立派な民族だと教えられている。欧米人は日本人と’中国人の区別がつかない人が大半だが、実際に日本人に会ったトルコ人は「中国人と日本人の区別はすぐつく」という。日本人はトルコ人はイスラムやアラブの文化圏だと思い勝ちだが、彼らにとって一番文化的に近い国はギリシャである。「ヨーロッパやアメリカの人間はギリシャ人を古代文化の創設者として尊敬するが、僕たちは野蛮なイスラム人だと下に見ている」という不満も聞いた。国民はイスラム教徒が大部分だが、圧倒的多数のトルコ国民にとってイスラム教はもはや生活の中での大きな役割を占めていない。むしろ、一部の狂信的イスラム教者が台頭して政治をコントロールするようになるのを恐れている。

イラン、イラク、シリアといった国に隣接するので、そのへんは賢くこれらの国を刺激しないように友好的な態度を保つ努力をしているが、やはりトルコとしてはヨーロッパやアメリカと仲良くして、彼らの基準で生きていきたいというのが本音ではないだろうか。トルコはイランと共にイスラム圏の中でアラビア語を第一言語にしない数少ない国なのである。

既に経済的・政治的にもヨーロッパの一員として積極的に参加し、コペンハーゲン基準ではヨーロッパに分類されている。トルコ政府の公式見解では自国をヨーロッパの国としており、サッカー協会やオリンピック委員会などではヨーロッパの統一団体に属し、NATO、欧州評議会、西欧同盟、南東欧協力プロセス、南東欧協力イニシアティヴ、欧州安全保障協力機構など諸々のヨーロッパの地域機関に加盟しており、ヘルシンキ宣言にも署名し、現在欧州連合(EU)へ加盟申請中である。数年前にトルコ人の友人との間でトルコのEU申請が話題になったが、ヨーロッパ人の間ではやはり、イスラム国家ということでトルコへの警戒心が非常に強く、簡単にどんどんEU加盟をゆるされる東欧の国とは待遇が違うとこぼしていた。今イスタンブールが東京と共に2020年のオリンピック開催地の最終候補地に残っている。これはトルコ人がトルコが美しく立派な国家であることを示す絶好の機会であるはずなのだが、どうも隣国のシリアの不穏な動きがマイナスに働きそうで、残念である。実際に現時点では、シリアの行動を認めないトルコはシリア国境で局地的にシリアと小競り合いが起こっている。これはトルコの求めるものではないであろうに。

このThree Monkeysを作成したヌリ・ビルゲ・ジェイランはトルコを代表する監督であり、過去何作もベルリン国際映画祭賞やカンヌ国際映画祭グランプリを受賞している。特にこのThree Monkeysはカンヌ国際映画祭 監督賞も受賞しているという国際的なスーパースターであるが、その作品はすべて日本未公開であるのが非常に残念である。また監督自身も50代半ばにしてなかなかの美男子であり、日本に招いたら人気を呼びそうなのだが。

政治家セルヴェットは選挙運動に疲れて車を運転中に誤って通行人をひき逃げしてしまう。スキャンダルを恐れた彼は、自分のもとで働く運転手のエユップを言いくるめて、金銭を見返りにセルヴェットの起こしたひき逃げ事件の罪を押し付け、エユップは刑務所に入ることになった。エユップが刑務所に入っている間に彼の妻ハジェルはセルヴェットと親密な関係になってしまう。この情事は息子に感づかれてしまい、またハジェルがセルヴェットとの関係に本気になってしまったことで、彼らの人生が恐ろしい方向に歪んでしまうというのがThree Monkeysのあらすじである。

この映画を見て面白いと思ったのは、この映画は非常にウェットである。欧米の映画で見慣れているような、動物的なカラッとした暴力的なところが全くない。家庭の危機を描いているのに登場人物が声を荒らげたり暴力を振るったりすることもない。皆何か心の中で感情を抑えて悲しそうなのである。また皆それなりに不幸なのだが、それは自分の愚かな選択の積み重ねであり、誰1人として建設的な解決策を出そうとしていない。「悲しいの?みんなあなたのせいでしょう」と声をかけたくなるのである。携帯電話の着信の音楽も悲しげである。何故か日本の演歌に似ている。演歌の源泉は韓国だとよく言われるが、遠い源泉は案外トルコじゃないのかと思ったりもする。とにかくウェットで悲しいトーンが最初から最後まで漂う。この監督が欧米に人気があるのは、この哀調が非常にユニークだからだろう。それは欧米人が日本に感じるものと似ているのだろうが、この映画はもっと鬱々と悲しい。

もう一つヌリ・ビルゲ・ジェイランの名声を生んだのはその画像の美しさであろう。映画は大部分がイスタンブールのはずれの貧しい地域の貧しいアパートを撮っているのだが、そのシネマトグラフィーが恐ろしく美しい。これは実際に見てもらわないとわかってもらえないだろう。日本未公開というのは重ね重ね残念である。

特筆するほどの内容もなく淡々とした語りの映画であったが、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の作品をもっと見てみたいと思った。不思議な魅力があるのである。

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[映画]  パリ20区、僕たちのクラス The Class Entre les murs (2008年)

この映画はパリで中学校の教師であったフランソワ・ベゴドーが自身の経験を基にして書いた小説『壁の間でEntre les murs』を映画化したもので、フランソワ・ベゴドーが脚本も書き、映画の中で自分自身(教師役)を演じている。彼は本職の教師のほかにロックミュージシャンや作家、ロック評論家としてのキャリアもあるが、脚本家としてセザール賞を受賞し、作品がカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞し、またアカデミー賞にもノミネートされたことにより、映画人というキャリアも加わったようだ。彼は本が売れた後に教師を辞めて、今は執筆と映画関係の仕事をしているようだ。

様々な国・地域からの移民が共存するパリ20区の、多種多様な人種が入り乱れるある中学校のクラス。この映画はフランソワが率いるクラスの一年間を、主に教室の中で起こったことを中心に描く。フランソワは、大部分がフランス語を母国語としない生徒たちを相手に、正統なフランス語を教えようとする国語教師である。子どもたちのフランス語の力は、日常会話は問題ないが、動詞の活用は不正確だし、文語で主に使われる接続法の活用や、抽象的な単語は十分な理解が出来ない。また生徒たちの中には黒人系の移民の子が多いのだが、彼らの母国はアフリカのマリであったり、モロッコであったり、カリブ海の国であったりと様々で、その文化背景は多様で、単に『移民の子』とか『黒人の移民』とはいえない。そんな子供たちの間で小さな諍いが頻繁に起こる。

錚々たる映画祭で最高の評価を受けた映画だし、学園モノということで、熱血教師や感動的ドラマだと期待して観るとちょっと勝手が違う。この映画は理想的な教育を論じているのでもないし、子供や教師への賛歌でもないし、移民の子供たちを描く社会ドラマでもない。そういう論調を期待すると肩透かしをくらうような映画である。いろいろな問題が次から次へと起こり、フランソワはそれに対して彼なりに真摯に対応するが、問題をうまく解決できるわけでもない。あれこれ出来事が起きて、生徒と教師、父兄と教師、教師間でたくさんの議論や会話がある中で一年が終わる、ただそれだけである。ではこの映画は一体何なのかという話になるだろう。

まず、なぜフランソワ・ベゴドーが原作の『壁の間でEntre les murs』を書いたのか。それは彼の教師という職業の現状に対するやるせなさである。誰でも生きていくためには、何らかの仕事が必要であり、彼にとっては教師がそれであった。彼の両親も教師であったので、教職は身近な職業であっただろう。しかし、教師はフランスでは経済的に恵まれてはおらず、一生懸命やっても生徒や親からは感謝されず、毎日生徒の口答えに反応することで、日が過ぎていく。彼は生徒が好きだし、自分の仕事に熱意を持っているようであるが、それでも彼の言葉を借りれば、教職は『一番悲しい仕事』として位置づけられている。中学校の教師というのは、大変な重労働である。教師を軽蔑する人はいないであろうし(と信じたい)、誰かが中学校の教師をしなければならないとは皆思っているだろう。しかし、自分から進んで中学校の教師になろうという人間は案外少ないのではないだろうか。大切な仕事だということは認めていても、嬉々としてその職に応募する人は案外少ないというのは問題である。

ではなぜローラン・カンテ監督はこの本を映画化したかったのか。フランソワ・ベゴドーもそうだが、ローラン・カンテの両親も教師である。彼は教育者というものを直接知っていたし、彼は教育が子供を現実の世界に送るための準備の場所であるという意味で重要な役割を持たなければいけないことを認めていたが、同時に教育のシステムが機能しない場合もあり、たくさんの生徒がそのシステムの中から落ちていく現実も知っていた。理論的に教育の現状を考えていたローラン・カンテにとって、現場から子供の眼と教室の息吹を具体的に伝えてくれるフランソワ・ベゴドーの本は彼の創造心を刺激してくれ、彼が教育に関する映画を作る大きな動機になったのではないだろうか。ローラン・カンテの主題は「子供にチャンスを与えなければならない教育がなぜ選り分けの場所になっているのか」というものであろう。その例は単なる事故で同級生を傷つけた男子生徒が、たまたま教師の間で問題児として見られていたので退校処分を受ける例や、あまり勉強のできない女子生徒が「絶対に職業高校なんかに行きたくない」と呟くシーンに表現される。フランスの教育制度は正確にはわからないが、成績が悪くて送られる職業高校は生徒にとって希望のないデッドエンドのようなのである。

最後に、この淡々としたドキュメンタリー風の地味な作品が何故満場一致でカンヌ映画祭のパルム・ドールを受賞するほどの圧倒的な評価を受けたのか。それはこの映画が、あまり映画にならないが大切な主題を正直に謙虚に描いているからであろう。国民の誰もが何らかの教育を受け、教育は大切だが現状では完璧に教育のシステムが働いていないということは知っているが、教育問題はドラマチックな作品を作るのは難しいのであまり映画にならない。たまになったとしてもそれは熱血教師が異例の影響を教師に与えるという例外的なケースを劇的に描くことが多い。ここはオーディションで選ばれたパリの下町の普通の子供たちと本職の先生が演技を超えたリアルな態度で現実を描く。それがなぜか説得力がある。

この映画は教育の問題提起であり、この映画の中の子役俳優たちはそれなりに問題児を演じているはずなのだが、映画に出演している子供たちの眼はきらきら輝いている。きっと映画製作に主役として携わるうちに「あ、こんなに面白いことがあったのか!」「自分が主役になって、自分の頭と心を使うことがこんなに楽しいことだったのか!」ということを感じ始めたのだろう。だから、問題児を演じている子供たちも皆可愛らしい。監督としてはそれはちょっと予定外のことだったのかも知れないが、この子供たちの明るさが映画を見たあとでの爽やかさを生み出しているともいえるのかもしれない。

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[映画] マネーボール Moneyball (2011年)

マネーボールはマイケル・ルイスによるノンフィクション『マネー・ボール 奇跡のチームをつくった男』を基に映画化されたものである。映画会社からこの本の映画化権の購入を打診された時のマイケル・ルイスの率直な反応は「それは構わないけど、こんな統計学を書いた本を映画化して面白い映画ができるのかね~」というものだった。しかし、実際に完成した映画を見たあとで、彼は自分の著作が非常に面白くしかも自分が主張したいことをすべて正確に表現しているのに、ただ感嘆したという。

ブラッド・ピットはこの映画によりアカデミー賞主演男優賞にノミネートされたが、それが賞を取るだろうと予想されていたレオナルド・ディカプリオを抑えてのノミネーションだったので、「何故?」という声がファンから上がった。FBIのJ.エドガー・フーバー長官の40年に渡る肖像を見事に演じきったレオナルドの演技力に比べて、『マネーボール』の中のブラッドはあのいつものチャーミングな『ブラビ顔』のままで、全く地のままである。いったい彼は演技をしているの?ちょっと不公平なんじゃない?レオがかわいそう!という感じである。しかし、この映画を面白くしているのは、間違いなくブラッド・ピットに負うことが多いし、この映画は現代のアメリカというものについていろいろ考えさせてくれる映画なのである。今日の生き方に関連しているという点では、『J.エドガー』よりも遥かに大きいと思う。

舞台は2001年、カリフォルニア州オークランドに本拠を置くアスレチックスは貧乏チームである。本人の意思で自由に動けるフリーエージェントでスター選手でもあるジョニー・デイモン、ジェイソン・ジアンビ、ジェイソン・イズリングハウゼンはさっさとアスレチックスを抜け出し、もっと高額の俸給をオファーしたチームに移ってしまった。ジェネラル・マネージャーのビリー・ビーンは乏しい予算の中で勝つ方法を模索していた。

ある日、トレード交渉のため、クリーブランド・インディアンズのオフィスを訪れたビーンは、イエール大学卒業のスタッフ、ピーター・ブランドに出会う。ブランドは各種統計から選手を客観的に評価するセイバーメトリクスを用いて、他のスカウトとは違う尺度で選手を評価していた。ビーン早速ピーター・ブランドを自分のチームにリクルートして、周囲の反対を押し切り、セイバーメトリクスを基に低予算で勝つという戦略を考案する。

ビーンの作戦を一言で言えば、当時普通であった、『スター性』のような主観的な基準に合致した選手に膨大な俸給をオファーしてリクルートするのではなく、出塁率、長打率、選球眼、慎重性など統計学的に得点に貢献する確率が高い要素を持っている選手を選抜し、その中で従来の主観的な評価では無視されていた選手を安価でリクルートすることである。若い選手を『将来性』という主観的な基準でリクルートするのではなく、選手生命の盛りを過ぎた選手でも何か貢献度の高い要素があればチャンスを与える。こうすることによってビーンが率いるオークランド・アスレチックスは毎年のようにプレーオフ進出を続け、2002年には年俸総額が1位のニューヨーク・ヤンキースの1/3程度だったにもかかわらず、全球団で最高の勝率を記録した。映画では2002年に突如アスレチックスが強くなったように描かれていたが、実はアスレチックスはワールドリーグでは勝てないが、プレイオフでは常に勝ち続けており、他球団はアスレチックスの強さはどこから来ているのか不思議がっていたという。アスレチックスの戦略は統計学に則っていたので、数回で勝負するワールドリーグと違い長期戦のプレイオフで勝っていたということは、ビーンの戦略の結果であることを示唆している。

この映画は単なる野球映画ではなく、いろいろな意味で現代のアメリカにとって重要なことを描いていると思うが、その中で私が強調したいことは次の三点である。

まず最初は、この映画は良くも悪くも、アメリカの会社のマネージメントの特質をよく描いているということである。野球業界のストラクチャーを説明すると、オーナー、ジェネラルマネージャー、そして監督である。金を出すのはオーナー、選手をリクルートしたり、チームの構想を作るのはジェネラルマネージャー、実戦の指揮を取るのは監督である。監督が一戦一戦の技術的な戦力に終始するのに対し、ジェネラルマネージャー、はもっと長期的な展望を構想し、さまざまな会見で積極的にメディアに登場する球団の顔でもあり、球団を統率するカリスマ性、経営感覚、契約更改やトレードにおける交渉力、選手の能力を見極める眼力など総合的な能力が求められる。ジェネラル・マネージャーは会社のCEOに相当する。トップダウンの経営方針のもと、ビーンは容赦なく解雇やトレードを行い、その権力たるや大したものである。しかし一方ではビーンは統計学という客観的な基準を設定し、選手にそれに沿った努力をするように求めた。だから高給を取っている選手を解雇する時でもその理由をはっきり説明できたし、主観的な『人気』という基準に外れて不遇な立場に置かれていた地味な選手に活躍する機会を与えてやる気を起こさせたのである。CEOが独裁的な権力を持ち、その手腕が会社の経営の良し悪しに直接影響するというのはいかにもアメリカ的である。

第二にこの映画はアメリカに蔓延している、富の配分の不公平に対する批判でもある。プロ野球でもそうだが、映画の世界でも俳優に対する報酬は非常に不公平である。1980年後半から、トム・クルーズやジュリア・ロバーツのような人気俳優が莫大な出演料を請求するようになり、他の俳優たちも彼らに右へ倣えをし始めた。今日でも、例えばクリスティン・スチュワートはまだ21歳だが、一本の映画で20億円相当の出演料を要求するという。これは他の50人から100人くらいの実力のある俳優の給料の総額に相当するだろう。つまり、ハリウッドはちょっと人気のある若い女優に一つ仕事を与える代わりに他の有能な100人の俳優の仕事を奪っているのである。この不均衡は最近ではハリウッドでも見直されつつあり、給料の割りに出演作の興行収入が高い俳優なども具体的に統計学的に割り出されているという。その『安上がりな実力俳優』の例として、マット・デーモンとかナオミ・ワッツとかが挙げられている。ブラッド・ピットでさえ、「看板俳優が法外な金額を吹っかける時代は終わった。」と明言している。彼も、ちょっと人気が出ると出演料を吹っかける風潮を抑えないと、映画界が衰退して行くと憂慮しているのだろう。

もう一つは個人の幸福とは何かという問題である。ビーンは、かつて超高校級選手としてニューヨーク・メッツから1巡目指名を受けたスター候補生だった。スカウトの言葉を信じ、高給に魅了され、名門スタンフォード大学の奨学生の権利を蹴ってまでプロの道を選んだビーンだったが結局成功せず、スカウトに転進し、第二の野球人生を歩み始めた男である。アスレチックスでの成功の後ボストンのレッド・ソックスから12.5億円相当という歴史上最高額の俸給でリクルートされるが、自分は金で人生の選択をしないと決めているので、そのオファーを断った。彼はカリフルニアに住む娘と離れたくなかったし、オークランド・アスレチックスを愛していたからである。オークランドは全米で最も洗練された街サン・フランシスコと学問の中心地バークレーに挟まれた街である。独自の文化をもち、全米でもっとも政治的にリベラルな街であるが、その大きな部分は貧しい黒人の居住地で、黒人のティーンネージャーが警察に射殺されるという事件も稀ながら起こる。オークランド・アスレチックスは地元の誇りであり、気軽な娯楽であり、若者の心を高め目標になる存在である。ビーンはそのチームを金のために見捨てることはできなかったのである。同時に自分のセイバーメトリクスは既に注目されて第二第三のビーンが出現しつつあった。自分の勝手知ったアスレチックスを去って、また新しい競争人生を始める理由はなかった。

映画の中でビーンの娘が父がクビになるのではないかと心配するシーンがでてくるが、その心配はない。その後もビーンの成功は続き、彼の契約は2019年まで更新されているからだ。ビリーはスポーツイラストレーター誌が選んだ2000年代のトップスポーツマネージャにも選ばれ、野球界でのトップマネージャーとしても認められたのである。

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[映画] 名もなきアフリカの地でNowhere in Africa  Nirgendwo in Afrika (2001年)

1938年、ドイツに住むユダヤ人の少女レギーナは母イエッテルと共に、ナチスの迫害から逃れるため先に英国領ケニアへ移っている父ヴァルターの元へ向かった。ヴァルターはドイツでは弁護士であったが、今は英国人の植民者が経営する農地のマネージャーとしての仕事を得、粗末な家に住み、慣れない農業に従事していた。レギーナは一家の料理人のオウアになつき、ケニアの生活に瞬く間に溶け込んでいったが、イエッテルは現実が受け入れられず、夫には不平不満をこぼし、夫婦の仲は口論も絶えなかった。1939年、ついに英国とドイツが交戦を開始し、ヴァルターの一家は敵国人として収容所に送られ、ヴァルターは敵国人という理由で農場のマネージャーの職を解雇されてしまう。しかしケニヤにいるユダヤ人の人々は、ナチに迫害されているユダヤ人は英国人の敵ではないと英国政府に説得して結局収容所から釈放される。

レギーナとイエッテルが送られた収容所として使用されたのはナイロビの最高級ホテルで、ドイツ人の女性はそこで最高級の接待を受ける。当時のケニヤでは白人と現地人とでは滞在する場所が違っており、敵国人とはいえ白人の女性を現地人が泊まる場所に送ることが出来ず、そういうことになったのであろうが、そこに当時のケニヤの隠されたアパルトヘイトを彷彿させる。

美しいイエッテルに好意を寄せる英国兵の助けで、ヴァルターは新しい英国人の雇用主を見つけることができ、家族はその農場に移る。オウアも移って来て良好な環境の下で新しい生活が始まる。ヴァルターは英国兵として志願することを許され、イエッテルの反対を押し切って大戦に参戦する。レギーナは英国人のための寄宿舎で勉強を始める。イエッテルはヴァルターが戦争に行っている間に新しい農場で生き生きと働き始め、ヴァルターはイエッテルが自分の友人のジュスキントと親しい関係にあるのではないかと疑うようになる。事実ジュスキントはイエッテルに求愛していたのである。

戦争は英国の勝利で終わった。ヴァルターは英国軍に奉仕したので帰還兵としてドイツに帰国することが可能になり、またドイツから判事の仕事のオファーが来ていた。帰国を希望するヴァルターに対してイエッテルはアフリカに滞在することに固執する。二人が決断を下したところでこの映画は終わる。

戦乱や人種の迫害の中で自分の故国をどう選ぶかということに関して、この映画は面白い観点を提供しているし、これはなかなかいい映画なのだが、一つ観衆に不快感というか不可解感を与えるのはイエッテルの描かれ方であろう。ケニヤに到着早々「こんな所に住むなら死んだ方がましよ!」と叫び、オウアを見下した態度を取りヴァルターに「君のオウアに対する態度は、ナチのユダヤ人に対する態度と同じだね。」と非難される。「肉が食べられないなんて考えられない。」という不満に応えてヴァルターが仕方なく鹿を撃ち殺すと「動物を殺すなんて!」と非難する。あれだけケニヤを嫌っていたはずなのに、いざヴァルターが帰国を許されて祖国の復興に尽くそうというと、「自分の家族を殺した国など信用できない」といって帰国を拒否する。しかし自分が妊娠したのを知ると「この国の人が怖い」といって帰国に賛成する。また行く先々で自分が男性の関心を惹くのを自覚している風があり、実際にその情事の現場を娘のレギーナにも目撃されてしまう。

このイエッテルの人格の矛盾は、この映画は三層の視点から成っているということに起因しているだろう。一つは原作者シュテファニー・ツヴァイク(映画ではレギーナとして描かれている)の子供の目、もう一つは大人になってこの自伝を書いたシュテファニー・ツヴァイクの大人の眼、さらにもう一つはこれを映画化したカロリーヌ・リンク 監督の視点である。

シュテファニー・ツヴァイクは母を嫌っているわけではないが、原作となった伝記では彼女を常に我がままなユダヤ人のお姫様のように回想している。彼女にとって人格形成の基盤となったのは、常に前向きに人生を開拓して行く父(ヴァルター)と無限の愛を注いでくれたコック(オウア)、そして自分が通った英国の寄宿舎であった。

映画で父ヴァルターを演じたのは、旧ソ連領のグルジア生まれでオーストリアに移民してきた美青年俳優のメラーブ・ニニッゼであるが、インタビューでシュテファニー・ツヴァイクは「メラーブが父とそっくりなので驚きました。その顔立ち、哀愁と郷愁を心に秘めながら、力強く情熱的に前向き生きているところなど、父そのものです。彼のドイツ語は東方訛りがあり、父と同じドイツ語を話します。」と雄弁に語っているのに、母を演じた女優に関しては「全く似ていません。」と素っ気無く、母がどういう人間かというのにも言及していない。

オウアに関しては、自伝を書いたのはオウアのモデルになる素晴らしい人がいたということを記録したかったからだと述べているくらいだ。映画ではヴァルターが「自分が兵役にいる間は君はナイアビで暮らせる。」というのに対してイエッテルは「私はこの農場を守るわ。」と大見得をきるのだが、実際は母は父が戦場に行ったあとナイアビに移ったらしい。しかしそのコックは自分の故郷を離れて、母に従ってナイアビに移ってずっと彼女の面倒をみてくれたという。

少女レギーナの視点では、父と母は太陽と大地みたいなもので、その間に恋愛関係があるというのは全く考慮の外であっただろう。しかしカロリーヌ・リンク監督はこの映画をラブ・ストーリーとして作製したのである。ヴァルターを演じたメラーブ・ニニッゼは次のように述べている。「ある日、ニニッゼ監督が私に対して、『違う、この映画はラブ・ストーリーなのよ!』と叱責しましたが、それで私はこの映画の解釈がわかり、それ以後演技の方針が決まりました。」

つまり、メラーブ・ニニッゼはこの映画はもっと政治的なものだと解釈していたのだ。しかしカロリーヌ・リンクの意図はこの映画を「裕福なユダヤ人の家庭で育ったお嬢様のようなイエッテルがアフリカの大地の中で自立する女として成長していく過程を大人の恋愛を混ぜながら描いたドラマ」として再現したのであり、それはアフリカという大地を素直に吸収して生きていくという少女が中心の視点から大きくずれてきており、中心人物はイエッテルに移り、作者の女性の自立や恋愛観をイエッテルに投影させようという意図が結果として、映画では矛盾した人間となっているようである。

シュテファニー・ツヴァイクの書いたものを読むと、映画では描かれなかったいろいろな事情がわかり興味深い。なぜユダヤ人がドイツを逃げなかったのかという質問には、当時は国外に逃亡するのには高額な資金が必要で、多数のユダヤ人はそれを捻出できなかったという可能性も示唆している。彼女の父がケニヤに逃亡したのは別に深い理由はなく、入国の費用が1人50ポンドと格安であった上に、ナイロビではユダヤ人のコミュニティーが強く、ケニヤが比較的安全な場所であったからだという。

ケニヤでも、父はすでに確立している植民地の統治制度の中間マネージャーとして赴任したのであり、一からの出発ではない。つまり植民地の英国人白人の支配機構の中間管理職としての立場である。農場に仕事がある限りは、支配者階級の一つとして現地人の労働を監督するわけで、収入や身分が保証されているし使用人も使えるので、イエッテルがそこに留まりたいと思うのもわかる気がするが、ヴァルターはケニヤで才能のない農場者として果てるよりも、自分の才能を生かしてもう一度祖国で自分を試してみたいという気持ちになるのもわかる。あるいは父はドイツにおけるユダヤ人の末路を見抜くだけの力がある人だったから、平和で優しいケニヤにもやがて民族主義や独立運動の波が吹き荒れるということを洞察していたのかもしれない。

シュテファニー・ツヴァイクの父にとって、自由の国アメリカへの移民は選択肢ではなかった。彼は英語が話せないので、たとえアメリカに渡っても弁護士として生きて行くのは40歳を過ぎてからではまず不可能であり、彼はどんなに苦しくても祖国ドイツで自分の人生を再構築することにしたという。彼は自分に命を与えてくれたケニヤに対する感謝を生涯忘れることはなかったという。

祖国として自分が暮らす国を選ぶ基準は、まず国家が自分の生命を保証してくれること、そして自分の才能が生かせる環境であること、自分が主人公として環境をコントロールできること、自分の愛する家族に囲まれていること、言語がわかること、好きな食べ物が簡単に入手できることなどがあるだろう。日本人がこれだけたくさんの基準を一瞬で簡単に満たして『日本』という国を祖国として選べるということは、何という幸せなことであろうか。この世界には祖国を選べない人もたくさんいるのである。

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[映画]  危険なメソッド A Dangerous Method (2011年)

私達は誰でも心理学者のフロイドとユングの名前は知っているし、フロイドの夢診断のことも知っている。しかし、二人の療法の詳細は心理学でも勉強しない限りはわかりようがないし、この二人の関係とか二人を生み出した当時の状況というのは案外知られていないのではないだろうか。この映画はフロイドとユングの友情とその決別、そして二人に師事した女性精神家医ザビーナ・シュピールラインとの関係を描く。

ザビーナはロシアの西端にあるロストフに住む富裕なロシア系ユダヤ人の家族に生まれたが、精神病を患い1904年にスイスのチューリヒ近郊のブルクヘルツリ精神病院に入院した。ここで彼女を治療したのが若い精神科医のユングであった。ユングはルター教会牧師の息子であり、富裕な出自の妻を持ち、真面目で身持ちの堅い、そして美しい風貌と知性に恵まれた男性だったが、同時に第六感的能力のような超自然的直感の鋭い男でもあった。彼は、ザビーナも自分のような鋭い直感を持ち、また非常に優秀な頭脳の持ち主であることがわかる。ユングの治療によりザビーナの病は治癒し、彼女は大学の医学部に進学し精神科医をめざすようになる。

ユングは、ジークムント・フロイドがザビーナの症状に似た患者を、当時革新的であった無意識の解明という観点から治療しているのを知り、1907年頃から親交を結ぶようになった。フロイトはユングのことが気に入り、自分の弟子で精神が病んでいるオットー・グロスの治療を依頼する。個人セッションで彼を治療しているうちに、オットーの退廃的な人生観は優等生で道徳的に一夫一妻制度に凝り固まっていたユングを激しく揺さぶり、ユングは自分に正直であろうとして、ザビーナへの愛を認め、彼女と愛人関係になる。またザビーナの卓越な知性はユングの理論に大きな影響を与えていく。

しかし1913年あたりから、ユングとフロイドは袂を分かつことになる。フロイトはユングの超能力への傾倒はオカルトであり、学問としての心理学から離れていくと怖れ、逆にユングは夢判断をすべて無意識の性への願望に結びつけるフロイドに疑いを持ち始める。それ以後二人は学者として敵対することになる。同時に精神科として成長したザビーナは愛人以上の関係をユングに求め始め、それが原因で二人は別れることになる。ザビーナがユングの後自分の師として選択したのは、フロイドであり、フロイドは自分とザビーナは同じユダヤ人なので、よく理解できると彼女に述べる。しかし、ユングがザビーナの後に選んだ愛人はやはりユダヤ人のトニ・ウルフであった。この映画はユングとフロイトが決別する第一次世界大戦前夜で終わっている。

フロイドがユダヤ人であったということが、ユングとフロイドの関係を興味深いものにしている。1911年にはフロイドとユングが中心になり国際精神分析協会が設立されたが、その初代会長になるのはフロイトでなくユングであるのは、ユダヤ人以外を会長に選ばなければならなかったからだといわれている。フロイトはアシュケナジー(東欧系ユダヤ人)であり、当時はアシュケナジーは大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ研究に勤しんでいた。

アシュケナジーとは、ユダヤ人の中でドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々を指す。もう一つのグループ、中東に居住していたユダヤ人はセファルディムと呼ばれる。アシュケナジーは当初は、ヨーロッパとイスラム世界とを結ぶ仲買商人だったが、ヨーロッパ・イスラム間の直接交易が主流になったこと、ユダヤ人への迫害により長距離の旅が危険になったことから、定住商人へ、さらにはキリスト教徒が禁止されていた金融業へと移行した。シェークスピアの『ベニスの商人』ではアシュケナジーの商人が登場する。アシュケナジーは1290年には英国から、1394年にはフランスから追放され、東欧へ移民して行った。彼らは神聖ローマ帝国では迫害されたが、ポーランド王国では既に1264年に「カリシュの法令」によりユダヤ人の社会的権利が保証されていたのでポーランドはユダヤ人にとって非常に住みやすい安全な国となった。経済的にもポーランド王国は専門職移民であるユダヤ人を経済的な利益があるとして歓迎したのである。ユダヤ人はポーランドを基点としてさらに東方のウクライナやロシアに移って行った。

1938年、アドルフ・ヒトラー率いるナチスがアシュケナジーの学者を精神科医の学会から追放した時、ユングは学会の会長であり、自分が永世中立国の住民であるという立場を生かし、ドイツ帝国内のアシュケナジー医師を受入れ身分を保証することを決定し、フロイトに打診した。しかし、フロイトは「自分の学問の敵であるユングの恩義を’受け入れることは出来ない」と言って援助を拒否した。フロイト自身はその直後にロンドンに亡命したが、亡命できなかったアシュケナジーの医師たちは仕事を失い、大部分は強制収容所のガス室に送られ殺されたのである。

ザビーナについては、彼女は1912年、ロシア系ユダヤ人医師パヴェル・ナウモーヴィチ・シェフテルと結婚し、ベルリンで暮らした。第一次世界大戦中はスイスで暮らしたが、ロシア革命後の1923年、ソヴィエト政権下のロシアに帰国し、モスクワにて幼稚園を設立した。しかし1942年に故郷ロストフにて、侵攻したナチの手で殺害された。

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