[映画]  バーダー・マインホフ 理想の果てに The Baader Meinhof Complex Der Baader Meinhof Komplex (2008年)

1960年から1970年代は、米ソの冷戦、ベトナム戦争、パレスチナ難民問題、文化大革命、 アルジェリアの独立、‎南米のDirty War、ケネディ大統領やキング牧師の暗殺と世界的な動乱の時代であったが、ドイツの赤軍がヨーロッパでテロを起こしていたということを覚えている人が現代ではどれくらいいるだろうか。1970年前後には、20代のドイツの若者の三分の一はドイツ赤軍に共感を抱いており、その若者の反乱は西ドイツ政府にとっては大きな脅威となっていた。その赤軍を支持していた若者は今60代から70代になっているはずだ。この映画『バーダー・マインホフ 理想の果てに』は正義感の強い高等教育を受けた若者が60年代に理想に燃えて左翼運動に走り、70年代には非暴力で行くか、武装闘争で行くかで方針の分裂が起き、過激派の赤軍がどんどん暴力集団に変貌していく過程を描いている。映画では描かれないが80年代にはベルリンの壁が倒れ、結局社会主義は統治の原理としては失敗であったことを人々は知ることになる。

この映画は10年に渡る長い期間の中での数多くの赤軍の若者とそれに対抗する当局者たちを描いているので、とにかく次から次へと暴力的行為が起こり、1人1人の描かれ方が浅い。また事実をドキュメンタリータッチで羅列しているだけで、一番大切な「なぜ60年代のドイツの若者が赤軍派武装集団に入ったり、それを支持したのか。なぜそれだけ支持されていた赤軍が崩壊したのか」ということは描かれていない。またドイツの歴史をあまり知らない人間、ドイツのような発展国に過激派が存在したことを覚えていない人間にとって、この映画は少々わかりづらい。映画は聴衆が歴史を知っていることを前提として、詳細を全く説明をしてくれないからである。この映画の背景を少し調べてみた。

映画は1967年、イランのシャーが西ベルリンを訪ねたことから始まる。シャーの独裁から逃亡したイラン人や学生を中心とした平和的抗議デモは、学生が警官に射殺させたことを機に暴動化する。ウルリケ・マインホフは高名な左翼ジャーナリストであったが、その事件にショックを受け、さらに過激な思想に走っていく。夫も左翼的雑誌の編集者であったが、彼は暴力的行為には反対しており、二人は離婚する。

グドルン・エンスリンは牧師の娘で、頭脳明晰な優等生であった。ドイツの最高学府のベルリン自由大学で博士号の取得をめざしており、婚約者の父で元ナチ党員の遺稿を出版しようとしていた。彼女の父は社会問題に理解のある牧師で、彼女も穏健な議会改良主義を信じていたが、アンドレアス・バーダーと出合ったことで人生が変わる。彼女は婚約者との間にできた子供を放棄して、アンドレアスと出奔する。

アンドレアス・バーダーは高校を退学して、あらゆる犯罪を繰り返していた男であった。高学歴の人間が多い過激派の中で異色の存在であったが、その強いカリスマで、グドルン・エンスリンと共に過激派をテロ行為や犯罪行為に導いていく。

エンスリンとバーダーはデパートの放火で逮捕された。マインホフは投獄されたエンスリンを取材に行き、彼女と意気投合する。マインホフとエンスリンそしてバーダーを中心としてバーダー・マインホフ・グループが結成され、それが後に赤軍に発展する。彼らはヨルダンに当時本拠を置いていたパレスチナ解放ゲリラのゲリラ訓練所に滞在し軍事訓練を受けた後、次々とテロ活動や資金稼ぎの銀行強盗に成功し、西ドイツ政府の大きな脅威となっていく。マインホフ、エンスリンそしてバーダーを含む赤軍派の指導者たちは1971年に逮捕されたが、彼らは、赤軍派の弁護士のクラウス・クロワッサンとジークフリート・ハーグの面接を通じて、獄中からの赤軍派の活動家を指導し、彼らが二世三世の赤軍兵士として育って行く。

次世代の赤軍派はどんどん過激化し、バーダーたちの保釈を求めて、誘拐やハイジャックなどを起こす。バーダーたちの保釈を求めたテロとして有名なのは、1972年のミュンヘンオリンピックの選手村でのイスラエル人選手の誘拐と殺害、1975年のスウェーデンのドイツ大使館の占拠と爆破、1977年のジークフリート・ブーバックとユルゲン・ポントの暗殺事件、実業家ハンス=マルティン・シュライヤーの誘拐と殺害、ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件などがある。1970年代後半には赤軍の暴力度は頂点に達し、一連のテロ行為は『ドイツの秋』と呼ばれ、赤軍は国民からの最後の支持も失っていった。誘拐に失敗して殺害されたドレスナー銀行の頭取ユルゲン・ポントはそのテロに加担した赤軍派のメンバー アルブレヒトの父の友人であり、アルブレヒトの名付け親でもあった。この赤軍派と提携して戦ったのが、ヨルダンを追放されてレバノンに移りさらに過激化していた、パレスチナの武装集団『黒い九月』であった。

ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件犯のリーダーである『黒い九月』の兵士は西ドイツ政府に対し、赤軍派第一世代メンバー11人の釈放と現金1500万米ドルを要求した。パレスチナ人が難民になってから、国際世論、特にアラブ諸国はパレスチナ人とその解放戦線に対しては同情的であったが、この時から風向きが微妙に変わって来た。パレスチナ解放戦線は既にヨルダンとシリアからの支持を失っていた。ハイジャック機はラルナカ(キプロス共和国)、バーレーン、ドバイを転々とし、ドバイから先はアラビア半島のどの空港からも着陸の許可は下りなかった。、燃料が尽きたハイジャック機は結局南イエメンのアデンに不時着したのちソマリアのモガディシュに到着し、ここでドイツ政府機関に鎮圧される。このハイジャックの失敗の直後、獄中にいた赤軍派の第一世代は自殺を決行する。

戦後の新しい世代は第二次世界大戦後、親の世代が残した課題、あるいは親の世代が作り出した問題を当時の希望の星であった左翼思想により解決しようとしたのであろう。最初は理想から始まったこの動きも次第に暴力か非暴力かという選択に迫られていく。暴力に訴える方が解決策としては一見手っ取り早いかもしれないがそれは永続しない解決だった。

この映画の監督はウーリ・エーデル、ウルリケ・マインホフを演じたのは『マーサの幸せレシピ』(これはキャサリン・ゼタ=ジョーンズ主演で『幸せのレシピ』としてハリウッドでリメイクされた)、『善き人のソナタ』に出演したマルティナ・ゲデックである。この映画はアカデミー賞最優秀外国語映画賞にノミネートされたが、結局日本から出品された『おくりびと』が最優秀映画賞を受賞した。

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[映画] コーラス The Chorus Les choristes (2004年)

世界的指揮者ピエール・モランジュはニューヨーク公演中に母が死んだという知らせを受け、急遽フランスに帰国する。母の葬儀の後、ペピノと言う男が訪ねてくる。ペピノはピエールと同じ学校に行き、そこでクレマン・マチューという教師に教えを受けたという設定が知らされたあと、映画は50年前に戻る。

第二次世界大戦後まもない1949年、クレマン・マチューは戦争孤児や問題児を集めたFond De L’Étang(池の底)と呼ばれる寄宿舎に舎監として赴任する。そこでは厳格な体罰で子供を抑えようという方針の校長のもとで、子供と教師の間で反抗と厳罰が繰り返されており、子供は将来の目的や夢を伸ばすことも教えられていなかった。音楽家であったマチューはコーラスを通じて、子供と心を通わせ、その中で子供に規律の態度と音楽の楽しさを教えて行った。マチューは、問題児として見られているピエールが、奇跡のような「天使の歌声」を持っていることに気が付き彼の才能を伸ばそうとする。

校長は生徒に対する愛は全くなく、孤児院を経営することで名声や叙勲を狙っている男だった。大量の金が学校の金庫からなくなっているのを発見した彼は、一番の不良少年であるモンダンが盗んだのだと思い、拷問に近い取調べをした後、罪を認めない彼を放校にしてしまう。後にモンダンは復讐のために寄宿舎に放火するが、その時たまたまマチューが全生徒を連れて遠足に行っていたので死者はいなかった。しかし生徒を建物以外に連れ出すのは校則違反だとし、校長はマチューを罷免してしまい、生徒たちにも彼に別れを言うことを許さなかった。

マチューは結局1人寂しくその寄宿舎を去って行き、生徒も彼がその後どうなったのかは知る由もなかったのに、何故ペピノがその後のマチューの人生を知っていたかという理由が、映画の最後の最後で明かされる。非常に感動的な終幕であった。

不良少年が音楽の力でそうも簡単に更生するなんてあり得るかと思われる方もいるかもしれないが、この映画に出てくるのは心の狂った悪童たちではない。この寄宿舎にいるのは、大部分は戦争で親を失った孤児たちか、或いは、夫を戦争で失い終日働かなければならない貧しい母を持つ子供たちである。ここにいる子供達は生きるために店からパンを盗んだこともあるかもしれないが、根本は心寂しく、生き方の方向を教えられていない子供たちである。いたずらもするが、それは自分の軽はずみないたずらが結果としてどれだけ恐ろしいものになるかを両親からきちんと教えられていないからである。いたずらの後で、ひどい体罰を校長から受け、彼らは段々心を閉ざし、ますます悪い行動に出てしまう。大金を金庫から盗んだのはモンダンではなかった。その少年はふと空気船が買いたいと思い立ちお金を盗んでしまうのだが、そのお金をただ自分の秘密の隠し場所に置いたあと、そのお金をどうするということもないのである。

またマチューが接していたのは、変声期前の時期の子供たちである。天使の声のようなボーイソプラノを生み出す本当に短期間の奇跡的な期間にマチューから歌う喜びを教えられた彼らはまだ幼く、父性の愛を求めており、反抗するといっても知れたもので、マチューの慈愛に素直に応えられる年代であった。

ピエールはその才能を発見され、奨学金で高名な音楽学院に進学し、世界的な指揮者となった。彼はマチューのことや、寄宿舎のことは遠い昔のこととして忘れていたが、ペピノからクラス写真を見せられてそれらを懐かしく思い出す。ピエールの人生を見ていると、成長の過程で、特に人間を形成している若い時代によき師に出会うことがどんなに大切なのかということを思い知らされる。マチューとピエールが接した時期は比較的短時間で、マチューはピエールを特別扱いしたわけではない。しかしマチューに出会うことがなければ、ピエールは決して世界的な音楽家にはなれず、下手をすれば刑務所に入るような人生を送っていたのかもしれないのだ。大人になってから自分の小学校の先生に再会するということは、滅多にないだろう。子育てやキャリアの追求に多忙な時に、自分の小学校の先生のことなどは完全に忘れているが、自分の親が死んで、人生は無限ではないとわかり始めた年齢の頃、ふと昔の先生のことを考え、名前は忘れているかもしれないが、その顔や優しくしてもらった思い出を心に浮かべることは案外多いのではないだろうか。

この映画はあの『アメリ』の歴史的なヒットを抜き、フランス映画史でナンバーワンの大ヒットになり、フランス人の7人に1人がこの映画を見たという。製作はフランスの国際的名優(そして美男俳優である)ジャック・ペラン、監督は彼の甥のクリストフ・バラティエ、そして子供時代の可愛らしいペピノを演じたのは、ジャック・ペランの三男マクサンス・ペランである。ジャック・ペランは老境に達したピエールも演じている。ジャック・ペランはあの不朽の名作 ‎『Z』の製作も行い、それでアカデミー賞を獲得している。俳優として成功するのも難しいのに、歴史に残る『Z』と『コーラス』という映画を製作したジャック・ペラン、一体どういう星の下に生まれてきたのだろうか。

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[映画] Outside the Law Hors-la-loi (日本未公開)(2010年)

2006年にアカデミー賞最優秀外国語賞候補にノミネートされた名作 『デイズ・オブ・グローリー』の成功の後で、夢よもう一度という感じで作られた続編の『Outside the Law』は、残念ながら前作には全く及ばぬ出来であり、柳の下に二匹のドジョウはいなかったようだ。

監督は前作と同じラシッド・ブシャール、『デイズ・オブ・グローリー』でカンヌ最優秀男優賞を受賞した兵士役の3人の俳優が前作と同じ役名(メサウード、アブデルカダ、サイード)で出てくるが、続編では3人はアルジェリア出身の兄弟という設定である。前作でちょっと癖のあるマーチネス軍曹をやった俳優はその3人を追うフランスの捜査官として出演する。ただ1人前作の主要人物で同じくカンヌで最優秀男優賞を取ったヤッシール役のサミー・ナセリだけは出演していない。実は彼は『デイズ・オブ・グローリー』の出演の前後から、コカイン所持などを含めて何回か法律に触れ有罪判決を受けていたが、2009年には遂にナイフでの傷害罪を起こして逮捕されているので、そのせいであろう。

顔立ちも体型も違う3人の俳優が同じ部隊の兵士なら説得力もあるが、兄弟を演じるのはどうも違和感がある。いろいろな事件が降りかかって来るのも、同じ部隊の兵隊なら納得だが、3人の兄弟に次から次へと降りかかってくるのもあまりにも偶然すぎる。また、この映画は第二次世界大戦前から1962年の長い年月を2時間で描くので、今一つ上滑りで、掘り下げ方が浅いという印象を受ける。『デイズ・オブ・グローリー』の成功のあと、ラシッド・ブシャール監督はもっとエンターテインメントの要素を強くして、アクションシーンを投入することで興行的な成功も狙っているかのようだ。事実、この映画にはハリウッドの伝説的な映画『ゴッドファーザー』の影響が強く感じられる。しかしそのアクションシーンもなぜか今一つである。ハリウッド映画にもいろいろ批判があるだろうが、ハリウッドもいたずらにそのアクション映画のテクニックを育ててきたわけでない。アクションシーンでは、ハリウッドにはまだまだ及ばないというのを見せ付けられたような気がする。

この映画はアルジェリアの村で、3人の兄弟の父が所有する土地がフランス人と連帯するアルジェリア人に奪われて、一家で故郷を去るところから始まる。映画自体はフィクションであるが、実際にあった事件を背景に取り入れており、その例の一つがセティフの虐殺である。1945年5月8日、ドイツ降伏の後、アルジェリア人がフランス軍事基地のあるセティフ及び近隣で独立を要求してデモが行われたが、警察が介入する中でそのデモが暴動に姿を変えその鎮圧の過程で多数の人 間が殺害された。映画では、兄弟の父はその中で殺害され、次男のアブデルカダが逮捕されフランスの刑務所に送られる。

長男のメサウードはフランス軍兵士としてベトナムに出兵する。映画ではベトナムに送られたのは主にフランス植民地の兵士であると描かれている。実際に当時フランスは第一次インドシナ戦争を戦っていたが、その主力であるモロッコやアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人達の士気は低く、厭世気分が強かったらしい。結局フランスは1954年のジュネーヴ協定によりベトナムから手を引くことになる。

三男のサイードは自分たちの土地を奪ったアルジェリア人の地主を殺害し、母を連れて兄が囚われているパリに渡り、そこで酒場とボクシングのジムを始め、金儲けに専念する。やがて長男がベトナムから帰還し、次男が釈放され家族がようやくランスで再会する。

次男のアブデルカダと長男のメサウードは、パリでアルジェリア民族解放戦線(FLN)に参加したが、二人はメサウードが第二次世界大戦におけるレジスタンス運動やベトナム戦争で出会ったアルジェリア人で、今はフランス政府内部で働いている旧戦友を利用して、政府関係者を暗殺して行く。FLNの動きが過激になって行くにつれて、二人の行動もどんどん暴力的になって行く。

『デイズ・オブ・グローリー』の成功のあとたくさんの人々がラシッド・ブシャール監督に映画の中の人物はその後どうなったのか、と尋ねるので監督は続編を作成することにしたという。しかしこの映画は、FLNの暴力を否定しているのか、肯定しているのかわからない。多分否定しているのであろうが、暴力的なシーンを見続けるのはたまらない気持ちになる。またアルジェリアの将来に対する希望が見えない映画であった。素晴らしい名作の待望の続編が非常に暴力的で、見たあとで気持ちが暗くなるような作品であったことは残念であるが、これは独立に多大な犠牲を払い、現在でも政情不安定が続くアルジェリアの悲しい現実を投影しているのかもしれない。また、この映画の内容は歴史的に公平ではないと多くの人が抗議したという。いろいろな意味で賛否両論の映画だったようだ。この映画もアカデミー賞最優秀外国語賞候補にノミネートされた。

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[映画] ソハの地下水道 In Darkness W ciemności (2011年)

この映画は、ナチス・ドイツに支配された1943年の旧ポーランドの街リヴィウ(或いはリヴォフとも表記される)で、ユダヤ人を地下に匿ったリヴィウ市の下水道整備工ソハの実話を基にしている。ソハは、地下の下水道でナチスの迫害から逃れて潜んでいるユダヤ人たちに出会う。日当を貰うという約束ででユダヤ人に食料を運び、彼らを助けることになったが、ソハの行動は自分だけではなく家族の命を危険にさらすことになっていく。

映画ではドラマ性を持たせるために、ソハは窃盗などをする小悪党で、ユダヤ人を匿ったのも最初は金目当てであり、妻からユダヤ人を助けるのには反対されていたが、彼らを匿る過程で、次第にユダヤ人への同情がわき、ユダヤ人たちが財産を全部使い果たした後は無料で、自分の命を冒してまで彼らを助けたように描かれている。しかし、私がいろいろ関係した情報を調べていく中で、それは必ずしも事実ではなかったかもしれないという気がしてきた。彼は最初からユダヤ人に同情的で、妻や友人と力を合わせて、自分の意思で彼らを助けたという可能性がある。金銭を受け取ったのは、ソハも非常に貧しい生活を送っており、他人を助ける余分のお金は持ち合わせていなかったので、ユダヤ人の食物を買うためには彼らの金が必要だったのではないか。後にユダヤ人のお金が尽きた時、彼は自分のお金で食物を買って彼らに提供している。こういう生活が14ヶ月続いたのだ。

どちらが真実かはわからないし、それは重要なことではないだろう。重要なことは、何故自分と家族の命を失う危険を冒してまでソハはユダヤ人を助けたのであろうかということたろう。それを私なりに考えてみたい。

ソハが住む町リヴィウはポーランドの中でも東端で、古来から西のポーランド王国と東のキエフ公国の間で争奪が繰り返されていた地域である。17世紀まで、リヴィウはウクライナ・コサックやオスマン帝国などの相次ぐ襲撃を受け、1704年には大北方戦争でカール12世の率いたスウェーデン軍に占領され、町は破壊された。

1772年の第1回ポーランド分割によって、リヴィウはオーストリア帝国の支配下に置かれた。オーストリア帝国政府はドイツ化を強く推し進め、公用語はドイツ語とされた。それを憎むポーランド人は1848年には民衆蜂起を起こし、その後ポーランド人は徐々に、この地で自治を認めらるようになった。リヴィウはポーランド文化の中心地でもあったが、同時にここにはウクライナ人も居住し、ロシア帝国に支配されている他のウクライナ地方と違い、ここでは、ウクライナ文化も守られていた。第二次世界大戦でのオーストリアの敗北の後1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が消滅すると、西ウクライナ人民共和国の独立が宣言され、リヴィウはその首都とされた。

それに対してポーランド人の住民が蜂起し、ポーランド・ウクライナ戦争が起こった。戦闘は本土からのポーランド軍の全面的支援を受けたポーランド人側の圧勝に終わり、再びリヴィウにポーランドの支配が復活した。ウクライナ人民共和国のディレクトーリヤ政府は、リヴィウにいるウクライナ人の味方につかず、自分の背後にあるロシアの赤軍に対抗するために、ポーランドからの協力をとりつけた代わりに、ポーランドのリヴィウに対する支配を認めた。

1920年に革命に成功したソビエト赤軍がリヴィウを襲った。ポーランドは武装した住民が赤軍を撃退し、ウクライナの意向を無視してソビエト側との講和に入った。これは反ソという原理で同盟を結んだウクライナ人民共和国に対する裏切りであった。

これらの複雑な情勢を簡単にまとめると、リヴィウでは古来からポーランド人とウクライナ人の対立があり、ウクライナ人はロシア、そして革命後のソ連とは天敵であった。反対にポーランド人は古来からドイツ人に対しての憎しみがあった。ウクライナ人はリヴィウでの覇権を得るためにドイツ人と結託し、ポーランド人は逆にロシア人と結びついたということである。

第二次世界大戦において、ドイツは1939年9月1日にポーランドに侵攻し、リヴィウは9月14日にドイツ軍に占領された。その後リヴィウは短期間ソ連に占領されるが、結局ドイツがこの地を占領することになる。ドイツ軍は共産主義者とユダヤ人を壊滅することを目的とした。リヴィウのウクライナ人の一部は、反ソ親ナチの運動を起こしナチに協力した。ドイツ占領の中で、ポーランド人は苦しい生活を迫られる。映画の中でポーランド人たちがドイツ兵を殺したという容疑で何人も処刑されているシーンがでてくるが、ポーランド人にとってナチによるユダヤ人の迫害は『明日は我が身』であると思われたのであろう。そこには共感がある。しかし、それでも危険を冒してユダヤ人を守ったソハの決心の源泉を測ることはできない。

第二次世界大戦後、一帯はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土とされた。その際に、ポーランド人の住民の大部分がポーランドに逃亡した。

1945年、第二次世界大戦の終了直後、ソハが彼の娘と一緒に自転車に乗っている時、ソ連の軍トラックが彼の娘に向かって進んできた。娘をトラックから守ったソハは、トラックに轢かれて死亡した。彼の葬式で「彼が死んだのは、ユダヤ人を匿まって、神の怒りに触れたからだ。」と言った人もいたという。映画をドラマチックにするために、ソハは卑小な人間として描かれているが、私はそれを信じない。彼がどういう人間だったかというのは私には問題でない。彼が何をしたかというのが大切であり、この映画によって人々は彼のことを語り続けるだろう。

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[映画] 悲しみのミルク The Milk of Sorrow La Teta Asustada (2009年)

ペルーの首都リマ近郊の貧民屈に住むファウスタは、母が毎日のように歌う彼女のレイプの経験を聴いて育つ。母は80年代に内戦が激しかったアンデスの山地の出身で、インカ帝国をつくった民、ケチュア族の血を引く。夫が虐殺され、自分も残虐にレイプされた後、リマに逃げ込んできたのだ。20前後のファウスタの母であるから40代であると思われる母は、もう老婆のようである。ファウスタはその歌で喚起されたレイプの怖れから、自分もレイプされることを防ぐためにジャガイモを自分の体内に入れる。ジャガイモが体を蝕んでいくが、ファウスタはそれを取り出すのを頑固に拒む。

ある日母が死んだ。母の死体を故郷のアンデスの山に葬る費用を稼ぐために、ファウスタはその貧民屈に隣接する最高級住宅街に住む女性の家でメイドとして働き始める。その女主人はファウスタが即興で歌う悲しい歌を聴くことと交換に真珠を一粒づつくれる。彼女は世界的なピアニストで、ファウスタが歌う歌を基にピアノソナタを作曲する。その曲を発表して絶賛を浴びた後、彼女はファウスタを解雇する。男性に対して異常な恐怖心を持ち、自分に好意をもってくれる善良な庭師をも拒絶したファウスタだが、遂にジャガイモを体内から除去する手術を受ける。映画はファウスタが美しいアンデスの山に母の死体を埋葬するところで終わるのだが、最後の最後で(多分)庭師の愛情に反応する彼女が描かれている。

この映画は1980年代にペルーで起こった毛沢東主義者グループ「センデル・ルミノソ」と、それを弾圧する政府軍との間に起こった紛争を遠い背景にしている。センデル・ルミノソはアンデスの山間部を中心に勢力を強めた。センデル・ルミノソと政府軍の抗争のなかで、数多くの村人の殺人やレイプが起こった。しかしこの映画はその惨状を描く社会ドラマではない。映画には一切暴力は出てこない。見ている方としては、母はセンデル・ルミノソのゲリラをかくまった罪で政府軍に報復されたのかと思ってしまうが、同時にセンデル・ルミノソは、現代史では『南米のポル・ポト』と言われているように残虐の窮みを尽くしたとも伝えられており、映画ではどちらが母を陵辱したのかは一切語っていない。

この映画は映像的には非常に美しいが、何故か心にいつまでも突き刺さる。現実の恐ろしさが、目に見える暴力の代わりに体内にあるジャガイモというもので象徴されているので、その悲しみがずっと目に見えず漂ってい来るのだろう。同時に、これは幼い少女が育って行く過程を描いた寓話だとも言える。母のレイプを歌う子守唄はずっと大人になるまでファウスタを引き摺り、彼女は笑うこともできず、通りを歩く時も壁の陰に隠れて歩く。恐怖を抱いたら鼻から出血するし、人を愛することも怖くてできない。しかし、彼女は最終的にはその母の呪縛を乗り越えて生きていこうと決心する。

この映画がアカデミー賞最優秀外国語映画賞に最終候補5作の一つとしてノミネートされた時、ペルー政府は狂喜したという。この映画が世界中の人に観られて、ペルーの観光収益が増えると踏んだからだ。アカデミー賞最優秀外国語映画賞は各国の政府からの推薦によって出品される。この映画はペルーの暗黒の時代も描かれているが、ペルーの政府はそれはもう過去のことであり、政府は平和を達成することに成功したし、現代のペルーの人民は幸せだということをこの映画はアピールできるだろうと思ったのだろう。

ペルー国内を疲弊させた紛争を最終的に終結させたのは、日系人大統領のアルベルト・フジモリであった。当時はセンデロ・ルミノソはペルーの大部分を占領し、パンアメリカンハイウェイや主要幹線道路を押さえてリマは包囲され、センデロ・ルミノソによる革命が間近に迫っているかの感があった。左派のアラン・ガルシア大統領に失望していた国民は1990年に行われた大統領選挙で、ペルーの将来の重大な決意を迫られていた。国際ペンクラブの会長を務め、国際的な文学賞を多数受賞しているマリオ・バルガス・リョサが大統領の本命だと思われていたが、蓋をあけてみるとダークホースのフジモリが当選した。彼が当選したのには色々な原因があるだろうが、日系人のフジモリが、スペイン系の支配層とインディオ系の貧民層の対立の間で人種的にニュートラルであったこと、裕福なスペイン系国民の支持を得たことがあげられる。マリオ・バルガス・リョサは、左翼ではあるがスペイン系なので、地盤であるインディオ系の完全な支持が得られなかったことと、彼の社会主義的な経済政策が現実的ではないとみなされたことが敗因であろう。

マリオ・バルガス・リョサは後にノーベル文学賞を受賞した。この映画の監督を務めたクローディア・リョサはマリオ・バルガス・リョサの姪である。

この映画はペルー国内で大ヒットし、ベルリン国際映画祭では金熊賞を受賞しアカデミー賞にノミネートされた後は世界的な賞賛をあびた。しかし、国内でのこの映画に対する批判もある。ファウスタと叔父の家族が住むスラムは、リマ近郊でプエボロ・ホベン(新興の町)と呼ばれる貧民街。それに隣接する最高級住宅地に住む裕福なスペイン系のピアニスト。コンサートを控えスランプに陥った音楽家は、真珠と引き換えの約束でファウスタの歌を自分の曲として発表した上、ファウスタを解雇する。かつての支配-被支配の構造を示唆するようなエピソード。監督のクローディア・リョサはスペイン系であり、スペインやアメリカで高等教育を受けた女性。いわば映画のピアニストに当たる階層なのだが、彼女はインディオの立場でこの映画を作ろうとしている。しかし、どんなに良心的で芸術的な映画を作っても、インディオとかつて呼ばれたペルー人の一部の心の中で彼女を完全に受け入れられないものがあるようなのだ。その批判は、インディオ主義者の中にまだ根付く、彼女の叔父のマリオ・バルガス・リョサのエリート的な白人のインディオに対する博愛主義に対する嫌悪であろう。その批判にはインカ帝国をつくった民、ケチュア族のことは、ケチュア族のみがわかるという民族主義がまだペルーには息づいていることを知らされる。

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[映画]  ムッシュ・カステラの恋 The taste of Others  Le goût des autres (1999年)

この映画はどこか『屋根裏部屋のマリアたち』に似ているが、別に美男美女が出てくわけでもないし、もっと地味で見過ごされてしまう話である。『屋根裏部屋のマリアたち』での恋の障壁は、わかり易い『人種』とか『社会階層』の差であるが、ここでは恋の障壁は、安定した中産階級の中での個人の教養の差というか、人生の楽しみ方や嗜好の差である。しかし、人生を静かに深く楽しむ『大人の人間』にはこの映画を心から推薦したくなる、そんな映画なのである。

またハリウッド映画の大げさな表現、たとえば腹が立てば殴る、悔しければ物を投げつけるというテクニックに飽き飽きしている人に是非観てもらいたな、と思う。この映画に出てくる人物は皆それぞれの意味で善男善女であるが、それでも本当に自分が幸福にしてあげれて、幸福にしてもらえる人を捜すためには、性格の良さを超えた、人間の嗜好というものが致命的な役割を持つという当たり前のことをユーモアと仄かな哀歓で描いている。そしてその恋愛観といいユーモアの感覚といい全くフランス的なのである。フランス映画が好きな人には全く説明が不要であろう。

カステラは中堅企業の社長。金はあるが、若い子からはチビ、デブ、ハゲとからかわれかねない風采で、自分の事業を運営すること以外何の教養も趣味もない。イランの会社とビジネスをすることになり、その業務契約の中に彼の身辺を守るためボディーガードをつけるという項目がついたので、元警察官のフランクが雇われる。イラン人と会話をするために英語が必要となり、契約はカステラが英語の個人授業をつけることも要求するが、彼は英語の授業に興味もなく、英語教師のクララもすげなく追い返してしまう。

自分の姪が女優の卵なので、彼女が出ている舞台を妻とお義理で見に行ったが、演劇に興味も持たなかったカステラは思いもかけず、その劇に感動してしまい、自分を感動させた女優が自分の英語教師だと気がつく。そう、彼は恋に落ちたのだ。それから彼の彼女への熱烈(と本人は思っているのだが、傍から見れば滑稽)なアタックが始まる。この映画はそのカステラとクララを含む人物群像の、異性への(そして人生への)心の惹かれ方を描く。

カステラの妻はインテリア・デコレーターで、自宅を少女趣味でゴタゴタ飾り、カステラも自分は美的センスがないのでそれでいいと思っていた。しかしカステラはクララと彼女の取り巻きの芸術家と付き合っていくことにより、自分にも好みがあったということに気づく。その過程で彼は、妻は自分の気持ちを無視し、彼女の考えや好みだけが正しいと思い、自分より動物のことだけを気にかけ、表面的なことにしか興味がない人間に感じ始め、妻への心が離れていく。自分の好みに目覚めたカステラは花模様だらけの家に暮らすことがだんだん息苦しくなってくる。

カステラは自分と働く一流大学出身のエリートのビジネス・コンサルタントの高圧的な態度に劣等感を抱き、彼は自分を馬鹿にしていると嫌っていた。しかしそのコンサルタントがカステラと働くことに疲れ辞表を出した時のほっとした人間的な表情を見て、コンサルタントは自分の職務を熱意を持って執行するがために堅い態度を取っていただけだったが、彼は自分の仕事に取って大切な人間だとわかり、カステラは謙虚なな態度で彼が辞意を翻すよう懇願する。

カステラのボディーガードのフランクは一見クールでニヒルな悪っぽい男、カステラの運転手のブルーノは善良すぎるお人よしだが、二人は仕事を通じて仲良くなる。ブルーノはクララたち芸術仲間がたむろするバーにタバコを買いに行き、そこでバーテンダーをしているマニと知り合う。マニは優しい女性で、彼女は最初はブルーノの優しい部分に引かれて付き合うが、ブルーノを通じてフランクに会った瞬間、フランクの中にある虚無的で暗い部分と自分の中にある暗さが稲妻のように閃きあい一瞬で恋に落ちる。

フランクは一見虚無的に見えるが、心の中には自分が捨てたと思った正義感が残っていた。彼はマニが麻薬の売買で生計を立てているのを止めようとするが、マニはそれが気にいらない。そしてある日、自分の元同僚が、法律に隠れて悪事を働いていた大物を遂に逮捕することに成功したというニュースを目にする。フランクとその同僚はその大物を追っていたが、その大物は常に逃げるのに成功していた。フランクはそんな現実に嫌気がさして警官を辞めたが、同僚は決して捜査を諦めなかった。その事実はフランクに自分とマニとの関係を再考するきっかけとなった。

クララは最初は自分に付き纏う教養のないカステラの存在を迷惑に思っていた。しかし同時に自分の芸術仲間がカステラの教養の無さを軽蔑しているのに、彼の金を目当てにパトロンになってもらい、金を貰っているのに彼を馬鹿にするのをやめないという状況がいやになってきた。クララは次第に、カステラにも彼なりの鑑賞眼があり、その目で自分を女優として、人間として、そして女性として評価してくれているのに気がつき、彼に心を開いていく。

ブルーノはお人よし過ぎるということで恋人にもマニにも振られてしまう。自分の好きなフルートを吹くために街の素人オーケストラに入るが、そこで彼と波長の会いそうな優しそうな女の子に憧れの目で見られるというところでこの映画は終わる。とても前向きな気持ちを与えてくれる終わり方である。

要するにこの映画は何かに惹かれてしまうその過程のミステリーを描いている。その感情はある日突然稲妻のようにやって来るかもしれないし、思いもよらないところからじっくりとやって来るかもしれない。自分の中にはいろいろな人格や価値観が混ざっているが、人間は結局その中で自分の本当に大切な嗜好や価値観に基づいて異性や人生の機会を選んでいくという当たり前のことを、素敵な感覚で表現している映画である。

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[映画] Z (1969年)

ギリシャから亡命した世界的監督コスタ・ガブラス( ‎『ミッシング』)による監督、フランスの名優として誉高いジャック・ペランの製作、俳優としてシャンソン歌手(『枯葉』)として一世を風靡したイヴ・モンタン、そして『男と女』でフランスのトップ俳優となったジャン=ルイ・トランティニャンというこれ以上望めない陣営で作られた『Z』は1970年のアカデミー賞の最優秀映画賞と最優秀外国語映画賞の両方でノミネートされるという前代未聞の快挙をなしとげ、最終的には最優秀外国語映画賞を受賞した。40年経った今でも、映画のテクニックは全く古臭さを感じさせず、映画の主張も今日的な価値がある。

これはフランスとアルジェリアの合作映画であり、撮影はアルジェリアの首都のアルジェで行われている。映画の本当の舞台はどこであるかということに対しては堅く口が塞がれているが、これが1960年代のギリシャを舞台にしていることは明らかだろう。コスタ・ガブラス監督はその左翼的思想の故に故国を追われているし、映画にはギリシャのビールが頻繁に登場する。全篇に流れる音楽は美しいギリシャ音楽である。映画の最初の断り書きに『この映画で何か実際に起こったことを連想させる箇所があるとしたら、それは意図的であるとあらかじめお断りしておきます。』と言うのがでる。政治映画にありがちな『この物語は実際の事実とは関係ないということをあらかじめお断りしておきます』という弁解とは違うことが面白い。

物語は左翼の有力な政治家が演説の後に轢き逃げされるところから始まる。その事件の起訴を任命された予審判事は、これは単に酔っ払い運転手が間違ってその政治家を轢き逃げした過失致傷害だからそのように処理するようにと命令され、その理解のもとに仕事に着手したが、その直後にその政治家は死亡し、判事はより慎重に捜査を進めることにした。その過程で彼はその裏にある陰謀を発見し、同時に彼の捜査に対する妨害の手が上司から下りてくる。一方もう1人の主要人物であるジャーナリストが色々な手を使い、報道者として事件の真相に迫るという大筋である。この映画が成功し、今日でも古くなっていないのは、政治的な主張を声高くせず、判事として、報道者として正しい行為は何なのかというところにテーマを絞ったからであろう。

この映画は1963年に右翼によって暗殺されたギリシャの政治家グリゴリス・ランブラキスをモデルにしているといえる。ランブラキスは名門アテネ大学医学部で訓練された医師で、運動選手としても1936年から1959年に渡り走り幅跳びのギリシャ記録の保持者でもあった。ギリシャ、ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ルーマニア、トルコとの近隣友好国の間で行われていたバルカン国際競技大会での優勝経験もある。第二次世界大戦中のナチス・ドイツ占領下のギリシャ国時代はレジスタンス運動にも参加した。彼は共産主義者ではなかったが、反戦・平和主義者としてベトナム反戦運動などに参加した。文武両道に優れた道徳心の高い政治家として国民からの人気も高かった。

1963年5月22日、テッサロニキで行なわれた反戦集会に来賓として出席した帰り道、ランブラキスは突如後ろから爆進してきたサイドカーに乗った男から棍棒で頭を殴打され負傷、5日後に、脳挫傷で死亡した。この事件は右派による犯行であることが明らかとなっている。どうして右派の犯行だということが明らかになったかというと、その事件をたまたま担当した捜査官フリストス・サルゼタキスが上司の捜査官長官のP. デラポタスの支持を得て、軍部や政府内の右翼勢力の圧迫にも負けず事実を公表して関係者を全員起訴したからである。しかし二人は軍部から憎まれ、1967年に起こった軍部クーデターのあと罷免される。特にサルゼタキスはクーデターの後投獄されてしまう。彼はギリシャの警察から拷問を受け、彼が起訴した犯人は放免されてしまう。サルゼタキスはのちに釈放されたが、それはギリシャ市民が彼の投獄に強い反対運動を起こしたからである。

1974年にギリシャの軍部独裁制が倒れたあと、サルゼタキスの名誉は回復され、その後も彼は法律家としてのキャリアを築き、1985年にはギリシャの大統領に選出された。彼は右派左派中道派で揺れるギリシャにおいてどの派にも属さず、全く政治的に中立だったので、混乱するギリシャをまとめる最善の人物だと国民が認めたのである。

サルゼタキスは政治的な弾圧にも負けずランブラキスの殺人罪で右派を起訴し、軍部にも弾圧されたことから、左派をふくめた国民から英雄視されているが、彼自身は自分にとって職務を果たすことが一番大切であり、ランブラキスの犯人の起訴は真実の追究の結果としての起訴に過ぎず、自分は左派でもないし、左派に有利なように起訴を行ったことは全くないということを常に明言していたという。

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[映画] ボーダー・カフェ Café Transit Border Cafe (2005年)

レイハンは夫とイラン北部のトルコとの国境近くで、国境を越えるトラック運転手相手のカフェ(食堂)を営んでいた。夫が亡くなると、義兄のナセルは、女性が未亡人になると夫の兄弟と結婚するというこの地域の風習に従い、レイハンに自分の家に移るように申し述べる。 レイハンはナセルが準備した家に移ることを拒否し、夫とやっていたカフェの使用人のウージャンと共にカフェを再開することにした。レイハンのカフェは、国境を行き交う外国人トラッカーの間でその食事のおいしさで人気となり、外国ナンバーのトラックが列をなすほど大繁盛となった。

ギリシャ人ドライバーのザカリオとレイハンの心の交流や、レイハンがロシアの内戦で家族を殺されたロシア娘スヴェータをかくまう等のストーリもあるが、結局ナセルは女性が働くことは家名を汚すという怖れからカフェの閉鎖を法的手段に訴えた。またザカリオはナセルが送った男に暴力を振るわれて怪我を負ってしまう。この映画はレイハンのカフェが閉鎖されたところで終わり、その後の彼女がどうなったのかはわからないが、彼女がナセルの下に身を寄せたのではないし、ザカリオの愛を受け入れたのでもないことは確かである。映画の最後でナセルが悲しそうに「なぜレイハンは自分を嫌ったのか?彼女を守ってあげたかったのに」という感じで呟くが、それはレイハンの末路が決してナセルが望んだものではなかったということを暗示している。

アカデミー賞外国語映画部門は、毎年一カ国につき一本のみ、その国の政府機関から推薦された作品がノミネーションの対象になる。たとえば日本では、経済産業省の傘下にある社団法人日本映画製作者連盟が日本代表作品を決定する。イラン宗教革命後のイランの政情を考慮すると、イランでよくこれだけの社会映画を作る自由が与えられて、尚且つ政府の推薦を受けてアカデミー賞の外国語映画部門に出品されたものだと感心せざるをえなかった。

しかし注意深くみてみると、この映画は政治批評ではない。よそから見るとすべての問題はその国の政府が悪いという感覚で見勝ちであるが、この映画の根本にあるものは、因習と闘う自立心の強い女の葛藤と経済的自立の難しさである。政府としてはそういう問題を提起してくれたこの映画を禁止する理由はどこにもないのかもしれない。特にこの風習はその地独特のものだと描かれているから、そこにイランの政府を汚すものはない。要するに、映画がイランの政府を批判せず、知らされてはいけない情報を描かない限りは、こういう映画を作ることは可能なのだろう。ナセルは決してレイハンを残酷に扱っているわけではなく、善意で良かれと思ってレイハンの面倒をみようとしているだけで、彼はなぜレイハンが自分の善意を受け取ってくれないのか、理解できない。映画資金調達に関しては、イランという、非常に興味深く高い文化を誇るこの国の実情を描く映画を作ることに喜んで出資する会社はたくさんあるだろう。事実この映画はイラン・フランスの合作である。

もう一つこの映画で見逃してならないのは『難民』の問題である。ロシアからの難民の少女を自分の懐に受け入れる時、レイハンは自分も難民だと述べている。彼女はどこから逃げて来たのだろうか。

イランには79年の旧ソ連のアフガン侵攻から湾岸戦争、イラク戦争に至る長い混乱で、東西の隣国から、最大時450万人もの難民が流入したという。その大部分はアフガン難民であるがイラク難民もいる。アフガン難民はその住んでいた地域によりそれぞれパキスタンとイランに逃げたが、イラン内のアフガン難民の殆どはテヘランから南と東に落ち着いた。この映画の場所から推測すると、レイハンはイラクからの難民である可能性が強い。

ロシアの女性がどこから来たのかは明らかにされていないが、1991年にロシアから独立を果たしたタジキスタン共和国から、1992年から1997年にかけて発生した内戦を逃れて来た難民である可能性が強い。この国の人々はロシア語と共にペルシャ語に近い言語も話す。映画でレイハンはスヴェータの話す言葉はわからないが、カフェの使用人のウージャンはスヴェータの言葉がわかり、レイハンの通訳をつとめている。タジキスタン共和国では、タジク人がマジョリティであるがロシア人もいた。ロシア人は内戦により大部分が流出したといわれる。

カフェを訪れるドライバーはトルコ人(トルコは一応イランとは友好的である)、ハンガリー人(トルコにはハンガリーからの出稼ぎ者が多いようだ)とかギリシャ人(ギリシャはトルコの隣であり、文化も非常に近い)など色々で、彼らも自然にコミュニケートしている。島国で殆どが日本語しか話せない日本とは非常に異なった状況で、コミュニケーションを駆使して東西の接点の中で生きていくイラン人(或いはその周辺の民族)の逞しさを感じさせる映画だった。

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