[映画]  ムッシュ・カステラの恋 The taste of Others  Le goût des autres (1999年)

この映画はどこか『屋根裏部屋のマリアたち』に似ているが、別に美男美女が出てくわけでもないし、もっと地味で見過ごされてしまう話である。『屋根裏部屋のマリアたち』での恋の障壁は、わかり易い『人種』とか『社会階層』の差であるが、ここでは恋の障壁は、安定した中産階級の中での個人の教養の差というか、人生の楽しみ方や嗜好の差である。しかし、人生を静かに深く楽しむ『大人の人間』にはこの映画を心から推薦したくなる、そんな映画なのである。

またハリウッド映画の大げさな表現、たとえば腹が立てば殴る、悔しければ物を投げつけるというテクニックに飽き飽きしている人に是非観てもらいたな、と思う。この映画に出てくる人物は皆それぞれの意味で善男善女であるが、それでも本当に自分が幸福にしてあげれて、幸福にしてもらえる人を捜すためには、性格の良さを超えた、人間の嗜好というものが致命的な役割を持つという当たり前のことをユーモアと仄かな哀歓で描いている。そしてその恋愛観といいユーモアの感覚といい全くフランス的なのである。フランス映画が好きな人には全く説明が不要であろう。

カステラは中堅企業の社長。金はあるが、若い子からはチビ、デブ、ハゲとからかわれかねない風采で、自分の事業を運営すること以外何の教養も趣味もない。イランの会社とビジネスをすることになり、その業務契約の中に彼の身辺を守るためボディーガードをつけるという項目がついたので、元警察官のフランクが雇われる。イラン人と会話をするために英語が必要となり、契約はカステラが英語の個人授業をつけることも要求するが、彼は英語の授業に興味もなく、英語教師のクララもすげなく追い返してしまう。

自分の姪が女優の卵なので、彼女が出ている舞台を妻とお義理で見に行ったが、演劇に興味も持たなかったカステラは思いもかけず、その劇に感動してしまい、自分を感動させた女優が自分の英語教師だと気がつく。そう、彼は恋に落ちたのだ。それから彼の彼女への熱烈(と本人は思っているのだが、傍から見れば滑稽)なアタックが始まる。この映画はそのカステラとクララを含む人物群像の、異性への(そして人生への)心の惹かれ方を描く。

カステラの妻はインテリア・デコレーターで、自宅を少女趣味でゴタゴタ飾り、カステラも自分は美的センスがないのでそれでいいと思っていた。しかしカステラはクララと彼女の取り巻きの芸術家と付き合っていくことにより、自分にも好みがあったということに気づく。その過程で彼は、妻は自分の気持ちを無視し、彼女の考えや好みだけが正しいと思い、自分より動物のことだけを気にかけ、表面的なことにしか興味がない人間に感じ始め、妻への心が離れていく。自分の好みに目覚めたカステラは花模様だらけの家に暮らすことがだんだん息苦しくなってくる。

カステラは自分と働く一流大学出身のエリートのビジネス・コンサルタントの高圧的な態度に劣等感を抱き、彼は自分を馬鹿にしていると嫌っていた。しかしそのコンサルタントがカステラと働くことに疲れ辞表を出した時のほっとした人間的な表情を見て、コンサルタントは自分の職務を熱意を持って執行するがために堅い態度を取っていただけだったが、彼は自分の仕事に取って大切な人間だとわかり、カステラは謙虚なな態度で彼が辞意を翻すよう懇願する。

カステラのボディーガードのフランクは一見クールでニヒルな悪っぽい男、カステラの運転手のブルーノは善良すぎるお人よしだが、二人は仕事を通じて仲良くなる。ブルーノはクララたち芸術仲間がたむろするバーにタバコを買いに行き、そこでバーテンダーをしているマニと知り合う。マニは優しい女性で、彼女は最初はブルーノの優しい部分に引かれて付き合うが、ブルーノを通じてフランクに会った瞬間、フランクの中にある虚無的で暗い部分と自分の中にある暗さが稲妻のように閃きあい一瞬で恋に落ちる。

フランクは一見虚無的に見えるが、心の中には自分が捨てたと思った正義感が残っていた。彼はマニが麻薬の売買で生計を立てているのを止めようとするが、マニはそれが気にいらない。そしてある日、自分の元同僚が、法律に隠れて悪事を働いていた大物を遂に逮捕することに成功したというニュースを目にする。フランクとその同僚はその大物を追っていたが、その大物は常に逃げるのに成功していた。フランクはそんな現実に嫌気がさして警官を辞めたが、同僚は決して捜査を諦めなかった。その事実はフランクに自分とマニとの関係を再考するきっかけとなった。

クララは最初は自分に付き纏う教養のないカステラの存在を迷惑に思っていた。しかし同時に自分の芸術仲間がカステラの教養の無さを軽蔑しているのに、彼の金を目当てにパトロンになってもらい、金を貰っているのに彼を馬鹿にするのをやめないという状況がいやになってきた。クララは次第に、カステラにも彼なりの鑑賞眼があり、その目で自分を女優として、人間として、そして女性として評価してくれているのに気がつき、彼に心を開いていく。

ブルーノはお人よし過ぎるということで恋人にもマニにも振られてしまう。自分の好きなフルートを吹くために街の素人オーケストラに入るが、そこで彼と波長の会いそうな優しそうな女の子に憧れの目で見られるというところでこの映画は終わる。とても前向きな気持ちを与えてくれる終わり方である。

要するにこの映画は何かに惹かれてしまうその過程のミステリーを描いている。その感情はある日突然稲妻のようにやって来るかもしれないし、思いもよらないところからじっくりとやって来るかもしれない。自分の中にはいろいろな人格や価値観が混ざっているが、人間は結局その中で自分の本当に大切な嗜好や価値観に基づいて異性や人生の機会を選んでいくという当たり前のことを、素敵な感覚で表現している映画である。

English→

[映画] Z (1969年)

ギリシャから亡命した世界的監督コスタ・ガブラス( ‎『ミッシング』)による監督、フランスの名優として誉高いジャック・ペランの製作、俳優としてシャンソン歌手(『枯葉』)として一世を風靡したイヴ・モンタン、そして『男と女』でフランスのトップ俳優となったジャン=ルイ・トランティニャンというこれ以上望めない陣営で作られた『Z』は1970年のアカデミー賞の最優秀映画賞と最優秀外国語映画賞の両方でノミネートされるという前代未聞の快挙をなしとげ、最終的には最優秀外国語映画賞を受賞した。40年経った今でも、映画のテクニックは全く古臭さを感じさせず、映画の主張も今日的な価値がある。

これはフランスとアルジェリアの合作映画であり、撮影はアルジェリアの首都のアルジェで行われている。映画の本当の舞台はどこであるかということに対しては堅く口が塞がれているが、これが1960年代のギリシャを舞台にしていることは明らかだろう。コスタ・ガブラス監督はその左翼的思想の故に故国を追われているし、映画にはギリシャのビールが頻繁に登場する。全篇に流れる音楽は美しいギリシャ音楽である。映画の最初の断り書きに『この映画で何か実際に起こったことを連想させる箇所があるとしたら、それは意図的であるとあらかじめお断りしておきます。』と言うのがでる。政治映画にありがちな『この物語は実際の事実とは関係ないということをあらかじめお断りしておきます』という弁解とは違うことが面白い。

物語は左翼の有力な政治家が演説の後に轢き逃げされるところから始まる。その事件の起訴を任命された予審判事は、これは単に酔っ払い運転手が間違ってその政治家を轢き逃げした過失致傷害だからそのように処理するようにと命令され、その理解のもとに仕事に着手したが、その直後にその政治家は死亡し、判事はより慎重に捜査を進めることにした。その過程で彼はその裏にある陰謀を発見し、同時に彼の捜査に対する妨害の手が上司から下りてくる。一方もう1人の主要人物であるジャーナリストが色々な手を使い、報道者として事件の真相に迫るという大筋である。この映画が成功し、今日でも古くなっていないのは、政治的な主張を声高くせず、判事として、報道者として正しい行為は何なのかというところにテーマを絞ったからであろう。

この映画は1963年に右翼によって暗殺されたギリシャの政治家グリゴリス・ランブラキスをモデルにしているといえる。ランブラキスは名門アテネ大学医学部で訓練された医師で、運動選手としても1936年から1959年に渡り走り幅跳びのギリシャ記録の保持者でもあった。ギリシャ、ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ルーマニア、トルコとの近隣友好国の間で行われていたバルカン国際競技大会での優勝経験もある。第二次世界大戦中のナチス・ドイツ占領下のギリシャ国時代はレジスタンス運動にも参加した。彼は共産主義者ではなかったが、反戦・平和主義者としてベトナム反戦運動などに参加した。文武両道に優れた道徳心の高い政治家として国民からの人気も高かった。

1963年5月22日、テッサロニキで行なわれた反戦集会に来賓として出席した帰り道、ランブラキスは突如後ろから爆進してきたサイドカーに乗った男から棍棒で頭を殴打され負傷、5日後に、脳挫傷で死亡した。この事件は右派による犯行であることが明らかとなっている。どうして右派の犯行だということが明らかになったかというと、その事件をたまたま担当した捜査官フリストス・サルゼタキスが上司の捜査官長官のP. デラポタスの支持を得て、軍部や政府内の右翼勢力の圧迫にも負けず事実を公表して関係者を全員起訴したからである。しかし二人は軍部から憎まれ、1967年に起こった軍部クーデターのあと罷免される。特にサルゼタキスはクーデターの後投獄されてしまう。彼はギリシャの警察から拷問を受け、彼が起訴した犯人は放免されてしまう。サルゼタキスはのちに釈放されたが、それはギリシャ市民が彼の投獄に強い反対運動を起こしたからである。

1974年にギリシャの軍部独裁制が倒れたあと、サルゼタキスの名誉は回復され、その後も彼は法律家としてのキャリアを築き、1985年にはギリシャの大統領に選出された。彼は右派左派中道派で揺れるギリシャにおいてどの派にも属さず、全く政治的に中立だったので、混乱するギリシャをまとめる最善の人物だと国民が認めたのである。

サルゼタキスは政治的な弾圧にも負けずランブラキスの殺人罪で右派を起訴し、軍部にも弾圧されたことから、左派をふくめた国民から英雄視されているが、彼自身は自分にとって職務を果たすことが一番大切であり、ランブラキスの犯人の起訴は真実の追究の結果としての起訴に過ぎず、自分は左派でもないし、左派に有利なように起訴を行ったことは全くないということを常に明言していたという。

English→

[映画] デイズ・オブ・グローリー Indigènes Days of Glory(2006年)

戦争映画は数多くあるが、この映画は他の映画にないユニークな観点を提供している。第二次世界大戦のナチ占領下のフランスの抵抗と勝利が表であるが、これは単に「行った、殺した、勝った」というフランスの勝利ではなく、その中にすでに対戦中に芽生えているフランス植民地の独立の動きと独立後の不正義を暗に描こうとしている。

原題のIndigènesとは原住民という意味である。その地にもともと住んでいたが、よそから侵攻して来た他民族の支配下に押されて少数民族となり、社会の底辺層に置かれている民族を総称する。アメリカ・インディアンやオーストラリアの原住民、日本のアイヌ民族もその例である。民族移動の激しいアフリカのサハラ以北には数多くの原住民がいるが、最も有名なのはベルベル族であろう。ベルベル族は放牧民族であり、アフリカの社会では底辺層に入れられることが多かった。しかし、忠義心に厚く勇敢であり、移動することも厭わなかったので、優秀な傭兵として支配階級に利用されることが多かった。北アフリカでアラブ人に抑圧されていたアルジェリアやモロッコのベルベル人の多数は、殖民国フランスがアラブ人とベルベル人を公平に扱うと感じ、自分はフランス人であり、フランスが母国であると信じ、フランスに熱烈な愛国心を感じていた。フランスは対独の劣勢を覆すために北アフリカの志願兵を基にした自由フランス軍を組織した。自由フランス軍はセネガルの徴集兵、フランス外人部隊、モロッコ人、アルジェリア人、タヒチ人などから成っていた。この物語は自由フランス軍に志願し、死も恐れず勇敢に戦ったベルベル人の兵士たちの物語である。

アブデルカダはインテリで、兵役試験でトップを取りベルベル人部隊の兵士長に任命される。彼は将来は勲功を立て、勉強を重ねフランス軍で昇級したいという野心を持っている。公平な立場で部下のいさかいを仲裁し、アラブ人としての団結も説くが、彼の努力は全く無視され、フランス系のアルジェリア人が彼を差し置いて昇進される。屈辱を感じながらも彼はフランス軍への忠誠を失わない。

マーチネス軍曹は、フランス系のアルジェリア人であるという理由だけで、昇進されアルジェリアのアラブ軍を率いているが、知的に軍を統率するのは苦手で、怒るとすぐに暴力にでてしまう。彼自身もアブデルカダの方が自分よりすぐれたリーダーであることを内心認めている。彼は一応フランス系ということになっているが、実は母はアラブ人であり、そのことを人に知られたくないと思っている。

サイードはベルベル人の中でも最も貧困な地域の出身である。母は息子が出兵して報奨金や恩給をもらうより飢え死にした方がましだと彼の志願を止めるが、彼は純粋な愛国心でフランスを守るために戦争に行くのだと、母を振り切って志願する。野心のない素朴で忠実な人間性をマーチネス軍曹に認められて彼に取り立てられる。

ヤッシールは弟の婚姻費用を稼ぐために、弟をつれて入隊する。弟思いで、人間は常に正しく行動し正直でなければいけないと説く男である。

メサウードは天才的な射撃の名人で、マーチネス軍曹からスナイパーの特務を与えられる。その優れた戦場での功績によりヒーローとなり、彼の名声にあこがれるフランス人の女性と恋に落ち、戦争が終わったら彼女と結婚してフランスで落ち着こうと夢見る。

彼らの最初の任務は南フランスプロヴァンス地方のドイツの砦を落とすことであった。ベルベル人の部隊は先行隊として敵に丸見えの山道を歩かされる。ドイツ軍が彼らを射撃し始めると戦線の後ろに隠れているフランス兵はどこにドイツ兵が隠れているのかがわかり、そのドイツ兵を攻撃し始める。この戦闘はフランス軍の圧倒的勝利に終わるが、これがベルベル人の兵士が自分たちが一番危険な任務に最初に回されることを知る最初であった。。

戦線は膠着し、フランス軍は故郷に帰還せよという命令がくだり、ベルベル人の兵士は喜ぶがこの帰還はフランス人のみに適用され、自由フランス軍の兵士は帰ることを許されず、部隊には厭世の気分が漂い始めた。

自由フランス軍に与えられた最難の命令は、ナチ占領下にあるアルザス地方のコルマールを陥落するために、フランス本土軍とアメリカ軍がやって来るまでに、そこのドイツ軍にできるだけの打撃を与えることであった。マーチネス軍曹も他の小部隊の隊長と共にその危険な任務を任され、彼の配下のアブデルカダ、サイード、ヤッシールとその弟、メサウードも名誉と褒章を求めて参加する。しかしドイツ占領地に入る所に置かれていた爆弾で部隊の殆どは死亡しマーチネス軍曹も重傷を負う。弟を失ったヤッシールがこれ以上戦線にいる意味がないと嘆く中で、アブデルカダは生き残ったサイード、ヤッシール、メサウードをまとめ、アルザスの村に進行し村民から歓迎される。しかしドイツ軍との死闘の中で、サイードは重傷のマーチネス軍曹を守って共にドイツ軍に殺害され、ヤッシールとメサウードも戦死する。

この戦線はコルマールの戦いと言われる。当時コルマールを含むアルザス=ロレーヌ地方はドイツ領であり、ライン川に架かる橋を守る重要拠点であった。激しい戦いの末、フランスとアメリカ軍団はドイツ軍団を敗走させることに成功した。連合軍は21000人、ドイツ軍は38000人の死傷者を出した。これにより連合軍はライン川を渡ることに成功し、ドイツ領への本格侵攻を開始することに成功した。

一人生き延びたアブデルカダはコルマールでフランス軍と合流するが、自分の存在も死んだ戦友のことも全く無視される。後からやってきたフランス人部隊のみが勝利を賞賛される中で、死んだベルベル人の兵士がいたということさえ考えるものはいなかったのだ。

戦争に従軍した兵士は生涯恩給を受け取ることが保障されており、それが志願の動機ともなっていた。しかし、フランス政府はアルジェリアの独立紛争が過激化した1959年にフランス植民地出身で、フランス軍に参戦した兵士にはもう恩給を払わないことを決定した。フランス軍はアルジェリアはいずれフランスから独立するだろうし、別の国となったアルジェリア人にお金を払う必要性がないと判断したからだ。この映画はアブデルカダがアルザスの攻防後60年経って、その地に立つ戦死した兵士たちの墓に墓参するところで終わる。

English→

[映画]  ペルセポリス Persepolis (2007年)

英語で『ヤング・アダルト』という言葉がある。自分は子供ではないと思い始めているが、周囲からは大人とは認められていない時期で、自我の芽生え、進路の選択、異性への興味、大人や社会との葛藤に揺れる時期でもある。思春期という言葉と重なるが、ヤング・アダルトは、親の監督を離れて、無軌道に走ったり、羽目を外した異性交遊やドラッグにふけり、暴力、自殺、家出などコントロールのきかない生活態度を取る若者を指すために使われる場合が多い。

『ペルセポリス』はイラン出身の漫画家マルジャン・サトラピのヤング・アダルトの時期を描く自伝漫画の映画化作品である。大人になるのは結構辛いものだが、彼女の場合は成長期が全くイラン宗教革命とイラン戦争、その後の文化的抑圧と重なるので、『ペルセポリス』はかなり政治的な味わいを帯びてくるのだが、彼女は政治的な人ではない。「私はポリティックスには全く興味がないわ。ポリティックスが勝手に私を追いかけて来るのよ!」(”I am not interested in politics. Politics is interested in ME!”)という彼女の肉声が面白い。

マルジャン・サトラピは1969年にイランのテヘランに生まれた。彼女は前王朝カージャール朝最後の国王であるアフマド・シャーの曾孫である。彼女の祖父と叔父はアフマド・シャーにとって代わったパーレビ国王の政策に反対して投獄されていた。彼女の父も進歩的な考えを持ち、自由を抑圧するパーレビ国王に国民の大多数と共に反対運動を起こしていた。パーレビ国王が1979年1月に国外逃亡した喜びもつかの間、4月にイランは国民投票に基づいてイスラム共和国が樹立し、ホメイニー師が政権をとると共に、イランはパーレビ国王治世よりも更なる抑圧の政権下に移って行った。加えて1980年、長年国境をめぐってイランと対立関係にあり、かつ国内へのイラン革命の波及を恐れた隣国イラクがイランに侵攻して、イラン・イラク戦争が勃発した。戦場では若い兵士が戦線の最先端に置かれ『弾除け』として使われるという風評も伝わり、徴兵期の男子を持つ親で外国へ逃亡するものも多かった。

1983年、マルジャン・サトラピは両親の意向によって留学のためにオーストリアの首都ウィーンに単独で移った。これは戦争を避けるためと言うよりも、ムスリムの新体制では女性の結婚最低年齢は9歳に引き下げられたため、女児と無理やり結婚してその後性的虐待をしても罪にならなくなったので、彼女の両親は娘が合法レイプの犠牲者になるのを恐れたからである。しかし、彼女はオーストリアの生活には馴染めなかった。当時は国際的なイラン人のイメージは残酷な野蛮人であり、自分がそういう目で見られているのではないかと思い、また外見に神経質になる時期にヨーロッパ人の女の子と違う顔立ちや体型のイメージに苦しみ、親の監視もない中で自堕落な生活を送り、下宿を世話してくれる人たちとも次々に衝突し、遂に住む家もなく路上で寝、ゴミ箱をあさる日を送るようになってしまった。そんな生活の中で肺炎を患いホームシックにかかり、ついにイランに帰国することになった。

帰国後は鬱病にかかり、薬の大量服用で死の寸前まで行った。しかし、そのあと家族の「大学で学問をし、自立する女性になってほしい」という言葉に励まされて大学に入学する。短期間のイラン青年と結婚とその破綻の後、1994年に「今のイランはあなたを生かしてくれない」という両親の提案で彼女はフランスに渡るというところで映画は終わる。

叔父はイスラム政権下で他の自由主義者や社会主義者と共に処刑された。戦争に行った友人は手足を失って帰って来た。隣の家に住む友人はイラクからのミサイルに撃たれて死んだ。パーティーはイスラム政権下では非合法だったが、敢えてそれに参加し、その過程で一人の友人は警察に追われて死んだ。イスラムの女性らしからぬ振舞いで逮捕されると「罰金か、鞭打ちか」と言われ、大金を積んで難を逃れる。せっかく入った大学も、イスラム教の原理で運営されていて、喜びもない。悪者だと思っていたパーレビ国王の政権は叔父を投獄しただけだったが、ホメイニ師のムスリム政権は叔父を処刑した。何一つ社会はよくなっていないのだ。

そういう壮絶な青春を描いているのに、この映画は奇妙な明るさを失わない。映画が実際の俳優による演技ではなく、アニメーションであるというのもその一つの理由だろう。その画像は不思議なユーモラルな表現を保っている。しかし、この映画の底に流れている明るさは家族の愛から来ているのだろう。マルジャン・サトラピの両親は進歩的な人間だが、処刑された祖父や叔父と違い、政治的宗教的な抑圧の中でも何とか生き延びていく賢い処世術を身に着けている。しかし同時に娘に対しては、正しく生きること、上手に幸せを見つけること、自分の才能を信じそれを追求することを教えている。どんな手段を使ってでも我が子を危険から守ろうと心に決めているし、たとえ我が子が未熟さゆえに失敗したとしても、それを無条件で許し、支えていくことに徹底している。

そういう両親と祖母の心からの支えにより、マルジャン・サトラピは本当の大人へと育っていく。好奇心が強く、自分が思ったことを堂々と述べて周囲の気を揉ませ、困難にはめげて回復できないかもしれないほど落ち込んでしまう子供だったが、意外と機を見るのに敏で、ちゃっかりと周囲に目を配って生き延びて行く要領のよさもあった。そして、もう過去のことはくよくよしないと決めると、その瞬間に呆れるほど前向きで生きていく強い人間になっていくのである。オーストリアでは負け組みだった彼女はフランスでは大きく花開く。それはオーストリアとフランスの差であろうか。それとも、彼女がフランスでは本物の大人に成長したからであろうか。

English→

[映画]  神々と男たち Des hommes et des dieux Of Gods and Men (2010年)

修道院、キリスト教、イスラム教、アルジェリアを知らない者にとっても、この映画は非常に力強く説得力のある映画だと思う。宗教と政治を超えた何かを感じさせる映画だからだ。

アルジェリアにある鄙びたカトリックのアトラス修道院で、フランス人修道士と医師たち8人が地元に融けこみながら生活していた。しかし修道院から20キロと離れていない荒野で起きたクロアチア人の殺害事件から、イスラムの過激派の勢力が修道院近くまで伸びて来る。クリスマスイブに武装した数名の過激派が負傷者の手当てを要求して修道院に押し入ったのをきっかけに、修道院はアルジェリア政府軍と過激派の抗争に巻き込まれていく。フランス政府も彼らに帰国要請を行い、修道士たちは殉教覚悟でここに留まるのか、安全のために帰国するかの間で揺れる。

財産も捨て家族にも別れを告げ、与えられた場所で地域の人々を助け、神の福音を伝えようとしている修道士たち。世を捨てたはずの彼らも命が惜しいのか?もちろん彼らは人間であるから、怖れという感情はある。しかし、彼らは、自分たちの命は神に奉げたものであるから、その命を無駄遣いすることなく、一日でも長く神に奉仕するべきだと信じている。だから、危険が迫っているのを知りつつここに留まり殺されるのは、神に与えられた命を無駄にすることになる。

一方、何人かの修道士はこのアルジェリアの村が自分の故郷だと思い、ここで死んでもいいと決心している。また、神の与えたここでの使命はまだ果たされていないと思い、今はここを離れられないと思う者もいる。心の底からの決心ができないので、神に祈って神の声を聞こうという者もいる。しかし、彼らには神の答えが返ってこない。

撤退か滞在か?修道士の中で意見が分かれても、誰も政府軍の軍隊に守ってもらおうとは思わない。自分たちにとって神の声が決断の基準であり、武力で殺戮し合っている政府軍と過激派の基準で生きて行こうとは思わないのだ。結局、その迷いは「狼に襲われた時、羊を置き去りにして逃げるべきか」という質問に尽きることになる。村人たちはムスリムであっても、修道士たちが自分たちに与えてくれたものに感謝し、村は修道士たちを頼りにして成り立っている。それがわかった修道士たちは、何事が起ころうと自分たちのここでの奉仕は無駄ではなかったと心から思えるようになり、死を覚悟してこの村に残ろうとする。この映画はアルジェリアで1996年に起こった、首を切られて処刑された修道士たちの実話を基にして作られている。

北アフリカのフランス植民地のうちチュニジアとモロッコは1956年に独立を果たした。しかし、フランス保護領として君主国の組織が維持されていた両国と異なり、フランス本土の一部として扱われ、多くのヨーロッパ系市民を抱えるアルジェリアに対してはフランス世論も独立反対の声が強く、フランス政府は独立を認めなかった ヨーロッパ系アルジェリア人は終始ヨーロッパ人としての特権の維持を求め、アルジェリアに住むベルベル人やアラブ人との協力を最後まで拒み、そのことがこれらのアルジェリア人が融和した国家を目指す穏健な独立運動の発展を阻害した。アルジェリアは 1954年から1962年に渡る激烈な アルジェリア戦争を経て、フランスから独立したが、独立に伴い、100万人のヨーロッパ系アルジェリア人は大挙してフランスに逃亡した。フランスに協力したムスリムのアルジェリア人でフランスに亡命できなかった者は報復により虐殺された。

独立後アルジェリアは、憲法を持ち、中立政策を取り、経済の立て直しにも成功し、順調に建国を進めているかのように見えたが、1980年代後半にはインフレが進行し、食糧難や失業などの社会不安を生み出した。このような状況を背景として、若年層を中心にイスラーム主義への支持が高まり、こうしたイスラーム主義者のなかには武装闘争を展開するものも現れた。

1990年に行われた地方選挙では、失業者の支持を得てイスラム救国戦線(FIS)が全コミューンの半数以上で勝利し、FISが勝利したコミューンでは厳格なイスラム教統治が行われ、禁酒や男女の分離、そしてフランス化した中間層が主流をなすアルジェリア社会の批判が行われた。1991年に行われた初の総選挙の結果、FISは8割の議席を得て圧勝し、彼らは憲法を無効とした。これに対し、自由を求める学生団体、女性団体、社会主義組織はFISを批判し、FISと反目する軍部が翌1992年にクーデターで政権を握った。ヨーロッパ諸国がクーデターを支持したこともあり、1月にムハンマド・ブーディアフを議長とした国家最高委員会が設置され、3月にブーディヤーフはFISを非合法化して弾圧、選挙は無効とされた。しかしブーディアフは6月に暗殺された。

政府による弾圧に対し、イスラーム主義者は1992年に武装イスラーム集団を結成し、警察、軍部、知識人、自由主義者を対象にテロを繰り広げた。1994年1月にゼルアールが暫定大統領に就任したが、ゼルアール時代にイスラーム主義組織のテロは激しさを増し、アルジェリアは大混乱に陥った。1999年の大統領選でブーテフリカ元外相が文民として34年ぶりに当選し、武装解除や出頭した過激派に恩赦を与える和解案を打ち出し、内戦は終息に向かった。アルジェリア民族解放戦線など大統領派の中道右派の2政党と穏健イスラム政党・平和のための社会運動は3党で連立政権を形成し、5月実施の総選挙で過半数を維持した。政府、軍部、イスラーム主義勢力によるアルジェリア内戦で約20万人が死亡したとされる。

English→

[映画] ぜんぶ、フィデルのせい La Faute à Fidel Blame it on Fidel (2006年)

BlameitonFidel1960年代から70年代と言う時代は、全世界で社会が大きく激動した時代である。キューバでは1961年にカストロが社会主義宣言をし、インドシナ半島ではベトナム戦争が泥沼化し、中国では文化大革命が続行していた。チリでは、世界初の民主的な総選挙により、社会主義政権が確立する。西側諸国でもパリでは五月革命があり、ギリシャでは軍事政権に対するデモが続発する。アメリカでも反戦運動が高まり、日本では赤軍派や極左派による事件が相次いだ。スペインではスペイン内戦によってフランコによる独裁政治が続いていた。要するに第二次世界大戦後に解決できなかった問題が表面化して来た時だったのだ。

1970年。弁護士の父フェルナンドと、女性月刊誌『マリ・クレール』編集者の母マリーを持つ9歳のアンナは、パリで庭付きの広壮な邸宅に住みカトリックの名門ミッションスクールに通学している。バカンスはボルドーで過ごし、身の回りはフィデル・カストロが社会主義体制を確立したキューバから亡命してきた家政婦に面倒を見てもらう生活を送っていた。ある日、フランコ独裁政権に反対する、スペインに住む伯父が処刑され、スペインを逃れてきた伯母の家族がアンナの家にやってきて同居することになり、それをきっかけに父の態度が変わり始める。今まで祖国に対して何もしてこなかったことに負い目を感じていたフェルナンドは社会的良心に目覚め、マリーと共に突然チリに旅立ってしまう。そして戻ってきた二人はすっかり共産主義の洗礼を受けていて、ヒッピーのような風貌になってしまい、アンナは自分を取り巻くそんなすべての変化が気に入らない。キューバ人の家政婦は「ぜんぶ、フィデルのせいよ。」とアンナに言うが、その家政婦もクビになってしまう。フェルナンドは弁護士を辞め、チリの社会主義者アジェンデ政権設立のために働くことを、母は中絶運動を起こし女権の拡大することを決意する。両親の変化により、アンナの生活も以前とは180度変わってしまう。大好きだった宗教学の授業は受けられなくなり、大きな家から小さなアパートに引っ越すことになり、ベトナム人のベビーシッターが家にやってくるようになった。世界で初の民主的選挙によってアジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生したのもつかの間、アジェンデ大統領は暗殺されてしまう。深く悲しむ父を見て、自分の家族のルーツを訪ねたアンナは、自分の家はスペインの大貴族の家柄で、反王党派を残酷に弾圧していた家族で、フランコ政権下では親フランコ派であったとわかる。映画はカトリックの学校をやめて、公立学校に通学することを選んだアンナがその公立学校に初めて通学した日のショットで映画は終わる。

この映画の印象を一言で言えば、『headstrong』だなあという感じ。Headstrongというのは日本語では『理屈っぽい』とか『頑固』とか『頭でっかち』に近いのかもしれないが、回りに対して虚心坦懐に心を開いて何が起こっているかを素直に吸収し受け止めるというより、自分の主義主張でフォーカスしたレンズで、周囲を判断しまくるという態度である。たった一年の出来事を2時間弱の映画にしているのだが、その中に全世界の問題を都合よく全部マッピングしてやろうという大変忙しい映画なのである。

冒頭はフェルナンドの義兄の死と、妹の結婚式が同時進行する。自然死ではなく政治的な死であるから、家族のショックは大変かと思うとそうでもなく、結婚式は幸せに行われ、注意していないと伯父が処刑されたということもわからないくらいだ。家政婦は、キューバ人、亡命したギリシャ人、そしてベトナム人と次々と変わる。伯父の死でショックを受けて、今まで無視して来た自分の政治的信念に目覚めるのは結構なことなのだが、なぜその改革の相手が自分のルーツのスペインではなく、遠く離れたチリなのか?これは、この映画の監督のジュリー・ガヴラスの父コスタ=ガヴラス監督は、左翼系の思想を持ち、チリにおけるアメリカ政府の陰謀を描いた『ミッシング』で世界的な名声を得たが、娘はそれを都合よく利用していると思わずにはいられない。フェルナンドとマリーがチリに滞在したのは、2週間くらいの感じであるが、その後二人はこちこちの共産主義となって帰って来る。共産主義に洗脳するのがこんなに簡単なら、レーニンもスターリンもそんなに苦労しなくてもよかったのに、とつい思ってしまう。2,3ヶ月前に結婚して幸せ一杯のはずのフェルナンドの妹が突然中絶をしたいといいだし、マリーがフェミニストとして活躍し始める。えっ、もう赤ちゃんができたの?結婚したばかりなのに、もう結婚生活が不幸になったの、と思わずこちらも算数の引き算をしてしまう。もう一つおまけとして、マリーの書いた中絶解禁を求める「343人の宣言」記事が評判になり、彼女が自分より有名になったことに嫉妬するフェルナンドが「家政婦に子供の面倒を見させるより、もっと家庭に専念していい母親になれ」と怒り、社会主義者の家でも真の女性解放はないのだという嘆きまで描かれる。

ジュリー・ガヴラス監督が言いたいのは

「ごめんね、ママとパパは自分の問題で手一杯で、あなたを犠牲にしているかもしれないわ。でも、ママとパパは自分たちが正しいと思うことを精一杯必死で追求しているの。きっと大人になったらあなたはパパとママの気持ちがわかってくれるわ。」

「いいえ、パパやママが連帯とか団結なんて声を上げて言わなくっても、なんにも言わなくっても、手を差し出せば、人と人がつながっていく。そんなことがわかったわ。」

ということでないかとも思うのだが、それにしても、これを表現するために全世界の問題を背負い込む忙しい映画を作るのが一番最良の方法だったのかという疑問が残る映画であった。

English→

[映画] 日はまた昇る  The Sun Also Rises (1957年)

Quote

『日はまた昇る』という邦題は、「人生苦しいけれど、明日は素晴らしい日が待っているよ。」といった復活を期待するという意味に取られがちな日本語訳であるが、実際は第一次世界大戦後の何とも言えない気持ちの空白期に「あ~今日も飲んで、食べて、恋して終わった。何も新しいことはない。こんな自分に関係なく地球は回っていて、明日もまた何事もなく太陽が昇るんだな~」という変わらぬ日常生活に対するやるせなさを表している。

ヘミングウェーは第一次世界大戦で傷ついた肉体と精神をアメリカの田舎生活の中でなかなか理解してもらえず、自分の第二の故郷になったイタリアに移り住もうとするが、友人に「どうせヨーロッパに行くのなら、文化の中心のパリに行け」とアドバイスされ、駐在記者の仕事を見つけてパリに住む。そこには自分と同じように、大戦で何らかの傷を受け、人生を変えられてしまった若者たちがたくさんいた。「日はまた昇る」は、自分の投影である主人公が仲間たちとスペインのパンプローナへ闘牛とお祭を見物に行き、闘牛という競技の美しさに魅了されるという物語である。

正直いってこの映画は、闘牛シーンと牛を町の通りに雄牛を放すシーン以外は、全く映画としての魅力に欠けているのだが、やはり一番の問題は20代の迷える若者たちを演じる俳優たちが皆40代の役者であるということだろう。原作では主人公たちは、若くて、何となく失望していて、何をしたらいいかわからなくて、恋をするのが『フルタイム・ジョブ』(それだけが全て)であるような生活を送っている。それに対してそれを演じる俳優たちは、ハリウッドでも成功し、ポケットにもお金がたくさん詰まっており、撮影がおわったら家族や友達と一緒に楽しく食事でもしようという態度が顔もにありありと出ており、生活や将来に対する不安など何も感じられない。ホルモンに突き動かされて、衝動的に恋をしてしまう自分を止められない若者を演じている俳優に「いい年をして何バカなことやってるの」と言いたくなるような映画なのが残念である。

ヘミングウェーほどアメリカの良さを感じさせる作家はいないだろう。アメリカの原点である「正直さ、実直さ、勤勉さ」を象徴するイリノイ州の生まれ。イリノイ州出身の政治家はアブラハム・リンカーン、ヒラリー・クリントンそしてオバマ大統領であるといえば、イリノイ人の価値観がわかるだろう。ヘミングウェーは美男子で正義感が強く、誰にでもわかる簡潔な英語で気持ちを表現する文体を確立させた。健康な体を持ち、スポーツが好きで、特に狩猟、釣り、ボクシングを好んだ。健康な男だが、繊細な気持ちや頽廃感も理解する幅広い人間性を持っていた。

彼の人生観を決めてしまったのは第一次世界大戦の経験である。アメリカのある世代にとってベトナム戦争がそうであったように、彼のすべての問題意識は第一次世界大戦に始まり、第一次世界大戦に終わる。その後の第二次世界大戦も彼にとっては第一次世界大戦ほどのインパクトを持たない。彼が一番戦争というものを理解でき、それに影響を受ける10代後半に起こった戦争が第一次世界大戦だったからだ。アメリカにとっても、ヘミングウェーは1950年代以前の『古き良きアメリカ』を象徴する作家でもあった。

アメリカの映画を見ていると、1950年代以前と1970年以降では映画が全く違っているのに気づく。1950年以前の映画は『絵空事の学芸会』のようで、現代的なテーマとの共通性はない。しかし1970年代に作られた映画、たとえばゴッド・ファーザーとかディア・ハンターのような映画は今見ても、現代に繋がる何かがあり、そのテーマが古くなっていないことに驚かされる。その1950年と1970年の間に横たわる1960年代は、ケネディ大統領とキング牧師の暗殺、ベトナム戦争の悪化、ウオーター・ゲート事件があった。その後で、もはやアメリカは同じではなかったのだ。ヘミングウェーは1961年に自殺しているが、それは『古き良きアメリカ』の終焉を象徴しているように思われる。たとえ彼が生き続けたとしても、第一次世界大戦を知っているヘミングウェーがベトナム戦争によって深い影響を受けたとは思えない。

ヘミングウェーがこよなく愛した闘牛はスペインの国技であったが、牛を殺すということに対する動物愛護の反対派の影響もあり闘牛の人気は落ち始めた。1991年にカナリア諸島で初の「闘牛禁止法」が成立し、2010年7月には反マドリッドの気が高いカタルーニャ州で初の闘牛禁止法が成立、2011年にはカタルーニャ最後の闘牛興行を終えている。スペインの国民の75%は闘牛には興味がないと答えており、いまやスペイン人はサッカーに熱狂する。かつては、田舎をライオンや象を連れてまわり、動物を実際に見たことのない人々を喜ばせていたサーカスも、動物の愛護運動の反対で斜陽化し、2011年には英国最後となるサーカス象が正式に引退を迎え、新しい住処となるアフリカのサファリパークに移送されたということがニュースになった。スペインの国王ファン・カルロス一世は2012年、非公式で訪れていたボツワナで、ライオン狩りをしていたことが大きく報道され、国王自身が世界自然保護基金の名誉総裁の職にあったにも関わらず、動物のハンティングを行ったことについて世界的な批判を受けることとなり、その基金の名誉総裁を解任されるに至った。現在最も人気のあるスポーツはサッカーとか、バスケットボールとか、テニスとか、陸上競技であり、ボクシングや狩猟を趣味とする人間は減っているだろう。日はまた毎日同じように昇っているのだが、やはり時代は変わっているのである。

English→

[映画] 屋根裏部屋のマリアたち Les Femmes du 6ème étage (2011年)

何気なく、何も知らず選んだ映画がこんなに楽しいものだったとは!!! ストーリーが、映像が、俳優が、そして映画の中の会話がおいしくて、見ているうちにこちらもお腹がすいて来てしまった。

1960年代のパリ。フランコの抑圧下の貧しいスペインからパリに移り住んで、フランスの裕福層のメイドとして暮らしているスペインの女性たち。彼女たちは、異国でお金を稼げるだけ稼いで、自国の貧しい実家へ仕送りをし、お金が貯まれば晴れて母国へ帰りたがっている者が大半だ。故郷に残した家族、村の人たちとの繋がり、空気に流れる暖かさ、食べなれた食事が懐かしく、パリでも同国人のメイドたちと助け合い、日曜日には必ず教会に行き、帰郷できる日を待ち望んでいる。しかし、たとえ故郷が恋しくても、フランコ 恐怖政治が終わらない限りは帰らないと心に決めている者も少数派ではあるがいるのである。

マリアは、若く美しく賢く敬虔で有能なスペイン人のメイド。雇い主の裕福な主人と、彼の妻のお気に入りでもあるが、彼女はなんとなく訳ありなところがあるのが、話の進行と共に明らかになってくる。主人の妻は、貧しい田舎娘から結婚によって上層階級にのし上がったため、自分に自信がなく、表面的なパリの社交界に溶け込もうと浮ついた努力を重ねている。彼女の主人は富、仕事、家族などほしいものは全部手に入れて、自分の人生に満足しているのだと自分自身に思わせようとしていた、、、そう、マリアに会うまでは。

ネタばれになるので二人がどうなるかはここでは書かないが、主人は金持ちの息子であっても上流階級に窮屈さを感じ、田舎出の女性に安らぎを感じ、なんとなく現在の妻と結婚してしまった男。マリアは生まれ持った気品と気丈さがあり、身分差に卑屈にならない本当の自信を持った女性。マリアはどう生きていっても自分と自分の愛する人を幸せにできる人だし、主人も必要となれば余分なものは手放す潔さを意外と持ち合わせているようで、見る側としても主人とマリアがどうにかして幸せになってほしいとつい思ってしまう。

マリアを演じるナタリア・ベルベケは、顔が小さく姿勢がよく、何となくバレーリーナのよう。「美人じゃなきゃいけないが、美人すぎてもいけない。」という監督の厳しい審査眼にかなっただけの女性である。1975年にアルゼンチンに生まれたが幼少時にアルゼンチンの「汚い戦争」と呼ばれる政治弾圧のため、家族と共にアルゼンチンを逃げ出し、スペインに移ったと言う過去を持つ。

脱線するが、ウッディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」は同じ頃公開された同じくパリを舞台とする映画である。その映画では、すべてのシーンは典型的な絵葉書のようであり、彼はその絵葉書シーンを貼り付けることにより、力まかせにパリを描こうとしているが、映画が描くのは、相変わらずニューヨーカーの彼のメンタリティーであり、全くパリの匂いや粋、生活感が欠如している。対照的に「屋根裏部屋のマリアたち」はパリを舞台にしているのに、パリらしい風景が出てこないのだ。出稼ぎスペイン人にとっては、仕事場と市場と教会と自分の屋根裏部屋が日常のほとんどなのだろう。観光シーンを訪ねるのがパリで生きることではない。マリアと彼女の仲間たちにとっては自分の周囲にあるものがリアリティーであり、そういう意味では彼女たちは一瞬でも本当にパリに生きているのではないだろうか。

English→