[映画] 真昼の決闘 High Noon (1952年)

ニュルンベルグ裁判』の監督スタンリー・クレイマーによる製作、『ジャッカルの日』のフレッド・ジンネマンによる監督、ゲイリー・クーパーとグレイス・ケリーの主演という豪華な布陣で作成された『真昼の決闘』は,厳格な意味で西部劇とか決闘物というジャンルに入らないのではないか。ここに出てくる保安官は無敵のヒーローではなく、初老にかかり、結婚を契機に銃を使って金を稼ぐ生活から足を洗おうとしている男である。なぜ彼が決闘に引き込まれたかと言うと、結婚式を挙げて東部の町に旅立とうとしている矢先に、自分が昔逮捕した悪漢がちょうど釈放されて、「お礼参り」に自分を刑務所に送った人間、多分保安官とか町の法廷の判事など、を殺害しに正午に町の駅に到着する汽車に乗ってやって来るという知らせを受けたからである。

もちろん、保安官はそのまま東部に旅立ってもよかったのだが、町へ戻ってその悪漢と3人の仲間たちと対決することを選ぶ。彼の妻は父と兄を殺され、暴力を絶対否定するクエーカー教徒に改宗しており、もし夫が決闘の道を選ぶのなら、自分一人で東部へ旅立つと言う。まだ後任の保安官も到着していないので、彼は町民に一緒に闘ってくれるよう頼むが、副保安官や前任の先輩保安官や町長や町の人々は皆尻ごみをして味方についてくれない。判事は「よそへ行っても仕事がみつかるだろう」とさっさと逃げ出してしまう。町を平和に保ってくれて「最高の保安官だ」と賞賛していた人々も「現金が流通するためには、或る程度の悪が必要だ。保安官はそれを根こそぎにしてしまった」と言ったりもする。「どうして、この町に戻ってきたのだ。そのまま東部に行ってしまえばよかったのに」という非難の中で、彼はただ一人4人と対決せざるを得ず、遺書を書いて悪漢が乗ってくる真昼の汽車を待ち、孤独な戦いを始めるのである。

映画は85分の長さだが、この映画は10時40分頃に始まるという設定で、つまり実際の時間と同時進行で物語が進むのである。決闘シーンは最後の5分だけで、それも単調なものである。映画の殆どは保安官と町民の話し合いである。初老に差し掛かり俳優としてのピークを越えたゲイリー・クーパー演じる保安官が、よろよろと人通りのない町並みを一人で歩く姿が遠目に映されるのは、なんとも切ない。

この映画が作られたのは1952年であるが、その時は米国では「赤狩り」の真っ最中であった。「赤狩り」とは共和党右派のジョセフ・マッカーシー上院議員が中心となって、共産党員、および共産党シンパと見られる人々を排除する政治的活動であり、マッカーシーに協力した代表的な政治家には、リチャード・ニクソンとロナルド・レーガンなどがいる。ハリウッドは左翼思想の人間が多いとみなされ、そのターゲットの一つになった。『真昼の決闘』の脚本を担当したカール・フォアマンも共産党員とみなされ非米活動委員会に尋問された。彼は自分が戦前に一時期共産党に入党していたのは認めたが、現在では全く関係が無いと主張した。尋問での一番の恐怖は、共産党のシンパである人の密告を強制されることであった。それを拒否したカール・フォアマンは身の危険を感じて英国に逃亡した。同じく「赤狩り」の告発のために米国を追放された映画人としては、チャップリンもいる。

カール・フォアマンはのちに英国の名監督デイビッド・リーンのもとで働くようになり、デヴィッド・リーン監督の『戦場にかける橋』で第30回アカデミー脚色賞を受賞したが、公開当時は赤狩りによってフォアマンの名前が出されることがなく、デイビッド・リーンが脚本賞を受賞した。カール・フォアマンの死後初めて彼の名がクレジットとして認められ、彼は死後ようやくオスカーを授与されることになった。

似たようなことは『ローマの休日』の脚本家ドルトン・トランボにも起こった。ドルトン・トランボは赤狩りで追放されていたので友人のイアン・マクレラン・ハンターの名前を借りて仕事をせざるを得ず、ハンターの名義で『ローマの休日』の脚本を執筆した。この映画は大成功で、事情を知らない映画芸術科学アカデミーは、ハンターにアカデミー脚本賞を与えてしまったのである。1990年代になってからアカデミーは、冷戦期の「赤狩り」などに起因する間違いを正すことに決めた。その一つとして、ドルトン・トランボの名誉回復があった。トランボはすでに1976年に亡くなっていたが、アカデミーは1993年にトランボに改めてアカデミー賞を贈ることを決めた。しかし、ハンターに贈られたオスカー像をハンターの息子が引き渡すことを拒否したため、トランボの未亡人に渡されたオスカー像は、改めて別途作られたものとなった。冷戦期にはいろいろ恐ろしいことが米国でも起こっていたが、これらが最終的に見直されたのは、12年ぶりに民主党から政権をとったクリントン大統領の治世期であった。クリントン期前と後では、アメリカはかなり違う国家であると言えよう。それは時代の流れである。

「赤狩り」はハリウッドにも大きな恐怖を巻き起こしたが、その中で密告という司法取引を行い自分の制作活動を保証してもらった人々もたくさんいる。現代では、その例としてエリア・カザン、ゲイリー・クーパー、ウォルト・ディズニーなどがあげられている。

『真昼の決闘』は賛否両論(「心理考察を含んだ深みのある批評的西部劇だ」とか「アメリカが心に描く正義を否定する売国奴的弱虫の映画」)に分かれつつもアカデミー賞作品賞の最有力候補であったが、『地上最大のショウ』に敗退して受賞にはいたらなかった。これは「赤狩り」の真っ只中でリベラル派として有名だったフレッド・ジンネマン監督とカール・フォアマン脚本による作品に票を投じるのをアカデミー会員がためらったためと言われている。この映画には「赤狩り」時代の沈鬱さが漂っているが、「赤狩り」体制への批判というのは言いすぎであろう。「赤狩り」否定が起こり始めるのが1950年代後半、「赤狩り」否定の精神を芸術として表現できるのは1970年代、その犠牲者への公的な名誉回復が起こるのは1990年代を待たなければならなかったのである。

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[映画]  青いパパイヤの香り L’odeur de la papaye verte, The Scent of Green Papaya (1993年)

映画監督を私なりの三角形理論で分類してみると、一つの頂点にヌリ・ビルゲ・ジェイランアンドレイ・タルコフスキーセルゲイ・パラジャーノフのようにシネマトグラフィーの絵画性で度肝を抜いてやろうという監督がおり、もう一つの頂点にはアスガル・ファルハーディーのように巧みなストーリーの語りでしぶとく勝負をかけてくる監督がいる。三番目の頂点には、わかりやすく面白いストーリーと計算を尽くしたシネマトグラフィーを併せ持って直球で勝負してくる黒澤明やスティーブン・スピルバーグのような監督がいる。『青いパパイヤの香り』のトラン・アン・ユン監督は最初のタイプ、ビジュアル派である。

この映画には、はっきりしたストーリーは全くない。舞台は1951年のフランス支配下のベトナム。最初の三分の二は女中奉公に来た若い少女が年増の女中に、「あの人は誰?、どうなっているの?」と聞き登場人物や設定を説明するのが少しで、後はその家の少年たちが虫を殺したり、爬虫類をおもちゃにしたり、所かまわず放尿したり、物体のクローズ・アップに費やされる。残りの三分の一は突然十年後に飛び、成長した少女が他の家に女中奉公の勤め先を変え、その家の男主人に愛され、彼の妻となるシンデレラ・ストーリに変わるが、全くと言ってよいほど台詞がない。前半で稚拙なメッソドで与えられた最初の家の人間関係の情報は全くといっていいほど後半の理解には役立たない。私なりに穿って解説すると、前半は女として苦しい生活を強いられた監督の母を、奉公先の優しく忍耐強い女主人として描き、後半は自分が幸福にしてあげている若い世代を、成長した少女の姿で描くという意図なのかもしれない。成長した女中をトラン監督の妻が演じている。まあ、全くストーリーも台詞もないのだから、私のような解釈をした人などいなかもしれない。観衆に「綺麗な画面は時々あるけど、何が言いたいの」「異国情緒を利用して得している部分がありそうでずるい」と思わせる映画である。

トラン監督はサイゴン陥落の時に、両親と共に共産主義政権から逃げてフランスに移住したベトナム人である。フランスの名門の映画大学で映画を学んだから、ヌーベル・バーグの理論やアンドレイ・タルコフスキーのシネマトグラフィーの手法をそこで叩き込まれただろう。この映画は彼の卒業後の第一作で、監督はこの映画を作製したときは30歳そこそこであった。自分の作風について、この映画が大評判になった時「僕は伝統的なストーリー・テリングは完全に否定し、新しい言語、ボディ・ラングイッジで、映画を作りたいと思っています。思考的な理性に変わってボディ・ラングイッジを駆使することにより、聴衆をチャレンジし、映画のエッセンスを感じ取ってもらいたいのです。」という青臭いマニフェストを宣言している。要するに、ストーリや言語や思想や情報は映画には不必要なもので、自分は映像だけで聴衆を説得してやるんだ、ということである。20年経った今でも、トラン監督は同じ考えなのだろうか、と興味深々である。というのも、美しい映像さえ提供すれば、優れた映画作家だというのは間違っていると私は思うからだ。映画とは、思索、主張、事実、想像、感性、情報、ストーリー、演技、音声、シネマトグラフィーなど無限な要素を最適に統合した最終結果を観衆に提出するものであり、その様々な映画作成の要素の中でもストーリー性は非常に重要な地位を占めている。もし映像だけで勝負したいのなら、別のメディアを使えばよいのである。映画というメディアを表現の媒体として使用しているなら「綺麗な画像だからいいでしょう、ストーリなんてなくっても」というのは、傲慢であり怠惰であると私は思う。ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督はその美しい映像で見る者の度肝を抜くが、彼の作品には一貫した問題意識と思想があり、美しい画像はその心象風景である。アスガル・ファルハーディー監督の画像は情報に溢れた見事なものであり、彼のストーリー性を補強している。「映像が斬新じゃないから、アスガル・ファルハーディーは才能がないね」という人は一人もいないであろう。要するに、ストーリーとシネマトグラフィーは手に手を取って相手を助けるものであり、映画ではいい画像さえあればストーリがいらないという考え方は間違っている。それなら、映画というメディアを使う必要はないのである。

トラン監督は30代前半で、カンヌやベネチアという国際映画祭で錚々たる賞を受賞している。これらの賞は、新進監督を発掘し勇気づけるという要素もあるし、国際的な映画界ではベトナム戦争から回復しているベトナムを応援しようという気持ちもあるのだろう。しかし、大学を卒業したばかりの青年が「名作」を作る前に早々と「名声」だけを得てしまったのは、幸運なことばかりとはいえないのではないか。賞を取ったということで、誰も彼の作品に厳しい批判をしてくれる人はいなくなっただろうし、人生が楽になりすぎるのは、或る意味では「呪い」でもある。彼がこの後、20年間に『ノルウェイの森』を含めて数作のみを作っている寡作監督なのも興味深い。

この映画は、男性の観衆から賞賛され、女性の観衆に嫌われる映画のような気がする。何が女性の神経を逆撫でするかというと、最初の家の女主人と成長した女中の受身的な、男性第一、男性に気に入られるのがすべてという人生態度である。女主人は主人が浮気をして全財産を持って飛び出した後姑に「息子がそうしたのは、お前に女性としての魅力が無いからだ」と言われ、もっともだと泣くだけである。女中は小さい時から憧れていた年上の男性の家に奉公先を移し、嬉々として真面目に働き、その男の婚約者から男を奪い取る。なぜ男が金持ちで上流階級の婚約者から女中に鞍替えし、愛人でなく妻としようと思ったのかには一切の説明はない。結構深刻な女性たちの人生を美しい画像だけで描こうとしても、こちらには何も伝わって来ないのだ。こういう女性は男性にとっては魅力的かもしれないが、女性の神経を逆撫でする。男の方から婚約破棄をしたのに、女に婚約指輪を返還させ、その指輪を「ふん」といった表情で自分のポケットに入れる男があざとくていやな感じである。

もう一ついけないのは、成長した少女を演じるトラン監督の妻の演技である。彼女は全く台詞をしゃべらないで、従属した女性を表現するために猫背で首をいつも45度傾けていて、下目遣いで、ねちっと体をくねらせ、唇をいつもにたりにたりさせているだけだ。いかんせん彼女が演じる映画の中の女中は不気味で不自然で不愉快である。私なりの穿った見方を言わせてもらうと、トラン監督はもちろん才色兼備の妻を愛しているから、自分の映画の主演に使いたい。しかし多分彼女は幼い頃にベトナムから亡命しているので、ベトナム語は理解できるがネイティブではないのだろう。またトラン監督にしても彼女が女優としても才能があるという確信はないのだろう。だから万が一ベトナム人の人が見てもあまりボロがでないように、彼女の台詞はゼロにしたのではないか?猫背にして体をくねらせていれば、女らしさ、従順さが出るから大丈夫だと彼が踏んでいたのなら、それは問題である。成長した女優が唯一しゃべるのは、男主人から読み書きを教えてもらって、詩の一行を短く読むくだりである。今まで映画で使われていたパパイヤは青いのだが、この時だけ彼女は黄色いアオザイを着て、子供を孕んで成熟したパパイヤのような女という感じの演技をしていたが、口を開いた彼女の表情は一転して現代っ子的な西欧的な快活さに満ちている。詩の一行を読んでいるだけなのに彼女が「はい、ぶりっ子をして、旦那様を陥落して、みごと勝ち組になりました。めでたし、めでたし」と言っているような気がしたのは私一人であろうか。

一言で言えばこの映画は、「彼と一緒にこの映画を見にいきました。彼は、見終わった後で、見事な画像だな、情緒たっぷりでこれぞ芸術、あの女優はすごい美人だったな、やはり女は従順がいい、従順な女だからこそ幸せになれるんだ、悲しいことにああいう女はもう現代では消滅してしまったな、と感激しぱなっしで、私はバ~カと思ったけど、それは口に出さないで心で笑っていました」と女性が思う映画なのではないだろうか・

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[映画] ペレ Pelle the Conqueror (1987年)

この映画はブラジルの往年の名サッカー選手ペレのお話ではない。これは、デンマークの共産主義者でプロレタリア作家でもあるマーティン・アンダーソンによって1906年から1910年までに出版された4部作の小説のうちの一つ『勝利者(征服者)ペレ』を原作とし、1987年に映画化されたものである。

少年ペレは父に連れられて祖国スウェーデンを離れ、スウェーデンと目と鼻の先にあるデンマーク領のボーンホルム島に移住し、ある大きな農場で、牛小屋で牛と共に住みながら牛の世話をするという仕事にありつく。そこでの生活は過酷を極め、何か人生の希望が芽生えるとそれがすぐ挫折するということの連続で、映画には最初から最後まで半永久的な絶望感が溢れている。そして最後に、もう人生の希望を諦めた父を残し、ペレが一人新天地を求めて農場を脱出するところで終わる。冷たい風と凍った海の画像を二時間半見せ続けられて、寒々とした気持ちで映画館を出る人が多いのでは、と思わせる映画である。異国でお金もない少年が、家族も友人もいない、下手をすると一晩で凍死しかねない寒い国でこれからどうして生きていくのかと思わせる。原題は『勝利者(征服者)ペレ』だそうだが、一体何が勝利なのだろうか、と皮肉な気持ちになってしまう。

この映画は「深刻なテーマなのだから、いい映画なんでしょう」と頭で納得し、はらはらさせる展開と美しいシネマトグラフィーで何とか2時間半を乗り切り、「アカデミー最優秀外国語賞とカンヌ最高賞を受賞している数少ない外国映画なんだから、きっと名作なんでしょう」と思い込まされ、でも誰かに目をまっすぐに覗かれて「本当にこの映画が好き?心から感動した?」と聞かれたら、「実はあまりこの映画は好きではなかった」と答えてしまいそうな映画である。

何がいけないかと言えば、登場人物の描き方の画一性と矛盾である。画一性については、同じころの農場労働者の生活を描いたハネケ監督の『白いリボン』と比べてみればいい。『ペレ』では、悪いのはすべて農場主に依頼され農場主を管理する中間管理職のマネージャーである。マネージャーは雇用人にろくに満足な食事も与えず、雇用人を精神的肉体的に虐待する。農場主は経営をそんな鬼のようなマネージャーにまかせっきりで、遊び歩いている。とにかく、支配階級は一律に醜くて、残酷なのである。反対に『白いリボン』を見ていると、経営者は小作農に思いやりがあるわけではないが、自分の農場の生産性を高めるためあらゆる努力をしており、小作農が健康で生産的であるために気を配っている。小作農たちも身分の格差は苦々しく思いつつも、自分たちに仕事をくれ、家族を食べさせてくれる領主は、好きではないにしても尊敬できる存在であり、その領主がいなくなったりすれば自分たちの明日がどうなるかわからないという不安もある。いわば共生共存の関係なのである。また『白いリボン』では、小作農たちが純真無垢な存在だとは一言も言っていない。支配階級は一律に悪で、労働者は常に被害者であると訴える『ペレ』は、死ぬまでマルクス主義と共産主義を信じて疑わなかった作者マーティン・アンダーソンの気持ちを受け継ぎ、やはり階級闘争の理論で貫かれているのである。

人間の描き方の矛盾といえば、主人公のペレは勤勉で性格がいい子なので、結構農場の大人には好かれているが、自分よりももっと貧しい少年を「お金をあげるから、鞭で打たせろ」などといって、その子を自分が飽きて鞭打つのが面倒になるまで、結構厳しく打ちまくっているので、これを見て気持ちが悪くなる聴衆もいるのではないか。その貧しい子は貧しいなりに牛の扱い方をペレに教えてくれたりする、優しい生活力のある子である。その子がいつのまにか、白痴的な少年に描かれ始めている。また、映画の中での子供同士のいじめが凄惨である。私は結構北欧の映画は見ている方だと思うが、その中には子供同士のいじめのシーンが意外に多い。もちろん、子供の世界でのいじめは場所と時間を超えて常に存在するものなのかもしれない。しかし、なぜこれほどまでに、映画を作るときに「いじめ」を前面に押し出す必要があるのだろうか。また、農場労働者の生活の汚さを2時間半見せられてちょっと気持ちが暗くなる。ペレと父は自分たちの大便の排泄まで牛小屋でやり、夜はその横の小部屋で寝るのである。教会用の一張羅以外は着替えもあまりなく、洗濯もしていない服をいつも着ている。よく、伝染病や感染症にかからないものだと思う。移民だから、彼らは特別虐待されてでもいるのだろうか。

ペレは農場主の夫人に気に入られ、マネージャーになる訓練を受けるポジションに抜擢される。聴衆はようやくペレとその父が幸せになれるのかとほっとするが、ペレは父の「これでようやくお前も楽な仕事につけた。口先で労働者にああしろ、こうしろと言うだけでいいんだからな。ありがたいことだ。」という言葉を聴いたあと、そのポジションを受け入れるのをやめて農場から逃亡することを決心する。つまり、ここで示唆されているのは、「醜い搾取階級に入ることをやめて、闘うことを決心したペレは本当の意味で征服者であり、勝利者であるのだ」というメッセージではないのだろうか。そこには、苦しいけれどまじめに仕事を成し遂げて、一歩ずつ人生の階段を登っていくというメッセージはない。一歩下がってこの悲惨さが現実だったと認めたとしても、社会福祉のモデル国となった1987年のデンマークやスウェーデンでこの階級闘争の映画を作る今日的価値は一体なんなのだろうと思ってしまう。

「征服者」という意味には、農場でペレを可愛がってくれた同僚の労働者のエリックがいつも言っていたように、「まずアメリカに移民して、それから世界を征服するんだ」という言葉によっているのかもしれない。18世紀から19世紀にかけて起こった産業革命に続き、西ヨーロッパでは一連の農業技術上の改革が起こり、貨幣経済が浸透し、ヨーロッパの社会体制にも大きな変化が起こっていた。自給自作の自営農であった者たちの多くは、自営農から賃金労働者に転落した。貧富の差がますます厳しくなり、アイルランド人、ドイツ人、スカンジナビア人、イタリア人などがどんどん新天地アメリカへの移民をしていた。これは政治的迫害で移民したフランス人やドイツ人、宗教的迫害で移民したロシア系ユダヤ人とはちょっと異なる理由かもしれないが、それらの移民は皆、閉塞し始めたヨーロッパにない可能性を求めて新天地をめざしたのである。

島を飛び出したペレのその後を、同時代を生きた同年代の同じく架空の人物『タイタニック』のジャック・ドーソン(レオナルド・ディカプリオが演じた)と重ね合わせることもできるだろう。ジャック・ドーソンは1912年に20歳で、アメリカでの活躍を夢見て、タイタニックに搭乗した。彼は、アメリカ移民を夢見る二人のスウェーデン人と競ったポーカー・ゲームで競り勝って、タイタニック号の無料搭乗券切符を手にしたのである。

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[映画] 屋根の上のバイオリン弾き Fiddler on the Roof (1971年)

当時帝政ロシア領であったウクライナに生まれたユダヤ人作家ショーレム・アレイヘム(1859年生まれ)が1894年に書いた短編小説『牛乳屋テヴィエ』が、1961年にブロードウェーで『屋根の上のバイオリン弾き』というミュージカルとして上演され、大ヒットになった。このミュージカルはノーマン・ジュイソンの監督とプロデュース、ミュージカルの脚本も担当したジョセフ・スタインの脚本で、1971年に映画化されたのである。村の牛乳屋のテヴィエとその5人の娘のうちの上の3人の結婚と、帝政ロシアの迫害により一家が故郷を追われてアメリカに移住するまでを描く。

この映画の大きなテーマは二つある。一つは、原作の小説にあるように、伝統を守ってその共同体で平和に暮らすユダヤ人の家族が、娘の結婚相手の選択で新しい時代に対応せざるを得ないという時の流れである。監督のノーマン・ジュイソンは後にインタビューで映画に対する聴衆の反応を聞かれて、(インタビューアーはニューヨークでの反応を念頭においてこのような質問をしたのだろうが)彼は自分の日本での経験を語っている。彼は日本で繰り返し「顔と洋服を取り去ってみれば、この映画で描かれているのは、今日の日本そのままだ」という聴衆の反応を受け、「日本人の聴衆は本当に理解力のある素晴らしい人たちであり、この映画が心から彼らに受け入れてもらったと思う」と語っている。1971年に来日して、その後20年たってもまだ日本の聴衆の反応が監督にとって印象に残っているのであり、その好印象を問わず語りに語っているのである。

たしかに60年70年代の日本はこの映画が描いている世代断絶が大きな問題になっていたのではないか。その当時は世界的に政治的変革の時ではあった。しかし日本では、「仲人によって身近な人とお見合いで結婚する」というそれまで絶対的な結婚の原則が崩れかけてきたのがこの70年代だったのである。それまで家柄の釣り合いだけで考慮していた結婚相手も、高度経済成長の中で、「経済力」という新しい要素も加わったし、女性も自分が好きな人と結婚したいと望むようになった。要するに、親も「家柄」「経済力」「愛情」という三つの矛盾するかもしれない条件の中で迷い、「経済力」とも関連する「学歴」と「職業」という考慮も入ってくるし、「愛情」に関する「外見」や「人柄」への考慮も入ってくる。親はその中で何が一番大切なのかを選ぶ確固たる基準がなかった。「高学歴だが低収入」と「すごい学歴ではないがそこそこの金持ち」のどちらを選ぶかとか、「家柄の低い成金」と「衰退した良家の子弟」のどちらが価値があるのかとか、その場その場であちらを選び、こちらを選びという感じで、全くこの映画の父テヴィエと同じである。結局長女は、仲人が押し付けようとした「金持ちだが卑しい職業とみなされていた肉屋の年老いた男」より、自分が好きな貧しい若い男と結婚する。次女は村で一番身分が高い聖職者の息子に憧れるが、結局教育を受けた自分の家庭教師である青年に心ひかれ、彼が革命運動の罪でシベリアに流刑になると彼と行動を共にして、シベリアに流れて行く。三女はユダヤ人ではない男と駆け落ちをして、ギリシャ正教の教会で式を挙げてしまう。長女次女の行動はそれなりの理由をつけて許したテヴィエも、三女の結婚だけは許すことができないのである。日本では混乱した結婚相手の条件も現在では「三高」(高身長、高学歴、高収入)に簡便化しているようだが、50年前の社会的過渡期ではそれほど単純ではなかったのである。また現在では、「お見合い結婚制度」などもう死んでおり、それがあったということも知らない世代がいるのではないだろうか。

もう一つのテーマは、ミュージカル・映画化で加えられた、帝政ロシア末期におけるユダヤ人への迫害である。ユダヤ人への迫害はロシア語でポグロムといわれる。これは誰が行ったと特定されるものでなく、その時その時で不満を持った人々が一揆や反乱を起こした際にユダヤ人が巻き添えで襲撃されたこともあるし、1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、ロシアで反ユダヤ主義のポグロムが起こったりもした。『戦艦ポチョムキン』でも当時の根強い反ユダヤ人主義が見てとれる。このポグロムは、帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したので助長されることになり、1903年から1906年にかけて激化し、ユダヤ人の海外逃亡が続いた。この映画の原作者ショーレム・アレイヘムも1905年にアメリカに亡命している。映画監督の スティーブン・スピルバーグの一族もウクライナのユダヤ人であったが、第一次世界大戦が始まる前にアメリカに移住している。たぶん、ショーレム・アレイヘムもスティーブン・スピルバーグの祖先も同じ時期に同じ理由でアメリカに移住してきたのだろう。

『牛乳屋テヴィエ』がミュージカル化で『屋根の上のバイオリン弾き』という魅力的な題名に変わっているのは、ユダヤ人の画家シャガールの絵に触発されたと言われている。ローマ帝政期にローマ皇帝ネロによるユダヤ人の大虐殺があった時、逃げまどう群衆の中で、ひとり屋根の上でバイオリンを弾く男がいたという故事を描いたシャガールの絵にちなんでこの題名が付けられたという。マルク・シャガールは1887年、ロシア帝国領であったベラルーシ(ウクライナの北隣)に生まれた。彼は1922年にフランスに移るが、1941年にはナチスの迫害を避けてアメリカに移住した。結局彼は第二次世界大戦後フランスに戻り、その地でフランス人として暮らし、その一生を終えるのだが。『牛乳屋テヴィエ』が『屋根の上のバイオリン弾き』と変わったとき、この原作にもっと社会的な要素が加えられた。

Fiddler_chagallこの映画の魅力はもちろん、その美しい音楽(「サンライズサンセット」などの名曲)やロシアの当時のユダヤ人の共同体の生活を見事に再現したシネマトグラフィーであろう。ノーマン・ジュイソンは映画会社から予算の関係上アメリカでロケをしてほしいと依頼されたが、厳しい予算にも拘わらず当時の雰囲気を残すユーゴスラビアでロケをすることを選んだと言う。しかし最大の魅力は世界情勢につれて移って行く価値観の違いにも拘わらず、それを受け入れつつもなお変わらず伝統の価値を保っていくテヴィエの生き方であろう。それは、コミュニティーで助け合い、同時に何が起こっても父として、家長として家族を守るという決意である。何百年も宗教の違いを超えて地域のコミュニティーの中で平和に生きてきた人々、助け合いの伝統はそんな安心感を基盤にして育ち、受け継がれて来たのである。テヴィエが生きたのは、不幸にもそんな伝統が覆されるような政治的変革の時代であった。善き人の心にある豊かな伝統が時代に踏みにじられるのが哀しいのである。

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[映画]  灰とダイヤモンド Ashes and Diamonds、Popiół i diament (1958年)

この映画は非常にわかりにくい映画である。原作は、ポーランド共産党お墨付きの共産党指導者賞賛の文学であるが、映画化に当たりワイダ監督は主人公の共産党指導者を脇役にして、原作ではほんの端役にすぎない、暗殺を企むゲリラの若い男性を主人公にしている。その若い男はへんてこりんな眼鏡をかけた「チャラ男」であるが、灰にまみれたダイヤモンドのような酒場の女の子と、お互い家族をドイツ兵に皆殺しされたという境遇であるとわかり恋に落ちるあたりから、眼鏡をはずすと、なんとなくジェームズ・ディーンに似ている孤独な美青年に変貌していく。映画がわかりにくいのは、舞台となった時代の政治的状況の複雑さもあるだろうし、検閲を通るために余分な会話を避け、メタフォーを多様していることもあるだろう。

images1共産党政権下のポーランドではもちろん映画の厳しい検閲があった。この映画は、原作の主人公が脇役になっている以外は当局お墨付きの原作に忠実だし、最後にその青年がゴミ捨て場で灰のように死んでしまうのは「は~は~は~、共産党に逆らうとこうなるんだ」という戒めのようでもある。しかし検閲側は何かこの映画に不穏なものを感じ、この映画を許可するかどうか真剣にモスクワと話し合ったという。結局、何一つ具体的に咎めるものがないので検閲に通ったが、この映画のプロデューサーが身の危険を冒してこの映画をベネチア映画祭に提出し、西欧からの圧倒的な評価を得たことにより、共産党政権も「何かわからないが、この映画には反体制の思いがこめられている」と感じたらしい。これ以後、すでに当局から睨まれていたワイダ監督は完全にブラックリストに入れられることになる。

第二次世界大戦下のポーランドの状況はワイダ監督の「カティンの森」に描かれている。政治体制の違いはあっても彼の姿勢は60年間全くぶれていないし、彼は亡命という道も選ばず不遇の時期をポーランドで乗り越える。道理で尊敬されているわけだ。

この映画で共産党の政治家の命を狙っているゲリラは、反独のパルチザンのグループの一員である。なぜ、ドイツに反抗した彼らが、ドイツを追撃したソ連寄りの共産党員を暗殺しようとしているのか、というのは当時の情勢がわからないと理解しにくいだろう。

1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦は独ソ不可侵条約を結んだが、その中の秘密条項には、ドイツとソビエトによるポーランドの分割も含まれていた。翌9月1日、ドイツ軍とスロヴァキア軍が西から、17日にはソ連軍が東からポーランド侵攻を開始した。ポーランド政府はロンドンに亡命し「ポーランド亡命政府」を打ちたて国内のパルチザンを指導するようになる。。ポーランド亡命政府にとって、ソ連は自国をドイツと共に侵略した憎い国であったが、独ソのどちらかを選ばなくてはならず、英国と同盟しているソ連を選ばざるをえなかった。しかしポーランドはカティンの森事件のこともあり、ソ連を信頼してはいなかったのである。

ソ連は、ロンドンのポーランド亡命政府とは別に、自分たちの言いなりになる共産主義者による傀儡政権樹立をを樹立し、英国の支援をうける亡命政府側主導のパルチザンとは敵対した。第二次世界大戦は結局、英独ソの対立であったが、ポーランドでは地理上最もその本当の対立構造が明らかになったのである。ポーランド亡命政府の指示の基に国内のパルチザンは何回か対独蜂起を起こすが、その中でも1944年6月に起こったワルシャワ蜂起がもっとも大掛かりなものであった。これはどちらかというとソ連から呼びかけられた蜂起であったが、肝心な時にソ連軍は蜂起軍への援助を停止した。結局、ドイツ軍とパルチザンの蜂起軍との戦いになった。ヒトラーは、ソ連赤軍がワルシャワを救出する気が全くないと判断し、蜂起軍の弾圧とワルシャワの徹底した破壊を命じたのである。蜂起軍はワルシャワ市民の圧倒的な支持を受け善戦したが、結局蜂起に失敗してしまう。蜂起軍の多くは死亡したが、生き延びたものは地下水道を通って逃亡したのである。ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは破壊され、これ以後蜂起参加者はテロリストとみなされ、パルチザン・市民約22万人が処刑された。蜂起が収まった後、1945年1月にソビエト赤軍はようやく進撃を再開して廃墟のワルシャワを占領した。その後、ソビエト赤軍はパルチザン幹部を逮捕し、ポーランドの独立を願うパルチザンを弾圧して行くのである。

『灰とダイヤモンド』は、1945年にドイツが降伏した後、ポーランドのある町に占領司令官として赴任してくるシチューカ書記を、天涯孤独のパルチザンのマーチェクが指令を帯びて暗殺を企む四日間をえがいている。英米仏の連合国にとってドイツの降伏は幸せな日の第一歩であったが、ポーランドにとっては、次に何が来るかわからない不吉な前兆であったのである。

images2ワルシャワ蜂起の失敗のあとで、英国に支援されるパルチザンはやっと本当の敵はソ連であると認識するようになり、ソ連を攻撃の目標としていた。数少ない生き残りの反共パルチザンは森に潜み、ソ連に対する抵抗をしていたが、もうソ連がポーランドの支配者になるということは明らかになりつつあったので、それは空しい抵抗であった。ワイダ監督の念頭にあったマーチェクのイメージは「理由なき反抗」で世界的なスターになったジェームズ・ディーンであり、マーチェクを演じたズビグニェフ・ツィブルスキにジェームズ・ディーンを研究するように要求している。事実この映画が成功した後でズビグニェフ・ツィブルスキは「ポーランドのジェームズ・ディーン」と呼ばれるようになった。ジェームズ・ディーンとズビグニェフ・ツィブルスキは同世代であり、ジェームズ・ディーンは24歳で交通事故死しているがズビグニェフ・ツィブルスキも39歳で事故死している。和製ジェームズ・ディーンと言われた赤木圭一郎も21歳で交通事故で夭折している。

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[映画] ジャッカルの日 The Day of the Jackal (1973年)

これは、とにかく面白い映画である。系統としては、007・ジェームズ・ボンドシリーズ 或いはジェイソン・ボーン三部作、ドラゴンタトゥーの女と似ているのだが、その面白さが桁外れである。現代の映画産業界は、コンピューター・グラフィックや派手なアクションや爆破シーンを取り入れまくっても、40年たってもまだこの映画を超えられていないような気がする。『ジャッカルの日』は「黒澤明が選んだ映画100本」の中にも入っている。黒澤はこんな映画が作りたかったんだろうな、と思わせるような完璧な映画である。彼の技術力では、もちろんこのレベルの映画を作ることは可能だったとは思うが、残念ながら黒澤はフレデリック・フォーサイスによって書かれた原作のような優れた「原石」を見つけることができなかったのだろう。この映画の監督は、『山河遥かなり』『真昼の決闘』『地上より永遠に』 『尼僧物語』『 わが命つきるとも』『ジュリア』などで何度もアカデミー賞にノミネートされ、結局生涯に四つのアカデミー賞を獲得したフレッド・ジンネマンである。

この映画は、ジャッカルというコードネームの殺し屋が、フランスのドゴール大統領を暗殺を企むというものである。歴史を知っている聴衆は、当然ながらそんなことが現実に起こらなかったということを知っている。しかし、聴衆は最後の最後まで手に汗を握り、この映画に振り回されてしまうのである。実在の著名なプロフェッショナルな暗殺者たちが愛読し実際に参考にしたという話まで報道された原作を基にしたこの映画は、1960年代のフランスを巡る世界情勢を非常によく描いている。また、この映画の前半に描かれているドゴール大統領の暗殺未遂事件は史実である。史実とフィクションを巧みに組み合わせて行くこの映画には不思議な説得力がある。最初はジャッカルの視点で描かれるので、聴衆はジャッカルが何をしているのかがわかるし、ジャッカルのクールな魅力につかまれてしまう。しかし、後半からジャッカルを追う刑事の視点に移って行き、ジャッカルがどこに隠れて何を考えているのがわからなくなってしまい、映画の中の不安度が増して行く。まったくお見事である。褒めても褒めたりない映画に出会った思いである。

第二次世界大戦では、フランス北部はドイツに占領され、南部のヴィシー政権はドイツの傀儡政権とみなされていた。にもかかわらずフランスが第二次世界大戦の敗戦国ではなく戦勝国に分類されたのは、イギリスに亡命したシャルル・ド・ゴール率いる自由フランスが連合国に参加し、反ドイツ、反ヴィシーとして戦ったからである。しかし第二次世界大戦の疲弊でフランスは列強国としての地位は崩れかけており、戦前の植民地体制を維持するのが困難となってきた。アルジェリアの情勢が危機に陥った1954年に、フランスはベトナムから撤退して、そのフォーカスをアルジェリアに向けようとした。

アルジェリアでは19世紀よりフランスの植民地化が進んでおり、そうしたアルジェリアの植民者はピエ・ノワールと呼ばれた。第二次世界大戦では、アルジェリアはヴィシー政府を支持したが、1942年の連合国軍のトーチ作戦が発動し、アメリカ合衆国軍とイギリス軍が上陸すると、アルジェリア提督はシャルル・ド・ゴールの自由フランスを支持し連合国に加わり、パリ解放までアルジェに自由フランスの本部が置かれた。このようにアルジェリアはフランスにとって非常に大切な土地となった。多くのアルジェリアの現地人が愛国心に燃えて、フランス軍にフランス志願兵として参加したのである。

第二次世界大戦後、1954年にアルジェリア独立を求めてアルジェリア戦争が起こったが、これは非常に泥沼の、フランス世論を真っ二つに割る戦争となった。った。フランス人入植者ピエ・ノワールの末裔はアルジェリアの独立に反対し、フランスの栄光を願う右派世論を味方に付けた。また当時は過激な暴力行為をとるアルジェリア民族解放戦線(FLN)に対する恐れや反感もフランス人の中に根強かった。しかし度重なる戦争の結果厭戦世論も強く、アルジェリアの独立を認めたほうが結局はフランスのためだという意見も強かった。現地のアルジェリア人の間でも、親仏派と独立派との厳しい対立があった。この政治不安の中で第二次世界大戦後に樹立された第四共和制が倒され、シャルル・ド・ゴールが大統領に就任したことにより第五共和政が開始された。

シャルル・ド・ゴールは強い栄光のフランスを象徴する人物であり、アルジェリアの軍人や植民者たちは、ドゴールが自分たちの味方になってくれると期待したが、ドゴールは逆にアルジェリアの民族自決の支持を発表した。1961年の国民投票の過半数もそれを支持し、1962年に戦争は終結してしまった。現地軍人や植民者らは大混乱のうちにフランスに引き揚げ、逃亡することができなかったアラブ人の親仏派の多数は虐殺された。アルジェリアの独立に反対する勢力は戦争中に秘密軍事組織OASを結成してアルジェリアでテロ活動を続けており、またフランスでも政府転覆を狙って対ドゴールのテロ活動を行った。軍人ジャン=マリー・バスチャン=チリーによるドゴール暗殺計画が失敗し、彼が銃殺刑されることから、この映画は始まる。その後ドゴール政権はOASをあらゆる手を用いて追い詰めていくのである。

しかし、ドゴールにも新しい敵が生まれていた。学生や労働者を中心とした左翼運動であり、彼らが起こした1968年の五月革命を抑えるために、軍部の力が必要となり、ここで彼は逮捕・逃亡していたOASの主要メンバーたちへの恩赦を行うのである。

完璧で、褒めても褒めたりない映画と前述したが、この映画には一つ欠点がある。この映画はアメリカ映画であり、登場人物がフランス人を含めて皆英語を話すのである。この映画はオーストリア、スイス、イギリス、イタリア、フランス、デンマークなどヨーロッパの多くの国を移動するのだが、すべての主要登場人物が英語を話すので一体今どこの国にいるのかわからなくなってしまう。私はアメリカの映画が英語に固執する理由が今もってわからないのである。

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[映画]  太陽の雫 Sunshine (1999年)

『太陽の雫』は、19世紀のオーストリア=ハンガリー帝国時代から1956年のハンガリー動乱までのハンガリーの歴史を、5世代に渡る、あるユダヤ人一家を中心に描く歴史大河ドラマである。

この映画の魅力は、ハンガリーの歴史をわかりやすく描いていることである。一家の第一世代はオーストリア=ハンガリー二重帝国の田舎の村の居酒屋のオーナー。彼が若くして死んだあと長男(第二世代)がブタベストの工場に出稼ぎに出て、家伝の薬草酒のレシピを用いた酒メーカーのオーナーとして大成功する。その息子(第三世代)は法学者となり、ユダヤ系の苗字をハンガリー風の苗字に変え、皇帝に忠実な裁判官となる。しかし、ハンガリーが第一次世界大戦で敗北したあとハンガリー・ソビエト共和国が誕生すると、彼は戦犯として自宅監禁になり失意のうちに世を去る。

ハンガリー・ソビエト共和国はルーマニアの介入で打倒され、王政が復古するが、第一次世界大戦や、その後のハンガリーの共産党を打倒したルーマニアにより、国土の大半を失ったハンガリーは苦い思いでナチス政権に近づいて行く。第二次世界大戦では失地回復のため、枢軸国に加わったハンガリーも、1944年に枢軸国からの離脱を望むようになるが、ナチスドイツ軍に阻止されてしまう。第四世代は、フェンシングのナショナル・チャンピオンになり、ベルリンオリンピックの金メダリストにもなる。彼は1936年のベルリン・オリンピックに出場資格を得るためにカトリックに改宗した。しかし彼は結局強制収容所に送られて殺害されてしまうのだが。

命からがら強制収容所から戻って来た第五世代はソビエト連邦の後押しで成立したハンガリー人民共和国で秘密警察に参加し、ナチスに加担した人間の告発を始める。しかし、彼の仕事は次第に反スターリン派の愛国者を告発することに変質していく。1956年のハンガリー動乱の勃発で反ソビエト連邦軍の演説をした彼は逮捕され投獄された。釈放して家に戻った彼は今や一家の唯一の生き残りであった。彼は自分の苗字を再び元のユダヤ系の苗字に戻し、ユダヤ人として生きて行こうと誓う。

この映画でもう一つ面白いのは、なぜハンガリーのユダヤ人がひたひたと押し寄せるナチスの反ユダヤ主義を感じつつも、逃げずにハンガリーに留まったかをうまく説明していることである。反ユダヤ主義は裕福で社会的地位の高かったユダヤ人の特権を部分的に抑圧する法改正で始まったが、第一次世界大戦で皇帝のために戦った兵士とその家族にはその法は適用されなかった。また国威高揚に貢献した者、例えばオリンピックのメダリスト等もその例外の対象となった。つまりこの一家には反ユダヤ法は適用されなかったのだ。そんな状況で、すべての財産を捨てて言葉もわからない異国に逃亡しなければならない理由はなかった。しかし、この映画は、なぜ結局すべてのユダヤ人が強制収容所に送られてしまうようになってしまったのかについては、一言も説明していないが。

壮大なテーマを描いた力作であるにも拘わらず、この映画は名作或いは偉大な映画とはみなされないような気がする。なぜこの映画が名作になれなかったのかを、私なりに考えてみたい。

まず最初の理由は、第三、四、五世代(この三人はすべて英国の俳優レイフ・ファインズによって演じられている)の主人公の描かれ方である。この三人は権力志向、上昇志向が強くて、それを得るためには苗字を変えたり、宗教を変えたりという努力をする。しかし、女性に対する愛はあまり無い男たちである。女性からの熱烈なアタックで、「だめ、だめ」と言いつつも結局情欲におぼれてしまい関係を持つが、最後にはその女性の誘惑を「お前のせいで、自分の人生が破壊された」と冷たく非難する男である。彼らが相手にした女性も、自分の妹として育てられた女性(第三世代)、自分の兄の妻(第四世代)、自分の上司である冷徹なスターリン主義者の妻(第五世代)とすべて背徳というか危険な匂いが漂う関係である。女性が好きな男性のタイプは「実力はあるが、権力べったりではなく、女性を心から愛し、その愛を貫く」というものであろう。この映画の主人公はすべてその逆を行き、背徳とか、肉体だけの関係などという女性の最も嫌いな匂いをぷんぷんさせているので、女性の感情を逆撫でするのは無理もなかろう。しかし、映画の聴衆の50%は女性なのであるから、女性の支持を失ったらこわいのである。

この人物描写は、ホロコーストという重いテーマを描く映画としては、かなり危険なやり方である。下手をすれば、「なるほど、ホロコーストが実際にあった事実ということは認めましょう。でも、それを起こした際には、ユダヤ人にも責任があったのではないのですか?」という非常に危険な議論を起こしかねないのである。もちろん、誰だって完璧無欠の聖人君子であるはずはない。しかし、これだけの重いテーマを描くのなら、それなりの注意深さも要求されるのではないだろうか。

この映画の作者であり監督でもあるのは「メフィスト」でアカデミー外国語賞を受賞するなど、ハンガリーを代表する映画人である、サボー・イシュトヴァーンである。彼については2006年に、1956年のハンガリー動乱の後にスパイとして、仲間の監督や俳優に関するレポートを書いていたことが報道された。彼は最初はそれを否定していたが、結局後にそれを事実として認めることになるのだが、彼の周囲には彼を擁護する人が多かったという。ハンガリー動乱の後の異様な政治的締め付けを受け、警察国家となったハンガリーで生き延びることは容易でなかったに違いない。そういう残酷な時代だったのである。

もう一つの理由は、この映画は五世代の一家の流れを3時間で追う大河ドラマなので、個人の描写が表層的になり、事件の一つ一つが継ぎはぎな印象を受けることである。しかし、そのモデルになった人々は非常に魅力的である。

ハンガリーがフェンシングに強く、その金メダリストの中にユダヤ人がいたのは事実である。アッティラ・ペッチョーは1928年のアムステルダムオリンピックと1932年のロサンジェルスオリンピックでサーベルの団体戦で優勝している。アンドレ・カボスは1932年のロサンジェルスオリンピックではサーベルの団体戦で、1936年のベルリン・オリンピックではサーベルの個人戦と団体戦両方で金メダルを獲得している。二人ともナチス政権化で強制収用所に送られて死亡している。この映画の第四世代の男は、アンドレ・カボスがベルリンオリンピックの個人戦で優勝したことと、アッティラ・ペッチョーが収容所で同胞のハンガリー人に非常に残酷な手法で処刑されたことを基にして描かれているように思われる。

また第五世代の男の上司は実在の人物ライク・ラースローをモデルにしている。彼はユダヤ人の共産党主義者で、アウシュビッツから奇跡的に生還し母国ハンガリーの復興に全力をつくしたが、スターリン主義者に嫌われ1949年に処刑された。その後、ハンガリー動乱で一時名誉回復されたが、その後ハンガリーは動乱の鎮圧と共に警察国家として暗黒期に移行していくのである。

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[映画] 愛と哀しみの果て Out of Africa (1985年)

『愛と哀しみの果て』はアイザック・ディネーセンにより1937年に出版された『アフリカの日々』を基にしている。アイザック・ディネーセンは男性の名だが、実は本名がカレン・ブリクセンという女性である。彼女は男女二つの名前を使い分け、デンマーク語と英語でたくさんの本を出版しており、アカデミー外国語映画賞を受賞した『バベットの晩餐会』の原作者でもある。『愛と哀しみの果て』はアカデミー賞の作品賞を受賞しているが、映画の作り方は完璧ではなく、人間関係の説明がないので原作を読んでいないと取り残されてしまうことがあるし、ちょっと映画が冗長すぎる嫌いがある。しかしケニヤの映像は素晴らしいし、映画の稚拙さを補って余りある原作の魅力というか素晴らしさを感じてしまう。

『アフリカの日々』は基本的には彼女の自叙伝である。映画では冒険好きでデンマークに物足りない裕福な家の出身の女主人公(1885年生まれ)が、没落した男爵の息子と身分と財力を交換するような結婚をして、新天地のケニヤに旅立つ。実際、カレン・ブリクセンも1913年にスウェーデン貴族のブロア・ブリクセンと結婚し、翌年ケニアに移住している。映画通り夫婦でコーヒー農園を経営するが、まもなく結婚生活が破綻し、離婚後は単身でコーヒー園の経営を続けるが失敗し、1931年にデンマークに帰国した。

カレンの夫となるブロア(ブリクセン男爵)は1886年生まれのスウェーデン貴族である。彼はカレンとは遠縁に当たる。彼には一卵性双生児の兄がおり、映画ではこの兄が実はカレンの恋人であったという設定になっている。この双子の兄は1917年に飛行機事故で死亡した。コーヒー農園の資本はすべてカレンの両親から出資されていたので、離婚に際しコーヒー農園はカレンの所有となり、ブロアはサファリ・ツアーの会社を始める。20世紀初頭のヨーロッパの貴族は、経済力と母国の帝国主義の成功の追い風をうけ、起業に情熱を燃やすものが多かったようだが、何かこれは現代の起業家の精神に似ているものを感じる。ブロアの会社の顧客には、英国の皇族や貴族がたくさんいたという。彼は、カレンとの離婚後、1936年に探検家のエバ・ディクソンと結婚した。1938年にエバが死亡したので、ブロアはスウェーデンに帰国し、そこで没した。

ブロアとの離婚後、カレンが親しくなったのがデニス・フィンチ・ジョージア候である。彼は1887年に非常に由緒ある名門貴族の家に生まれた。23歳の時にケニヤの西部に土地を買い、そこを基にして、共同出資者と狩猟会社を始めた。彼もブロアと同じ貴族起業家であり、同じ境遇にある名門貴族出の起業家のバークレー(コール候)とも親しく付き合っていた。この4人が映画の主要人物である。1925年にカレンとブロアが離婚した後、デニスはカレンと親しくなり、やはり自分が始めたサファリ会社の仕事の合間にカレンのコーヒー園でカレンと時間を過ごすことになった。彼のサファリ会社の顧客もやはり、英国の王族や名門貴族が多かった。登場人物はすべて貴族階級の青年たちなのだが、ハリウッドの人気俳優が演じる彼らは、なんとなく金鉱で一儲けしてやろうというアメリカのカウボーイにしか見えないのが、ちょっと残念だが。

映画では、カレンとデニスが破局したのは、デニスが結婚という関係を望まなかったこと、そして別の女性が現れたからだということになっているが、それも事実らしい。1930年からデニスはベリル・マッカムという牧場経営者と親しくなり、二人で飛行機の操縦も学び、ケニヤ中を飛び回り始めた。結局デニスは、カレンが農場を閉じてデンマークに帰国しようと決心した時に飛行機事故で死亡してしまう。

この映画の素晴らしさは、当時のヨーロッパの支配階級出身の伸び伸びとした、怖いものなしの若者の開拓者精神を生き生きと描いていることだ。しかし同時にその特権はいつまでも続かないだろう、という予兆のようなものも漂っているのが見事だ。この映画では、自分の特権を顧みずアフリカに飛び出して、自らの手を汚して自分の運命を試す若者の勇気というものを感じるのだが、それだけ帝国主義というものが健在だったのだろう。この時はヨーロッパの帝国主義の最後の閃光だったのかもしれないが。

カレンは不実な夫により梅毒を移されてしまい、それで一生苦しみ、また全財産を投資したコーヒー農場も失敗してしまうのだが、誰を批判もせずすべてを受け入れて生きていく。その生き方が見事である。この精神は『バベットの晩餐会』にも感じられるものである。ここには作者の人間性が自ずとにじみ出ているのであろうか。

カレンはケニヤの原住民、たとえばキクユ族、マサイ族、ソマリ族などの違いを細かに観察している。当時のケニヤの植民者はキクユ族を利用してケニヤの殖民をすすめている。キクユ族は農耕に順応し、首長が白人入植者に友好政策を取り、白人に土地を奪われた後そこでの小作労働や家内労働に従事した。また、若者はミッション系の学校で教育を受けたので、英語も堪能になった。カレンの言葉を借りれば、キクユ族は「反抗心を持たず、羊のように我慢強い土地の人たちは、権力も保護者もないまま、自分たちの運命に耐えてきた。偉大なあきらめの才能によって、今もなお彼らは耐えている」と描写されている。ソマリ族は、すでにムスリムに改宗しており、植民者はソマリ族はいつ反抗するかわからないと警戒しており、キクユ族のような信頼を感じていなかった。マサイ族は狩猟民族であることを諦めず、孤高の道を選んでいた。映画では、キクユ族の人間でさえ、マサイ族は得体の知れない不気味な民族で、彼らを恐れていたことを描いている。

ケニヤ独立の中心となったのは、植民者のことを経験と勉強により理解していたキクユ族であった。ケニヤ独立の動きはすでに1919年にキクユ人のハリー・ツクがナイロビで東アフリカ協会を立ち上げるなどの形で起こっていた。1924年には青年層を中核とするキクユ中央協会(KCA)が成立し、植民地政府と同調する首長勢力と対決し、そのKCAの急進派の動きが1952年のマウマウ戦争に発展し、これにより白人入植者が撤退し始める。民族主義・独立の動きはケニア・アフリカ民族同盟 (KANU) に結集されて行き、ケニヤの独立が達成されたのは1963年であった。

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[映画] Four Days in September, Que É Isso, Companheiro? (1997年) 日本未公開

『Four Days in September』は、ブラジルの左翼過激派集団MR-8が、1969年9月に駐ブラジルのアメリカ大使チャールズ・エルブリックを誘拐し、四日間彼を人質に取り、獄中にいる自分たちの仲間15人の釈放を要求した事件を描く。この映画の基になっているのは、その事件の首謀者で後にジャーナリスト・政治家として活躍することになるフェルナンド・ガベイラが1979年に出版したメモワールである。彼は現在では、1995年からリオ・デ・ジャネイロで国会議員を勤めている実力者である。MR-8は中産階級の若い子弟や大学生や知識階級を中心に生まれた。MR-8が当初目指したものは、当時ブラジルを支配していた軍部政権を倒し、マルクス主義を標榜し、人民の自由を許す政権を樹立することであった。「未経験の子供たちの革命ごっこ」が心もとないので、スペイン内戦フランコと戦っていた筋金入りの革命家が彼らを支援にくるというシーンもあり、ここに当時のスペインと南米のつながりを見ることができる。

1960年代から70年代にかけて、南米の多くの国では軍部が政権を握っていた。ブラジルの隣国のアルゼンチンでは、1960年代には軍部とゲリラの間での抗争が激化した。1973年にはスペインに追放されていたペロンが選挙で大統領に選ばれ帰国したが、1年後の彼の死でアルゼンチンは再び混乱に陥る。1976年にホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデターを起こし、再び独裁政権がアルゼンチンに生まれた。ビデラ政権は国民に対する強い抑圧、弾圧を進め、周辺の軍事政権と協調した「汚い戦争」でペロン信奉者や左翼を大弾圧した。

チリでは1970年の大統領選挙により、アジェンデ大統領を中心とする社会主義政権が誕生した。これは民主的選挙によって成立した社会主義政権であったが、その政権は不安定であった。社会的混乱の中で1973年、アメリカ合衆国の後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会がクーデターを起こして1974年にピノチェトは軍事独裁体制を敷いた。ピノチェト軍政は徹底的に反体制派の市民を弾圧し、これはやはり「汚い戦争」と呼ばれた。

ボリビアでは、民族革命運動党(MNR)が1952年に市民革命を起こし社会改革および経済改革を行っていたが、1964年にMNRは分裂して、軍部がクーデターを起こし革命政権は幕を閉じた。

ブラジルでは1946年に新憲法が制定されたが、なかなか民主主義が定着せず、ほかの南米の国のように政治経済での不安が続いていた。1964年にアメリカ合衆国の支援を受けたカステロ・ブランコ将軍が、クーデターによって軍事独裁体制を確立した。この時期には「ブラジルの奇跡」と呼ばれたほどの高度経済成長が実現したが、、軍事政権による人権侵害も大きな問題となった。『Four Days in September』はこの時代を背景にしている。

それまでスペインあるいはポルトガル領だった南米が独立したのは、ヨーロッパ大陸でナポレオン戦争が起こり、ナポレオン率いるフランスが両国を攻撃し、またフランス革命の自由平等の思想が南米まで伝わったからである。しかし南米では、独立し次第に共和制に移行した後でも、まだ貴族制は或いは大地主制が残り、貧富の格差あるいは西欧系の子孫と原住民との差別などの問題があった。また政治は独裁制あるいは軍部政権になりがちであった。こうした専制政治に対抗する人々がその精神的支柱として選んだのが、マルクス主義であった。

当時アメリカ合衆国とソ連は冷戦で対立していたので、米国は南米に広がる共産主義の脅威を非常に恐れた。そして、マルクス主義に傾く民族主義者に対抗するため、それを抑圧する専制政権を支援した。自由主義を標榜する米国としては、共産主義と専制主義の選択を迫られて、人民の権利を弾圧する専制主義の政府を選んだのである。半面、自由を求める人民はマルクス主義を指導原理に選んだのである。マルクス主義が自由を保障すると言うのは今では信じがたいが、南米の民族主義者にとって、米国は大地主や貧しい人々を搾取している資本主義の象徴であり、金持ちを守る恐ろしい専制権力と結びついているものだったのだろう。南米の民族主義者を独裁政府を援助することによって排撃しようとした米国は「世界の嫌われ者」になってしまう。

映画での外交官チャールズ・エルブリックの描かれ方は好意的である。自分はここで殺されてしまうかもしれないと覚悟した彼は、アメリカ政府の政策に「私個人としては」反対であると語る。彼は、アメリカのベトナム戦争への介入は誤りであったとも述べる。1969年の段階では作者のフェルナンド・ガベイラは社会革命の情熱に燃えていたが、後に彼は、大使誘拐事件を起こした自分は間違いを犯したと公式に認めている。フェルナンド・ガベイラはチャールズ・エルブリックの処刑役に任命されるが、それは彼にとってもつらい仕事であったと、この映画は語っている。

ブラジルに赴任する前にチャールズ・エルブリックが赴任したのはユーゴスラヴィアであった。南米とは逆に東欧のソ連の衛星国では、共産主義こそ人々の自由を奪うものだと信じている人々がいた。ハンガリーでの動乱はソ連に鎮圧され、1968年に起こったプラハの春もソ連に鎮圧された。ソ連に対して一歩置いた行動を取っていたユーゴスラヴィアの指導者チトーは、当時のアメリカの大使であるチャールズ・エルブリックに「今、同じことがユーゴスラヴィアで起こったら、アメリカ合衆国はどうするか」と尋ねたという。チャールズ・エルブリックは「ユーゴスラヴィアの独立と尊厳を守るために助けます。今、私たちの助けが必要ですか?」と答えたという。チトーは「今はまだ必要ではありませんが、その言葉に感謝します」と述べたらしい。そのあとすぐに、チャールズ・エルブリックはブラジルの大使としてリオ・デ・ジャネイロに赴任し、MR-8に誘拐されたしまったのだ。

1980年代のソ連の崩壊による冷戦の終結で、もはやマルクス主義はアメリカの脅威ではなくなり、アメリカの対南米政策は劇的な方向転換を遂げた。もはや、南米の専制国家はアメリカの必要悪ではなくなったのである。

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[映画] モントリオールのジーザス Jesus of Montreal(1989年)

『モントリオールのジーザス』は、『アメリカ帝国の滅亡』や『みなさん、さようなら』を監督したドゥニ・アルカン監督の作品で、この三つを一緒にして彼の三部作とも言われている。『モントリオールのジーザス』はカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞しているものの、アカデミー賞外国語映画賞候補になった『アメリカ帝国の滅亡』やアカデミー賞を受賞した『みなさん、さようなら』に比べると日本での知名度は今一歩で、DVDの入手も困難になっていると聞く。三作とも非常に佳品なのだが、私の好みでは『モントリオールのジーザス』が頭一つ抜きんでている感じである。キリスト教を知的に解釈して、魅力的な登場人物がユーモラスに愛を語っているし、ストーリー展開も面白く、映画自体も芸術的である。結構日本人の感性にふんわりと訴えるものがあるような気がするのだが。

モントリオールに代表されるケベックはカナダの中でも特殊な存在である。もともとフランス領であるから、現在でも公用語は英語と仏語であり、宗教はカトリックである。カナダ連邦政府に対する反発が強く、選挙で独自の社会主義体制を確立した。最近まで結構暴力的な反カナダ独立運動があったし、現在でもケベック独立派と中央政府残留派がけっこう同じくらいの勢力で拮抗している。私の友人のケベック人の弁護士さんも、彼が小さい頃は自分の近所は貧しくて暴動が結構起こっていたと言っていた。

ドゥニ・アルカンに代表されるケベックの知識人は、まずカトリックの影響から抜け出す精神的革命を行い、その革命の支えとしてマルクス主義を選んだ。しかし、彼らも次第にマルクス主義に幻滅を感じる始める。その幻滅は『みなさん、さようなら』に出てくる社会主義の精神で経営されていて、官僚主義で病人を助けることは二の次で、病人が常に廊下に溢れている病院に象徴されている。

『モントリオールのジーザス』は、キリスト教という宗教団体の権威に対する批判であが、そのトーンは非常にスマートでなおかつ爽やかで愛らしさに満ちている。映画の中で二本劇中劇があり、劇中劇の量は映画の全体量の三分の一くらいである。最初の劇中劇があまりにも馬鹿馬鹿しく退屈なので映画を見ることをやめようとしてしまったくらいだが、このつまらなさは、つまらない芸術作品を作って「どうだ、お前にこのすごさがわかるか」と傲慢に笑う一部のあまり才能のない芸術家へのドゥニ・アルカンなりの批判だと理解したい。二本目の劇中劇は非常に美しく、思わず引き込まれてしまった。

この映画は、才能に溢れた、しかしメイン・ストリームの商業主義に興味がなく、アンダー・グランドの演劇活動をしている俳優のダニエルが、大きなカトリック教会の神父からジーザスの生涯を描く演劇を教会で演じてほしいと頼まれたことから始まる。神父は「好きなようにやってくれればいいから」と非常に協力的で物分りがよさそうで優しそうな人である。ダニエルは、自分の演劇学校の先輩でホームレスのシェルターで働いている女性、ポルノ映画の吹き替えをしている男優、気難しそうで自分の気に入った作品にしか出ない男優、体を売り物にする安っぽいコマーシャルに出ていて「演技なんかできるわけがない」と軽蔑されている若い女優をリクルートして、すばらしい舞台を作ってしまい、聴衆や批評家から絶賛される。彼に協力した俳優たちも自分たちがこれほどの才能があるということに初めて気づいて、興奮し幸福に浸る。

しかし、ダニエルのジーザスの解釈が、「ローマ人の兵士とマリアの間に生まれた、心が強く優しい男」であるというところから神父はカトリック教会の上司から圧力がかかり、自分の地位が危うくなるのではないかと心配し、その劇の続演を中止しようとする。その中で、一見まともに見える神父の俗物性がどんどん明らかになっていく。映画は、劇をやめさせようとする教会側とそれに反対する観衆の間に起こった暴動が悲劇に続いて行く中で幕が閉じる。

ダニエルは、ジーザスが現代に生まれていたらどんな人間だったか、ということの象徴であるだろう。冒頭のつまらない芸中劇に出演した俳優が、自分が誉めそやされている時にダニエルを指差し「私より優れた俳優がそこにいる」と言うのは、洗礼者ヨハネがジーザスの到来を預言したことを思わせる。4人の俳優たちが自分の仕事を投げ打ってダニエルに協力したのは、当時の信者たちが自分の所有物を捨ててジーザスのもとに走ったのに似ている。特に「お前の演技力は尻だけ」と軽蔑されていたコマーシャル専門の女優が、自分を尊敬を持って扱ってくれたダニエルに絶対の愛を捧げるのは、マグダラのマリアを思わせる。ダニエルの死んだ瞬間の姿は十字架に架けられたジーザスそのものである。ジーザスが起こした、死人を蘇らせたり盲目の人間に視力を与えたりという奇跡もダニエルの死後実際に起こる。また有能な弁護士がダニエルの死後、ダニエルに従った二人の男優に接近して「ダニエルの偉業を伝える劇団を作ろう」と話しかける場面がある。この二人の男優はジーザスの使徒たとえばパウロやペテロの象徴であろう。「商業主義ではなく、ダニエルが目指した聴衆との直接の交流のある劇団ならやってもいい」と答える二人はジーザスの心を受け継いで行こうと謙虚な心を表しているが、彼らの目の中には「まんざらでもないな」と光るものが一条ある。これは、謙虚な気持ちで出発したキリスト教会がその後ローマ帝国からの公認と共に大きな政治的団体に堕落していったキリスト教会を予兆させるものであろうか。

とにかく、面白く心に響く映画だった。最初の2分で映画を見るのをやめないでよかった・・・

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