[映画]  戦艦ポチョムキン Battleship Potemkin (1925年)

『戦艦ポチョムキン』は、1905年のロシア帝国支配時に起こった水兵の反乱を、ソ連政権下の1925年に、共産革命の栄光の第一歩として描くプロパガンダ映画である。そのあまりのプロパガンダぶりには唖然とするが、同時に1925年にこれだけの斬新な映画を作ったセルゲイ・エイゼンシュテイン監督の鬼才にも唖然としてしまう。

ロシア帝国は、不凍港を求めて常に南下政策を採用し、1878年の露土戦争の勝利によってバルカン半島における権威を獲得した。ロシアの拡大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、ロシアの勢いを牽制することに成功した。これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになり、その結果として1904年に日露戦争が起こったといえよう。アジアに権益を持つイギリスは、ロシアのアジア進出を怖れ、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行ったが、独英に苦い思いを持つフランスは露仏同盟を結んで、両国に対抗した。日本側は当時は日本に好意的であったアメリカ合衆国の大統領セオドア・ルーズベルトに和平交渉を依頼したが、ロシア側は当時無敵を誇っていたバルト海に本拠を置くバルチック艦隊を送ることを決定し、ルーズベルトの和平交渉を拒否した。

バルチック艦隊は7ヶ月に及びアフリカ大陸沿岸を巡回して日本へ向かった。アフリカの英独植民領からの食料や燃料支給の拒否は予想していたが、頼りにしていた仏領からの支援もままならず、大変苦しい航海を続けなければならなかった。実はイギリスとフランスは日露戦争開戦直後の1904年4月8日に英仏協商を結んでいたのである。1905年の5月27日に連合艦隊と激突した日本海海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失い、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受け、この海戦は日本海軍の一方的な圧勝に終わった。時を同じくして6月14日に黒海に駐留していた戦艦ポチョムキンで水兵の反乱が起きたので、ロシアも早期に日露戦争を終結する必要に迫られるようになった。

ロシアは露土戦争以前の1821年に勃発したギリシア独立戦争で、ギリシャのオスマン帝国からの独立を支援し、単独でトルコと開戦し勝利を収め、1829年のアドリアノープル条約で黒海沿岸地域をトルコから割譲し、ロシア船舶がボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡を自由に通行することを承認させた。ロシアの南下をおそれた英仏は1840年にロンドン会議を開き、1841年の国際海峡協定で、ロシアの船舶のボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡の通行は廃棄された。つまり、ロシアの軍艦は両海峡を越えて地中海に出ていくことが国際的に禁止されたのである。だから黒海にあるロシア海軍艦隊は日露戦争の時も出兵ができなかったのである。ポチョムキンはその黒海艦隊の一つであった。

この映画では、ポチョムキン艦上で水兵による武装蜂起が発生し、反乱を起こした水兵たちは士官を処刑して革命を宣言し、ウクライナの港湾都市オデッサに向かう。ポチョムキンを歓迎するオデッサの市民に対し、政府軍によるオデッサ市民の大虐殺が起こり、ロシア政府軍艦隊がポチョムキン鎮圧のために向けられる。しかし、政府軍艦隊の水兵たちはポチョムキンの水兵たちを兄弟と呼び、心を通わせるところを描き、革命の端緒の反乱を栄光を持って描く。しかし、この映画、どこまで事実を反映しているのだろうか。

まず映画史上に残る名場面と絶賛されるオデッサの階段の虐殺は史実ではないらしい。この階段自体は実際にオデッサにある、不思議なデザインの階段である。階段に立って下を見下ろす人には踊り場だけ見えて階段は見えない。しかし階段を下から見上げる人には、階段だけ見えて、踊り場は見えない。海から階段を見上げると階段が実際より長いように見せ、陸から階段を見下ろすと下までの距離は短いように思われる。このオデッサの階段の虐殺のシーンがあまりにも古典として定着されてしまったので、歴史上の史実のようになってしまったのだ。オデッサの当局はポチョムキンの行動には否定的で、ポチョムキンが停泊することを許可しなかった。

ポチョムキンを鎮圧しに行った艦隊がポチョムキンに砲火しなかったのは事実である。司令官代理に任命されたクリーゲル海軍中将は、自分が率いる鎮圧艦隊の中の水兵にはポチョムキンの反乱に賛成している者が多く、ポチョムキン砲火の命令をすると、自分の生命が危ういどころか全鎮圧艦隊の水兵が反乱を起こすことを感じ取り、何らの行為もせずポチョムキンから離れたのである。鎮圧艦隊の水兵たちは上官たちから禁じられていたにも拘らず、甲板上に出て接近するポチョムキンに歓声や挨拶を送った。何と、そのうちの一艦である装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツの水兵たちは自分たちの上官をたちを逮捕し、ポチョムキン蜂起に合流したのである。もう一つの戦艦シノープでは、ポチョムキンへの合流に賛成する派閥と反対派閥とが議論し、後者が勝ちポチョムキンへの参加は起こらなかった。

ポチョムキンで反乱した水兵たちは、その後どうなったのか?

ポチョムキンのもとに留まった装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツでは、すぐに水兵たちのあいだでの仲間割れが生じた。叛乱へ安易に同調したことを後悔した者たちが艦長や士官らを釈放し、翌日には叛乱の首謀者68名を引き渡した。オデッサから停泊を拒否されたポチョムキンはルーマニアのコンスタンツァに到着したが、ルーマニア政府はポチョムキンに必要物資を提供するのを拒んだ。ポチョムキンの水兵はルーマニアで降伏し、戦艦ポチョムキンはルーマニア政府によりロシア政府に返還された。大部分の水兵は政治犯としてルーマニアに亡命することを選び、1917年にロシア革命で共産党政権が樹立するまでルーマニアに留まった。また何人かはそこからさらに海外逃亡を図った者もいる。彼らの逃亡先はアルゼンチンなどの南米であり、またトルコ経由で西欧に向かった者もいた、

映画の中のオデッサの市民の反政府デモのシーンでは「処刑執行人、専制政府、ユダヤ人をやっつけろ!!」と叫ぶ市民が、「仲間で喧嘩をするのはよそう」となだめるユダヤ人をリンチするシーンまである。そのユダヤ人は金持ちそうで、憎たらしく描かれている。この映画を作製したセルゲイ・エイゼンシュテインがユダヤ人であるということを考えると、全く驚くが、これが当時のロシア人のユダヤ人に対する感情だったのかもしれない。

『戦艦ポチョムキン』の大成功により、セルゲイ・エイゼンシュテインはハリウッドに招かれ1930年からアメリカで暮し、ウォルト・ディズニーやチャーリー・チャップリンと親しく交際するようになるが、彼の映画人としてのアイディアはハリウッドで活用されることはなく、結局彼は一つの目に見える業績もなくソ連に戻ることになった。一体彼はアメリカで何をしていたのだろうかとすら思う。

セルゲイ・エイゼンシュテインが帰国した時にはスターリンの大粛清が始まり、その粛清が芸術家にも及んでいた時であった。セルゲイ・エイゼンシュテインは完璧には社会主義リアリズムに合致しない芸術味豊かな映画を作り、またアメリカに長期滞在していてアメリカ人の友人も多かったのでスパイ罪の嫌疑がかかってもおかしくない状況であったが、彼はこの粛清も無事乗り切ったようで、どういうわけか彼の上司にあたるボリス・シュマトスキーが粛清にあい、処刑されている。ここには何故か大きな暗黒の疑問符が漂っているのである。

第二次世界大戦後、セルゲイ・エイゼンシュテインと親友だったことから、ウォルト・ディズニーやチャーリー・チャップリンはマッカーシー上院議員が権限を持って遂行した「赤狩り」の容疑者に挙げられる。ウォルト・ディズニーは無実を勝ち取ったが、チャーリー・チャップリンは結局国外追放となったのである。

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今年観た映画のベスト5

このブログは今年の8月27日に書き始めました。ブログを始めた動機は、大病から回復して生きていることのありがたさがわかり、今考えていることを、縦糸(その国の歴史)と横糸(同時期の各国の歴史)にして、映画と人物を交錯させて描きたいと思ったからです。映画を選んだのは、映画は文学と違って何か具体的なものを聴衆に見せなければならないので、その分色々な意味で情報量があるからです。また映画を作製するのはチームワークであり多くの人が交錯すること、映画を作るのにはお金がいるので、その製作の価値を他人に説得しなければならないなど、映画作成の過程自体にも人間ドラマがあるからです。一言で言えば、一人の頭の中で作られたも文学より、大勢の人間が具体的に作り上げた映画の方が情報量が豊富だということだと思います。

私は映画は「新作だから観る」ということはしないで、その日の気分に任せて映画を選ぶようにしています。ですから映画のタイム・スパンも1925年の『戦艦ポチョムキン』から2012年の『リンカーン』まで90年近くにわたっています。映画に関連した国は35カ国にわたっています。このブログには100近い映画を載せています。それ以外にも30本くらい見ています。このブログに載せた映画はそれなりに自分にとってのインパクトが強い映画だといえるかもしれません。以下は私の好みによる「2012年に見た映画のベスト5」です。

一位:存在の耐えられない軽さ The Unbearable Lightness of Being(1988年)

まだ無名だったダニエル・デイ・ルイスとジュリエット・ビノシュを発掘したフィリップ・カウフマンの慧眼にはただ恐れ入ります。地味な映画ですが、時代に左右されず自分の気持ちを尊重することの大切さ、「本能的に(肉体的に)惹かれた人の幸せを願うことが、無理なく自然に自分の幸せに繋がって行く。もしそれが現実に起こったら、それが本当の愛である」ということをダニエル・デイ・ルイスとジュリエット・ビノシュの怪しい魅力で描いていきます。誰かのブログで「僕はいわゆる恋愛映画は大嫌いだが、この映画は本当に好きになってしまった」と書いてあったのを読んだ記憶がありますが、その人の気持ちがよくわかります。

二位:リンカーン Lincoln (2012年)

スティーンブン・スピルバーグの作品には、完璧に面白い娯楽作品と、「自分は単なる娯楽作家ではない」ということを示そうとする深刻な作品(『シンドラーのリスト』や『ミュンヘン』『戦火の馬』など)がありますが、この作品はそのどちらでもありません。一言でいえば、すべての作品が興業的あるいは批評的に成功し、業界仲間からの尊敬を勝ち得て、資金源での心配も一切なくなり、もう怖いものがなくなったスティーンブン・スピルバーグが、何も心配せず自分が本当に作りたいテーマの映画を作ったという映画です。では、彼が一番作りたかったテーマは何か?ぶっちゃけて言えば、オバマ大統領への賛歌です。もっと正確に言えば、いつも深刻な政治的対立で国が割れているアメリカ合衆国という複雑な国で、選挙によってオバマ大統領を選び、選んだ以上は彼を支持し且つ厳しく批判するアメリカ国民に対する尊敬の気持ちです。

リンカーンは初代大統領ワシントンと共に、常に意見が真っ二つに分かれるアメリカ人の間でも文句なく名大統領と言われている数少ない二人の大統領の一人ですが、早くも在世中からオバマ大統領とリンカーン大統領の類似性の指摘がなされるようになってきました。その例は、二人ともアメリカの心を象徴する中西部のイリノイ州から選出された大統領であること、大統領になる前は政治家としての勢力のない全く無名の代議士であったこと、歴史に残る名演説をしたこと、またアメリカが分裂するかもしれないほどの危険な選択を迫られたことなどです。

私のブログの『リンカーン』で「私は、リンカーンは究極のゴールをじっと見据えて、その時その時のステップで一番正しく現実的な方法を取っていたのだと思う。」と書きましたが、つい最近読んだオバマ大統領のインタビューで彼が映画『リンカーン』の感想を聞かれて「僕は歴代の大統領の価値には一切コメントしません。でもこの映画は、政治家の理想と現実の手段を描いていることに心を惹かれました。政治家は時には理想のゴールに到達するためには汚い手段をとらなければならないこともあるのです」と述べているのには、思わず納得してしまいました。リンカーンとオバマの最大の共通点は、究極のゴールを見据えつつ、賢く現実的な手段を使うということでしょう。そして理想が結局一番大切だと理解しているところも同じだと思われます。また国民がオバマの人柄の良さは作られたものではなく、純粋に彼の自然な人柄だと信じているのもリンカーンに国民が感じたものに似ています。まあ、ファースト・レディーのミシェール夫人の、現実的で地に足がついた、細かいことをくよくよしない、見栄っ張りでない性格もオバマ人気の一端ではありますが。

この映画ではダニエル・デイ・ルイスがリンカーンを演じて神がかりの演技を見せています。スティーンブン・スピルバーグも毎日の撮影に出勤するに際して「大統領に謁見するのだから」と言ってスーツにネクタイ姿でスタジオに現れてメガホンを取ったということです。私も劇場でこの映画を見ましたが、親が子供連れで結構正装をして映画館に現れ、映画が終わったあともすぐに席を立つなどはせず、大統領の演説を聴き終わった後のように大きな拍手をしたのでした。

三位:カティンの森 Katyń (2007年)

この映画の魅力はずばりその情報量と情報の質です。ワイダ監督の「本当にこの映画を作りたかった、この映画を作るまでは死ねない」という怨念が伝わってきます。


四位: 別離 A Separation (2011年)

アスガル・ファルハーディーの製作、監督、脚本による、ストーリー構成の見事さの見本のような映画です。またイランの中産階級を描いていることも、映画の情報としては価値ありです。教育熱心で洗練されてプライドの高いイランの人々、今はちょっと宗教国家で十分力を出していませんが、もし民主国家が実現したら「イラン恐るべし」です。

五位:ニュールンベルグ裁判 Judgment at Nuremberg(1961年)

 『真昼の決闘』の製作、『招かれざる客』の監督でも知られる名匠スタンリー・クレイマーによる不朽の名作です。肩肘をはらない地味な映画ではありますが、戦後のヨーロッパとアメリカの様子をよく表現しており、その後の冷戦とその結果を予想させるような映画で、今からみても全く古くなっていません。スペンサー・トレーシーはダニエル・デイ・ルイスと共に近現代を代表する名優の一人なのではないでしょうか。同じ魅力を持つ映画としては『Z』も見逃せません。

では皆様、よいお年をお迎え下さい。

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[映画]  レ・ミゼラブル Les Misérables (2012年) 

ヴィクトル・ユーゴーの原作を基にしたヒットミュージカルの映画化『レ・ミゼラブル』はなかなかの出来である。映画ならではのコンピュータ;グラフィックによる当時のパリの町並みの再現、汚い歯並びや汚れた服を強調した登場人物のクローズ・アップ、斬新なアングルの美しい絵画的なシネマトグラフィー。そして演技派俳優による心のこもった歌唱。ラッセル・クローやアン・ハサウェーなどの俳優たちは勿論歌も立派に歌えるのだが、俳優ならではの陰翳のある歌い方をしていて、これが単なるミュージカルの二番煎じではないことを証明している。『レ・ミゼラブル 』はナポレオン1世が敗北した1815年に出獄したジャン・ヴァルジャンが、1830年に起こったブルジョワによる七月革命の後の1832年の六月暴動とそれが鎮圧されて王政復古が起こるのを目撃し、年老いて1833年に死亡するまでの18年間を描く。

ジャン・ヴァルジャンの養女コゼットの夫になるマリウスが作者ヴィクトル・ユーゴーの投影であるということはよく言われるが、このマリウスという男がよくわからない。裕福な祖父に反抗して六月暴動に参加したはずだが、同志が全員死亡してもジャン・ヴァルジャンに救出され祖父の援助でコゼットと豪華な結婚式をあげ、めでたしめでたしとなる。マリウスのモデルになったと言われるヴィクトル・ユーゴーはどういう人物だったのだろうか。彼のどの部分がマリウスに投影しているのだろうか。

ブルボン王朝及び貴族・聖職者による圧制に反発したブルジョワジーに率いられた民衆が1789年7月14日にバスティーユ牢獄を襲撃したことにより始まったフランス革命は、1792年にルイ16世を処刑したあたりから次第に過激化し、第一次共和制の恐怖政治に発展して行った。この混乱の中で人民の心をつかんだのはナポレオン・ボナパルトであり、1799年のブリュメールのクーデターによりナポレオンは執政政府を樹立し独裁権を掌握した。1804年に彼は帝政を樹立した(第一帝政)。

ヴィクトル・ユーゴーは1802年に共和派でナポレオン軍の軍人である父と、熱烈な王党派である母の間に生まれた。両親は当然ながら大変不和であり、それが彼の青年時代に暗い影を投げることになる。ヴィクトル・ユーゴーは別居が続いた両親の関係上、その幼少時代の大半を母と過ごすことになる。1814年のナポレオン1世の没落で父はスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に降格されてしまう。

ナポレオン1世の失脚後、ウィーン会議で、フランス革命を否定して、すべての体勢をフランス革命以前の状態を復活させ、大国の勢力均衡を保つことが図られた。英・独(オーストリアとドイツ)仏・伊(及びバチカン)・ロシアの五大国でヨーロッパの体勢を決めるというこのウィーン会議の精神は結局 第二次世界大戦まで続いたのである。フランスではルイ16世の弟であるルイ18世がフランス国王に即位した。ルイ18世はフランス革命の最中に兄を捨てドイツに亡命し、その後も諸国を転々としてフランス共和制への攻撃を主張していた。彼は1815年にナポレオンが一旦エルバ島を脱出して復権するとまた亡命するが、ナポレオンの最終的失脚にともなって復位した。ルイ18世の死後、弟のシャルル10世(彼もフランス革命勃発と共に兄のルイ16世を捨ててロンドンに亡命していた)が即位し、亡命貴族への補償を行うなどさらに反動政治を推し進めた。

この王政復古の時期はヴィクトル・ユーゴーにとっては家族に集中する時であった。母の死後1821年に幼馴染のアデール・フシェ(彼女はコゼットのモデルであるといわれる)と結婚し、1823年には長男、1824年には長女が生まれ、1825年にはレジオン・ドヌール勲章という最高勲章を受け、準貴族待遇を受けるようになる。また少年時代は疎遠であった父との仲も親密になっていき、それまで嫌っていたナポレオン1世に対しても理解を深めるようになり、ナポレオン1世を次第に尊敬するようになる。1826年には次男、1828年には三男が、1830年には次女が生まれる。彼はルイ18世から年金をもらっていたので、生活はかなり裕福であったが、作家としての成功も既に始まっていた。

シャルル10世は反動的な政治を行い、言論の自由を認めず、ブルジョワジーの大部分に選挙権も与えないなど中産階級の利益を守らなかったので中産階級、知識人そして貧しい労働者が不満を持ち始めた。また後にフランスの汚辱であり将来に渡り政治的負債となるアルジェリア侵略まで始めてしまった。こういった愚策の繰り返しが1830年のブルジョワジーに主導された七月革命勃発の原因となった。ヴィクトル・ユーゴーは保守的な貴族ではあったが、一方では尊敬されている知識人であり、自分の親友の文学者たちが七月革命の中心人物なので自分の立場は安全だとわかっていたし、シャルル10世は愚王だと思っていたので、七月革命にも反対の立場は取っていなかった。七月革命では、革命軍を鎮圧しなければならないはずの政府軍にすら鎮圧軍の意欲はなく、シャルル10世は慌てて外国から傭兵を雇わなければならないほどであった。このフランス七月革命は、1830年7月27日から29日までのわずか三日間の革命であった。この革命はシャルル10世が亡命し、開明的で自由主義に理解があるという名声のあったブルボン家の遠縁にあたるルイ・フィリップ1世を王位につけ、立憲君主国を樹立する(七月王政)ということで収拾された。ルイ・フィリップ1世は1797年から1799年までアメリカ合衆国に住み、アメリカ独立運動を助けたという経験もあり、人民からの期待も高かった。

ルイ・フィリップ1世はブルジョワジーに大変人気のある王であった。ヴィクトル・ユーゴーもルイ・フィリップ1世を「万事に優れている完璧な王である」と絶賛しており、1845年にはついに彼はルイ・フィリップ1世から子爵の位を授けられた。彼は永久貴族になったことで政治活動にも興味を示すようになった。彼にとっては理解のあるルイ・フィリップ1世のような英君を理性的な知識人がサポートする七月王政が理想の体制であったようだ。

しかし、ヴィクトル・ユーゴーとマリウスには決定的な相異がある。マリウスは共和派の秘密結社ABC(ア・ベ・セー)の友に所属する貧乏な弁護士という設定になっている。ブルジョワ出身の彼は幼い頃に母を亡くし、母方の祖父に育てられたが、17歳のとき、ナポレオン1世のもとで働いていた父の死がきっかけでボナパルティズムに傾倒し、王政復古賛成派の祖父と対立して家出していた。マリユスが『レ・ミゼラブル』で参加したのは、七月革命ではなく、その2年後に起こった六月の暴動である。六月暴動(1832年)はより過激な学生と労働者による蜂起であったが、僅か二日間で鎮圧されてしまった。

フランスでは政治の体制は次第にブルジョワジー対労働者という図式に移行していた。1948年の労働者や農民主導の二月革命により、ルイ・フィリップ1世は退位しイギリスに亡命し、七月王制は終わりを告げる。フランスでは、王制は撤廃され、1848年憲法の制定とともに共和制(第二共和政)に移行した。この年の6月にやはり六月蜂起と呼ばれる労働者の反乱が起こっているので、上述した1832年の六月暴動と混乱してしまいそうになる。結局11月に大統領選挙が行われ、ナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルトが大統領に選出された。その後、ルイ・ナポレオン・ボナパルトは、自身を皇帝にして(ナポレオン3世)1852年にフランス第二帝政を開始するのである。

ルイ・フィリップ1世がイギリスへ亡命した後ですら、ヴィクトル・ユーゴーはあくまで、ルイ・フィリップの嫡孫である幼いパリ伯を即位させるべきだと主張したほどである。第二共和制で次第に独裁化していくナポレオン大統領には常に強力な反対者であったユーゴーは、1851年のナポレオンのクーデターの後にナポレオンに弾圧されるようになり、命の危険を感じたユーゴーはベルギーへと亡命することになり、ベルギーの首都ブリュッセルからナポレオンへの批判を開始することになった。しかしベルギーにも弾圧の手が伸び、彼はさらにイギリスの辺境の島に身をひそめることになる。この時期に六月暴動の挫折を記録した『レ・ミゼラブル』を執筆し、それが全世界的なベストセラーとなった。

1870年に勃発した普仏戦争はフランスの大敗北に終わり、セダンの戦いでプロイセン王国の捕虜となったナポレオン3世は失脚した。これによってユーゴーは帰国を決意し、19年ぶりに祖国の土を踏むこととなったが、彼を待っていたのは、彼を世界的文豪或いは国民的英雄として熱狂的に歓迎するフランスの国民であった。

普仏戦争を収拾するために臨時政府が成立したが、この政府がビスマルク率いるドイツ政府に対して屈辱的な講和予備条約を結んだ。それに激怒した民衆が蜂起して、社会主義政権を標榜するパリ・コミューンの成立が宣言された。このコミューンの政策には労働条件の改善など社会政策的な要素が含まれており、世界初の社会主義政権と言われたが、パリ・コミューンの指導者は内部対立を収拾することもできず、すぐに政府軍によって鎮圧された。コミューン参加者の多くが射殺ないしは軍事法廷によって処刑された。パリ・コミューンの鎮圧は、多くのフランス国民にとっては政治的安定をもたらすものとして受け入れられた。

19世紀のヨーロッパ諸国では、王党派、ブルジョアを中心とする共和派、軍部政権、マルクス主義の影響を受けた労働者・プロレタリアートの武力闘革命による階級闘争主義が思想的な争いを繰り返したが、ユーゴーの目指したものは王制と共和制の中間、開明的な国王を賢いブルジョアが理性的な憲法と普通選挙で支持するものであっただろう。これは隣国の英国が追求したものと同じであり、七月革命の犠牲を経て誕生した七月王制が彼にとっては理想の政権であっただろう。しかし、その後の亡命生活を経て、ユーゴーの政治観も深まったのであろう。貧困にあえいでいるレ・ミゼラブル(貧しき人々)を救わずして理想国家は作りえないということを心から感じたのだろう。だから。七月革命をただのばら色の栄光と描かず、六月暴動の陰翳を『レ・ミゼラブル』に入れたところにこの物語の深さがあるのだろう。

ユーゴーは1885年5月22日、パリにて84歳で逝去した。国民の英雄、文豪としてパンテオンへ敬意を持って埋葬されたのである。

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[映画]  バベットの晩餐会 Babettes gæstebud、 Babette’s Feast(1987年)、ラヴェンダーの咲く庭で Ladies in Lavender (2004年)

最近立て続けに非常によく似た映画を二本観た。『バベットの晩餐会』と『ラヴェンダーの咲く庭で』である。『バベットの晩餐会』は1871年のパリーコミューン事件前後の50年に渡る時期を描くし、映画『ラヴェンダーの咲く庭で』は1936年の英国を舞台にしており、『バベットの晩餐会』より約20年後に作られているので、映画として大成功だった『バベットの晩餐会』の物まねなのだろうか、とも思ったが、この二つの映画が描く時代の精髄とか、映画の精神の色彩があまりにも似ている。二つの映画から受ける印象は20世紀初頭の北欧の空気なのである。

調べてみると『バベットの晩餐会』の原作者カレン・ブリクセンは1885年に生まれて1962年に没しており、『ラヴェンダーの咲く庭で』の原作者ウィリアム・ジョン・ロックは1863年生まれで1930年に没している。同世代とは言わないが、同時代に生きている。道理で、その感性が似ているはずだ。『ラヴェンダーの咲く庭で』は原作の時代を20年間新しくしているが、実際の原作は1916年に出版されており、『バベットの晩餐会』の原作よりも若干早い時期に出版されている。つまりこの映画が表現している時代の空気は、第一次世界大戦前のまだ帝国主義が健在なヨーロッパで、その経済的な繁栄は楽しみつつも、北欧の田舎で政治的な荒波には揉まれておらず、隣人の共同体がしっかりして、人々が善意でお互いを助け合っていた、よき時代のヨーロッパの心なのである。カレン・ブリクセンもウィリアム・ジョン・ロックもそういった時代は近い未来に消え去るだろうという予感は感じていたのであろう。何か儚さの予感のようなものを感じさせる。原作は読んでいないので、この二つの映画を比較して、その相似点と相違点を書いてみたい。

まず映画として似ているのは、両方とも父親の死後独身で同じ家に暮らしている仲のいい老姉妹の物語である。二人が暮らしているのは北海に沿った海辺の美しい寒村である。『バベットの晩餐会』ではデンマークのユトランド半島、『ラヴェンダーの咲く庭で』は英国という設定であるが、映画の風景は全くそっくりである。女中が買い物籠をさげて丘を下りて、漁師が浜辺に乗りつけた小船に魚を買いに行くという毎日も似ている。毎日判で押したような、父を懐かしみ日々の無事を感謝していく姉妹の生活が、漂流者のような芸術的な異邦人(『バベットの晩餐会』ではパリの一流レストランの女シェフだったバベット、『ラヴェンダーの咲く庭で』ではミステリアスなポーランド人の天才バイオリニストのアンドレー)の出現で生活が一気に活気つき、姉妹は半ば忘れかけていた自分の若かりし頃を振り返るというのも似たテーマである。

作者として似ているのは、カレン・ブリクセンもウィリアム・ジョン・ロックもアフリカで長い間生活していたということだ。ウィリアム・ジョン・ロックは英国人だが2歳の時にトリニダード・トバゴに移住し、1881年にケンブリッジ大学に入学するために英国に帰国した。一方カレン・ブリクセンはデンマーク人であるが、1913年に父方の親戚のスウェーデン貴族のブロア・ブリクセンと結婚し、翌年ケニアに移住した。夫婦でコーヒー農園を経営するが、まもなく結婚生活が破綻して離婚し、1931年にデンマークに帰国した。アフリカ在住時代の思い出を綴った『アフリカの日々(Out of Africa)』が 『愛と哀しみの果て』として映画化され、アカデミー作品賞を受賞した。『バベットの晩餐会』はアカデミー賞外国語映画賞を受賞している。

それでは相違点は何か。原作を読んでいないので、映画化されたものだけに関していえば二人の姉妹の過去の振り返り方の差である。『バベットの晩餐会』では、姉妹の心には過去に対する後悔は全くない。美しい姉妹だから思いを寄せる男性はたくさんいたが、独身を保ったのは村で教会を立ち上げた父を助けるためであり、年老いて信者が老人ばかりになり傾きかかった教会を死ぬまで維持しようと心に決めている。何も欲はないし自分から求めるものはないが、人生の果てで自分に思いを寄せてくれた男たちの暖かい魂が姉妹を守ってくれているかのようだ。パリ・コミューンで家族全員を虐殺されて身寄りのなくなったバベットをパリからデンマークに送ってくれたのも、姉妹に想いを寄せた男なのである。バベットも姉妹のもとで暮せることを感謝して、ずっと姉妹と人生を共にしようとする。信じる心があり欲のない人間が得ることのできる静かな幸せを『バベットの晩餐会』は描いている。

『ラヴェンダーの咲く庭で』は逆に漂流した若くて魅力的な男性によって、姉妹のの妹の方の老女が自分の中に隠されていた異性への欲望に気づく物語である。若者は漂流して死にかかった自分を助けてくれた老女に感謝の気持ちを持ち、母を慕うのに近い気持ちで老女を慕うのであるが、やはり恋愛感情を持つのは自分の年に近い若い女性であるし、自分のキャリアに対する野心もあり、片田舎にくすぶっていることはできない。妹は「あの人が手に入らないなんて、人生不公平!!と嘆く。他人から見たら滑稽でグロテスクに見える老女の感情も、老女からみれば真剣で尊い感情なのだ。

映画としては『バベットの晩餐会』の方がはるかに優れており、『バベットの晩餐会』は多分映画史に残るだろう。悔やまない、妬まない、受け入れる、感謝するという、幸せを得るための心構え、言うのは容易いがなかなか身についてくれない人生態度を、年老いてなお美しい女優たちが示してくれる。

『ラヴェンダーの咲く庭で』で老姉妹を演じているのがジュディ・デンチとマギー・スミスである。アカデミー賞受賞者で英国女王から女爵士を授けられた彼女たちは勿論大女優である。しかし『ラヴェンダーの咲く庭で』の姉妹たちは原作ではずっと若く、原作の精髄は、40代のもはや若いとはいえないが、まだ十分女性である独身の女性が、若い男性に恋心を触発され、自分の失われた青春時代を渇望する物語である。監督のチャールズ・ダンスも、40代の女性の心の翳りと発揚を70代のジュディ・デンチとマギー・スミスに演じさせることの懸念はあったが、「まあ、彼女たちは女神に近い名優だからできるだろう」と思って二人をキャストしたという。これは演技というものを冒涜しているアプローチだと思う。極端にいえば役柄は黒木瞳か松島菜々子の年代だけど、まあ神に近い名優だから70代の杉村春子や山田五十鈴が黒木瞳を演じられるだろう、と言っているようなものである。

70代の彼女たちが40代を演じるのはちょっと無理だから、映画は結局老女の物語になってしまっている。映画を見ている人が、主人公は実は40代だと理解するのはまず不可能だろう。というわけで、映画は、70代の女性が嫉妬混じりに20代の男性を家の中に拘束し、同年代の女性との交際を妨げ、いつまでも繋ぎとめておこうと企む(というか淡い希望を持つ)というものになっている。ジュディ・デンチとマギー・スミスへの尊敬が、結果としてこんな映画になってしまったのは皮肉である。

原作は読んだことがないが、私としての『ラヴェンダーの咲く庭で』の主人公のイメージは、何らかの理由で独身である、若いともいえないが老境でもない40代の女性が、自分の子供ほど若くないが、かといって自分の相手としても社会的には受け入れられない年下の男性へ惹かれていく想いを抑制する「つかの間の緊張の美」である。彼女が独身であったのは、自分のふさわしい世代の男性が戦死して数が少なくなっているとか、出会いの機会がなかったとか何か社会的な理由があるような気がする。何歳になっても人を想う気持ちがあってもいいが、40代女性を70代のの女優が演じることにより、原作の精神が変わってしまったように想われる。つまり、この映画の原作は時代背景こそ似ていても全く異なった女性の心を描いたのだが、『ラヴェンダーの咲く庭で』の二人の女優の名演のために映画が結果として似てしまったということらしい。

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[映画] 白いリボン The White Ribbon , Das weiße Band (2009年)

ミヒャエル・ハネケ監督の作品といえば、『ファニーゲーム』や『ピアニスト』のように、不愉快な登場人物が次から次へと恐ろしい行為を繰り返し、見続けるのは恐ろしいが、きっと何か最後に説明がありすっきりさせてくれるだろうと聴衆に期待させ、結局何も説明がなく、聴衆は心が切り刻まれたまま放り投げられるというパターンが多い。アメリカ映画を好む聴衆からは「許されない」映画なのだが、彼の作品はすべてカンヌ映画祭を始めとするヨーロッパ映画祭で最高賞を受賞しているのだから、それなりにヨーロッパ映画に見慣れた聴衆の心を深くつかむのだろう。

『白いリボン』はミヒャエル・ハネケの作品の中では、比較的に一般受けがする映画なのではないだろうか。モノクロだが非常に美しく、1913年の北ドイツの小村の精髄を忠実に再現したシネマトグラフィー、美男美女は一人も出てこないが、子役を含めて実在感のある俳優たちの好演、そして謎解きを含んだ魅力的なストーリーが見る者の心を最後まで引っ張っていく。しかし、これは探偵ドラマではないし、犯人が最後まで明らかにされないのは、いつも通り「ハネケ的」である。

この映画は1913年に起こった村の医師の不審な落馬事故で始まり、1914年に第一次世界大戦の勃発時と同時に起こった医師の家族と隣家の助産婦の親子の不審な失踪で終わる。登場する家族は、村の半分の人口を雇用する勢力者の男爵家、牧師の家族、医師一家と医師と性的関係のある助産婦とその幼い息子、男爵に仕える執事の一家、男爵家の小作人の一家、そして村の学校の教師とその恋人のエヴァである。

医師と助産婦の一家に起こる事件は、不審な落馬事件、医師の助産婦に対する侮蔑と別れ話、医師の14歳の娘に対する性的な関係、助産婦の知恵遅れの子供に対する暴行事件、そして医師と助産婦一家の突然の蒸発である。

男爵家に起こるのは、領土内での小作人の妻の事故死、小作人の息子によってキャベツ畑を荒らされたこと、幼い息子の誘拐暴行事件、その息子の溺死未遂、納屋の火災である。

小作人の一家に起こるのは妻の事故死、息子の報復による男爵家のキャベツ畑の狼藉、男爵家の仕事をクビになった父の自殺である。

執事の家に起こるのは、新生児の部屋の窓が開け放されて赤ん坊が死にかかること、執事の子供による男爵家の幼い息子の溺死未遂事件である。

牧師の家では子供の些細な失敗に対しても厳格な体罰が行われ、牧師である父は思春期に差しかかった長女と長男に「純潔」の心を保つために白いリボンを巻きつける。牧師はこれは親の愛の表れであるというが、あまりにも厳しく友人の前で叱責された長女は失神してしまい、その後父親の可愛がっている鳥を殺してしまう。また長男も自殺に近い不審な行為を行う。

教師は他の町の出身で、やはりその町の隣町から男爵家に乳母として出稼ぎに来ている若いエヴァと知り合い結婚を申し込む。教師は次から次へと起こる事件の背後には牧師の長男と長女が関係しているのではないかと疑い牧師に話しに行くが、逆に牧師から名誉毀損だと脅かされてしまう。

映画を一見すると、教師が疑ったように、欺瞞的な牧師の親から抑圧された長男と長女が次々と事件を起こしていくように見えるが、それは方向の違う解釈のような気がする。犯人がはっきりしているのは、小作人の息子が母親の仇をとるためにキャベツ畑を荒らすこと、執事の息子が男爵の息子を突然川に突き落とすこと、牧師の長女が牧師の鳥を殺すことだけである。それ以外は単に事故かもしれないし、映画に出てくる家族以外の村人たちが男爵を憎んでやったことかもしれない。よく考えると10歳前後の子供たちが、夜放火したり、他人の家に入り込んだり、針金を木に精巧に結んで馬の通り道を防いだり、自分の顔を知っている男爵家や助産婦の息子を誘拐して暴行したりするのは難しいと思われるし、子供たちがすべての事件のマスターマインドである方が非現実的ではないだろうか。しかし、未解決の事件が重なることで村人たちの間で不信感が募っていくとか、子供たちの間で犯罪に対する好奇心が強まっていくのは事実である。

この映画は、村を支配している2つの勢力が次第に勢力を失っていく過程を描いている。一つは男爵に代表される政治的支配者である。男爵はその土地を所有しているが、次第に貨幣経済制の浸透という近現代社会への発展で金策に苦労しているようだし、貴族階級による支配に対する反抗の気持ちも小作人に芽生えている。社会主義思想、労働者の権利思想がひたひたとこの田舎村にも押し寄せているのだ。そして、貴族制を支えていたドイツ帝国も第一次世界大戦の敗北で崩壊してしまうのである。

もう一つはプロテスタントの禁欲主義が畸形化し、牧師は人々の心も救えないし、自分の子供の心さえ蝕んでいるということである。私は牧師の長女長男は犯罪の殆どには加担していないと思うが、彼らは父の与える体罰や「愛しているからこそ、罰する」という偽善的な言葉を疑い始めている。まだ子供だから何もできないが5年後には親の存在そのものを否定する人間になりかねない。そんな怖さをこの映画は描いている。

言葉を変えれば、支配者階級とそれに反抗する階級、偽善的な牧師の権威とそれに反抗する子供たち、専制的な男とそれに従属する女たちの対立の構図である。

ヒトラーは1889年生まれだから、第一次世界大戦が始まった時は25歳であり、この映画に出てくる子供たちより若干年長である。つまりこの映画に出てくる子供たちは、第二次世界大戦でヒトラーを賛美しナチスを支持した世代なのである。この映画はナチスの勃興を説明してはいない。しかしこの映画の中で望遠鏡を覗けばその地平線の果てにナチスが見えてくるような映画なのである。しかしハネケはそれについて何も語っていない。

というわけで、聴衆は『白いリボン』を見た後で、取り残されたような悔しさ、もどかしさを感じるのだが、これではずばりハネケの罠に嵌ったことになる。彼は彼自身の映画を「私の映画は、安易に回答を与え聴衆の疑う力を失わせてしまうアメリカ映画に対する抵抗であり、批判なのです。私の映画は聴衆に即座の(そして往々にして誤っている)回答を与える代わりに、頑固なまでに質問を繰り返します。映画を開放して終わるのではなく、まだ真実には距離があるということを聴衆に確認したいのです。そして映画で聴衆がみな同意して満足するのではなくて、まだ終わっていないということを聴衆の心に波立てたいのです」という風に説明している。

このハネケの難解な言葉を私なりに解釈させてもらえば「この映画の中の15個の謎を解こうとして犯人探しをして下さって苦労様と言いたいんですが、残念ならが答えは間違っています。というか、誰もが同意する真犯人などはいません。私はあなたの頭を使って考えてもらいたいからこの映画を作ったのであり、答えは用意していません」ということなのだろうか。

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[映画]  4ヶ月、3週と2日 4 Months, 3 Weeks and 2 Days (2007年)俺の笛を聞けIf I Want to Whistle, I Whistle (2010年)

2000年代に入ってからのルーマニア映画の活況は非常に目覚しい。毎年、何らかの映画が国際映画祭の最高賞を受賞しており、これらの動きはルーマニアのニューウェーブと言われている。今年はついにクリスティアン・ムンギウによる『汚れなき祈り“Dupa dealuri(Beyond the Hills)”』がアカデミー賞外国語映画賞部門でのショートリストにまで残り、最終候補ノミネーションにあと一歩まで来ている。もしノミネートされれば、ルーマニア映画界で初の快挙となるだろう。ルーマニアのニューウェーブというのは、2000年代から始まった国際的に注目され続けるルーマニア映画の総称に過ぎないが、社会性が強く、素人っぽくミニマリストの写実性という手法を取るということでは、ある種の共通性がある。社会主義の崩壊時に10代20代だった世代が今30代40代となり、西欧やアメリカの映画技術に影響され、新しい映画を作っている。

ルーマニアの映画は社会主義体制でほぼ壊滅してしまったので、若い世代である彼らの頭を抑える重鎮とか先輩の監督はいないので、彼らは比較的自由に活動ができる。彼らは感受性の強い十代で天地が引っ繰り返るような社会変化を経験し、その後の国家の再建の困難さも目撃しているので、表現したい題材には事欠かない。また全世界的に「今、ルーマニアの人々は何を感じ、考えているのか」という好奇心もあり、ルーマニアの映画に耳をすませている聴衆もいる。西欧の映画に関する情報もどんどん入ってくるし、EU加入後移動の自由も保証された。また世界的規模での名声を得た隣国トルコのヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督のようなロール・モデルも身近にいる。映画製作に対するすべての条件が熟してきたのだ。ルーマニアの映画がカンヌやベルリンの映画祭で大きな賞を受賞するたびに「国の名誉だ」という喜びの声が国内で沸き起こる。まるで、かつてオリンピックの体操競技で選手が金メダルを獲得した時のように。

『4ヶ月、3週と2日』は、ルーマニアのニューウェーブの中では国際的に最も成功した映画である。チャウシェスク大統領による独裁政権のルーマニアを舞台に、妊娠をしたルームメイトの違法中絶を手助けするヒロインの一日を描く。監督は『汚れなき祈り』で、2013年のアカデミー賞ノミネートに王手をかけているクリスティアン・ムンギウである。クリスティアン・ムンギウは1968年生まれであるから、まだ44歳であるが、経歴を考慮に入れるとルーマニアで最も成功している監督の一人だといえるだろう。

社会主義政権下のルーマニアでは人工妊娠中絶は非合法であった。ルーマニアの若いカップルは多くても2~3人くらいしか子供をほしがらず、人口減少を恐れたチャウシェスク大統領は1968年に、人工妊娠中絶を法律で禁止としたからである。その結果、非合法に危険を冒して秘密裏に妊娠中絶を行って死亡する女性もいた。『4ヶ月、3週と2日』はエリートであるはずの大学生の主人公が、ルームメートの中絶を助けるために飛び回る様子が描かれる。その友達が妊娠した理由やその相手は一切描かれず、親にも相談せず違法の医師を友人の口コミで捜して行く現実、荒涼とした通りを野良犬が歩き回る首都ブカレストの様子、タバコを現金代わりに持ち歩く主人公、質素なアパートの中に一歩入ると密かに贅沢を楽しんでいる(どうやら金持ちらしい)主人公の恋人の家族、もし主人公が妊娠したらどうしようかと真面目に考えていない主人公の恋人など、社会主義政権崩壊の直前のブカレストの知識人の生活も垣間見える。

『俺の笛を聞け』は新人フローリン・セルバンの監督、ベテランのカタリン・ミツレスクの脚色、プロデュースによる映画で2010年のベルリン映画祭において銀熊賞(審査員グランプリ)とアルフレッド・バウアー賞の2冠に輝いてる。カタリン・ミツレスクは1972年生まれなのでまだ40歳である。2004年に作成した『トラフィック』がカンヌで短編映画大賞を受賞し、この映画がルーマニアのニューウェーブの隆盛のきっかけになったといわれる。2006年の『The Way I Spent the End of the World』が国際的に大きな注目を浴びた。監督のフローリン・セルバンは1975年生まれ、アメリカを中心に活躍している。

『俺の笛を聞け』は非行少年更生施設に収容されている18歳の少年が主人公である。なぜ彼がここに収容されなければいけなかったのかに関する説明は一切ない。しかし、ルーマニアの人々は大人の育児放棄によって孤児院に引き取られる子供がチャウシェスク政権下ではたくさんいたということを知っている。これらの子供たちは「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれ、ストリートチルドレン化するなど、後々までルーマニアの深刻な社会問題となった。また、社会主義政権の崩壊後、現金収入を得るために自分の子供をルーマニアにおいてイタリアやスペインなどに出稼ぎに行く親が増えた。残された子供たちは何らかの手段で生きていかなくてはならず、そういった子供たちが犯罪を犯し、この映画の主人公のように少年刑務所に送られてきたのであろう。

『俺の笛を聞け』はハンドカメラを使い長いショットを取る。だから映像がぶれて、何となく素人が取ったドキュメンタリーのような印象を与える。フローリン・セルバンはアメリカの大学で映画学を専攻しているから、洗練された映画はたくさん観ているだろうし、作ろうと思ったらそれなりに洗練された映画を作れるだろうが、敢えてこういった素人的な、素材を生でぶつける手法を選んでいるように思われる。

ルーマニアには職業俳優もあまりいない。これらの映画に出演しているのは、全国的オーディションで選ばれた素人や、数少ない映画大学の学生たちである。しかし、中年にさしかかろうとしているカタリン・ミツレスクやクリスティアン・ムンギウによる俳優や映画人養成も始まるだろうし、ルーマニアのニューウェーブに新しい成熟が始まるのも時間の問題だと思われる。

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[映画] 火の馬 Shadows of Forgotten Ancestors (1964年)

嘗て、名作と謳われ欧米で数々の賞を受賞したこの映画が、すでに忘れられDVDの入手も困難になっている。嘗て国際的な巨匠と言われたこの映画の監督セルゲイ・パラジャーノフも忘れられかけている感がある。この映画は作成当時は、親友のアンドレイ・タルコフスキー監督(『僕の村は戦場だった』)と並ぶ斬新な手法で観る者を驚かせた。しかしその斬新な手法が各国の後輩監督に学習・模倣されて多用されたので、今日から見るとその新しさの価値がわかりにくいこと、ソ連でのこの映画の評判が悪かったこと、またセルゲイ・パラジャーノフがソ連の政権下での政治的抑圧で葬られた犠牲者の一人であったこともその原因であろう。

セルゲイ・パラジャーノフはジョージア(日本ではロシア風にルジアと呼ばれることが多いが、ジョージア政府は英語風にジョージアと呼ばれることを国際的に要求している)に1924年に生まれ、モスクワの国立映画大学で映画製作を学んだ。彼は人種的にはアルメニア人である。

ジョージアは黒海とカスピ海を繋いで走るコーカサス山脈の南麓にあり、北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来より数多くの民族が行き交う交通の要所であり、ロシアの南下政策の要点として重要視され、1783年のギオルギエフスク条約により、ジョージア東部はロシア帝国の保護領となった。ジョージアは敬虔なギリシャ正教の国で、ロシアの南下を恐れるトルコやペルシャなどのイスラム国がジョージアに侵攻してくるのを防ぐためにロシアの援助が必要であった。つまり、ロシアに頼るのは、ムスリムの勢力と共存するコーカサス地方において、ムスリムを推す南部のペルシアやトルコの脅威から身を守るために必要な決断でもあったのだ。1801年には内戦をきっかけにジョージアはロシアに併合された。その後1832年にジョージアの貴族がロシアの支配を覆す企みを起こしたがロシア側に鎮圧された。ロシア革命の勃発に際して、ジョージアはロシアからの独立を宣言するが、ソ連により鎮圧され、ジョージアはソ連の一共和国となった。スターリンがジョージア出身ということもあり、ジョージアは1991年に独立宣言をするまでは、ソ連中枢部に対して比較的従順な態度を取り、ソ連の問題児とはみなされていなかった。

セルゲイ・パラジャーノフはウクライナ人の女性と結婚しウクライナを中心に芸術活動を続けるが、次第にその前衛的な作風が反体制的とみなされ、ソ連社会主義政権からの弾圧を受けるようになった。ソ連では、社会主義リアリズムの手法を取り、なおかつ社会主義を礼賛する映画のみが許されており、セルゲイ・パラジャーノフのような前衛的でシュールレアリスムな映画は退廃的で何かを隠している危険な映画だと見なされたのである。この『火の馬』は世界的な絶賛を浴びたが、ソ連内では不評であった。セルゲイ・パラジャーノフは次第に政府当局から弾圧され、1974年には同性愛の罪で投獄されるに至った。彼の投獄に対して、フェデリコ・フェリーニ、ロベルト・ロッセリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールといったヨーロッパ中の映画人が抗議運動を展開して、彼は3年後には釈放されたが、その後もソ連当局の執拗な弾圧を受け、映画を作製することも不可能になった。こういった過酷な状況の中、彼はその後、アルメニアに移住することになった。

『火の馬』の原作はムィハーイロ・コツュブィーンシクィイによる『忘れられた祖先の影』である。ムィハーイロ・コツュブィーンシクィイは、1864年、当時ロシア支配下であったウクライナに生まれたウクライナ人であり、ロシア帝国の下でウクライナ文化が厳しく弾圧された時代にウクライナの伝統文化に基づいた文学運動を行った。当時西ウクライナはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあり、そこではロシアよりもウクライナ文化活動が許されていたので、彼は西ウクライナを中心に本を出版した。セルゲイ・パラジャーノフ監督はウクライナ人ではなかったが、ウクライナ文学復興運動に身を奉げたムィハーイロ・コツュブィーンシクィイと自分との間に何か共通するものを感じたのであろう。

『火の馬』は西ウクライナの山岳民族の少年が自分の親を殺したライバルの家の娘と恋に陥る、ウクライナ版『ロメオとジュリエット』的物語である。当時のソ連では厳禁されていたギリシャ宗教の信仰を生き生きとした色彩で描き、宗教が人々の生活の規範であり、人々は精霊のような超自然的現象を恐れて生きていることを示唆している。これだけでも、いかなる宗教をも禁止した(しかしマルクス主義という思想に固執した)社会主義当局の神経を逆撫でするに十分であっただろう。ましてや、コサック兵の反抗などで常にロシアを脅かして来、ソ連の成立に伴い独立を企てた憎たらしいウクライナ民族を描く映画など、もってのほかであっただろう。

現在のウクライナがある地域にはキエフ大公国があったが、それは13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた。その後この地域は北方のリトアニア大公国や西方のポーランド王国に属していたが、次第にコサックと呼ばれる軍人共同体が発展し、外国勢力の支配に抵抗するようになった。しかし1667年のアンドルソヴォ条約により、西ウクライナはポーランド、後にオーストリア・ハンガリー帝国の支配下に、東ウクライナはロシアの支配下に置かれ、ウクライナは分割された。第一次世界大戦でロシア帝国とオーストリア・ハンガリー帝国が倒れたのに乗じて、西ウクライナに住んでいたウクライナ人は西ウクライナ人民共和国の独立を宣言し、それに反対するポーランドとの間でウクライナ・ポーランド戦争が始まった。ポーランド側はフランス・イギリス・ルーマニア・ハンガリーの支持があった。それに対して西ウクライナは東のウクライナ人民共和国に援助を求めた。しかし、ウクライナ人民共和国の政府はソビエトの赤軍と戦っていたので援軍を派遣することができず、結局西ウクライナはポーランドに占領され、西ウクライナ人民共和国は滅亡した。

東のウクライナ人民共和国はソ連の支配下に置かれたが、レーニン、スターリンに率いられたソ連はウクライナを敵視する政策を取った。その理由の一つはウクライナが豊かな農業国であり、工場労働者を基盤とする社会主義の政策が適用できない経済機構であったことだ。ウクライナの現実に合わない社会主義農業政策を強行に応用されたことによりウクライナの農業は壊滅的打撃を受け、莫大な人数の餓死者が出た。スターリンの大粛清もウクライナから始まったのであった。

第二次世界大戦においてウクライナはドイツに近いという地理的な状況から、莫大な損害を蒙り、ソ連の中でも最大の大戦の被害者となった。ウクライナ人の間では5人に1人が戦死したといわれている。この地域の人々の戦争に対する立場も複雑で、ソ連側に加担した人間もいるし、ドイツ側に加わった人間もいた。また、反ソ反独のウクライナ蜂起軍に入隊し、ウクライナ独立のために戦った者もいたのである。ウクライナ1991は年、ソ連崩壊に伴って新たな独立国家となったが、やはり色々な面でウクライナはロシアとの関係が深い。政権も反ロシア派と親ロシア派の間で揺れ動いているのである。

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[映画]  The Way I Spent the End of the World、 Cum mi-am petrecut sfârşitul lumii(2006年)日本未公開

この映画は、ルーマニアの首都ブカレストに住む17歳のエバの1989年の人生のスケッチである。1989年はルーマニアでは共産党書記長のニコラエ・チャウシェスクが処刑され、共産主義独裁政権が倒された年であるが、この映画は、反抗的で無表情で無愛想で、なげやりでいい加減にみえる(しかし外見は可愛らしくて、ボーイフレンドと話す時だけはちょっと笑顔をみせる)エバが、社会主義政権の有力者の息子アレクサンドラと付き合いつつも、ニコラエ・チャウシェスク暗殺未遂の容疑で両親が行方不明になっているアンドレーにも興味を示し、二人でドナウ川を渡ってユーゴスラビアへの亡命を企む。結局エバは「や~めた」と言って川を横断するのを中断し、一人でブカレストに帰って来て、怒った両親から、一家の立場を安全にするためにアレクサンドラともっと仲良くしてほしいと頼まれる。エバはアレクサンドラが最近購入したぼろアパート(しかしルーマニアの水準では高級アポートかもしれない)に目を奪われる。結局二人は何となく男と女の関係になってしまい、帰宅したエバは得意満面で「私たち婚約したわ!!」と宣言するのだが、その直後に流血革命が起こり、それまで鬱屈として体制の言いなりになっていたかに見える大人たちが、突然嬉々として破壊活動を始める。この映画は流血革命のあと上流階級から滑り落ちたアレクサンドラの一家、無事ユーゴスラビア経由でイタリアに辿りついたアンドレー、得意満面に国際路線の客船搭乗員としてキャリアを追求するエバを短く描いて終わる。

エバは最初から最後まで無表情で傲慢で、彼女の内面は全く描かれていない。政権の中枢を象徴するアレクサンドラと反体制の象徴のアレックスを行き来し、双方のハンサムな若者をそれなりに好きなのだから、ティーンネージャーの愛とはこういうものだろうと思わせる。ソ連の衛星国の中でも後進国のルーマニアの荒涼とした様子、首都ブカレストでさえ荒れ果てており、両親が何をしているのかわからないが、いつも暗鬱な顔をして疲れていて、子供に対する関心もない。暮らし向きは悪くないはずだが、家の中も荒れ果てている感じだし、食事もスープとパンだけという粗末さだ。政治議論は全くなく、政治に係わることも恐れている大人たちだが、その荒廃した日常生活の描写が、行き着く所まで行き着いたルーマニアの独裁社会主義政権の停滞の実態を表し、説明の言葉も必要ない。

ルーマニアの映画界は1980年後半から新しい活動の兆しをみせ、2000年代にはカンヌ映画祭を中心に注目を浴びるようになった。そのテーマは社会主義国から自由経済国家体制への移行や、チャウシェスク体制の批判が中心であるが、編集未完成のようなドキュメンタリー風のミニマリストの作品が多いようだ。これを「新鮮」というか、「アマチュアリズム」というかは議論の分かれるところであるが、洗練された映画技巧を誇るポーランドやチェコやハンガリーの映画を観たあとでは、ルーマニアの映画はまだこれからだという感じがする。カンヌでルーマニア映画が一時もてはやされ、この映画でエバを演じたドロティア・パトレは主演女優賞までもらっているが、これはルーマニアに対する応援という西欧諸国の気持ちもあるのだろう。この映画もストーリが唐突であり、冬と夏が何回も繰り返されるので何年かにわたってのお話だと思っていたら、たった一年である。そのへんの正確さに期すという態度はない。またエバを演じるドロティア・パトレが老け顔で30歳くらいに見え、母親を演じる若作りの女優と全く似ていないし、二人は姉妹か友達という感じに見える。確かに両女優とも結構美人なのだが、これでいいのだろうかと思ってしまう。何となく気分のままに、細かいことに拘らず作った映画という感じで、世界には凝りに凝って作る監督が多い中で、さてルーマニアの映画はこれからどういう方向に行くのだろうかと思わされる。

1989年というのは、中国で天安門事件が起こり共産主義の徹底が強化された年であるが、東欧では比較的平和的に共産主義独裁国家が倒された年でもある。1978年にポーランド出身のヨハネ・パウロ2世がローマ教皇に就任した時は、誰もこれが冷戦の終結に繋がる一歩だとは思わなかっただろうが、実際にヨハネ・パウロ2世が冷戦の終結になした貢献は偉大なものなのではないか。ポーランド人は何か心の中で信じるもの、精神的な希望を感じたのである。同時に現実的でカリスマのある労働運動の指導者レフ・ヴァウェンサ(日本ではワレサと呼ばれた)議長の登場である。彼が『連帯』という言葉で風向きを変えようとした時、東欧を見つめる世界の大半の人間は「ああ、またハンガリー動乱やプラハの春が今度はポーランドで繰り返されるのか」と思っただろう。しかし、ヴァウェンサの態度は異なっていた。彼は非常に二枚腰で柔軟であり、モスクワの反応を用心深く確認しながら一進一退で、非暴力を主張し穏健に辛抱強くポーランドの民主化を進めて行ったのだ。

ハンガリーも同じ「大人の国」であった。もとから、ハンガリーは自国はオーストリアのような精神の先進国であるという自負があった。1985年年にソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ政権が始めた「ペレストロイカ」でソビエト連邦が持っていた東側諸国の共産党国家に対する統制、いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」が撤廃されると、ハンガリーは巧みにこの動きを利用して、1989年5月にハンガリーとオーストリア間の国境を開放した。6月にはポーランドで選挙によって非共産党政権が、そして10月にはハンガリーでも非共産党政権が樹立された。

ハンガリー・オーストリア国境を東ドイツ市民が大挙して集団越境し、オーストリア経由で西ドイツに亡命することが可能になった今、ベルリンの壁の存在意義は喪失した。11月10日にベルリンの壁は破壊されたのである。それはチェコスロバキアやルーマニアにおいて、民主化を要求する市民たちを大いに励ました。チェコスロバキアでは11月17日にビロード革命と呼ばれる無血革命が起こった。しかしルーマニアでは独裁者ニコラエ・チャウシェスクの処刑という血生臭い結果となった。

ニコラエ・チャウシェスクは1967年から1989年までの22年間ルーマニアの独裁者であった。最初はプラハの春の鎮圧に反対してソ連支援の軍隊を出すことを拒絶したり、 ユーゴスラビアと共に親西側の態度を表明し、IMF やGATTに加入し西側経済にも同調し、イスラエルをソ連衛星国の中で唯一承認して外交関係を立ち上げ、東側諸国が軒並みボイコットした1984年のロサンゼルスオリンピックにおいても、ルーマニアは唯一ボイコットをせず参加した。ニコラエ・チャウシェスクは西側諸国では非常な好印象を持たれていたし、国民の支持も高かったのである。しかし残念ながら、権力の座に長くいすぎたようである。彼は次第にルーマニアの国家体制を北朝鮮の朝鮮労働党や中国共産党の方向に向けようとし始めた。

ニコラエ・チャウシェスクの不人気を決定的にしたのは、彼の経済政策の失敗である。西側諸国から人気のあったルーマニアであるから、西側からの資金援助を得ることは容易であったが、これは両刃の刃であった。ルーマニアはその多額の融資の返還に苦しみ、国内経済を犠牲にしルーマニア人の生活が大変貧窮したのである。国内では食糧の配給制が実施され、無理な輸出が優先されたのでルーマニア国民は日々の食糧や冬の暖房用の燃料にも事欠くようになり、停電が頻繁になった。この辺はこの映画でも描かれている。

2012年の「中東の春」ではTwitterによる交信がリアル・タイムで機能し、革命を推進したが、1989年の「東欧革命」ではテレビが大きな役割をしめている。ルーマニアの国民はテレビを通じてハンガリーで、ポーランドで、チェコスロバキアで、東ドイツで何が起こっているかを知ることができた。この様子もこの映画で詳しくうかがうことができる。

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[映画]  人事部長の出張旅行 The Human Resource Manager (2010年)

この映画は『シリアの花嫁』で一躍イスラエルのトップ監督の一人に躍り出たエラン・リキルスによる製作である。

イエルサレムにあるイスラエルの大手製パン工場で働く出稼ぎ労働者の女性が、マーケットで自爆テロのため死亡するが、縁故者がいないので引き取り手もなく死体置き場に放置されていた。一人の新聞記者がそれを嗅ぎ付け、大企業の非人道さというテーマで記事にするという。パン工場の女社長は工場の評判が落ちないように、PRとして死体を彼女の母国で埋葬することを決定し、人事部長にそれに付き添えという出張命令を出す。記事をスクープした無礼な記者もそれを確認するために同行するという。

人事部長は、妻子と別居状態で、家庭崩壊の危機にある。娘の修学旅行の運転手をして娘との交流を考えていたのにそれもおじゃんになった。人事部長は記者と共に彼女の母国に到着するが、彼の夫はもう彼女と離婚しているので、遺体を引き取る権利がないという。彼女のティーネージャーの息子はぐれてしまい、家を追い出されたて仲間と路上で暮らしている。人事部長は、息子を連れ、1000キロ離れた村に住む祖母を訪ねていくがその途中でいろいろと思いがけないハプニングが起きる。

イスラエルの映画というと、日本人にも知られている映画はとしては『戦場でワルツを』 『ボーフォート レバノンからの撤退』『アジャミ』などの政治色の強い映画と、『迷子の警察音楽隊』や『ジェリー・フィッシュ』のようなイスラエルの庶民の心を描く路線とに大別できると思うが、これは後者である。『ジェリー・フィッシュ』では、建国者であるホロコースト世代から切り離されて建国の意義がぴんとこない若い世代の鬱屈した感情を描いているが、この映画も家族や人間関係や仕事に完全に幸せでない人事部長の心理を内面から描く。また『ジェリー・フィッシュ』と同じく、イスラエル人から無視されがちな外国人労働者の生活も一つのテーマになっている。

イスラエルでの低賃金労働は元来パレスチナ人に任せられていた。しかしパレスチナ人の自爆テロの増加、そしてパレスチナ人への隔離政策でパレスチナ人の入国が次第に困難になってくると、その労働を任せるために外国人労働者を雇うようになったのである。外国人労働者への無視というか冷たい視線はイスラエルに限らずどこの国でも共通であるかもしれないが、イスラエルではパレスチナ人に対する警戒心と上から目線が、その仕事を受け継いだ外国人労働者に受け継がれているという可能性もあるのではないか。

この映画は『シリアの花嫁』でも表現されたような、エラン・リキルス独自の強い主題が前面に押し出されている。それは、「国際社会におけるイスラエル人の良心を示すこと」である。人事部長は最初は仕事で従業員の故国に行ったのだが、次第に彼女の家族と生まれた国に対する理解と心の繋がりを深めて行く。そして彼女の家族から、イスラエルが彼女の選んだ祖国なのだから、そこに彼女を葬ってほしいという言葉まで引き出してしまうのだ。また彼の娘も修学旅行の運転手なんかどうでもいいから、その女性の死体の面倒をきちんと見てあげてほしいと主張するのだ。

自爆テロの犠牲者になった彼女が生まれた国は一体どこだったのだろうか。未だに社会主義政権の名残の官僚主義や賄賂が生きている国。虚無的なストリートキッズが町の隅々に隠れている、崩れかかったような活気のない首都。東方正教を信じている人々。馬が交通手段としてまだ残っている貧しい寒村。映画はこの国の名前を明示しないが、聴衆にはそれがルーマニアであることが次第にわかってくる。なぜルーマニアなのか

ルーマニアにもユダヤ人が多数住んでいた。彼らは他の国に住んでいるユダヤ人と同じく第二次世界大戦下でホロコーストの被害にあったが、それはポーランドチェコで起こったホロコーストのようには知られていなかった。その理由は、そのホロコーストがドイツのナチスの手によったものではないので、ドイツの非ナチ化の告発の対象にならなかったからである。ルーマニアのユダヤ人虐殺はルーマニア人の手でなされ、その後の40年に渡る社会主義政権の下では極秘にされ、或いは否定され、ルーマニアのユダヤ人ホロコーストが公式の話題になったのは、2000年代に入ってからであった。

第二次世界大戦でのルーマニアとドイツの関係は複雑である。ルーマニアは領土を巡ってソ連と争っていたので、第二次世界大戦ではドイツ側の枢軸国として参戦したが、次第に反ドイツの態度を強め、ドイツ敗戦の気配が見え始めると1944年には連合国側に鞍替えして、当時ドイツ支配下にあったチェコに対する攻撃を始めた。ユダヤ人への迫害は1940年ころから次第に顕著になったが、当時の政権の情勢により、ユダヤ人の迫害が緩和されたり厳しくなったりというジグザグを取り、また地域によってもその状態が異なったようだ。またユダヤ人虐殺の主導をしたのは、ルーマニアの各地域の指導者、ナチス、或いはソ連と混沌とした情報があり、すべてが明らかにされてはいない。第二次世界大戦後の社会主義政権の誕生後の秘密主義で肝心な情報が消滅してしまったのかもしれない。一番知られているのは1941年に起こったオデッサの虐殺であるが、その資料も十分とはいえないようだ。

ルーマニアのユダヤ人でイスラエルに移住した人も多いが、ドイツ圏でのホロコーストが色々な資料を保存して検証されているのに対し、ルーマニアでのそれは所謂unresolved issueである。しかしエラン・リキルスによるこの映画には告発の態度はない。ルーマニアの寒村を「地の果て」といって飛び出したこの女性は、首都に移り工学学士の学位を取得しても満足せず、イスラエルで自分の人生を試そうとした。イスラエルは、そんな女性を、自国を選んでくれたのなら、あなたを受け入れますよ、という広い心を持っているということをこの映画は伝えたいのではないか。

彼の思いを一言で言えば「イスラエル人を殺すために自爆テロをする人よ。あなたはイスラエル人を殺していると思っているが、結局イスラエルに暮らしている非ユダヤ人も犠牲にしているのだ。もうこんな行為はやめようではないか。イスラエル人は戦火を止める心の準備はできているのだ」というものではないか。国際的にはイスラエル人がテロに対する警戒をなかなか解かないのが問題であると非難されることがある。しかしユダヤ人は第二次世界大戦の終結から今日まで「どうして第二次世界大戦でのナチスの動きに対抗できなかったのか」「なぜ、そんな動きに気がつかずにナチスの収容所送還の命令にやすやすと従ったのか」といつも質問される続けるのである。彼らが歴史から学んだことは、常に疑いの心を持ち慎重になれということではないのかと思うのである。

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[映画] The Last Days (日本未公開)1998年

『The Last Days』はShoah 財団の財政援助で作成された、ホロコーストの生き残りの人たちの証言のドキュメンタリーの一つで、これはハンガリー系ユダヤ人でホロコーストから生還した5人の証言である。5人の証言者の一人は後に米国の下院議員に選挙されたトム・ラントスである。

Shoah財団は、スティーヴン・スピルバーグが『シンドラーのリスト』でアカデミー賞を受賞したのを契機に設立した財団であり、ホロコーストの生存者及び関係者の証言を記録し、その結果を次ぎの世代に伝えることを目的にしている。Shoah とはヘブライ語でホロコーストを意味する。スティーヴン・スピルバーグの祖先は17世紀あたりにオーストリアに住んでいたらしいが、自分たちをウクライナ系ユダヤ人と呼んでいる。彼の一族は早くからアメリカに移民しており、ホロコーストとは無縁である。また彼の家族はユダヤ人の多いニューヨークではなくオハイオ州とかアリゾナ州という田舎で暮らしているので、彼はアメリカでのユダヤ人のコミュニティーとはあまり縁がなかったようだ。しかし、『シンドラーのリスト』の成功により、ホロコーストは彼のライフワークの一つになった。彼はユダヤ人のみならず、奴隷で連れてこられたアフリカ系のアメリカ人や同性愛者の権利などにも深い関心があるようだ。

ホロコーストの生還者はすでに非常な高齢であり、彼らの証言は何らかの形で残されるべきであるし、「ホロコーストのことは戦時中聞いたこともなかった」或いは「ホロコーストは史実ではない」と主張する人が多数いる中で、それを事実だと証明するのが彼のミッションなのだろう。骨と皮までに痩せこけた収容所のユダヤ人の写真や、非常に大規模な収容所の建物を実際に見せられると、映画とは違う現実感がある。あれだけの広大な施設を設計した人、構築した人、管理した人がいるはずで、それに対する予算もあったはずだ。予算なしにはいかなるプロジェクトもなりたたないからである。

このドキュメンタリーは、ホロコーストの実態を5人の視点から描いているが、なぜヨーロッパで第二次世界大戦中にあれだけ大規模なユダヤ人狩りが起こったかについては、説明がない。これは彼らにもわからない謎なのだ。5人は非ユダヤ人の隣人や友人たちに囲まれ、社会的に成功している両親の愛にはぐくまれ、少しづつ厳しくなって行く反ユダヤ的法的規制も戦時の緊急の一時的なもので、戦争さえ終わればまた元の幸せな日常に戻れると信じていた。チェコ映画の『Protektor』やポーランド映画の『ソハの地下道』には、死を覚悟して自分たちを匿ってくれる人の努力にも拘わらず、「もうこんな汚い不便な生活はイヤ!!」と怒って、自分からユダヤ人の収容所に自発的に入った女性たちが登場する。すべてではないが、ヨーロッパでは裕福なユダヤ人が多かったし、その家庭で育った女性は何一つ不自由のないお嬢様お坊ちゃまだったのだろう。彼女たちには収容所の先に何があるかの予測がつくわけではないし、同じユダヤ人に囲まれている方が安全だし、外の空気も吸えるし、楽だと思ったのかもしれない。殆どのハンガリーのユダヤ人は、強制収容所は強制労働をさせられる所で、同胞のハンガリー人が戦争で苦労している時は自分も働くのは当然だと思い、収容所に行くことに納得したのではないか。しかし、彼らは、自分たちがトイレもない家畜専用の輸送列車で何日もかかってアウシュビッツに送られ、そこで自分たちが愛する祖国の政府からの命令でどんな目にあうかなどとは想像もつかなかったであろう。

ドイツに占領されて、大戦勃発の比較的初期からユダヤ人をアウシュビッツなどの収容所に送ったポーランド、チェコ、フランスなどと違い、ハンガリーではユダヤ人狩りが始まったのは遅く、1944年、ドイツの敗北が決定的になったころであった。ハンガリーはドイツの同盟国であり、ユダヤ人にとって比較的安全な地域であった。『この素晴らしき世界』にもでてくるように、お金をもらってチェコやポーランドのユダヤ人をハンガリーに逃亡させるビジネスをしている人もいた。命からがら逃亡して来たそんなユダヤ人がポーランドの収容所で何が起こっているかを説明しても、ハンガリー国籍のユダヤ人はまさかドイツ政府がそんなことをするわけがない、と半信半疑だったという。彼らはポーランドやチェコ或いはソ連国籍のユダヤ人と違い、ハンガリー政府が自分たちを守ってくれると信じていたのだ。

しかし、ハンガリー人の間での反ユダヤ人感情は1920年から30年代にかけて次第に強まっていったようだ。ハンガリーのユダヤ人は全人口の5%にすぎなかったが、彼らの大半は富裕な階層であった。1921年にブダペストの株式上場のメンバーの88%、為替ブローカーの91%はユダヤ人であった。ハンガリーの産業の50%から90%はユダヤ人が所有しているとも言われていた。ハンガリーの大学生の25%はユダヤ人の子弟であり、エリート校のブダペスト工業大学の学生の43%はユダヤ人の子弟であった。ハンガリーの医師の60%、弁護士の51%、民間企業のエンジニアと化学者の39%、雑誌編集者の29%はユダヤ人であったといわれている。ナチスやそれと共同するハンガリー政府はは生活苦にあえいでいる下層階級の不満の捌け口を、こういったエリートで裕福であった少数民族のユダヤ人への憎しみの気持ちに向けたのではないだろうか。

後に米国の下院議員になったトム・ラントスは収容所からすぐに脱出して、ラウル・グスタフ・ワレンバーグの隠れ家に逃げ込み、そこから反ナチスの地下活動を行った。ワレンバーグはスウェーデンの外交官で、外交官特権を利用して自分の事務所に逃亡して来たユダヤ人を匿った。一説によると彼の努力で10万人のユダヤ人が救出されたという。しかし、彼はドイツ撤退後に進駐してきたソ連軍の事務所にユダヤ人の戦後の安全について話し合いに行ったきり、行方不明となってしまった。彼は、危険を顧みず戦時中にユダヤ人を救ったとしてイスラエル政府のヤド・ヴァシェム・ホロコースト記念館から「諸国民の中の正義の人(Righteous Among The Nations)」賞を送られている。一説では、ワレンバーグはアメリカのスパイとみなされてソ連軍に会談に行った際に即逮捕され、その直後にボルシェビキの強制収容所で死亡したという。ゴルバチョフが政権を取ってから、こうした記録が次第に公表されるようになったのである。

ドイツ占領下のポーランドでは、ユダヤ人を支援した場合、支援を提供した本人だけでなくその一家全員、時には近所の人々も全て死罪とされたが、多くのポーランドがその危険を顧みずユダヤ人を救うことを選んだ。6135人のポーランド人が「諸国民の中の正義の人」賞の受賞者が出ている。日本からは外交官であった杉原千畝がただ一人この賞を受賞している。

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